2013年2月13日水曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎』


 雪の予報も出ていたが、穏やかに晴れてきた。気温も、決して高くはないが、雪が降るほどの低さではない。昨日、北朝鮮が核兵器の地下実験を行ったことが報じられた。自分の力を保持して誇示するために兵器をもつという貧しい発想が、まだ世界には根強く残っているのを改めて感じる。国にしろ個人にしろ、地位や立場などというつまらないものは捨て去ったほうが遥かに生きやすいだろうに、と思ったりする。

 そんなことを思っていたが、その中で、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎』(2010年 角川文庫)を気楽に面白く読んだ。この書き出しが、振るっている。

「天保九年如月。
腹あ減った。
もう一歩も動けぬ」

というもので、こういう書き出しで描かれる主人公の「あっけんからんとした」姿が彷彿させられるものである。

 物語は、播州龍野藩(現:兵庫県南西部)から江戸に出てきた田舎剣士毬谷慎十郎の活躍を描いたもので、彼が播磨の小京都と呼ばれるほどの美しい龍野から埃が舞い上がる江戸に出て、とうとう路銀も尽きて空腹で道端にひっくり返るところから始まる。

毬谷慎十郎は、龍野で剣術道場を営む親から勘当同然のようにして江戸に出奔してきて、浪人となったのだが、本人はそのことを意にも返さず、剣豪ひしめく江戸で名を挙げ、いつかは故郷に錦を飾りたいと思っていた。六尺を越える偉丈夫の体をもち、自由奔放で型破りながらも、素朴で真正直な彼の江戸での生活は、空腹で倒れるとことから始まり、江戸市中を騒がせていた「黒天狗」という強奪や殺戮を繰り返す一味との決着へと向かうことになる。

まず、往来でブッ倒れた彼に飯粒を与える願人坊主が現れ(この願人坊主は実は龍野藩の隠密)、次に同じような浪人によって飯を恵んでもらう。この浪人は恩田信長と名乗り、最初は毬谷慎十郎がもっていた刀を狙っていたのだが、それが失敗して、なぜか彼が気にいって世話をしていくのである。毬谷慎十郎は、その磊落さで人を惹きつけるものをもっていた。

それから彼の道場破りの日々が始まっていく。毬谷慎十郎は、単純に江戸の剣豪との手合わせを望み、恩田信長は、彼が打ち破った道場からいくばくかの金をもらうという互の利害が一致しての日々である。毬谷慎十郎は強かった。彼は、藩の剣術指南役であった円明流の達人である父から剣術を学び、毬谷三兄弟の末子として剣名をあげ、その兄弟の中でも最も優れた資質をもつと言われていたし、さらに鳥取藩の深尾角馬が生み出した雖井蛙流(せいありゅう)を会得しようとして、父の勘気を買って破門させられたのである。雖井蛙流はあらゆる攻撃に対しての対応の技で、雖井蛙(せいあ)とは「井の中の蛙」という意味で、毬谷慎十郎は、田舎ではなく江戸で大海を泳ぎたいと思っていたのである。当時の江戸で剣名を覇せていたのは、剣聖とまで言われた北辰一刀流の千葉周作、直心影流の男谷精一郎、神道無念流の斎藤弥九郎などで、慎十郎は、いつかはこれらの人たちと手合わせをすることを望み、次々と道場破りをし、また勝っていくのである。

彼の江戸での生活は、そうした破天荒の日々で、道場破りで勝ったときに相手が渡す「袴の損料代」という、いわば口止め料を彼についていた恩田信長がせしめることで成り立っていたが、彼は金銭には一切無頓着で、恩田信長はそれで吉原に遊びに行ったりもする。

しかし、その彼が、斎藤弥九郎の練兵館に出稽古に来ていた咲という美貌の女剣士に見事に負けてしまう。咲は、子どもの頃に丹波道場という剣術道場をしていた父親が何者かに殺され、祖父のもとで育てられて剣を学んだ女性だった。毬谷慎十郎は、自分を負かせた咲のいる丹波道場に居候として転がり込むのである。咲の祖父丹波一徹は、千葉周作の兄弟子で、丹石流の達人だったが、笹部右京之介という男に後ろから背中を斬られ、弟子を取るのをやめて咲と二人で暮らしていたのである。

この笹部右京之介が、いわば毬谷慎十郎の宿敵となる。笹部右京之介は、大身の旗本の次男で、千葉道場で剣の修行を積み、天才と称されるほどの腕を持ち、官学の昌平坂学問所では神童と言われた逸材だったが、いつか捻じ曲がって狂気を帯び、千葉道場を破門されて冷徹な人殺しに変わっていった人物である。彼は、咲の祖父の丹波一徹がもつ秘剣を教えてもらいに行ったが、一徹から断られ、背を向けた一徹の背中を斬ったのである。

毬谷慎十郎が江戸に出てきたころ、江戸では大阪で乱を起こした大塩平八郎の残党を名乗る者たちが、徒党を組んで商家を襲い、強奪して、家人を皆殺しにするという事件馬頻発していたが、その背後に「黒天狗」と名乗る武士の一団があり、笹部右京之介は、その首魁だった。天保の大飢饉で逃散してきた百姓や浪人者を集め、彼らを煽って暴徒と化して襲わせていたのである。

この事件の背後に、天保6-7年(183536年)に起こった但馬(兵庫県)の出石藩仙石家で起こった「仙石騒動」があった。「仙石騒動」については、先に触れた海音寺潮五郎『列藩騒動録』の通りだが、幕閣の水野忠邦の意を受けてこれを裁いたのは当時寺社奉行であった脇坂安薫(わきさか やすただ)であるが、彼は本書の主人公の毬谷慎十郎が属していた龍野藩の藩主である。

脇坂安薫は、この「仙石騒動」の裁きで、やがて老中にまでなっていくが、寺社奉行の時、大奥の女中と谷中の延命院の僧の日潤、日道が淫行にふけっていた「延命院事件」を摘発して裁いたことで有名で、長槍の穂先を貂の皮で包んでいたことから、「貂の皮の名奉行」と言われていた。彼は長年寺社奉行を勤め、一度退いてから、再び幕閣として再登用されたのである。そこに幕閣内の政争があったことは間違いないが、剛毅さと反骨精神に富んだ人物であった。「仙石騒動」の裁きは、彼が再登用されてからの出来事である。

