冬晴れの寒い日が続く。家事をする時に孤独を感じて、「辛抱」という言葉が、ふと頭を過るが、雨風を凌ぐ場所と少しの食べ物、そして着るものがあるのだから、まあ、これほどの贅沢もあるまいと思ったりする。
そして、人の精神の営為というものは、やはり、贅沢な文化かもしれないと思いつつ、吉川英治『一領具足組』(1969年 吉川英治全集8 講談社)を読み終えた。表題で使われている「一領具足」というのは、戦国時代、土佐を中心に四国に勢力を持っていた長宗我部氏が用いた半農半兵の兵士による軍事組織で、平時には農民として田畑を耕して生活しているが、領主の召集に応えて直ちにひとそろい(一領)の具足(武器)をもって馳せ参じるというもので、1708年に長宗我部氏の歴史を描いた吉田孝世の『土佐物語』には、「生死知らずの野武士」と書かれている。
「一領具足」を考えたのは、長宗我部国親(1504-1560年)と言われているが、これを積極的に用いたのは国親の子の長宗我部元親(1539-1599年)で、彼はそれによって四国を統一するなどの目覚しい働きをした。しかし、豊臣秀吉の四国征伐で土佐一国まで所領を減らされ、さらに家督を相続していた四男の長宗我部盛親が関ヶ原の合戦で西軍についたために、合戦後、家康は所領を没収し、長宗我部家は改易された。
家康から土佐を与えられたのは山内一豊であったが、長宗我部家の遺臣たちはこれを拒否し、一領具足であった竹内惣右衛門を中心にした者たちが、長宗我部元親が居城としていた浦戸城の引渡しを拒絶し、長宗我部盛親に所領の一部を与えるように要求して篭城し、抵抗した。しかし、内部の裏切りにあって、ついに降伏に追い込まれ、約273人が斬首されたと言われる。山内家に対して一領具足はその後も度々反乱を起こした。山内家は、後にこれを「土佐郷士」として厳密に藩士と区別し、その上下の差に厳しいものを設けたのである。
本書は、関ヶ原合戦後に所領の没収となった長宗我部盛親の姿を描いたもので、なんとか彼を盛り立てて再興を図る一領具足組の家臣団や裏切り者とされていた家老、その娘と息子などを中心にしながら、盛親がやがて大阪冬の陣で大阪城に一領具足組を率いて入っていくまでの姿を描いたものである。特に、国を追われ京都で逼塞していた盛親の深謀遠慮を家老の娘の恋などとともに描き、うつけ者や呆け者として江戸幕府や世間の目を欺きながらも、事あることへと向かっていく姿が描かれている。
物語は、関ヶ原の合戦後、土佐領土没収と居城であった浦戸城の引渡しのために家康から派遣された藤堂家の井出志摩守(歴史上で井出志摩守を名乗ったのは、後に駿河の代官となった井出正次だが、彼を藤堂家の家臣とするのは疑わしく、作者の創作であろう)が浦戸城に向かい、引渡しを要求する場面から始まる。
浦戸城内の評議は二分し、潔く城地を引渡し、領地の半分でも長宗我部家に与えられるように家康に懇願しようとする穏健派と、そんなことを家康が許すはずもなく、命脈尽きるまで城を守って戦おうとする少壮派に分かれていたのである。その穏健派を代表するのが重臣の桑名与次兵衛であり、少壮派は「一領具足組」を結成してこれに対抗しようとした。
「一領具足組」は、城の引取りに来た井出志摩守に夜襲をかけようと画策するが、それを察した桑名与次兵衛は、自分の娘の「科江(しなえ)」を送って襲撃計画を知らせ、それを未然に防ごうとする。しかし、与次兵衛の息子は「一領具足組」に入り、父とは反対の方向へ進んでいくのである。「科江」は、藩主盛親の愛人であり、盛親はそうした城下のことなど気に求めずに「科江」のもとに通っていた。
「一領具足組」の襲撃は、計画が事前にもらた事があって失敗する。多くは捕らえられ、他の者たちは国外に逃げ去る。だが、彼らは藩主盛親の身を徳川側から守り、檳榔島(びんろうじま 日向灘に位置する枇榔島というのがあるが、この島は無人島で、「檳榔島」は作者の創作だろう)に匿う。
ところが、盛親にはまったく気概というものが伺えずに、その島の船元の娘である「玉虫」と恋仲となり、酒と遊びに興じた生活を繰り返すだけであった。そして、ついに藤堂家の家臣に捕縛され、京都所司代板倉勝重(伊賀守 1545-1624年)の監視下に置かれることになる。
盛親は、武将としては浅ましい限りに一命が助かったことを喜び、剃髪して、名前を祐夢と改め、彼を追ってきた「科江」の世話になりながら扇絵を描いたりしながら町家で暮らすのである。「科江」とは夫婦として生活し、武士の気概は一切失ったような暮らしぶりをして、町人からは腰抜け者、痴呆者と嘲笑われていた。桑名与次兵衛は、浦戸城明け渡しの際の振る舞いの見事さで、井出志摩守の推挙もあり、藤堂家が彼を雇い、藤堂家で重きをなすようになっていた。京都に逃げ延びていた「一領具足組」の残党たちは、奸臣として彼を襲撃する計画をする。
