2012年5月30日水曜日

宇江佐真理『寂しい写楽』


 この2~3日、突然に夕方から夜にかけてにわかに曇り、風が吹いて、集中的な雨が降るという不順な天候が続き、一昨日は図書館に行く途中で土砂降りとなり、駅の構内で破れた屋根から雨がじゃあじゃともるという事態になって、駅の構内にあるコーヒーショップでしばらく雨宿りをしたり、昨日は会議に出かけた帰りに大粒の雨が降り出すという事態に遭遇したりした。今日は雲が空を覆っている。

 その図書館で、宇江佐真理『寂しい写楽』(2009年 小学館)を見つけ、さっそく読み出した。これは謎の多い浮世絵師であった東洲斎写楽という人を巡る当時の出版元であった蔦屋重三郎や山東京伝、葛飾北斎、十返舎一九、滝沢馬琴、そして狂歌師として名をなした太田南畝などの人々の姿を描き出したもので、特に写楽という人の絵を売り出し、また失敗していくことを中心に据えてこの時代の文化人たちの姿が描かれると同時に、写楽が残した絵を「寂しい」という独特のニュアンスのある観点から見ようとした意欲作でもある。

 ここに名を記した人々は、今日では極めて優れた才能を開花させた人々として著名であり、現代では写楽の役者絵も高い評価を得ているが、それぞれに生活の苦労をしながら戯作や絵画芸術に打ち込んでいく姿が人間臭く描かれている。彼らを動かしやのは、それぞれの矜持や誇り、そして情熱であっただろう。芸術は情熱なしには生み出すことができないものである。

 これらの人々が活躍し、一気に江戸文化を花開かせた天明(17811788年)の終わり頃から寛政(17891800年)、享和(18011803年)、文化(18041817年)文政(18181829年)にかけてのおよそ40年間というのは、実に不思議な時代という気がする。この期間の将軍はずっと、後に「オットセイ将軍」の異名をとった徳川家斉で、家斉は将軍在位になるとすぐに前時代に自由経済を目論んで「賄賂政治」とまで言われた田沼意次を失脚させ、白河藩主で名君の誉れが高かった松平定信を老中首座にすえ、松平定信は、逼迫した幕府財政の立て直しのために「寛政の改革」を断行した。

 この「寛政の改革」は、あまりにも厳格すぎて、かえって江戸経済を混乱させると同時に、あらゆる奢侈な生活や贅沢を禁止し、芝居や出版、文化や芸術に弾圧をかけた。それらは精神と生活の弾圧として機能したに過ぎなかった。そのために、松平定信の「寛政の改革」は、寛政5年(1793年)に松平定信の失脚によって失敗に終わり、徳川家斉自身は側近政治を行い、再び奢侈な生活を送ったり、賄賂を推奨したりしたし、幕府財政はますます逼迫するようになっていった。加えて、近代化を進めていた西洋諸国からの外国船の渡来などがあり、社会状況は極めて不安定だったのである。幕府の幕藩体制は崩壊し始めている。

 この寛政の文化弾圧の時代と社会危機が増大した時代に、しかし、先に挙げた人々が天才的ともいえる活躍をしていくのである。これらの人々は、ある意味では時代が生んだ寵児でもあるが、熟覧した江戸の文化を最も優れて表した人々と言えるであろう。あるいは、江戸という独特の暮らしが成り立つ社会の中で、貧乏長屋に住みながらも誇りだけは失わなかった町人文化が生み出したものであるとも言えるだろう。

 これらの人々の要として文化の一時代を築いたのが出版元であった蔦屋重三郎(17501797年)である。蔦屋重三郎は1750年(寛延3年)に江戸の遊郭であった吉原に生まれ、引手茶屋(遊女との待ち合わせに用いられた)である喜多川家に養子として引き取られて、やがて吉原大門の前に吉原の案内書である吉原細見を販売し、「耕書堂」と称して出版業に関わっていくようになったのである。黄表紙本、洒落本、狂歌集などを次々と出版し、1783年(天明3年)に日本橋に出店するほどになった。

 絵師である歌麿を見出して、大々的に世に送り出し、「喜多川」という自分の養家の名前を与えるほど大事にしていたが、やがて関係がうまくいかなくなり、歌麿は蔦屋を出てしまう。加えて、寛政の改革によって1791年(寛政3年)に山東京伝の黄表紙本と洒落本が摘発されて、蔦屋重三郎は財産の半分を没取され、山東京伝は手鎖50日という罰を受ける。

 本書は、その処罰の後で、起死回生を願って1794年(寛政6年)に写楽の役者絵を出版する状況が展開されて、写楽を、一応の定説通りの能役者であった斎藤十郎兵衛として、写楽の最初の大判絵に蔦屋の願いを入れて山東京伝や葛飾北斎、後の十返舎一九などが関わり、写楽の画質が低下していったことをこれらの人たちが手を引いていったとして描きだしていく。そこに自分のもとを去った歌麿に対する蔦屋重三郎の意地があったと見るのである。写楽の絵はあまり売れずに蔦屋は困窮に陥っていくが、写楽が10ヶ月あまりで忽然と浮世絵の世界から身を消したことを、作者はそう見ているのである。

 やがて、葛飾北斎が自分の画風を見出し、曲亭馬琴が読本の道を見出し、十返舎一九が独特の洒落の効いた読本を書いていくようになる姿もよく描かれている。そして、改めて、写楽が描いた作品を見ていると、なるほど「寂しい」という思いがしてくるし、後の葛飾北斎が冨嶽三十六景で見せたような大胆な構図の摂り方と写楽の大首絵(上半身や胸像を描いたもの)の大胆な構図、デフォルメなどいくつかの共通点もあるような気がする。絵としては葛飾北斎の方が格段にうまいし、同じ役者絵でも喜多川歌麿の方が繊細で感性が豊かである。だが、写楽には独特の味があるのも事実で、それを「生きることの寂しさ」に求めたところに作者の感性が光っていると思ったりする。本書は、そういう意味では玄人好みの作品だろうとは思う。

 写楽は「寂しい」。そして、人とは寂しい生き物である。ホントにそう思う。そして、その「寂しさ」を知る者だけが何事かを生み出していく。

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