「仙石騒動」の裁きで、仙石家に肩入れしていた老中松平康任が解任され、その康任に仕えていた笹部修理も無役となった。旗本の笹部修理は康任の口利きで勘定奉行にまでなったが、相談役のような役割を果たしていた出入り旗本としての仙石家への出入りも禁じられた。笹部修理は、自分に対してこのような仕置を招いた脇坂安薫を逆恨みして、龍野藩の出入りの商人の家を次男の右京之介を使って襲わせたち、強欲な札差と結託してコメ相場を煽ったりしていたのである。もちろん、このあたりは創作である。

龍野藩脇坂家の家老の赤松豪右衛門は、これを察知して、「黒天狗」を名乗る旗本の息子たちへの対応を、剣の腕があって浪人となった毬谷慎十郎にさせようとするのである。赤松豪右衛門と毬谷慎十郎は少なからぬ因縁があった。それは、豪右衛門の一人娘の静乃が龍野で花摘みに出かけた時に山賊に襲われ、そのとき16歳の若侍が山賊を蹴散らして静乃を助けたのである。その若侍が毬谷慎十郎で、娘を助けられた豪右衛門が、何でも好きなものを所望せよと言ったところ、「姫をくれ」と言ったので追い返したということがあったのである。しかし、それ以来、娘の静乃は慎十郎に想いを寄せて縁談を断り続けていた。慎十郎が律儀に城勤めをするような人間ではない自由人であることを彼は見抜いてもいた。もし、慎十郎が藩のために命を落としたということにでもなれば、静乃も納得するのではないかと考えていたのである。藩の家老としても、また静乃の父としても一石二鳥を狙ったのである。願人坊主の源信は、彼の密命を帯びて毬谷慎十郎を見張っていたのである。

だが、「黒天狗党」の首魁が笹部右京之介であることの証拠を探ろうとして、源信は右京之介に殺されてしまう。毬谷慎十郎の日常生活を見ていた恩田信長も殺されてしまう。吉原で、拐かされて売られようとした茶屋の娘を助けるために吉原に行った毬谷慎十郎は、偶然いあわせた笹部右京之介と出会い、一度立ち会うが、適わないことを知り、丹波道場を出て市中をさすらうようになる。そして、ふとしたことで札差にやり込められている貧乏御家人を助けたことから、その札差の用心棒となる。

ところが、その札差が、実は笹部修理と組んで、右京之介を使って市内の米問屋を襲撃させ、米の値段を釣り上げているような人物であった。毬谷慎十郎は、そういうことのからくりを見抜いて、札差と修理を川に叩き込み、右京之介と対峙して、これを討つのである。

こうした物語が本書で展開されているのだが、自由奔放で磊落ながらまっすぐに突き進み、義理堅い主人公の姿の描写の中で、人助けがあったり、吉原でのいざこざがあったり、暴徒と化す群衆が出てきたり、それを操る人間や米相場や強欲な札差、私怨に走りつつも欲の皮が突っ張ったような旗本、剣劇や殺人剣の使い手のねじ曲がった性格、老剣士の教えや恋、そういういわば時代小説の面白さを構成するものが盛り沢山で、しかもテンポのいい文章で、面白く読めるようになっている。

隠密であり願人坊主の源信や食いつめ百姓から侍の格好をしている憎めない恩田信長といった人物は、途中で殺さずに、ずっと物語に中で生かしたほうが良いようにも思ったが、きちんとした歴史を踏まえつつもこれだけ盛り沢山な作品であるから、真に気楽に面白く読める作品だった。

2013年2月11日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(7) 仙石騒動


 気温は低いが、穏やかな冬晴れといってもいいだろう。かすかながらも春の気配を感じたりする。

 先週の土曜日にテレビ朝日で放映された滝口康彦原作の『上意討ち 拝領妻始末』を見た。友人で作詞家のT氏が放映を知らせてくださったので、おそらく、以前、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演の映画のリメイクだと思って、元の映画を見ていないので、関心を持って見た次第である。主演は田村正和で三船敏郎とは本質的に味の異なる役者であり、拝領妻となる「いち」を仲間由紀恵が演じるのにも興味があった。

 放映されたものは、原作と異なり、藩主から拝領妻として「いち」を下げ渡された笹原与五郎の父親が中心の主人公となり、結末も全く異なっていたが、理不尽な藩のやりかたに穏やかな与五郎の父が激怒する場面は圧巻だった。ドラマでは「いち」は自害し、与五郎も斬られてしまうのである。最後に江戸に訴えに向かう与五郎の父が鉄砲で打たれるという結末はどうかな、と思ったが、結構見応えがあった。

 滝口康彦の本があざみ野の山内図書館にはないのが残念で、いつか九州に行くことがあれば、佐賀の彼の足跡を訪ねてみたいと思っている。

閑話休題。今日は海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版 2007年 講談社文庫)の下巻に記されている「仙石騒動」について記しておくことにする。

 「仙石騒動」とは、江戸時代の末期の天保年間(18301843)に但馬(現:兵庫県)の出石(いずし)藩仙石家で起こった騒動だが、逼迫した藩の財政政策を巡る問題であると同時に、人間の欲や嫉妬心、あるいは驕りと傲慢性が生み出した事件であるということができるかもしれない。

 この時代になってくると諸大名の財政はどこもどうにもならないくらいに逼迫していて、武士の生活は困窮を極めてくるが、出石藩も同様で、第六代藩主の仙石政美(17971824年)の頃になると、藩の借金は6万両にも及ぶようになり、藩の財政改革が急務のこととなってきた。

