2012年5月14日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(2)


 立夏を過ぎてもあまり気温が上がらない日々が続いているが、「まあ、こんなものかもしれない」とも思う。ひとつひとつ丁寧に仕事をしようと思うのだが、どこかに疲れがたまっていて、興が乗らないのも今の季節の特徴かもしれない。深い考察を要求されながらも慌ただしい。

 さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』(2010年 新潮社)の続きであるが、前田慶次郎が豊臣秀吉から召喚を受けた際に、叔父であり加賀の城主であった前田利家の妻「まつ」(芳春院  15471617年)が一役買っていたと本書は展開する。

 「まつ」は学問や武芸にも秀でた女性で、秀吉がまだ織田信長の家臣であった頃から秀吉の妻「ねね」(高台院)や母「なか」(大政所)とも昵懇で、畑仕事の手伝いもしていたし、幾たびか夫の利家の危機も救い、利家を鼓舞して前田家を支えた女性である。後の加賀百万石前田家は、この「まつ」なしには存在しなかったとさえ言われ、剛胆で、決断力もあり、自由奔放でもあった。

 この「まつ」が甥の前田慶次郎を高く評価していた。風雅で教養も高く、漢としても爽やかで明るい慶次郎を好ましい男と思っていたし、前田慶次郎は、この「まつ」に惚れて唯一頭が上がらなかった女性であった。

 「まつ」は前田慶次郎に会い、秀吉の召喚に応じて、しかも秀吉を怒らせるまねはするなと釘を刺すのである。そして、その「まつ」の願いを入れて、秀吉との会見に臨むのだが、秀吉を怒らせず、しかも前田家を窮地に陥れないためには、当の秀吉を殺すしかないと覚悟を決めて、先に述べた猿真似を演じるのである。この辺りの直截的な思いが、慶次郎らしいといえば言えるが、さすがに秀吉は慶次郎の腹の内を見抜き、これを座興として受け入れて、慶次郎に「天下御免」を下すのである。このくだりは、秀吉と慶次郎の緊迫した中で、漢と漢の対面として描かれている。「漢と漢」との対峙は、一つの理想像でもある。作者はそれを描くのである。

 そして、慶次郎のあまりの爽やかな振る舞いに、「まつ」は慶次郎に惚れ、彼に家を訪ねて同衾してしまう。「まつ」は、つまらない貞節感もないし、そういうことに拘らない自由な女性であった。だが、これが前田家の崩壊に繋がり危惧があり、あまりのたびたびの逢瀬に釘を刺すために、前田家の重臣で慶次郎の莫逆の友であった奧村助右衛門が慶次郎のもとを訪れる。奧村助右衛門は直接的には何も語らないが、慶次郎はそれを察し、「まつ」に思いを残しながらも「まつ」と別れる。

 その前に、本書では生涯変わらぬ深い信頼で結ばれた直江兼続との出会を語る。きっかけは、上杉家中の武士たちが、ひとりの青年武士を苛めるために「傾奇者」として名をはせていた慶次郎との果たし合いをさせようとして、慶次郎に見破られ、陰湿ないじめなどを嫌う慶次郎は、彼を苛めた十三人の家臣たちも共々に果たし合いの場に来るように言ったことである。だが、家臣たちはさらに青年武士を責め、青年は武士の意地を通して自死する。彼は自死する前に直江兼続く宛の書簡を残し、直江兼続が苛めた家臣たちを連れて慶次郎の前に来たのである。直江兼続は、慶次郎との約定を何処までも守るという。慶次郎はこの家臣たちの命は助けようと思うが、彼らは何処までも不遜で、十三人でかかれば自分たちは勝てるだろうという甘い推測をしていた。慶次郎は、そういう不遜な態度を見て、全力を出してあっという間に彼らを誅するのである。直江兼続はそれを黙って見ていた。十三人の男たちは上杉家の上士の息子たちだったが、兼続は涼しい顔をして断固として事柄に当たったのである。兼続29歳の若さである。直江兼続は何処までも毅然として立っている。

 この時の直江兼続の姿に、慶次郎は惚れ込んでしまうのである。そして、以後、兼続の家に入り浸る。兼続は、剛毅英邁な武将であるだけでなく、学問にも熱心で、自ら膨大な書物を写筆していたし、90冊からなる宋版の『史記』を所有していた(現在の中国にもこの完本はなく、兼続が所有していたものが現存するもので唯一のものになっている)。この辺りも、作者は上手く挿入している。

 この慶次郎に「骨」と呼ばれる手練れの武田忍びが命を狙ってつきまとうようになる。慶次郎の供になっている捨丸も加賀忍びとして相当な腕だが、「骨」は遙かにそれを上回る手練れである。こういう人物を登場させるところに作者のエンターテイメント性が見事に発揮されていくのだが、この「骨」は、慶次郎につまらない見栄をはって果たし合いで殺された男の弟が金で雇ったものである。しかし、彼もまた、慶次郎に触れて、その人物に魅了されていくのである。自分の生命を狙うものを虜にしていく、それが慶次郎という男だと描き出す。

 こうした日々を京都で過ごしていた慶次郎だが、直江兼続から越後上杉家が佐渡の平定のために佐渡と戦をするという書状を受け取る。上杉家の力を恐れていた秀吉が領内不安定を理由に上杉家を取り潰す恐れがあり、佐渡の平定が急務となったのである。慶次郎はこの書状を受け取ると、すぐに越後に向かうことに決め、越後への道を急ぐ。慶次郎は越後へ直行するために加賀藩領内を通る北国街道をとる。だが、加賀藩領内では、かつて加賀忍びを慶次郎にことごとく退けられた恨みがあり、慶次郎を殺そうと待ち受けている。だが、慶次郎はそんなことを歯牙にもかけずに北国街道を北上するのである。

 案の定、加賀忍びは慶次郎たちを待ち受けていた。奧村助右衛門が加賀忍びの首領に会い、慶次郎が天下御免を秀吉からもらった人間であり、これを殺すことは加賀藩を潰すことだから、もし、慶次郎が死ねばゆるさないと脅すが、既に加賀忍びの手配は済んでおり、慶次郎たちは襲われる。しかし、その襲撃も捨丸や彼らに随行していた「骨」によってことごとく退けられていくのである。こうしたくだりも、作者がエンターテイメントの要素をいかんなく発揮させる展開である。

 前田慶次郎は上杉家の客将として佐渡平定の戦に加わり、勇猛果敢な一騎駆けをして戦はあっという間に終わる。作者は、この佐渡騒乱の影に、直江兼続という無類の人物をなんとかして自分のものにしたいと願った豊臣秀吉の策謀があったと見ている。だが、それも前田慶次郎の瞬時の働きで微塵に砕かれたというのである。権力者の野望が豪快に、そして爽やかに砕かれていく様が描き出されていくのである。

