2013年1月11日金曜日

坂岡真『乱心 鬼役三』


 「寒」の季節に入って、暦通りずっと寒い日々が続いている。この季節には物事を鋭く感じてしまうところがあるのか、どこか物事に批判的になったりする。昔、旧約聖書の専門家である木田献一先生が、一緒に食事をするたびに、「怒ってください。怒って、それを情熱に変えて仕事をしてください」と言われていたことを、ふと思い出した。その時、先生は徹夜で原稿を書かれたとかで目が真っ赤になっていたが、体全体から発するエネルギーには相当なものがあったことを記憶している。批判を創造へ、それが、木田先生が語られたことだろう。

 そんなことを思い出しながら、坂岡真『乱心 鬼役三』(2012年 光文社文庫)を面白く読んだ。坂岡真の作品は、これまで『うぽっぽ同心シリーズ』とか『照れ降れ長屋風聞帖シリーズ』とかを読んで、シリアスな状況の中でもどこかのんびり構え、鷹揚に生きている主人公が描かれてきたのだが、この作品は、江戸中期の徳川家斉の時代(天保年間)での江戸幕府と朝廷の確執を背景に、表では将軍の毒見役(これが「鬼役」と呼ばれるらしい)をしながら、その一方で田宮流抜刀術の達人として不正を正し、将軍の護衛をする暗殺者として活躍する矢背蔵人介(やせ くらんどのすけ)という人物を主人公にして、いわば剣劇小説を兼ねるシリアスな作品になっている。

 江戸幕府と京都の朝廷とのあいだの確執は、家康が江戸幕府を開いて以来続き、特に江戸幕府が公家諸法度を制定して朝廷の力を抑え、三代将軍徳川家光が祖父家康を「東照宮」という「神」に祭り上げたころに、それまで「神儀」を司ってきた朝廷の怒りが頂点に達したとも言われているが、以後も度々争いごとが暗裏に起こってきていた。

 本書では、徳川家斉が正倉院宝物殿に収められている「蘭奢待(麝香の木)」を欲したために、代々朝廷側が守り続けてきて、国治めの象徴でもあった正倉院宝物を権力で奪い取ろうとしたことに怒った朝廷側が、次々と暗殺者を送りこんでくるという設定になっている。

正倉院宝物殿の「蘭奢待」は、織田信長が無理やりこれを切り取って寵愛したことなどから権力者の象徴のように考えられてきていた。「蘭奢待」は、朝廷をものともしなかった織田信長が切り取り、いわば朝廷侮辱の象徴のようなものだったのである。

 加えて、老いてなお精力絶倫だった家斉が将軍職に固執したために、次期将軍徳川家慶とその側近たちはジリジリとした日々を過ごし、暗に早期の家斉の死を望んでいたし、そのまた後継者の問題も浮かび上がっていた。加えて、家斉が寵愛したお美代の方と彼女の養父として中野碩翁(清茂)が権力を掌握して私化したための権力闘争や大奥でのお美代の方と正室の茂姫(広大院)との間の争いなどが繰り広げられていた。

 こうしたことを背景にしているので、事柄は政治権力の争いであったり、権力欲の争いであったり、金欲の争いであったりするから、勢い、問題がドロドロとしたものになるし、毒殺という手段がもちいられることもあるので、毒見役は命懸けのこととなる。

 そういう中で、主人公自体も暗殺者としての自分の在り方を悩んでおり、権力争いに巻き込まれることにうんざりしていることもあるし、剣技の争いが展開されるので、物語全体が極めてシリアスなのである。朝廷から送られてくる暗殺者たちは、呪術を使ったり幻惑術を使ったりするし、剣技も一筋縄ではいかないのである。そして、主人公が婿養子となっている矢背家も、代々は天皇を影で守る八瀬童士の流れを組むものであったりするので置かれている立場も複雑なのである。

 しかし、作者らしい明るさもふんだんにあり、茶道の名人で薙刀の名手でもある義母のは、たえず凛とした雰囲気を漂わせ、主人公が苦手とする人物であったり、妻もその娘として矢の名手で毅然として物事に対応する女性であったりして、この二人の強い女性の中で、主人公がおろおろする姿も描かれる。矢背家には、もうひと隣家から預かった次期将軍徳川家慶の落胤があり(その顛末のくだりは、シリーズの1-2作で語られているのだろう)、彼がまた吉原の花魁に惚れて入り浸りの生活をするというぐうたら者で、主人公の心配の種でもある。そういう人間味のある人物として主人公が描かれ、しかも対峙している問題が幕府内の不正や幕府と朝廷の確執という展開になっているのである。また、家慶の落胤が登場することで、家慶の後継者問題も絡んでくる。

 主人公は、朝廷側から送られてくる刺客と次々に対応し、しかも独自の観点を持って幕府要人たちや将軍を見ており、家斉が守るに値しない人物であるとは思いつつも、宮仕えの厳しさを感じながらもなんとか刺客の手から家斉を護るのである。

 作者としては意図的に硬派的な筆の運びをしながらも、人間味を溢れさせようとしているところがあるように思われて、作者の新しい境地の展開かもしれないと思いながら、面白く読めた作品だった。どちらかといえば上田秀人の作風を思わせる展開になっているが、坂岡真らしい人物の描き方が随所にあって楽しめる作品である。

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