 そこで、家老であった仙石久寿(左京)は、勝手方年寄(財務責任者)で仙谷左京家の分家筋に当たる仙石久恒(造酒 みき)を解任し、筆頭家老になると自分の財政政策を強行した。彼の財政政策というのは、産物会所を中心にして生糸の専売と魚市場の育成などの、いわば重商主義的産業振興策と、家臣の俸禄の平均4割削減という緊縮、領民への御用銀の賦課という重税政策であった。

 産業振興策は頷けるとしても、これは家臣や領民の生活を踏みにじって藩庫を豊かにするだけのもののように見えなくもないし、このあたりに仙石久寿(左京)という人間の考えが透けて見えるような気もするが、他方、これに真っ向から対立した解任された仙石久恒(造酒)も、質素倹約の励行という従来のあまりに無策としかいいようがない方針しか持つことができなかったのである。

 藩主の仙石政美は、仙石左京の政策を支持し、強い権限を与えて、これを断行させたのである。このあたりに、家臣や領民の生活を何とも思っていない大名の軽薄さがあるのだが、人々の生活を犠牲にするような政策がうまくいくはずがない。左京の政策は頓挫し、藩主の政美は失脚していた仙石久恒を復権させて藩政を執らせるのである。こういう処置は、仙石久寿(左京)と仙石久恒(造酒)の対立を煽るようなもので、それがやがてこの騒動を生んでいく因となったのである。

 そして、文政7年(1824年)、藩主の仙石政美が参勤交代の途中で発病して、享年28の若さで死去し、嗣子がなかったために、江戸で隠居していた前藩主であり政美の父である仙石久道が後嗣を決めるための会議を開く会議を開くことにした。筆頭家老であった仙石左京は国元を代表してこの会議に出席するために上京するが、彼はその時に実子である10歳になる小太郎を同伴するのである。この行為が、敵対していた仙石久恒(造酒)の疑惑を招いた。左京が実子を後継に押すつもりだと考えたのである。実際、左京は小太郎を久道に謁見させるなどしており、「あわよくば」という考えはあったであろう。仙石左京家もまた藩主の血筋ではあったのだから。

 しかし、後継藩主決定の会議は、直系を重んじるということで、久道の四男で前藩主政美の弟に当たる道之助を元服させて久利とし、藩主に据えることに決するのである。久利は妾腹の子で、まだ幼く、父の久道が後見となった。そして、仙石久恒(造酒)が、左京が小太郎を同伴したのは「我が子を藩主にして主家を乗っ取るつもりだった」と久道に訴え、久道は左京を家老職から罷免させ、仙石久恒(造酒)が藩の実権を握るようになったのである。

 能力もないのに権力がだけは握りたがる人間というのはどこにでもいるものだが、わたしにはどうも仙谷久恒という人がそういう人物だったとしか思えない。彼は藩の実権を掌握したが、質素倹約だけしか打ち出すことができずに、藩財政はますます窮乏し、出石藩が再建されることはなかったのである。久道も、流石にここまで来て久恒(造酒)を解任し、今度は久寿(左京)を取り立てるのである。他に有能な人材はいなかったと思いたくなるが、そういう視点は久道にはなかった。人材は育てなければ生まれてこないが、出石藩にはその発想すらなかったのではないかと思ってしまう。造酒はまもなく病死する。

 ここから、再び藩の実権を握り、反対する者がなくなった仙谷久寿(左京)の増上慢が始まっていく。彼は家臣の扶持(俸給)を極端に減らし、商人からは運上(営業税)を厳しく取り立て、領民に御用金を課した。その割に、自らは、その頃の大名家でもしなくなっていた鷹狩りをしたり、瀟洒な生活をしたりして、贅と権力を楽しみ、息子の小太郎には老中首座の松平康任の姪を嫁に迎え、それを迎える時も、まるで大名のように振舞ったのである。中途半端に賢くて、少しお金が回り始めるとまるで成功したように思い込む人がいるものだが、久寿(左京)もそういう人間だった気がしないでもない。他の者が彼よりも愚かだったことは間違いないが。

 こういう久寿(左京)に対して、当然、家中から反発が起きる。特に政敵でもあった仙石久恒(造酒)の実弟であった酒匂清兵衛は、左京の息子の小太郎の婚儀に際し、老中首座の姪を嫁にもらうなどという大名家のような振る舞いから、「左京が主家を横領し、乗っ取ろうとしている」という訴えを後見であった仙石久道に起こすのである。この時、仙石左京の横領を証拠立てたのが勝手役(財務)の河野瀬兵衛という人物であった。

 しかし、小賢しい仙石久寿(左京)の巧みな弁舌にかなうわけがなく、久道は、反対に、酒匂清兵衛を蟄居、河野瀬兵衛を追放処分としたのである。これでますます仙石久寿(左京)は増上慢となっていく。

 追放された河野瀬兵衛は、自分は忠を果たしていると思っているから、この処分に我慢がならずに、仙石家の江戸詰め家臣であった神谷転という人物に自分の正義を訴えて、彼とともに幕府閣僚や仙石家の分家に訴えを起こすのである。この時の河野の訴状を海音寺潮五郎は克明に記しているが、読んでいてばかばかしくなるような内容ではある。

 老中首座であった松平康任と縁戚関係を結んでいた仙石左京は、その関係を巧みに利用して弁舌をもってこの訴えを退け、江戸南町奉行の筒井政憲に二人の捕縛を依頼する。筒井政憲としては老中の息のかかった依頼であるからこれを断りきれずに、河野を捕らえ、左京に引き渡すのである。河野瀬兵衛は、このとき天領であった生野銀山に逃げ込み、本来なら天領での捕縛は幕府勘定奉行の許諾が必要なのだが、左京はその違法行為を行うのである。老中首座の松平康任がなんとかするだろうという奢りがここでも顔を出すのである。左京は河野の処断を急いで、河野瀬兵衛に切腹させる。天保6年(1835年)のことである。ところが、神谷転は捕縛される前に虚無僧に身を変えており、虚無僧は町奉行の管轄下にはなく、仙石家に引き渡されることなく慰留されたのである。