しかし、彼が危険人物であることを知っていた板倉重勝は、彼に監視の目をつけて動静をうかがっていた。そこに檳榔島から「玉虫」が盛親を訪ねてくる。「科江」と「玉虫」の二人の女性に挟まれて痴話喧嘩となり、盛親はオロオロするだけで、「色事師」とまで蔑まれるようになる。盛親は世話になった「科江」を平然と捨て、「玉虫」と暮らすようになる。板倉重勝もそういう盛親を見て、ついに呆れ返っていく。
だが、慶長19年の9月、方広寺大仏社殿鐘銘で豊臣家に難癖をつけた徳川家は、ついに豊臣家との戦端を発し、家康が軍を西に向けたとき、盛親はそれまでの痴呆者の姿を一変させ、「一領具足組」を率いて大阪城へ入っていくのである。これまでの痴呆ぶりは、全てこの日のための敵を欺く謀であったのである。
かくして大阪冬の陣の戦火は切られた。長宗我部盛親の武者ぶりは目を見張るものがあった。そして、難攻不落の大阪城に手を焼いた家康は大阪方に和睦を申し入れ、それが成立する。だが、巧妙な徳川側の計略で大阪城の堀は埋められ、再び大阪夏の陣が始まる。真田幸村らの名だたる優れた武将たちは敗北を覚悟の上で戦い、長宗我部盛親もその覚悟で戦陣に立つ。玉串川の混戦の中で、藤堂家の家臣となった桑名与次兵衛は、崩れる藤堂軍の中でただひとり立ち止まり、長宗我部盛親の軍と対峙して、討ち取られるのである。もとよりそれは与次兵衛が覚悟して望んだことであった。与次兵衛は、娘の「科江」と共に長宗我部家の再興を願って今日あるを画策していたのであった。
大阪城は落城した。長宗我部盛親は捕らえられ、京都の六条河原で斬首となるが、死に臨んでの盛親の態度は実に堂々としていた。江戸方はその盛親の凄まじいまでの姿に怯えたと言われる。そして、与次兵衛の息子は自分の不覚を恥じて自害するが、「科江」と「玉虫」は、盛親ら一党の姿に感服した井伊直孝(掃部守)の手によって引き取られ尼僧院で暮らしたとされる。
本書の末尾に、井伊家の老職であった砂田五左衛門による『武門夜話』の挿話にそれがあると記されて、この物語が終わる。
史実的に見れば、関ヶ原の合戦後(この時は両雄相睨みの形で、長宗我部軍は動かずに実際の戦闘には加わっていない。もともと盛親は、彼の家督相続の問題などから豊臣秀吉には認められていなかったので、家康の東軍に組みしようとしていたのだが、近江の水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に組みした。しかし、このあたりに盛親の弱さがあったと思われる)、土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、懇意であった井伊直孝を通じて家康に詫びを入れようとしたが、家臣の嘘で兄を殺してしまい、家康の怒りを買って改易されたのである。従って、本書の桑名与次兵衛の態度は盛親の意を受けた態度でもある。
牢人となった盛親は京都で家臣の仕送りや寺子屋の師匠をして身を立てていたと言われるが(本書ではこのあたりが作者の創造力の産物になっている)、京都所司代(当時は京都町奉行)の板倉重勝の厳しい監視下に置かれていた。
やがて彼は豊臣秀頼の召しに応え、京都を脱出して大阪城に入るが、結集した牢人衆の中では最大の手勢を持ち、「五人衆」と言われる主力部隊となったのである。大阪夏の陣では長宗我部盛親軍は八尾で藤堂軍と戦い奮戦するが、藤堂軍の援軍に井伊直孝の軍が駆けつけたことで、やむなく大阪城へ撤退する。そして、大阪城落城の際には「運さえよければ天下は大阪」と言い放って再起を図るために城を抜けるのである。だが、逃亡中に発見され、捕縛されて、斬首される。その際、彼の子女も6名が共に斬首されている。
史実はそうであっても、再起を図って痴呆者と呼ばれるほどの痴態を見せた姿として作者は盛親を描き、人の心にある思いが、決して表面的なあれこれで推し量ることができないことを語る。真実に人を見抜くというのは、その隠された真実の思いを知ることである。人は為したことより考えていることでその値が決まる。
そして、作者もまた、この作品を史実ものとしてではなく娯楽作品として提供する。そのあたりに吉川英治の真骨頂があるような気がする。
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