冬晴れの空が広がっているが、ときおり窓を揺するほどの強い北風が吹いている。この時期はしなければならないことが山積みしていくのだが、寒さを理由になかなか手をつけないでいる。それでも日々が過ぎていくのだから、気楽といえば気楽である。
海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「黒田騒動」であるが、江戸時代三大お家騒動の一つである「黒田騒動」について書き出すにあたって、海音寺潮五郎は家柄家老と仕置家老の区別から始める。家柄家老というのは、藩が成立するときに最も功のあった人物の家から出てくる家老で、譜代を代表する家から世襲として出てくるものである。世襲だから、優れた人物もあれば愚鈍な人物もあるが、ともかく藩の重臣として重きを置かれる。仕置家老というのは、時の藩主が藩政を行いやすいように取り立てて家老にしたものである。従って、かなりの能力を持つ者が多い。そして、どこの藩でも、大なり小なり家柄家老と藩主や仕置家老の勢力争いのようなものは起こっている。
福岡藩黒田家の場合、初期の段階でこうした対立が起こって、それが藩の存亡をかけたものにまでなりそうになり、黒田家がもっていた特別な事情で決着がつけられたのであるが、この騒動もいくつかの謎を残したまま風聞が大きくなった騒動とも言える。
福岡藩黒田家は、非常に優れた軍師と謳われ、事実、稀代の傑出した人物であった黒田官兵衛高孝を祖とするものであり、黒田官兵衛高孝は、豊臣秀吉の名軍師として秀吉の天下統一に最も功績があったと同時に、秀吉や徳川家康から恐れられた人物でもあったが、関ヶ原の合戦の時は、息子の長政が徳川側について武功をあげ福岡藩52万余石を与えられて成立したものである。息子の黒田長政は石田三成を極力嫌っていたから、黒田家は反三成として家康の側についたのである。そして、関ヶ原の雌雄を決する武功をあげ、「今後は、徳川家は黒田家の子孫を決して粗略には扱わないという「感状」さえもらっていた。
黒田官兵衛は世に並ぶ者なき傑出した人物であったし、その子の長政も、父の官兵衛ほどではないが、武功に優れた人物であった。熟慮をし、決断力があり、それを断行した。ただ、長政は短気でわがままなところの強かった人物ではある。そうでなければ生き残った上にさらに武功を重ねるなどできないことであるが、黒田長政と後藤又兵衛(基次)の確執はよく知られている。その黒田長政が元和9年(1623年)に56歳で死去し、その後を長男の忠之が継いだのだが、この忠之の時代に「黒田騒動」が起こったのである。
福岡藩2代目藩主となった黒田忠之については、歴史的な評価が別れ、ある人は短期直情型の傲慢な人物だったというし、他の人は、決して暗君ではなく、豪胆な決断力を持った人物だという。おそらくどちらも当たっていて、若い頃は短気直情の傲慢さが目立ち、老齢になって経験と熟慮が重ねられていったと言えるかもしれない。忠之は、武を好んだ長政の血を引いていたのである。
この黒田家に家柄家老の栗山家があった。黒田家の重臣としての栗山家の祖となった栗山善助(利安 1551-1631年)は、極めて優れた人物で、15歳の時から黒田官兵衛に仕え、少年の頃から、温和で道理をわきまえ、自分をよく知り、沈着で、官兵衛を尊敬してやまなかった人である。
黒田官兵衛が播磨(兵庫)にいて、まだ秀吉に仕える前、キリシタン武将であった荒木村重が織田信長に反旗を翻し有岡城に立てこもったっ時、官兵衛が彼を説得するために単身で有岡城に行って1年余も地獄のような地下牢で監禁され、歩行も困難になるほど枯れ果てて死ぬばかりになった時に、官兵衛を探し出して励まし、有岡城落城の時に官兵衛を死地から救い出したのが栗山善助であった。栗山善助は武功も優れ、黒田家の先陣としての数々の功績も上げて、黒田八虎の一人と数えられるし、学問や芸術の造詣も深かった。「黒田家が今日あるは善助のおかげ」とまで言われている。官兵衛の命の恩人であり、関ヶ原の合戦の前に官兵衛の妻と長政の妻を大阪から逃げ延びさせたのも栗山善助であった。そして、その子長政にも補佐役としてよく仕えた。武人として一流の人物だったとも言えるのである。
栗山善助は、年齢を重ねるに従ってますますその人間性に深みを増し、謙遜で家中の者たちを大事にした。そして、元和3年(1617年)67歳の時に、家督を息子の大膳利章に譲って隠居した。やがて、元和9年(1623年)、徳川家光の将軍宣下の上洛に際して京へ向かう途中で黒田長政が発病し、死去して、黒田家は忠之が家督を継いだ。