 ここで、神谷転が帰属していた虚無僧寺の普化宗一月寺が、僧は寺社奉行の管轄に属し、しかもその独立性が幕府によって認められているから町奉行所で彼を捕らえることはできないはずだから、即刻釈放するように要求するのである。当時の虚無僧は、武士が一時身を変えるためのものでもあり、武家社会を支えるものとして認められていると主張した。そして、それを神谷転が所持していた河野瀬兵衛の訴状とともに寺社奉行に訴え出たのである。この時の一月寺の役僧であった愛璿(あいせん)という人の文章はなかなかのものである。

 この時の幕閣内でも、松平康任に対抗するものとして水野忠邦が権力掌握を狙っており、松平康任が絡んでいるこの騒動を取り上げて、将軍家斉に言上し、徹底的に調べるのである。これを調べたのは、後の日米修好通商条約などでも活躍した川路聖謨(かわじ としあきら)である。そして、江戸幕府は、仙石左京に罪有りとして、彼を獄門とし、息子の小太郎を遠島とした。そのほかも死罪で、藩主の久利も「家政不取締り」として、5万8千石の所領を3万石に減じられた。老中松平康任も罷免されている。

 海音寺潮五郎は、この騒動は、幼君の下で家臣の勢力争いが引き起こしたものだが、この騒動は極めて愚かな騒動だったと断じている。「井の中の蛙」的に、傲慢になり、時代や社会をよく読むことなく、訴訟を起こし、その結果、お互いに切腹させられ、しかも減封された結果しか産まなかった。

 出石藩仙石家では、この騒動のあとも、実は幕末期にもう一度お家騒動が起こっている。これについては、本作では触れられないが、何とも人材不足の結果としか言い様がないものである。ちなみに、第7代藩主の仙石久利は、幕府への反発もあり、尊皇派となって、戊辰戦争で新政府に恭順し、明治2年(1869年)には出石藩知事に任じられたが、翌年、家督を養子の政固に譲って隠居している。明治30年(1897年)に、享年78で死去。

 海音寺潮五郎『列藩騒動録』については、また、機会を見て書き記したいと思っている。

2013年2月7日木曜日

高橋克彦『鬼』


 昨日、気象予報士が大雪の予報を出していたが、ここでは、今朝は薄らとした雪化粧で、やがて雨に変わっていった。冬の入口では雨が雪に変わるが、春の入口では雪が雨に変わる。今日は一転して少し寒さが和らいだ日になっている。熊本のSさんから庭のチューリップが芽を出したとの便りを頂いたし、湯島天神の早梅も咲いたという。あと数回寒い日が訪れて、やがて春になるだろう。

 昨夜、平安期の陰陽師たちを描いた高橋克彦『鬼』(1996年 角川春樹事務所)を読んでいた。陰陽師の中では、何といっても阿部晴明(あべのせいめい 9211005年)が著名であるが、本書では彼の師であった賀茂忠行(生没不詳)やその子の賀茂保憲(やすのり 917977年)についても記してあり、これらの陰陽師については主として「今昔物語集」に記されているものである。

 陰陽師とは、古代中国で生まれた自然哲学や陰陽五行説に起源をもつ陰陽道に携わる者で、万物は陰と陽の二気から生じるとする「陰陽思想」と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるという「五行思想」が組み合わされて、自然界におけるその変化をよく観察して災厄などを判断し、人間の吉凶を占う実用的なものとして日本で発達したものである。それに、占星術や天文学の知識、道教や仏教、また神道などからも様々な事柄が取り入れられている。

 陰陽五行説は古代中国の夏の時代(紀元前2000年頃)ぐらいから始まって、周の時代(紀元前1000年頃から紀元前256年)にほぼ完成していたと言われ、天文学や暦学、易、時間の概念などと合わせて飛鳥時代(592710年)に日本に伝えられ、それらが自然の災厄や吉凶判断の技術として用いられてきたのが陰陽道で、当初は渡来人の僧侶によって行われていたが、やがて朝廷への奉仕を目的として(つまり政治を占うものとして)、7世紀頃から陰陽師という者が現れてきたのである。

 平安時代の律令制が敷かれた7世紀後半から8世紀前半では、朝廷の政治組織として陰陽寮というものが組織化されて、天文の観察や暦の作成、吉凶の判断などが行われた。その頃には、道教の呪術や密教の呪法、占星術なども取り入れられ、やがて10世紀にはこれらを極めた賀茂忠行・保憲親子が登場してほぼ完成し、その弟子であった阿部晴明が卓越した才能を示し、宮廷社会から絶大な信頼を得ていた。

 こうした陰陽道の思想や技術は、今日では、一見すれば非実用的で非科学的な古臭いものに見えるが、当時の自然科学であり、観察眼の鋭さは相当のものがあったのである。陰陽師は、いわば、自然科学者であったのである。

 加えて、794年(延暦13年)に桓武天皇が都を平安京(京都)に移してから始まる平安時代は、日本史の中では古代から中世に至る過渡期のようなもので、奈良時代に制定された律令制度がほころびを見せると同時に、世襲による家職化が進んで、特定の摂関家による摂関政治が行われ、権門による独占や軍事帰属の台頭などで比較的どろどろした政争が展開した時代でもあった。こういう時代の中で、呪詛を行い、未来の吉凶を行う陰陽師は大きな力と影響力をもっていたのである。

 一般の社会風習としても魑魅魍魎が信じられ、これらの魑魅魍魎の力を呪術によって封じるとされた陰陽師は神秘的な存在として認められていたのである。特に、賀茂忠行や賀茂保憲、そして阿部晴明が活躍した10世紀は、右大臣まで務めた学識豊かな菅原道真が左大臣であった藤原時平に讒訴されて太宰府に流され、903年に悲憤のうちに死に、その後で天変地異が多発し、災厄が多く発生したことから、朝廷はこれを菅原道真の怨霊による祟りと恐れていた時代であった。

 まず、政敵の藤原時平が39歳の若さで病死し(909年)、時平の甥で醍醐天皇の皇子の保明親王、その息子の慶頼王が次々と病死し、930年には清涼殿が落雷を受けて多数の死傷者が出て、それを目撃した醍醐天皇も体調を壊して、まもなく崩御した。それらはすべて菅原道真の怨霊と結びつけられ、火雷天神と結びつけられ、朝廷は京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを沈めようとしたのである。道真を神と祭り上げることによって慰霊を図ったのである。道真を天神様とする天神信仰は全国に広まった。

