2013年1月28日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(6) 黒田騒動(2)


 朝目覚めたら、一面白く積雪して雪景色が広がっていた。やがて、陽が高くなるにつれて、溶けていったが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という名文のように、目覚めたら別世界が広がっているというのは、なかなか味がある。仕事を始めると、変わらずに昨日の課題が押し寄せてくるにせよである。窓を開けて、しばらく陽光にキラキラ輝く雪景色を眺めていた。

さて、海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「黒田騒動」の続きであるが、藩主の黒田忠之の怒りが頂点に達したことを察知した栗山大膳は、剃髪して妻子を人質に差し出しつつも、ここで一計を案じる。その翌日の寛永9年(1631年)6月15日、栗山家から密かに飛脚のような者が出てきて、これが監視していた藩の目付に見つかり、大膳が九州全体の探題のような役割をしていた豊後府内の竹中采女正重義(黒田官兵衛とともに智将と歌われた竹中半兵衛重治の縁戚筋にあたるが、長崎奉行の時に、島原の乱では過酷なキリシタン弾圧を行った)に宛てた訴状が見つかるのである。

 その訴状には、黒田忠之が幕府に対して謀反を図り、これを諌言した自分を成敗しようとしているということ、しかも用心のためにもう一人の飛脚を仕立てたと記されていたのである。忠之が幕府に謀反を企んでいるというのは、軍船の建造や足軽の新規召し抱えなど幕府から叱責を買うことはあっても、真っ赤な嘘であった。それらは、武を好んだ忠之の我儘な道楽のようなものだったのである。

 これは、栗山大膳がわざと飛脚が見つかるように仕立て、そうすることで、忠之が、もし大膳を処罰すれば幕府の黒田忠之に対する疑惑が深まるので、大膳を処罰して幕府の嫌疑を受けることがないようにした出来事だと言われる。海音寺潮五郎もその説をとるし、森鴎外『栗山大膳』でもその説が採られている。

 同年に肥後の加藤家がつまらないことで取り潰されているので、幕府にもよく知られていた栗山家と藩主の黒田忠之との間の齟齬が、ついに大騒動にまで発展してしまったので、このままでは栗山大膳も滅びるが黒田家も滅びてしまうことを案じての工夫だったというわけである。肥後の加藤家の取り潰しについては山本周五郎が面白い小説を書いていた。

 しかし、藩内では、そうした深慮を知る訳もなく、藩主と首席家老という立場にありながらも、主従を無視したような大膳の姿に激怒する者が多数あり、先手を打って竹中采女正重義に使いを立てて、取り調べを依頼した。竹中采女正は福岡に来て取り調べをし、大膳は福岡を立ち退いた。ただ、この立ち退く際に、大膳は鉄砲に弾を込め、槍を立てて、戦闘準備の格好で立ち退いている。

 やがて、江戸幕府から黒田忠之に召喚が来る。忠之もまた、参府すれば自分が処罰されることを覚悟していたという。その頃の江戸幕府の対処の仕方は、それが普通だったのである。幕府の詮議が始まり、さすがに黒田忠之の弁明も闊達で、その年は事なきを得たのだが、翌寛永10年(1632年)、豊後の竹中采女正のところに退いていた栗山大膳が、采女正に連れられて江戸に出てきて、三十数ヶ条に及ぶ訴状を正式に幕府に提出した。

 これによって、忠之は三度も幕府に呼び出されて尋問を受けた。幕府がもっとも気にしたのは大膳の訴状の中の幕府への謀反の疑いであったが、忠之は堂々と悪びれもせずに見事な答弁を行っている。他方、栗山大膳の方は、幕府老中土井大炊頭利勝の屋敷に呼び出され、幕閣が揃う中で尋問を受けている。この時、彼を尋問したのは大目付であった柳生宗矩である。そして、大膳の訴状にあったことは、同席した福岡藩の重臣や老臣からことごとく反論され、家康が長政に下した感状についても申し述べられ、大膳の訴状が根拠のないものであることが明白にされた。

 しかし、その翌日、井伊家に呼び出された大膳に大目付の柳生宗矩が、「なぜ、このような無根のことを訴えたか」と尋ねたとき、大膳は、これらが黒田家滅亡を防ぐための手段であったと語るのである。すべては黒田忠之の素行を改めるためであると言う。傲慢といえば傲慢だが、栗山大膳にはそういうところがあったのである。

 結局、黒田家は領地を召し上げるが、家康の感状がものを言って、その日のうちに福岡藩はそのまま黒田家に新規に下されるという、真に知恵ある処罰が忠之に下され、栗山大膳には南部山城守(青森)預かりで、150人扶持が与えられ、居所周辺三里以内の自由行動が認められるという裁定が下りる。

 この裁定の後に、もし忠之に処罰がくだされるような判決がでたら、どうするのかと大膳に尋ねたところ、大膳は、その場合には家老一同遁世するつもりであったと答えたという。つまり、大膳は自らを斬って藩主と藩政をあらためさせることが目的で、それがかなわなければ一緒に滅ぶ覚悟であったというのである。大膳は福岡を出るときに、長政に与えられた家康の感状を家来に預け、もし、黒田家が取り潰されるようなことになったら、この感状を差し出して、黒田家を救うように言い含めていたと言われている。だから、この大膳の主張は極めて正当性が高い。

 その後、黒田忠之は寵愛によって家老に取り立てていた倉八十太夫を辞めさせ、やがては思慮深い君主とまで言われるようになっていく。南部藩に預けられた栗山大膳は盛岡で優待され、62歳までの18年間を、風格を持したまま堂々と暮らしている。

 こうして一連の黒田騒動は幕を閉じるのだが、策略を設けてことを運ぶような人間には、どこか傲慢さがあって、「武」が「策」であった戦国時代の名残の中で、傲慢さと傲慢さがぶつかり、この騒動が起こったという気がしないでもない。栗山大膳は、なかなかの人物だったのかもしれないが、彼の問題は、彼が人を信用しなかったというところにあるのかもしれないと思ったりする。どんなに知恵があっても、「策」を好ましいものとは思わないわたしにとって、栗山大膳には疑問を感じるし、「素行」などというつまらない倫理観をもった結果であるような気がする。しかし、黒田騒動はどこにも悪者がいない政治的な騒動であった。それは紛れもない事実である。

 本書には、その他、加賀騒動、秋田騒動、越前騒動、越後騒動が記され、下巻には、仙石騒動、生駒騒動、楡山騒動、宇都宮騒動、阿波騒動が記されているが、図書館の返却日があって、それらの騒動について記している時間がなくなってしまった。それらの記述は、また、時を改めて記したいと思うが、ともあれ、極めて面白く読めた。大まかな騒動の実態を知った上で読むには最適だろうと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