 この戦の終了後、慶次郎は再び京都へ戻り、そこで、後に吉原という特殊な傾城(色里)を作った庄司甚内との出会を語ることで、物語を秀吉の小田原城攻めへと進めていく。こういう展開の仕方も実に巧みである。慶次郎は小田原落城後ずっと直江兼続と行動を共にしていた。それは秀吉の「奥州仕置き」と呼ばれる大規模な検地が実行されたためで、上杉景勝は庄内地方や最上地方、仙北地方一帯の検地を命じられていた。慶次郎は兼続の随行で訪れた検地先で、検地を嫌う村人との小競り合いを見て、嫌気がさし、京へ戻ったのである。これは、天正18年(1590年)に仙北六郷の百姓たちが興した大規模な一揆のことで、一揆の総数は二万五千ほどに上ったと言われる。上杉家はこれをことごとく平定したが、慶次郎はそれとは無縁だったというのである。この一揆の原因は、石田三成が強引に勧めた検地で、上杉景勝や直江兼続が考えていた領主と領民の「愛し、愛される関係」ではなく、石田三成が中央集権的な上からの権力の行使を実行するだけのものに過ぎなかったことによる、と作者は言う。

 おそらく、これは当を得た歴史解釈だろう。この一件で、上杉景勝と直江兼続は石田三成に対して不快な思いを抱いていたというのである。このくだりが、やがて関ヶ原の合戦における兼続と三成の関係の解釈へと繋がる心憎いほどの演出となっている。

 作者はここで直江兼続と前田慶次郎が石田三成について話をするという場面を設定し、石田三成のその後の動きを語りつつ、兼続と慶次郎が、以下に状態を深く読んで、しかも颯爽と事態に当たったのかを示すのである。利休の事件にも石田三成が関与していたことを述べ、これもさりげなく言及する。

 その中で、石田三成や利休とは全く異なった前田慶次郎の人物像を明確に描く文章が次のように記されている。

 「慶次郎にとって人生は簡単であろう。好きな時に寝、好きな時に起き、好きなことだけをして死ぬだけである。誰もが望み、誰もが果たせない生きざまだった。何故誰にも出来ないか。一切の欲を切り棄てなければならないからだ。あらゆる欲とあらゆる見栄を棄て去り、己の生きざまだけに忠実にならなければ慶次郎のようには生きられない。
 それだけではなかった。慶次郎のように生きるには天賦の才能が必要だった。文武両道にわたる才であり、中でも生き抜く上での才である。或いはこれを運ということも出来よう。運の良さも明らかに才能の一つである」(上巻 257ページ)

 前田慶次郎という人物を記すに、この一文だけで十分かもしれない。己の生き方を貫くためには、その覚悟とそれだけの才能が必要であり、忍耐もまたその才能の一つだと思ったりもする。こういう人物である前田慶次郎が小賢しい知恵を働かせて粘着質に計画を立てるような石田三成を嫌うのは当然であろう。そして、慶次郎は自分が嫌いな人間との交わりは決してしない。

 その石田三成が、秀吉の朝鮮出兵に先だって朝鮮の実情を調べるために慶次郎に朝鮮行きを命じるのである。事情は朝鮮との関係を保っていた対馬の宗家が絡んで複雑である。それと同時に、慶次郎を京から追放する意図を三成はもっていたが、その三成の意図とは無関係に慶次郎は死地に赴くことを喜んで承知し、博多へと向かう。

 この博多で、慶次郎に来られては自分たちの方便と利益が台無しになってしまうことを恐れた対馬の宗家が金で雇った暗殺者が慶次郎を狙う。この暗殺者は、明の出で朝鮮を経由してきた金悟洞という凄腕の殺戮者だったが、この金悟洞も慶次郎に接して、その魅力に引き込まれて慶次郎に従う者となり、一緒に朝鮮に渡るのである。金は長鉄炮の名手だった。

 彼らは博多から船で朝鮮の釜山に行き、そこから朝鮮半島に上陸する。ここから朝鮮での慶次郎の動きが、当時の日本と朝鮮との関係で外交筋であった対馬の宗家を挟んで起こっていた齟齬が描き出されながら、慶次郎と伽倻国の末裔である伽姫との出会などが語られていく。そのくだりは次回に記していく。

2012年5月11日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(1)


 昨日は午後になって急に気温が下がり、激しい雷雨に見舞われ、横浜駅近郊では雹も降った激しい天候だったが、今日は朝から皐月の陽射しが差している。近所の花屋さんの店先では、もう紫陽花が売られている。

 昨夜は、「花の慶次」の名称ででよく知られるようなになった前田慶次郎利益(とします)の姿を描き、原哲夫の劇画『花の慶次』の原作である隆慶一郎『一夢庵風流記』(『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』2010年 新潮社)を、これもまた大変面白く読んだ。本書の表題は、前田慶次郎が後に「一夢庵ひょっとこ斎」と自称したところからとられている。もちろん、上下二巻にわたる長編を一気に読んだわけではなく、まだ途中ではあるが、長くなりそうなので漸次に記すことにする。

 前田慶次郎利益という人については、正確な生没年が不詳で、誕生が1533年とも1541年ともいわれるし、没年が1605年とも1612年ともいわれるが、いずれにしろ、戦国末期、織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康という激動した時代に独特の光彩を放って活躍し、かなりの長命で生涯を送った人である。彼についての主な歴史資料は、『上杉将士書上』による略記やいくつかの逸話を収めた『常山紀談』など、あるいは明治から昭和にかけてまとめられた『加賀藩史料』、そして、彼自身が記した『前田慶次道中日記』などしかない。名前も複数で、通称は宗兵衛だったといわれるが、慶次郎、慶次、慶二、啓二郎などあり、利益も利太(としたか)、とか利貞(としさだ)とか、いろいろである。

 しかし、逸話には事欠かず、いずれも痛快で、叔父であった(前田家の長兄であった前田利久が養父)前田利家から日頃の言動を訓戒されていた慶次郎は、詫びを入れるということで前田利家を自宅に招き、「今日は寒かったので、茶の前にお風呂を用意した」と言い、利家を風呂場に招き、まず、慶次郎が湯温をみて、「ちょうどよい湯加減にございます」と言ったので、利家が湯船に入ると、氷のような冷水であったのである。利家は温厚な人であったが、さずがに「大馬鹿者に欺かれた」と怒鳴ったが、慶次郎はいち早く愛馬の松風に乗って国を去っていた、というものである。