 こうした時代背景の中で、賀茂忠行は、道教の呪術に加え、密教などの呪術信仰を巧みに取り入れて、陰陽道を天文観測や暦の技術中心であったものから宗教的・呪術的なものに変えることに成功して、朝廷や貴族の中で影響力を獲得していったのである。その子の保憲も視鬼(見鬼・・鬼を見る能力)に長けていたと言われ、特に暦の制定には大きな力を発揮したと言われる。その弟子であった阿部清明はさらに卓越した能力を持ち、その事跡は神秘化されていった。

 本書は、こうした陰陽師の姿を、「髑髏鬼」、「絞鬼」、「夜光鬼」、「魅鬼」、「視鬼」といったそれぞれの「鬼」との対決として、賀茂忠行の師にあたる陰陽寮の滋丘川人(しげおかかわひと)や弓削是雄(ゆげこれお)が活躍した866年から初めて、賀茂忠行、賀茂保憲、そして、阿部晴明で終わるように編まれた短編連作集である。しかも、単なる「鬼」との対決のファンタジーではなく、その裏に潜んだ出世欲や政争の出来事としてこれを取り扱っている。「鬼」は、もちろん魑魅魍魎的な存在ではあるが、人の力を越えるほどの力を持つ「恐ろしいもの」の代名詞でもある。「鬼」の解釈には種々あるが、「鬼」の存在が長く信じられ、また語られてきたことは事実である。

 そして、作者は、「恐ろしいもの」として信じられてきた「鬼」というものや怨念、祟りといったことがらを利用して、敵対する者を排除しようとしたり、自分の地位を向上させようとしたりすることに対して、陰陽師としての闘いを繰り広げる姿として、これらの人を描きだしていくのである。「鬼」は人の心の中に住むものである。

 「人を呪う」という精神は、極めて下劣な精神である。その下劣さに陰陽師たちがはるかに高い精神をもって立ち向かうというのが本書の主眼だろうと思う。内容そのものやいくつかのエピソードは「今昔物語集」から取られており、作者がそれを駆使して作品を書いたことがよくわかる作品だった。

2013年2月4日月曜日

風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』


 如月の声を聞き、昨日は節分で、季節の分かれ目だった。この2~3日は春を思わせる天気が続いたが、水曜日は雪の予報も出ているし、春はまだ遠くにいる。こういう季節は、人がどこか精神のバランスを失いやすいのだが、本来的に脳天気であることが一番いいと思ったりする。春風駘蕩が一番平和である。

 そんな中で、風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』(2012年 朝日新聞出版)を気楽に読んだ。これはシリーズ名にあるとおり、落語を題材にして一話形式でまとめたものである。

 「落語」は、文字通り「落とし噺」で、最後の「落とし(オチ)」が機知に富んだものほど滑稽感があり、その機知も世の中や人間の真実を突いているものほど妙味がある。「落語」は、本来、「話芸」であるから、語り口調や間の取り方に絶妙さがあるのだが、これを文字として読むための工夫が本書ではいくつかされていたりする。

 まだ学生の頃、五代目柳家小さんが好きで、新宿の末廣亭によく通ったことがある。言葉の間の取り方が絶妙で、名人芸だった。後に永谷園の「お茶漬け海苔」のテレビコマーシャルにでられたとき、そのコマーシャルが放映されるのを楽しみにしていたりした。

 表題となっている「痩せ神さま」は、本書の「第一席(寄席と同じようにそう記されている)」に収められている作品で、太った大店の女将さん二人が、なんとか痩せたいと思って評判の「痩せ神さま」を拝む話で、「痩せ神さま」が、実は貧乏神で、一人は商売が傾いて痩せ、もう一人のたまご屋の女将は、同じように商売が傾くのだが売れ残った玉子や鶏肉を食べ過ぎて、反対にぶくぶくと太ってしまうという話である。

 この話の「オチ」は今ひとつのところがあるような気がしたが、第二席の「質入れ」は見事な「オチ」が仕掛けられている。

 話の筋は、堂城幸四郎(どうしろこうしろ)という売れない戯作者が、貧がつまってどうにもならなくなり、自分の女房を質入れするというものである。彼の女房は、羽子板の裏絵かきの仕事をして糊口をしのいでいたが、彼がその羽子板の親方を猫に仕立てて戯作を書いたことがばれ、親方が怒って仕事を辞めさせたのである。彼としては、自分が書いた戯作をなんとか売り込むからということで女房を三日間質入するのである。

 ところが、彼の戯作は売れず、女房を請け出すことができない。そうしている時に、羽子板の親方がやってきて、大きな仕事が入ったからもう一度裏絵を書いてくれと女房に頼みに来る。女房は喜んで引き受けるが、仕事ができるまでの金がない。どうしようかと思っている時に、話を聞いていた質屋が、「そりゃあ、かんたんだな。なあ、お亀さん?」お亀も笑ってうなずくと、「はい、うちの人を入れときます」

 となるのである。こういう楽天性が落語のおもしろさで、思わず「ハハ」と笑ってしまう。

 本書には、そのほか、「第三席 牛の医者」、「第四席 忠犬蔵」、「第五席 やみなべ」、「第六席 すっぽん」、「第七席 人喰い村」、「第八席 永代橋」、「第九席 長崎屋」、「第十席 ちゃらけ寿司」、と十話が収められている。ただ、「第三席」以降で機知に富んだ鋭い「オチ」はあまり見受けられず、「第八席 永代橋」は、むしろ、どうしようもない男に惚れてしまう女の悲しさのようなものを感じるものだった。

 ただ、落語の良さは、庶民の暮らしに根づきながら、その楽天性を遺憾なく発揮して機知を働かせるところにあるし、人間のおおらかさがあり、それが全体を包むところにある。その意味で、落語は言葉遊びやショートコントとは本質的に異なるものである。

