風薫る皐月というのに、今年の五月は雨にたたられて始まり、加えて一日から四日までの連休を利用した早朝から深夜までの会議で始まってしまった。会議の座長に任命されたためにサボるわけにもいかず、興の湧かない議論につきあわされて、いささかうんざりしながら連休が過ぎてしまった。どだいあらゆる事柄に、自分の命でさえ、執着心も未練もないわたしのような人間に会議の座長を任命することに無理がある気もする。会議などは静かに末席にいるのが望ましい。
ただ、こういう時のいいことは、他のことは何もせずに往復の電車の中で読書に没頭できることで、諸田玲子『天女湯おれん 春色恋ぐるい』(2011年 講談社)を気楽に読んだ。これは、『天女湯おれん』(2005年 講談社)と『天女湯おれん これがはじまり』(2010年 講談社)に続く作品で、前作の『天女湯おれん これがはじまり』から、描き出される描写の生々しさが消えて、どちらかといえば、作者の他の作品群である『悪じゃれ瓢六』や『お鳥見女房』のシリーズ物に近い作品になっているが、町奉行所の同心たちが住む八丁堀のど真ん中で、役人の鼻をあかすかのような男女の密会場所を隠し部屋としてもつ湯屋を開き、好奇心旺盛で人情家である美貌の「おれん」の清濁併せ呑む清々しい姿を描いたものである。
本書では、身も心も恋してしまった新村左近という武士が役目を終えて国許に帰らざるを得なくなり、別れざるを得なくなって失恋した「おれん」が、その空白を埋めるために新しい恋をはじめていく顛末が描かれているのだが、そこに鼠小僧の捕縛事件があったり、湯屋に通ってくる少女への義父の性的虐待事件があったり、人気の戯作者を追い回す(今でいうスターの追っかけ)大店の女将の話が絡んだりしてくるのである。湯屋で働く老夫婦の息子が鼠小僧をまねて鼬小僧と名乗り盗っ人として「おれん」の天女屋に忍び込むが、あえなく捕縛され、それが老夫婦の息子とわかり、湯屋の手伝いをしていくというくだりもあるし、忍者を名乗る大道芸人が老いて人から馬鹿にされているのを活躍させ,生き甲斐を取り戻させる場面も出てくる。
「おれん」の新しい恋の相手は、湯屋に通ってくる戯作者の為永春水を中心にした集まりの中にいた旗本の次男である深津昌之助という武士である。発端は、為永春水が「おれん」にひとりの女性を匿って欲しいと依頼したときに、その女性を連れ出す役割を担った深津昌之助が「おれん」の天女湯で女性保護のために釜焚きをすることになったことからである。匿われる女性は、婚家の武家にひどい目にあわせられ、女性と幼馴染みである昌之助の友人が見るに見かねて駆け落ちするというのである。
「おれん」も昌之助も,一目で惹かれあう。「おれん」は武家に惚れることに懲りているはずなのに、また武家である深津昌之助に惹かれるのであるが、「おれん」は、それが身も心も献げた新村左近の欠けた穴を埋めるためであるという自分の気持ちにも気づいていた。
鼬小僧の出来事やいくつかの出来事があるが、二人は互いに惹かれあう。しかし、やがて、深津昌之助は家督を継いでいた兄が病死し、家督を継ぐことになり、そのために嫁ももらうことになって、二人は別れる。「おれん」と昌之助に体の関係はなく、「おれん」は、身分違いもあり初めからそれを覚悟していたとこともあった。
そして、本書の末尾で、国元に帰っていた新村左近が、再び「おれん」のところにやって来るところで終わり、「おれん」の恋はこれから成就していくことが示されるが、新村左近が新しい任務で江戸に来たのか、それとも武士を止めて「おれん」のところに来たのかは明かされずに、それは、今後の展開になっていくのだろう。
個人的には、「おれん」が、壮絶さを内蔵させながらも人情家であり,清濁を呑み込んで豪快に生きていく姿を描いた一作目が一番いいように思うが、これはこれで、男女密会の秘密部屋を持ちながら八丁堀で人情豊かに爽やかに生きていく作品として面白いと思っている。なお、本書で藤本雅子という人のイラストがあり、各頁表記のところにも使われていて、ちょっと心憎い装幀になっている。
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