 もう一つは、伏見城か聚楽第で豊臣秀吉が宴会を催したときに、末席にいた前田慶次郎が猿面をつけて身振り手振りおかしく踊り出し、猿顔と言われた秀吉を茶化し、加えて居並ぶ有力な諸大名の膝の上に座って猿まねをしたというもので、このとき秀吉は、諸大名たちの心配をよそに、自分を堂々と茶化す前田慶次郎が大いに気に入ったとも言われているし、居並ぶ有力諸大名の中でただひとり上杉景勝の膝の上にだけは乗らず、「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいてほかにあるまい」と豪語したともいわれている。

 その上杉景勝に仕える最初の目見えの時に、泥のついた三本の大根を持参して、「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味が出る」と自分を表したという逸話も残っている。

 ともかく自由闊達で、思ったことをまっすぐ貫こうとする人物で、世は彼を「傾奇者(かぶきもの)」と呼んだ。後の新井白石は『藩翰譜』で「世に隠れなき勇士なり」と彼を絶賛している。上杉家の名智将であり、類い稀な人物とまで言われた直江兼続との深い親交と信頼をもったことはよく知られており、猛将と称されるほどに武において優れていただけでなく、和歌や漢詩、連歌などでも極めて高い教養を身につけた人物で、少なくとも三人の朝鮮人を従えており、差別意識もなければ出世欲もない、まさに「漢」と呼ぶにふさわしい人物ではあっただろう。なお、本書では、前田慶次郎の身の丈は六尺三寸(1メートル90センチ)、体重二十四貫(90キロ)の偉丈夫とされているが、残されている甲冑などから、実際は、当時のほかの人々とあまり変わらない体格ではなかったかと思われる。

 隆慶一郎は、この前田慶次郎を描く際に、彼が戦国武将の滝川一益の従兄弟(甥ともいわれる)であった滝川益氏の子であったが、尾張の荒子城主前田利久の養子となったとしている。ところが、養子としてその城を継ぐはずだったが、織田信長の命によって荒子城が前田利久の弟の前田利家に与えられることになり、流浪の身になったとし、慶次郎の人生が「つまずき」から始められ、「無念の人」として生きることになったとしている。天下布武をめざす織田信長によって知らずに忌避されたところから自分の人生をはじめなければならなかったと言うのである。

 こう言うところが、作者の鋭いところで、この「無念の人」であることを抱きつつ、のびのびと「かぶき者」として、どこまでも自由闊達に生き抜いていく姿、それが前田慶次郎だというのである。

 こうした背景を詳細に語りながら、物語は、前田慶次郎が愛馬とした「松風(谷風ともいわれる)」との出会から始まっていく。「松風」は威風堂々とした野生馬の頭であった。多くの野生馬の群れを率い、馬体も大きく、前田家の馬奉行たちからは「悪鬼」として恐れられていたと言う。その「松風」を前田慶次郎が惚れ込んで乗りこなすようにしたのである。「松風」は、前田慶次郎以外の誰も自分の背中には乗せなかったと言われる。他の者が乗ろうとするとたちまち振り落とされるのである。前田慶次郎と「松風」は、まさに人馬一体となった働きをしていたと言われる。「悪鬼」とまで恐れられた野生馬の頭が従うほどのものを前田慶次郎は自然ともっていたと語るのである。

 その前田慶次郎が加賀の前田家を去り、京都に行った経緯が、この「松風」をめぐる出来事にあったと作者は創作する。城主であり叔父である前田利家が慶次郎の「松風」を気に入り、これを奪い取ろうと加賀忍びを送ったところ、慶次郎と松風によって見事に誅され、あまつさえ送り込まれた加賀忍び八人の遺体がことごとく「馬泥棒」として曝されたからである。

 前田慶次郎と深い信頼関係を持ち莫逆の友であった奥村助右衛門が慶次郎のもとを訪れ、利家との和解を勧める。この奧村助右衛門(奧村 永福 おくむら ながとみ 15411624年)もひとかどの人物である。奧村家は代々前田に家に仕えていた家系だが、助右衛門は清廉潔白で剛直であり、どんな事態になってもひるむことなく、重臣となって加賀前田家の基礎を築いた人である。

 奧村助右衛門は無口で何も語らないが、前田慶次郎は彼の来訪ですべてを悟り、前田利家を招いて茶席をもうける。ここで前述した冷水風呂のいたずらを仕掛けてしまうのである。もちろん、助右衛門は慶次郎に単なる和解ではなく前田家を去ることを勧めたわけだが、慶次郎はその勧めに従って初めから前田家を逐電するつもりでいたのである。このとき、浪々の身となることを嫌った妻子は慶次郎の元を去っている。

 こうして、松風と共に前田家を逐電した慶次郎に加賀忍びの追っ手がかかる。いずれも手練れの忍びであるが、その中に、馬泥棒に入って慶次郎と松風に殺された加賀忍びの兄である捨丸がいたのである。捨丸は慶次郎を敵と狙っていたが、その人物のあまりの大きさに惚れてしまい、彼に従う者となっていくのである。作者はこの捨丸を登場させることで、前田慶次郎の人物の大きさを描いていくし、その魅力をいかんなく発揮させていくのである。こういう演出が実に巧妙にできていて物語の幅を広げている。

 そして、その前に、前田家を逐電した前田慶次郎が一時身を寄せた敦賀で、誠実で武将としても尊敬されていた敦賀城主大谷善継と会い、豊臣秀吉に対する見方を変えられたことを語り、後の秀吉の面前での猿まねという「かぶき者」の本領を発揮する構成へと繋いでいく。こういう展開の見事さは、つくづく作家としての作者の力量を感じさせるものである。

 さて、敦賀を去った前田慶次郎は、特に目的もないままに京都へ向かうことにする。その途中で加賀忍びの捨丸との奇妙な出会が語られるのであるが、前田慶次郎の人物に惚れ込んで仲間を裏切り、その供となるくだりで、「<こいつは俺の生命を狙い続けるだろう>そんなことは百も承知だった。常時生命を狙っている男と暮らすのも、また乙なものではないか。こんな男に殺されるようなら、自分はそれだけの男なのである。それに、何時、何処で、どんな形で死んでも、なんら悔いるところはない。それが『傾奇者』の生きざまではないか」(65ページ)という一文が添えられている。

 作者が描く自由人は、だれでも、この死の覚悟に裏打ちされた自由人である。究極の自由とは己の死からも自由であり、また、この死の覚悟が、何ものにも捕らわれることのない闊達で爽やかな自由を生むのである。「傾奇者」である前田慶次郎もまた、この自由人なのである。だからといって傍若無人に振る舞うのではない。尽くすべき礼は尽くしていき、そこになんに拘りもなく、颯爽と振る舞っていくのである。颯爽とした振る舞いは「死の覚悟」から生まれる。そして、「人物」というのは、そういう人間のことを言うのである。