この黒田家の家督相続について、忠之は幼少の頃から我儘な振る舞いが多く、長政は忠之に家督を継がせることに不安を覚えていたと言われる。長政は、一時は忠之を廃嫡にして有能な三男の長興に家督を継がせようとした(妾腹の次男甚四郎-政冬-は夭折した)。一万両を出すから商人になれ、とまで言ったという文書が残っている。しかし、その時に藩の重臣となっていた栗山大膳利章が強く反対して、結局、長政は家督を忠之に譲るのだが、それでも心配で、弟を可愛がるように遺言し、藩政は栗山大膳と長政が取り立てた小河内蔵允、黒田一成(官兵衛が有岡城に監禁された時に世話をしてくれた加藤重徳の次男で、官兵衛は重徳に感謝して彼を養子とし、長政の弟のようにして育てた。三奈木(朝倉市)に居館を構えたために三奈木黒田と称され、家老職となっていた)の三人の家老に相談して行うように、また、徳川家康からの感状があるので、万一の場合はこれをもって家の安泰を図るように遺言したのである。この時の遺言に基づいて、長興に秋月5万石、四男高政に鞍手郡東蓮寺4万石が分領された。
結局、忠之は栗山大膳によって家督を相続することができたと言えるのであるが、もともと忠之は栗山家で生まれ、その時、大膳は12歳で、いわば大兄のような存在で、そのこともあって大膳は忠之の日常生活のあれこれから、「朝は早く起きろ」といったような微細に渡って度々諫言している。しかも、漢文の素養があって、それを用いての高飛車な言い回しで、忠之は次第にそれを疎ましく思い始めていくのである。大膳は、文武に秀で、漢詩を好み、幕府の学頭であった林羅山の薫陶を受けるなどした教養人であったが、忠之は武を好み、漢文などには関心もなく、また、素行も改まらずに癇が強くて、粗暴で好き嫌いが激しく、気にいらない家臣をやたらうち叩いたりもしていた。
忠之は、後には一廉の人物になっていくが、若い頃は家臣の支持も信用もなく、島原の乱のときには、藩士たちは忠之の命令には従わずに黒田一成の命に従って戦ったと言われる。大膳は、そういう忠之に執拗なまでに換言を繰り返すのである。
忠之としては、常に大膳などの歴代の譜代の家臣に頭を抑えられているような感じで、藩政を取り仕切りたいと思っていた彼にとって大膳は目の上の瘤のような存在でしかなく、やがて、小姓として寵愛していた(男色の相手)倉八十太夫正俊という人物を側近グループの中心として仕置家老に置くのである。忠之は十太夫に加増に次ぐ加増を与え、後には9千石にまでしている。
こうして忠之は藩政を自分の側近たちで固め、三家老を重視せよとの父長政の遺言にあったようなことを無視していくようになる。秋月藩を分領した弟の長興とも強い確執があり、その仲は険悪であった。また、忠之は、当時江戸幕府が禁じていた大船の建造に着手して、寛永5年(1628年)に軍船鳳凰丸を造り、軍備の拡張を図ったりした。こういう事態に長政の意を受けた者としての栗山大膳は我慢できなくなり、一時は家老職を辞し、忠之もあっさりそれを認めたが、江戸幕府の覚えもめでたい大膳を辞めさせることができずに復職させている。しかし、家老としての仕事は一切させなかった。
寛永8年(1630年)、福岡藩の重鎮であった栗山善助(利安)が享年81で死去し、それからまもなくして、忠之は祖父官兵衛が善助に与えた合子の冑と唐皮おどしの鎧一式を大膳に返還させ、これを倉八十太夫正俊に与えたのである。大膳は怒ってこれを取り返し、福岡城内本丸の蔵に収めた。このことに対して、忠之はただ何も言わず、両者のにらみ合いのような状態が続いたのである。忠之が江戸から帰国しても大膳は病気を理由に迎にも出ないような険悪な状態だった。寛永9年(1631年)に隣藩の大藩加藤家が取り潰されている。江戸幕府は豊臣家に縁のあった大名を次々と取り潰していったのである。黒田家は、もちろん官兵衛が秀吉の名軍師であったのだから、その動向は常に監視されていたと言えるだろう。
こういう状況の中で、度々の登城の要請を否んでいた栗山大膳の態度に激怒した忠之は、彼に閉門を申しつけ、藩士に大膳の屋敷を取り囲むように命じるだけでなく、自ら押しかけようとするのである。二人の元老からそれは止められるが、大膳は要求に答えて、自ら剃髪し、人質として妻と息子を差し出すのである。通常なら、これで大膳が、自分の態度の傲慢さを詫びて、隠居するかどうかして収まるところではあるが、そうはならなかった。それが「黒田騒動」のクライマックスとなっていくのである。意地と意地の張り合い、そのようにも見受けられかねないが、実は事柄はそう簡単ではなく、そのことについては、また、次回に記すことにする。
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