 20世紀のマクルーハンという社会哲学者が、現代文化が聴覚文化から視覚文化に変わったと指摘し、現代では、それが単に視覚だけでなく、聴覚と視覚が統合された動画に変わってきて、人間の感性も徐々に変わってきているが、「語り」としての落語が醸し出すおおらかさや楽天性、機知は「人の生のあり方として」大事にされるべきだろうと思う。

2013年1月31日木曜日

葉室麟『冬姫』


 昨日から、ほんの少し寒さが和らいでいる。もちろん、ここ数日だけの話ではあるだろうが、ありがたく感じる。

 織田信長の次女(といわれ)、戦国武将の一人であった蒲生氏郷の正室であった「冬姫」の姿を描いた葉室麟『冬姫』(2011年 集英社)を、作者にしては珍しくあっさり書いた作品だと思いながら読んだ。戦国期の入り組んだ人間関係の歴史が追われるので、本来なら大作になるところをこれだけにまとめるために、作者の美しい文章が影を潜めたのかな、とも思う。

 「冬姫」は、出生や幼少期のことがほとんどわからず、彼女の生母についてもわからないが、織田信長の次女である。しかし、本書では、織田信長と正室であった濃姫(帰蝶 きちょう)の間に唯一生まれた娘とされている。そうだとすれば長女になる。いずれにしろ、信長の娘であったことに変わりはない。

織田信長の正室であった(信長もたくさんの側室をもった)「濃姫」は、美濃の斎藤道三の娘で、この女性についても歴史資料が少なく諸説がある。ただ、信長と「濃姫」の結婚は、もちろん政略結婚だが、信長が「濃姫」を大切にしたのは事実だろう。功罪を明確にしたために鬼神のように恐れられた織田信長だが、彼は、女性には比較的優しい人物だっただろうと思う。秀吉が信長の家臣として活躍していた頃に浮気をしたことを秀吉の妻「ねね(本書ではおね、そうとも呼ばれていた可能性がある)」が信長に訴え、信長が「ねね」の味方をして秀吉を叱ったという記録がある(このあたりも本書で取り込まれている)。

 「冬姫」について歴史的にはっきりわかっていることは、彼女が信長の子として近江の蒲生氏郷の正室であったということで、氏郷の父親の蒲生賢秀は近江国蒲生郡日野(中野)城主として、当時、近江南部を支配していた六角氏に仕えていたが、信長が足利義昭を将軍として伴って上洛した際に、信長の軍門に下り、その証しの人質として息子の氏郷(幼名鶴千代、後に忠三郎賦秀 ますひで)を差し出し、信長は氏郷の人物と才能を見抜いて娘の「冬姫」を嫁がせたのである。この時、氏郷(鶴千代)14歳、「冬姫」12歳であった。

 本書では、このあたりで、信長の後継者を狙う側室の「お鍋の方」の陰湿な「冬姫殺害計画」を展開し、「冬姫」の凛とした対応や彼女を慕う「もず」(男であるが女として生きる性同一性者の忍)や巨体で剛力の鯰江又蔵という人物(もちろん、これらは作者の創作だろう)の助けで「お鍋の方」の策略をくだいたり、徳川家康の長男であった徳川信康に嫁いだ姉の「五徳」を巡る家康の正室「築山殿(瀬名)」の確執を打ち砕いたりして、いわゆる「女の戦い(女いくさ)」を展開し、「冬姫」の真っ直ぐで毅然とした姿を描き出している。

 ただ、ここで幻や夢、あるいは幻惑や忍びの術といった、いわばエンターテイメント性をもったことが神秘性を描くものとして取り入れられているが、別の角度から、作者の他の作品で描かれたような、むしろ信頼の中で希望を失わずに忍耐していく姿や真直ぐに凛として生きる「冬姫」の姿が、人間を掘り下げたものとして描かれても良かったような気がする。

 ともあれ、蒲生氏郷は武勇にも優れて、数々の戦で功を挙げており、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去した時には、信長の妻子を保護して、明智光秀に対抗した。近江近郊の豪族たちの大半は明智光秀になびき、蒲生氏郷にも光秀からの誘いがくるが、氏郷はこれをきっぱり拒絶した。この時点で、天下の動向は不明で、蒲生氏郷は孤立の恐れもあったのだから、この拒絶は命懸けでもあったのである。

このあたりのことを、作者は、「いかにも、この城に冬殿がおられる限り、明智に降ることはありませぬ」と微笑を浮かべて言い切った(199ページ)と描く。信長の娘である「冬姫」のために、その父である信長を殺した光秀には与しないと言うのである。

こういう、愛する者のために孤立を恐れずに自分の道を進んでいく姿は、葉室麟が諸作品の中で最も描きたい姿でもあるだろう。蒲生氏郷という人は、おそらく実際、そうした武将の一人で、やがて彼の日野城は明智軍の大軍に取り囲まれるが、彼はびくともしなかったのである。幸い、光秀が直接に日野城を責める前に、秀吉が毛利攻めから疾風怒濤の勢いで取って返して、光秀は秀吉と戦わざるを得なくなったために、日野城が戦火に包まれることはなかった。そして、氏郷は、その後、秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ケ島12万石を与えている。氏郷はこの伊勢松ケ島をよく整えたと言われる。

また、彼は、高山右近らの影響でキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名であった。家臣や諸大名の人望は厚かったと言われるし、また、茶道にも造詣が深く、「利休七哲」の筆頭でもあった。

 キリシタンとの関連で言えば、本書では、信長の安土城が焼け落ちた謎や細川ガラシャ(玉子)と「冬姫」の邂逅として描き出しており、「冬姫」は、秀吉がキリシタン禁止令を出す中で、父の信長がキリスト教を庇護したように、夫の氏郷がキリシタンとなったことを認めていく決意をしたというふうに描いている。細川忠興の妻であった細川ガラシャは明智光秀の娘であり、「冬姫」にとっては父の敵の娘なのであるが、「恨みで報いられることは何一つない」ということに徹し、「冬姫」はガラシャ夫人が抱いていた悲しみに共感していくのである。このことが、実は本書の主題だろうと思っているが、それについては後述する。