 ともあれ、京都に着いた前田慶次郎は、ますます「かぶき者」の本領を発揮していく。金は奧村助右衛門が別れ際にくれた大金があり、慶次郎はこれを湯水のように使っていく。慶次郎としてはそれを使うのは加賀前田家のとの縁を切るためであったが、現実的な捨丸は、これを元手に蓄財などをして慶次郎を助けていくのである。慶次郎は途方もない人物で、その途方もなさを支える現実派の人間がいるわけで、作者はそれを捨丸という、これも特異な人物を登場させて現実味のあるものとして描き出していくのである。とにかく、慶次郎の格好も振る舞いも目立つ。また、慶次郎は、茶を千宗易(千利休)に学び、和歌、連歌を詠み、乱舞や猿楽をたしなんで、笛や太鼓まで一流の腕だったという。彼は、京都で公家の屋敷に出入りして古典の伝授を受けるのである。金離れが良く、服装は伊達で、古典や諸芸に達者で、性格は明るく、おおらかで、しかも厳しさも内包している。こういう男が評判にならないわけがなく、やがてその名が知れ渡っていくのである。こうして、豊臣秀吉にその名が聞こえるようになった、と本書は展開する。そこで、秀吉との「漢と漢」の対峙が起こったというのである。

 この秀吉との会見によって、前田慶次郎は秀吉から「天下御免」を下されたという。それが事実かどうかは別にして、前田慶次郎の誰憚ることのない自由闊達さは、居並ぶ戦国大名たちに認識されたことは事実であろう。そのくだりについては、次回に記すことにする。

2012年5月9日水曜日

風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2)


 曇って少し肌寒い。先日の突風や竜巻に続いて、気象庁はこの2~3日うちにそれが再び起こるかもしれないという注意報を出している。気温の劇的な変動で生じる気象現象だが、気温の劇的な変動は身体にもこたえる。

先週の会議の疲れがまだなかなか取れないでぼんやり過ごしているが、追い打ちをかけるようにしてやってくる仕事もあり、さて、どうしようか、と脳天気ぶりを発揮することにした。

それはともかく、風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2000年 新装版2008年 祥伝社文庫)の続きであるが、成田長親は、武力にならないと思われていた町人や百姓を信頼し、その助けでなんとか城を持ちこたえさせる。だが、石田三成が率いるのは大軍であり劣勢であることに変わりはない。負けるのは分かっている。しかし、彼は平然とこれに対峙していくのである。

 この成田長親と藩主の妻である「お菊」の人物の妙味が二人の次のような会話で描き出されている。

 「この城は、方円の器にしたがう水の城」
 と、お菊さまはつぶやいた。
 本丸の隅にある二層の櫓で、戻ってきた長親の報告を聞いた。持田口で八人ほど死人が出た。その中には、長親が目をかけていた者もふたり混じっていて、ほどく辛そうにそれを告げられた。
 だが、持田口もどうにか持ちこたえて、元の守備体制を取り戻したということだった。
 それを聞いたあと、そんな言葉が出たのである。
 「どういうことでしょうか」
 「押してくれば、引いてしまう。敵が引けば、押していく。戦いぶりがよく言えば、柔軟ですが、どこかとりとめがないような気も・・・」
 「なるほど」
 「おそらく長親どのの性格からくるものでしょうな」

 この場面の描写が優れているというわけではないが、押し寄せた大軍に対して「水の城」を少人数で守り続ける成田長親と藩主の妻のお菊との性格と、彼らが無理をせずに自然に採った方法がよく表されている気がする。成田長親もお菊も「人物」なのである。そして、成田長親に対する信頼が溢れているのである。石田三成の人知と力に対して、長親は、楽天的でのんびりした鷹揚な性格と信頼で対峙するのである。

 成田長親は、武芸に優れていることもなければ、小賢しい知恵があるわけでもないが、人を受け入れるという大きな器で安心感と信頼を与え、何よりも「人を活かす」ことを優先させることで敵の大軍に立ち向かい、それでだめならそれでもいいさ、というような楽天性をもつ人物なのである。もちろん、その楽天性は、一切の責任を負う覚悟と、明日死んでもどうということはないという武士(もののふ)としての覚悟があるのである。

 こうして、小田原城が落ちても忍城は落ちなかったが、小田原にいた藩主の意向を受けて成田長親は忍城を開城する。その開城の交渉も、あらゆる命を守り、立て籠もった人々がそのごの生活ができるようにすることを貫き、見事にそれをやってのけるのである。彼は鋭利な刃物ではない。むしろ、なまくらな切れない刃物であるが、ふんわりと人を包みこむのであり、そのふんわりとした中に、しかし、人の命と生活を第一義としていく筋が貫かれているのである。

 こうして、藩主の成田氏長と共に成田長親はいったん蒲生氏郷に預かりの身となり、やがて、成田氏長は会津の出城であった福井城一万石の藩主となる。さらにその後、娘の甲斐姫が豊臣秀吉の側室となったことから野州烏山三万七千石の藩主となっている。

 だが、藩主の成田氏長が攻撃側であった浅野長政と雑談した際に、あのときに城内に内通者がいたという話を聞き、氏長はそれが城代として城を守った成田長親だと思って、これを問い質してしまう。後にそれは誤解であったと判明するが、藩主に疑われた成田長親は、すぐにそのまま烏山城を出て、尾張に寓居し、二度と成田家に戻ることはなかった。

 このくだりも、本書では後日談としてあっさり書かれてはいるが、実は、成田長親という人物を端的に表すくだりで、わたしとしては大いに関心のあるところである。わたし自身もまた、それが事実無根であればあるほど、一度疑われるようなことがあれば、一切の弁明などをせずに静かにその場を去るだけであるような歩みをしてきたからでもあるが、成田長親の脳天気性はこうした覚悟に裏打ちされているもののように思えるからである。

 いずれにしても、この作品は成田長親と忍城という題材の素晴らしさもあるが、妙味のある面白い作品だった。

 図書館から借りてきていた本の返却日が来てしまったために、上田秀人『国禁 奥右筆秘帳』(2008年 講談社文庫)藤沢周平『静かな木』(1998年 新潮社)も面白く読んだのだが、時間的にこれを記すことができず、書名だけを記しておくことにする。

2012年5月7日月曜日

風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(1)


 なんの取り柄もなく、覇気もないようだが、周囲から妙に信頼されている人がいる。「信頼」云々は別にして、居ても居なくても変わらないし、かといって人に迷惑をかけるのでもなく、いつも静かに笑っていて、周囲からは「デクノボウ」と呼ばれるような、そういう人間でありたいと、長い間思ってきたわたしにぴったりな時代小説の主人公がいた。「水の城」とか「浮き城」とか呼ばれた武州の「忍城(おすじょう)を守り抜いた成田長親(なりた ながちか 15451613年)という人物である。

 この人を描いた代表的な作品が二つあり、一つは風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2000年 祥伝社文庫 2008年新装版)和田滝『のぼうの城』(2007年 小学館)で、『のぼうの城』の方は2011年に映画化されている。公開は震災のことも考慮して今年(2012年)の秋に予定されていると聞く。山本周五郎にも『笄堀(こうがいぼり)』という短編があり、こちらは同じ舞台であるが、城を守った妻女が中心である。

 風野真知雄の作品は、これまで、名奉行といわれた江戸町奉行の根岸肥前守を主人公にしてシリーズ化されている『耳袋秘帖』のシリーズや他の作品を若干読んで、その軽妙な展開やさりげない人物描写によるある種の深みのようなものを感じていたが、『水の城 いまだ落城せず』は、そうした作品とは異なり、深い感動を呼び起こす作品になっている。

 小説の舞台となるのは、利根川と荒川に挟まれた扇状地に小さな川がいくつも流れて沼地となった所に、いくつかの島や自然堤防を利用して築かれた「忍城」(現在の埼玉県行田市)で、1478年ごろに地元の豪族であった成田氏が築城したのが始まりといわれている。翌年、扇谷上杉家に攻められたが、太田道灌の仲介で和解して城は無事で、1553年には関東の雄であった北条氏康にも攻められるが、氏康も攻略に失敗している。そして、1575年には上杉謙信によって包囲されて攻撃されるが、「忍城」は攻略されなかった。当時の城の配置図を見ると、平城ではあるが難攻不落に近い構造をもっていることがよく分かる。

 そして、圧巻なのは、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が関東平定のために小田原城の北条氏を20万人以上の大軍をもって総攻撃した際、北条氏の支城となっていた「忍城」を石田三成が総大将となって2万(後に5万ほどにふくれあがる)の大軍をもって攻撃した時のことである。石田三成は総延長28㎞にも及ぶ堤防を築き(石田堤と呼ばれる)、城全体を沈み込ませる水攻めを行ったが、「忍城」は、城代であった成田長親を中心とするわずか3000人弱の人間でこれを守り、ついに落城することはなかったのである。

 結局は小田原城に籠もっていた北条氏が先に降伏し、開城することになったのだが、「忍城」は不落の城であった。徳川時代は、家康の四男の松平忠吉が藩主となり、忍藩10万石の城となり、以後、徳川の親藩や譜代の大名が城主となるなど、幕府の重要な拠点となり、1694年に、現在復元されている御三階櫓が完成している。明治の廃藩置県で「忍県」が置かれたが、城内の構造物は破棄されてしまった。こんなところにも明治政府の愚かさがあるのだが、1988年に江戸時代に完成した御三階櫓が再建された。

 池の中にぽっかり浮かんだような実に美しい城で、行田市の観光ガイドによると、毎年11月の第二日曜日に「忍城時代祭り」がここで行われ、武者行列と火縄銃演舞などが行われているらしい。機会があれば、ぜひ行ってみたいと思っている。

 物語は、1590年に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、石田三成が「忍城」を包囲した攻防戦における成田長親の姿を描いていくのだが、藩主の成田氏長が小田原城に出向いて籠城したために、家老であった叔父の成田泰季(なりた やすすえ)が城代となった。ところが成田泰季が開戦直前に病死したために、その子であった長親が城代の代わりとなって2万以上の軍隊を相手に農民を合わせてわずか3000人足らずでの攻防戦の指揮を執ったのである。長親は藩主の甥に当たる。

 本書は、序章で、この攻防戦を江戸時代になって老武将たちが青年武士に語り聞かせるという体裁を取って軽妙に始まっているが、この序章はむしろないほうがよく、読み進むにつれて成田長親という人物がゆっくりと浮かび上がってきて、強烈な印象を残して終わる。

 幾たびの攻防の戦国の世を生き延びてきたかくしゃくとした偉丈夫の武人である父親の泰季から見れば、成田長親はこれといった際立ったところがない茫洋とした不詳の息子で、運動神経が鈍くて馬にさえ乗れないような人間だった。だが、不思議に誰からも好かれて、城内には長親のことを頼りないとは思っていたが悪くいう者はひとりもいなかった。閑さえあれば、城外に出て百姓たちと畑を耕したりするのが好きで、偉ぶるようなこととは無縁の、いわば人畜無害の人間だったのである。

 和田滝『のぼうの城』では、農作業を申し出るが不器用なために迷惑ばかりかけ、そのくせ不思議に憎めない人物で、領民からは「でくのぼう」を縮めた「のぼう様」と呼ばれていたとなっている。この描写はいくぶん戯画化されてはいるが、実際に、物事に拘らずにのんびりとした人物だっただろうと思う。

 本書の冒頭で、女だてらに戦に出たがる勝ち気な藩主の娘の甲斐姫(この姫の方がよく知られており、山本周五郎が『笄堀』で描いたし、後に豊臣秀吉の側室となり、ついで豊臣秀頼の側室となって娘を設け、この娘が後の縁切り寺といわれた東慶寺の中興の祖となっている)に、成田長親が「この、うすのろ爺ぃ」と罵倒される場面が描かれている。甲斐姫17歳、長親44歳である。もちろん、これは作者の上手い創作だが、勝ち気な娘の前でおろおろする人物、それが成田長親なのである。

 ところが、この平和な忍城に暗雲が立ちこめる。22万もの大軍による秀吉の北条攻めが始まったのである。忍城は北条方の支城であり、城主の成田氏長への小田原城参戦の命が北条方より出されるのである。22万の兵というのは前代未聞の大軍で、すべて訓練を受けた戦闘集団であったが、これに対して小田原城は6~7万で、しかも城下の町人や百姓を急遽兵に仕立てての数だった。誰が見ても北条側に勝ち目はなかったのである。成田氏長はこれが負け戦になると知りつつも主だった家臣350人を引き連れて小田原へ向かう。

 残された忍城は、家老の成田泰季を城代にして、わずかな家臣と足軽や下働きの者たちだった。そして、小田原を取り囲んだ秀吉は、各武将たちに関東各地にあった北条方の支城の攻撃を命じ、秀吉の懐刀といわれ鋭敏な頭脳によって英邁を誇った石田三成に関東北部の支城の攻撃を命じるのである。

 作者は、この辺りに、文官としては秀吉の信を得ていた石田三成が、武官としては他の武将たちから軽く見られ、信用もなかったという事情を挿入し、秀吉が石田三成に武将としての働きをさせようとしたと語り、石田三成もまたそれに応えて武将であることを証明しようとしたと述べる。石田三成が福島正則や加藤清正に嫌われていたことは有名な話で、それが明白になるのは秀吉の朝鮮派兵の時であったのだが、その事情をここに入れることで、石田三成が関東北部の支城攻撃にいかに自分の命運を賭けようとしていたのかを示すのである。石田三成30歳の若さである。彼が支城の攻撃に気負っていたのは間違いない。