 氏郷と「冬姫」の夫婦仲はよく、二人は深い信頼で結ばれていたと言われ、天正11年(1583年)に「秀行」が生まれている。やがて、氏郷は秀吉の小田原城攻めに参戦し、奥州の要として会津42万石(後に92万石)を与えられて、会津に移った。ちなみに、会津若松の「若松」という名は、蒲生氏郷がつけた名前で、彼はここに若松城を築いて城下を整備したのである。この間に「冬姫」は、後に前田利政の側室となる娘や次男の氏俊を生んでいる。

 会津若松で氏郷が「冬姫」とともに天守閣から城下を眺めながら、「わしはキリシタンゆえ、領主が自ら正しき道を歩めば、国はおのずから栄えるものであることを神の教えによって学んだ。ひとを怨まず、憎まず、互を思い遣って生きていける国をこの地に築きたいのだ」と言うくだりが記されているが(318ページ)、これはもちろん、作者の創作であろうが、尊敬に値する人間としての蒲生氏郷とそれに寄り添い夫を助ける「冬姫」の姿が直截に描き出されているのである。

 秀吉は、信長が認めた蒲生氏郷を恐れていたとも言われているが、秀吉が起こした朝鮮出兵の「文禄の役(壬辰倭乱)」の時、この戦に参戦するために肥前名護屋にいた蒲生氏郷は体調を崩し、文禄4年(1595年)大腸癌(直腸癌か膵臓癌)で死去した。享年40の若さであった。この蒲生氏郷の死には、秀吉か石田三成による毒殺説もある。

 氏郷は、いわば信長の娘婿であり、主筋に当たるので、秀吉にとっては煙たい存在であったことに変わりはなく、権力集中を図る秀吉にとっては織田家の影響を一掃するのが大きな課題であったことは間違いない。

 作者は、秀吉の朝鮮出兵を諌めた氏郷を秀吉も快く思っていなかったし、何よりも「淀(茶々 お市の娘)」が、「冬姫」と蒲生家への激しい嫉妬によって、石田三成を使って氏郷へ度々毒をもった出来事であったとしている。「淀」は伊達政宗を使って蒲生氏郷を罠にはめようとしたという展開までする。「淀」は、織田信長の妹で絶世の美女であった「お市」の娘であったが、父を殺され、母を殺され、意に沿わぬ秀吉の愛妾となり、気位の高さだけが生きがいのような女性で、「怨みの生涯」であったとも言えるからである。

 彼女は血筋の上からではとうていかなわない「冬姫」に対して敵愾心を抱き続けており、氏郷亡き後の蒲生家に対しても、陰湿な仕打ちをしている。そのために氏郷の後を秀行(この時点での名は秀隆)が継ぐときも嫌がらせをし、また、その後も石田三成を使って領地を召し上げ下野国宇都宮12万石に転封させている。そして、さらに「冬姫」の蒲生家を取り潰そうと画策している。

 この大幅な減封には、「冬姫」の美貌と信長の娘であるということで、まだ34歳だった「冬姫」を美女好きの秀吉が側室にしようとしたが、「冬姫」にきっぱりと拒絶され、秀吉がそれに激怒したためであるとの説もある。秀吉は若い頃から信長の妹で美女の「お市」に思慕を寄せており、「お市」の娘の「淀」を側室にしたのもそのためだったと言われるが、「冬姫」に対しても異様な執着心をもっていた。

 その説が事実かどうかは別にして、蒲生家の減封を実際に巧みに工作したのは石田三成であることは事実であろう。蒲生家の勢力を削減することを彼のような人間は考えるものである。

 しかし、秀行は豊臣秀吉の命によって徳川家康の娘「振姫」を妻とし、そのことと、「淀」と石田三成の仕掛けた罠との戦いのために、家康と盟を結び、それが関ヶ原後の蒲生家の命運につながった。蒲生家は関が原後、60万石の大大名として会津に復帰した。だが、秀行は30歳の若さで亡くなり、その後を継いだその子の忠郷や忠知(忠郷の弟)も若くして亡くなり、嗣子がなかったために寛永11年(1634年)に廃絶された。「冬姫」はこの行末を見届け、寛永18年(1641年)、81歳で亡くなった。

 本書は、「織田信長の娘として戦国の世を彩どって生きた、紅い流星のような生涯だった」と結ぶ(357ページ)。

 本書は、「冬姫」の「女いくさ」が、数々の恨みや妬みで生きる者と真っ直ぐに生きる者との戦いであったことを語るものである。恨みや妬み、あるいは私欲が嵐のように吹きすさぶ戦国の世で、ただ前をまっすぐに見て、愛する者を愛し、大切にする者を大切にして生きた女性として「冬姫」を描くのである。慶長3年(1598年)の醍醐寺での花見の席での「淀」と「冬姫」の対峙を描いたくだりは圧巻で、本書の主題をよく表している。

 あまり知られていない織田信長の娘で、蒲生氏郷の妻であった「冬姫」という存在に焦点をあてる作者の眼力もさることながら、それを「女いくさ」としてまとめるあたりも慧眼に値すると言えるだろう。わたしとしては、神秘性などなくてもよくて、もう少しまっすぐ描いてもよいのではないかと思うところもあるが、描かれた姿には感動する。

2013年1月28日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(6) 黒田騒動(2)


 朝目覚めたら、一面白く積雪して雪景色が広がっていた。やがて、陽が高くなるにつれて、溶けていったが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という名文のように、目覚めたら別世界が広がっているというのは、なかなか味がある。仕事を始めると、変わらずに昨日の課題が押し寄せてくるにせよである。窓を開けて、しばらく陽光にキラキラ輝く雪景色を眺めていた。