 石田三成は、まず、小田原から遠い館林城を落とそうとする。館林城は北条氏規(ほうじょう うじのり)の城で、沼に突き出た半島のようなところに位置し、幾重にも防備が敷かれ、難攻不落と言われ、ここに城代としての南条昌治を中心にして五千人ほどが籠城した。三成の軍は、清廉な武将として名高い大谷吉継、長束正家らがついた二万近くの兵であった。三成はこの城を落とすのにわずか三日しかかからなかった。そして、難攻不落と言われた館林城をわずか三日で落としたのだから、次の忍城は、わずかの兵力しかなく、二日もあれば落とせるだろうと踏んで忍城の攻撃に向かったのである。

 わずかの兵力しかなかった忍城も、当然のように籠城戦を取ることにし、周囲の百姓や町人も城に入れることにする。それでようやく二千~三千人弱の人数になるのである。忍城に籠城した大多数はそういう人間たちだったのである。本書では、ここで主戦を唱えた武将たちが真っ先に逃げ出したことを語り、勇壮なことを言う人間がいち早く逃げ出す様を展開したりする。

 その時、長親が城代となっている父に、「父上、この際、逃げる者は皆、逃がしてしまいましょう」と言い出したと語る。「籠城では城の内側から人心が崩れていくのをもっとも警戒すべきでしょう」(114ページ)と語る。茫洋としているようでいて鋭い洞察をもって事に当たろうとする長親の姿がここで示されるのである。崩れるときは内から崩れる。その愚を犯すことを長親は明確に避けようとしたのである。

 城には、長親が普段親しくつきあっていた百姓や町人が入ってきた。彼らは長親のことをよく知り、頼りなく思えても親しみを感じていた人間たちであった。本書では、ここで、城下で機屋を営み、各地に旅をして情報をもっている25歳の栗八という青年と、油屋の四男で知恵者である多助、近郊の村で百姓をしている清右衛門という青年を登場させ、やがて長親が彼らの助けで城を守っていくことになる展開を見せていく。長親には、妙に人を安心させるようなところがあり、彼らは長親を信頼していくのである。

 その長親の力が示されるときが来た。二万余にふくれた三成の軍隊が、三成の指揮の下で整然と攻撃を開始したのである。だが、城への道は細く、周囲は深田で、三成の兵たちは深田に足を取られながら進んでくる。長親は、これを十分引きつけて、少ない鉄砲でも効果か上がるようにして防ぐのである。この出来事で足軽や百姓たちからなる忍城は三成の攻撃を一度は退けることができたのである。

 だが、その戦の最中に城代であり長親の父である成田泰季が病で倒れ、死去する。本書ではこのくだりも上手く、死の床にあった泰季を看取ったのが藩主の妻の「お菊」で、泰季は、自分の代わりの城代として武勇で知られた正木丹波にしてくれと言い残すのである。ところが、この「お菊」は、泰季が自分の代わりの城代として指名したのが息子の長親だと言い出し、決定させるのである。

 この「お菊」という女性は、山本周五郎の『笄堀』の主人公でもあるが、実に優れた女性で、普段は物静かな女性であるが、物事に動ぜずに大局を見る目と人を見る目をもち、時に毅然とすることができる女性で、長親のもつ力を見抜いていたのである。山本周五郎の『笄堀』では、城中の女性たちを集め、娘(甲斐姫)を城中に座らせて、自らは顔を隠して他の女たちと堀をつくり、寄せ手を防いだと展開されている。本書でも、魅力ある女性として描かれているが、もう少し、この「お菊」を登場させて描き出すといいだろうと思うが、本書で焦点を当てられているのは、むしろ「甲斐姫」で、この甲斐姫が長親と同衾したり、攻撃手であった真田幸村に惚れたりしたと記されていく。

 ともあれ、父に代わって城代となった成田長親は、「やるだけやって、あとは野となれじゃ」と言い放ち、百姓や町人の手を借りながら、しかも城中をいつも明るく保ちながら、城を守っていく。当然、苦戦は続くが、長親は穏やかにして、城内を柔らかい空気で包んでいく。鉄炮の玉がなくなれば、石を削ったり、相手が撃ち放った玉を広い集めたりして凌いでいくのである。食糧は城を囲む沼の鯉と蓮根である。長親はどこにでも気軽に顔を出し、ともすれば絶望的で厭戦的になってしまう城内にいる人たちと和やかさを保つことに努めるのである。人々の長親に対する親しみと信頼は増していく。

 業を煮やした石田三成は、いよいよ周囲に堤を作っての水攻めを決行していく。だが、堤を作るためにかり出すのは近在の百姓たちで、百姓たちから親しまれていた長親は、いち早く三成が水攻めを行うことを知り、堤の欠陥工事を図って行くのである。水は次第にたまり、城は水没しそうになる。だが、欠陥工事のために、満水になったとたんに堤が切れて、三成の水攻めは見事に失敗し、それだけでなく洪水となったために多大な犠牲を出していくのである。

 鋭利な刃物のような三成の攻撃の仕方と、柔らかく包むような長親、その姿がここで描き出されていく。やがて、小田原城に籠もっていた北条方は降伏する。だが、長親は降伏しない。名将と言われた真田幸村も三成軍に加戦することになり、あやうく破られそうになるが、甲斐姫が飛び出して真田幸村と対峙し、これを退ける。忍城は成田長親を中心にして一致団結していたからである。一つになった力は強い。本書では、このときに真田幸村と対峙した甲斐姫が幸村に惚れてしまったということになったりする。柔らかさは最強の力なのである。

 長くなったので続きはまた次回に記したいと思うが、風野真知雄が描く成田長親には深く心を揺さぶられるものがある。

2012年5月5日土曜日

諸田玲子『天女湯おれん 春色恋ぐるい』


 風薫る皐月というのに、今年の五月は雨にたたられて始まり、加えて一日から四日までの連休を利用した早朝から深夜までの会議で始まってしまった。会議の座長に任命されたためにサボるわけにもいかず、興の湧かない議論につきあわされて、いささかうんざりしながら連休が過ぎてしまった。どだいあらゆる事柄に、自分の命でさえ、執着心も未練もないわたしのような人間に会議の座長を任命することに無理がある気もする。会議などは静かに末席にいるのが望ましい。

 ただ、こういう時のいいことは、他のことは何もせずに往復の電車の中で読書に没頭できることで、諸田玲子『天女湯おれん 春色恋ぐるい』(2011年 講談社)を気楽に読んだ。これは、『天女湯おれん』(2005年 講談社)『天女湯おれん これがはじまり』(2010年 講談社)に続く作品で、前作の『天女湯おれん これがはじまり』から、描き出される描写の生々しさが消えて、どちらかといえば、作者の他の作品群である『悪じゃれ瓢六』や『お鳥見女房』のシリーズ物に近い作品になっているが、町奉行所の同心たちが住む八丁堀のど真ん中で、役人の鼻をあかすかのような男女の密会場所を隠し部屋としてもつ湯屋を開き、好奇心旺盛で人情家である美貌の「おれん」の清濁併せ呑む清々しい姿を描いたものである。

 本書では、身も心も恋してしまった新村左近という武士が役目を終えて国許に帰らざるを得なくなり、別れざるを得なくなって失恋した「おれん」が、その空白を埋めるために新しい恋をはじめていく顛末が描かれているのだが、そこに鼠小僧の捕縛事件があったり、湯屋に通ってくる少女への義父の性的虐待事件があったり、人気の戯作者を追い回す(今でいうスターの追っかけ)大店の女将の話が絡んだりしてくるのである。湯屋で働く老夫婦の息子が鼠小僧をまねて鼬小僧と名乗り盗っ人として「おれん」の天女屋に忍び込むが、あえなく捕縛され、それが老夫婦の息子とわかり、湯屋の手伝いをしていくというくだりもあるし、忍者を名乗る大道芸人が老いて人から馬鹿にされているのを活躍させ,生き甲斐を取り戻させる場面も出てくる。

 「おれん」の新しい恋の相手は、湯屋に通ってくる戯作者の為永春水を中心にした集まりの中にいた旗本の次男である深津昌之助という武士である。発端は、為永春水が「おれん」にひとりの女性を匿って欲しいと依頼したときに、その女性を連れ出す役割を担った深津昌之助が「おれん」の天女湯で女性保護のために釜焚きをすることになったことからである。匿われる女性は、婚家の武家にひどい目にあわせられ、女性と幼馴染みである昌之助の友人が見るに見かねて駆け落ちするというのである。

 「おれん」も昌之助も,一目で惹かれあう。「おれん」は武家に惚れることに懲りているはずなのに、また武家である深津昌之助に惹かれるのであるが、「おれん」は、それが身も心も献げた新村左近の欠けた穴を埋めるためであるという自分の気持ちにも気づいていた。

 鼬小僧の出来事やいくつかの出来事があるが、二人は互いに惹かれあう。しかし、やがて、深津昌之助は家督を継いでいた兄が病死し、家督を継ぐことになり、そのために嫁ももらうことになって、二人は別れる。「おれん」と昌之助に体の関係はなく、「おれん」は、身分違いもあり初めからそれを覚悟していたとこともあった。

 そして、本書の末尾で、国元に帰っていた新村左近が、再び「おれん」のところにやって来るところで終わり、「おれん」の恋はこれから成就していくことが示されるが、新村左近が新しい任務で江戸に来たのか、それとも武士を止めて「おれん」のところに来たのかは明かされずに、それは、今後の展開になっていくのだろう。

 個人的には、「おれん」が、壮絶さを内蔵させながらも人情家であり,清濁を呑み込んで豪快に生きていく姿を描いた一作目が一番いいように思うが、これはこれで、男女密会の秘密部屋を持ちながら八丁堀で人情豊かに爽やかに生きていく作品として面白いと思っている。なお、本書で藤本雅子という人のイラストがあり、各頁表記のところにも使われていて、ちょっと心憎い装幀になっている。

2012年4月30日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2)


 朝から雲が広がっているが、新緑が美しい。「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わり、そして今「昭和の日」と呼ばれる休日で、連休で出かけられた方も多いのか、人通りは少ない。だが、今夜あたりは車の渋滞があるかもしれない。ここは、東名高速道路青葉インターのすぐ近くだから。この連休はずっと仕事が続く。

 さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2010年 新潮社)の続きであるが、慶長19年(1614年)の大阪夏の陣の後、不安にかられた大阪方は、二の丸と三の丸を修復し、新しく牢人たちを集め始めるのである。言い換えればそれは、和平後に戦の準備を始めたということで、もちろん、家康も粛々と準備を行っていたのだが、大阪で集められた牢人たちの乱暴・狼藉、果ては京や伏見の放火の疑いが起こってきたのである。大阪城に寄せ集めた牢人を統率する力もなく、そうした噂がばらまかれる下地を作ってしまったのである。駆け引きと暗躍、それがこの年に行われたことであった。

 翌、慶長20年(1615年)、京都所司代の板倉勝重からこの報告を聞いた徳川方は、牢人の解雇と秀頼の移封を要求し、家康は九男の徳川義直(尾張藩初代藩主)の婚儀を名目に名古屋へ向かい、続いて京の伏見、二条城へと向かったのである。大阪方は徳川方から出された秀頼移封を拒否し、かくして夏の陣の火蓋が切って落とされたのである。松平忠輝も、このとき戦陣に加わるように命を受け、越後高田を出立する。忠輝の参戦は、大阪城内に多数立て籠もっていたキリシタン武士たちへの対策としてキリシタンに深い理解をもっていた忠輝を当てようとする徳川方の策だったとも言われている。本書は、これが忠輝とキリシタンに対する底意地の悪い邪悪な徳川秀忠の策だったという。

 そして、大阪へ向かう忠輝の軍勢に監視のために多数の目付を送るだけでなく、柳生宗矩を使っての途中での暗殺計画と忠輝失脚のための罠を仕掛けたと展開する。

 戦を嫌う忠輝は、大阪城内のキリシタン牢人たちのことも理解していたし、それだけではなく、かつて少年の頃に家康の名代として豊臣秀頼に会い、自分は何があっても決して秀頼を攻撃する側にはたたないという約束を守るために怠戦の決意をしていく。だが、そのことが忠輝にとって後に仇となっていくし、忠輝もそのことを重々承知の上であるが、秀頼との約束を優先させていくのである。忠輝は、一度した約束は最後まで果たしていく人間なのである。

 一軍を率いて大阪に向かう途中で、ひとつの事件が起こる。この事件が後に忠輝改易の理由にされたのだが、徳川秀忠直属の旗本二名が、十四、五人の若党を連れて、なんの挨拶もなく忠輝の越後福嶋勢の先陣に割り込み、これを追い抜いていこうとしたのである。先陣への割り込みは、これを斬り捨てても良いことになっていたが、粗暴で無礼な振る舞いをしながら彼らは割り込んだのである。

 そして、忠輝の先陣を務めていた武士がこれを引き留め、問い糾したが、自分たちは将軍秀忠の直属であると無礼を働いたために、先陣を務めていた武士が二人を槍で刺し殺した。これは先陣を務める者の当然の処置であった。忠輝は、これが秀忠の謀略であることを知っていたが、それを無視し、自分は少年の頃に秀頼と約束し、それを守るために戦はしないと筆頭家老の花井主水正(義雄・・かつての家老で忠輝を支え、大久保長安事件が忠輝に及ばないように自害した花井吉成の息子)に語るのである。少年の頃の約束をどこまでも守り続ける男がひとりぐらいいてもいい、と言う。花井主水正は驚くが、忠輝の意をくんで、影武者を作り、不戦が秀忠にばれないように図っていく。