さて、海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「黒田騒動」の続きであるが、藩主の黒田忠之の怒りが頂点に達したことを察知した栗山大膳は、剃髪して妻子を人質に差し出しつつも、ここで一計を案じる。その翌日の寛永9年(1631年)6月15日、栗山家から密かに飛脚のような者が出てきて、これが監視していた藩の目付に見つかり、大膳が九州全体の探題のような役割をしていた豊後府内の竹中采女正重義(黒田官兵衛とともに智将と歌われた竹中半兵衛重治の縁戚筋にあたるが、長崎奉行の時に、島原の乱では過酷なキリシタン弾圧を行った)に宛てた訴状が見つかるのである。

 その訴状には、黒田忠之が幕府に対して謀反を図り、これを諌言した自分を成敗しようとしているということ、しかも用心のためにもう一人の飛脚を仕立てたと記されていたのである。忠之が幕府に謀反を企んでいるというのは、軍船の建造や足軽の新規召し抱えなど幕府から叱責を買うことはあっても、真っ赤な嘘であった。それらは、武を好んだ忠之の我儘な道楽のようなものだったのである。

 これは、栗山大膳がわざと飛脚が見つかるように仕立て、そうすることで、忠之が、もし大膳を処罰すれば幕府の黒田忠之に対する疑惑が深まるので、大膳を処罰して幕府の嫌疑を受けることがないようにした出来事だと言われる。海音寺潮五郎もその説をとるし、森鴎外『栗山大膳』でもその説が採られている。

 同年に肥後の加藤家がつまらないことで取り潰されているので、幕府にもよく知られていた栗山家と藩主の黒田忠之との間の齟齬が、ついに大騒動にまで発展してしまったので、このままでは栗山大膳も滅びるが黒田家も滅びてしまうことを案じての工夫だったというわけである。肥後の加藤家の取り潰しについては山本周五郎が面白い小説を書いていた。

 しかし、藩内では、そうした深慮を知る訳もなく、藩主と首席家老という立場にありながらも、主従を無視したような大膳の姿に激怒する者が多数あり、先手を打って竹中采女正重義に使いを立てて、取り調べを依頼した。竹中采女正は福岡に来て取り調べをし、大膳は福岡を立ち退いた。ただ、この立ち退く際に、大膳は鉄砲に弾を込め、槍を立てて、戦闘準備の格好で立ち退いている。

 やがて、江戸幕府から黒田忠之に召喚が来る。忠之もまた、参府すれば自分が処罰されることを覚悟していたという。その頃の江戸幕府の対処の仕方は、それが普通だったのである。幕府の詮議が始まり、さすがに黒田忠之の弁明も闊達で、その年は事なきを得たのだが、翌寛永10年(1632年)、豊後の竹中采女正のところに退いていた栗山大膳が、采女正に連れられて江戸に出てきて、三十数ヶ条に及ぶ訴状を正式に幕府に提出した。

 これによって、忠之は三度も幕府に呼び出されて尋問を受けた。幕府がもっとも気にしたのは大膳の訴状の中の幕府への謀反の疑いであったが、忠之は堂々と悪びれもせずに見事な答弁を行っている。他方、栗山大膳の方は、幕府老中土井大炊頭利勝の屋敷に呼び出され、幕閣が揃う中で尋問を受けている。この時、彼を尋問したのは大目付であった柳生宗矩である。そして、大膳の訴状にあったことは、同席した福岡藩の重臣や老臣からことごとく反論され、家康が長政に下した感状についても申し述べられ、大膳の訴状が根拠のないものであることが明白にされた。

 しかし、その翌日、井伊家に呼び出された大膳に大目付の柳生宗矩が、「なぜ、このような無根のことを訴えたか」と尋ねたとき、大膳は、これらが黒田家滅亡を防ぐための手段であったと語るのである。すべては黒田忠之の素行を改めるためであると言う。傲慢といえば傲慢だが、栗山大膳にはそういうところがあったのである。

 結局、黒田家は領地を召し上げるが、家康の感状がものを言って、その日のうちに福岡藩はそのまま黒田家に新規に下されるという、真に知恵ある処罰が忠之に下され、栗山大膳には南部山城守(青森)預かりで、150人扶持が与えられ、居所周辺三里以内の自由行動が認められるという裁定が下りる。

 この裁定の後に、もし忠之に処罰がくだされるような判決がでたら、どうするのかと大膳に尋ねたところ、大膳は、その場合には家老一同遁世するつもりであったと答えたという。つまり、大膳は自らを斬って藩主と藩政をあらためさせることが目的で、それがかなわなければ一緒に滅ぶ覚悟であったというのである。大膳は福岡を出るときに、長政に与えられた家康の感状を家来に預け、もし、黒田家が取り潰されるようなことになったら、この感状を差し出して、黒田家を救うように言い含めていたと言われている。だから、この大膳の主張は極めて正当性が高い。

 その後、黒田忠之は寵愛によって家老に取り立てていた倉八十太夫を辞めさせ、やがては思慮深い君主とまで言われるようになっていく。南部藩に預けられた栗山大膳は盛岡で優待され、62歳までの18年間を、風格を持したまま堂々と暮らしている。

 こうして一連の黒田騒動は幕を閉じるのだが、策略を設けてことを運ぶような人間には、どこか傲慢さがあって、「武」が「策」であった戦国時代の名残の中で、傲慢さと傲慢さがぶつかり、この騒動が起こったという気がしないでもない。栗山大膳は、なかなかの人物だったのかもしれないが、彼の問題は、彼が人を信用しなかったというところにあるのかもしれないと思ったりする。どんなに知恵があっても、「策」を好ましいものとは思わないわたしにとって、栗山大膳には疑問を感じるし、「素行」などというつまらない倫理観をもった結果であるような気がする。しかし、黒田騒動はどこにも悪者がいない政治的な騒動であった。それは紛れもない事実である。

 本書には、その他、加賀騒動、秋田騒動、越前騒動、越後騒動が記され、下巻には、仙石騒動、生駒騒動、楡山騒動、宇都宮騒動、阿波騒動が記されているが、図書館の返却日があって、それらの騒動について記している時間がなくなってしまった。それらの記述は、また、時を改めて記したいと思うが、ともあれ、極めて面白く読めた。大まかな騒動の実態を知った上で読むには最適だろうと思う。