 大阪夏の陣は、豊臣方が大和郡山城を落城させ、堺の町を焼き討ちすることで戦端が開かれた。そして、樫井(泉佐野市)で遭遇戦が行われ、総力戦となり、大阪方は塙団右衛門直之、後藤又兵衛なども戦死し、真田幸村も命を落として敗戦する。真田幸村が徳川家康の間近に迫り、家康がかろうじてその手を逃れた話はよく知られており、家康は幸村の剛勇と戦略に震え上がったとまで言われている。だが、その真田幸村も力尽き、ついに大阪城は落城する。

 本書は、ここで不戦を決め込んだ松平忠輝が傀儡子(くぐつ)と共に戦の成り行きを見守り、いよいよ大阪城落城の寸前に大阪城に忍び込んで、秀頼と会い、最後の宴を催して別れを告げ、秀頼の頼みを聞いて、淀と秀頼の死骸がのこらないように爆裂団を仕掛けたと語る。もちろん、それは作者のどこまでも明るく颯爽と、しかも約束を守る人間としての忠輝を描き出す創作だろうが、実際に、焼け落ちた大阪城から淀と秀頼の遺体は見つかっていない。また、このとき、家康の娘で秀頼の妻となっていた千姫が助け出されるが、それを行ったのが忠輝だったと語る。

 千姫は木村権右衛門と堀内氏久の手で焼け落ちる大阪城内から助け出され、津和野藩主であった坂崎直盛の手に渡されて救出されている。これには講談本などで後日談があるが信憑性はあまりない。

 ともあれ、本書は、忠輝が冬の陣の闘いの際に不戦を決め込んで不在であったことが、秀忠が放った戦目付によって発覚しそうになるが、これ忠輝はを上手くしのいでいった手法を展開する。そして、家康は忠輝を大阪城の城主とすることを秀忠に告げようとするが、秀忠が猛反対し、家康がその考えを放棄したこととして展開し、秀忠が人望篤い忠輝排斥のためにますますあらゆる策を講じていったと語る。秀忠の忠輝に対する感情は嫉妬である。

 それに加えて、戦後に家康が一族を引き連れての大阪の陣に対する朝廷への参内の際に、忠輝が参加せずに、病と称して嵯峨野あたりの川で遊んでいたということがあり、それに家康も腹を立てたことがあり、秀忠は忠輝に対して厳罰をもって処する決意を固めていくのである。本書では、慶長20年(1615年)に出された「禁中並公家諸法度」に対して、天皇を頂点にして「自由の民」であった傀儡子(くぐつ)と共に生きてきた忠輝が反対しての行動だったとする。

 いずれにしても秀忠が忠輝を排斥しようとする思いはますます強くなり、忠輝が大阪冬の陣に高田藩士を連れて向かう際に、自分の旗本が無礼打ちで殺された事件を題材にして、忠輝が詫びなかったことの責任を追求しようとするのである。もちろん、それは秀忠特有の言いがかりである。だが、秀忠は将軍であり、その意は絶対的である。

 家康は、なんとしても忠輝を守りたかったので、彼を勘当して謹慎の身とし、高田藩を存続させ、加えて秀忠のこれ以上の追求がないように計らうのである。忠輝は高田を出て、武蔵の深谷で謹慎する。謹慎といっても、彼は自由の身であり、忠輝はこの家康の処遇を喜んで受けたのである。秀忠はこの家康の処遇に腹を立てたと言われている。彼はなんとしても忠輝を亡き者にしたかった。

 大阪の陣によって豊臣が滅び、将軍徳川秀忠にとって、もはや家康の力は無用のものとなったばかりか、大御所として力をもつ父の家康が目の上の瘤である。本書は、秀忠が柳生宗矩の手で、深谷で謹慎している忠輝を巻き込んで家康暗殺を行おうとしてことを告げる。子が父を殺すことは下克上の方法でもあり、あり得ることである。だが、この家康暗殺計画は、忠輝の機転と力で見事に阻止されていく。

 しかし、家康の死期が近まる。家康は鷹狩りの際に鯛の天ぷらを食べ、それがもとで発病してしまう。忠輝の生母であるお茶阿の方は、病床の家康と面会し、そこで、忠輝の勘当は十年の間ゆるさないが、「野風の笛」を忠輝に与えるのである。「野風の笛」は、織田信長から豊臣秀吉、そして家康と伝えられたもので、これを忠輝に渡したところに家康の思いがあり、また、10年間の勘当を解かないというのは、10年間は秀忠が忠輝に対して手を出せないということでもあった。こうして、家康は、大阪の陣の集結によって慶長から元和と号が改められた元和2年(1616年)に没する。また、家康に続いて徳川幕府を支えてきた本多正信も病死する。

 それによって家康の影から完全に脱することができた秀忠は、再び忠輝への攻撃を開始し、まず、忠輝の家老であった花井主水正に非行の罪を着せて切腹させ、高田藩を改易し、忠輝を志摩鳥羽城主の九鬼長門守守隆預けにしたのである。配流である。

 しかし、忠輝はこれに従うばかりか、すべての重荷を取り払われて、再び自由闊達となり、伊勢の朝熊でのびのびと生きていくのである。伊勢はキリシタン大名であった蒲生氏郷の旧領で、キリシタンも多かったし、傀儡子(くぐつ)たちは影ながら忠輝を守っていた。忠輝は、家康が言い残したように秀忠が自分を生涯恐れ続けることを知りつつ、自由でのびのびと生きていくのである。「野風の笛の音がきこえるような気がした」(349ページ)は、この長編小説の完結の言葉である。

 徳川幕府の初期から大阪の陣を経て行く中で激動した社会の様々なことを盛り込みながら、ひとりの「自由人」の姿を描いたスケールの大きな作品だと改めて思う。

 巻末の縄田一男の「解題」によれば、これは1987年に新聞紙上に掲載された作品で、「隆慶一郎にとって完結を見た最後の作品」である。激動していく時代と状況の中で、受け入れられないままではあるが自分の歩みを爽やかに颯爽とし続ける人物を描き出し、まことに「面白くて読み応えのあるスケールの大きな作品」だった。作者の思想が明確なのが何よりいい。「常に死を覚悟して生きる姿」を『死ぬことと見つけたり』で記しているが、本書の松平忠輝の颯爽とした爽やかな姿にもその覚悟があって、やはり、これが人間を造る大きな要素だと改めて思ったりした。