2013年3月12日火曜日

乙川優三郎『さざなみ情話』


 このところ気温が高速エレベータに乗っているように上下しているが、今日は暖かな春の青空が広がっている。桜の開花まであと少しというところだろうか。

 昨夜は、震災2周年の支援活動の報告会を兼ねた集まりに出かけてきた。「行為と存在」ということを強く感じながら、行為から存在に移行するしんどい作業が必要なのだろうと思ったりする。これがなぜしんどいかといえば、人の判断がもっぱら行為にしか基づかないからで、「何をしたか」ではなく「どうあったか」、あるいは「どうあるのか」を大事にしたほうが良いと思っているからである。

 まあ、それはともかく、乙川優三郎『さざなみ情話』(2006年 朝日新聞社)を読む。これは、 時代小説というよりも純文学作品と言ってもいいような作品だった。物語は、利根川で高瀬船を操りながら荷運びをする男と、彼が想いを寄せる松戸の平潟河岸で食売旅籠の売笑(娼婦)をしている女の情話で、共に貧しさを抱えながら、なんとか希望を見出そうとしていく話である。

 修次は、銚子沖のイワシ漁で父親と兄を失い、老いた母親と妹の生活を支えるために、小さな中古の高瀬舟を借金をして買い、銚子から利根川を上って醤油や魚油などを運ぶ仕事をしている船頭である。彼の妹は、幼い頃に彼の不注意で身体に火傷を負って、その痕が身体に残っているために、嫁にも行けずに鬱屈した日々を過ごしているし、彼の肩には、一家の生活が重くのしかかっていだけでなく、妹に対する負い目もある。

 二十三歳のころ、少し自由になる金もできて遊び盛りだった彼は、松戸の平潟でひとりの売笑を買った。それが「ちせ」で、「ちせ」は越後の貧農の生まれで、十三歳の時に売られ、下女奉公から初めて十五歳で客を取らされた。彼女が修次と会ったのは十六歳の時であったが、まだ年季が四年ほど残っていた。また、年季が明けたからといってそのあいだに借金ができる仕組みになっていて自由になれるわけではなく、悪くすればまた別の宿に娼婦として売られるだけであった。

 仕方なく男を受け入れす仕草にぎこちなさがあって、修次は罪深さを覚えつつも、「ちせ」に惹かれていった。「ちせ」は、どうあがいてもどうにもならない境遇の中で、ほかの女たちとは違う素直さや素朴をさもった女だった。

 そして、「ちせ」もまた、修次に安らぎを見出すようになり、二人は互の想いを交わす仲になったが、二人ともどうにもならない境遇にいることは変わりなかった。修次は、彼女の年季が明けたら、なんとか借金を払って身請けして夫婦になりたいと思っていたが、頼りない中古の小さな高瀬舟を操るだけでは金が貯まらなかった。

修次の船で働く男や「ちせ」の同輩たち、いじけた修次の妹、そういう人間が渦巻く中で、出口の見えない希望だけが二人を繋ぐ日々を過ごしていく。その間の二人の心情がそれぞれに情感的に描かれていく。

 そうしているうちに、「ちせ」の身請け話が起こってしまう。相手は大店の醤油問屋である。修次は何とかしようとするが、金の力に負けそうになる。だが、彼は決断して、「ちせ」を足抜けさせ、高瀬舟で海に出て、心中を装って、二人でその苦境から脱出していくのである。

 そういう顛末が描かれているのであるが、貧しさのために売られて売笑(娼婦)として生涯を過ごさなければならない女の悲しみや苦労、重荷を抱えて生活に追われていく男のやるせなさ、そういうものが溢れて、作品を仕上げている。

 最後は、誰も知らない九十九里浜で二人は漁師として生きていく道が開かれて行くのだが、希望は決断によってしか生まれないということを思いながら読み終えた。ただ、こういう「情話」は、今ひとつわたしの好みではなく、少し読むのに時間がかかった作品だった。

2013年3月8日金曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』


 日中の寒暖の差はあるものの、すっかり春めいた陽射しが明るく降り注いでいる。中国からの黄砂や大気汚染の飛来はあるが、こういう暖かさは本当にありがたい。今年は立て続けに友人たちが召天し、自分の身のあり方も考えているが、能天気で有りうるのは幸いなことだと思ったりもする。わたしの能天気さに春が拍車をかける。

昨夜は、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』(2011年 角川文庫)を気楽に読んだ。これは、多分、先月(2月)にこのシリーズの最初の作品を読んで所感を掲載していたのに同級生で演歌の作詞家をしているT氏が気づいて下さり、わたしに送ってくださった本の一冊で、この続編もいただいている。感謝の極みである。

 前作で、主人公となる毬谷慎十郎の背景なども詳細に記されていたが、本作では、主人公が大奥の年寄(取締役)の絡む事件に巻き込まれ、彼が身を寄せていた丹波道場の一人娘で毬谷慎十郎を完膚なきまでに打ち負かした女剣士である「咲」も囚われの身となったりして危機を迎える話が展開されている。

 主人公の毬谷慎十郎が属していた播州龍野藩の藩主であり、江戸幕府の老中である脇坂安薫(わきさか やすただ)は、長く寺社奉行を務めたころに、大奥の女中と谷中の延命院の僧の日潤、日道が淫行にふけっていた「延命院事件」を摘発して裁いたことで有名で、藩を出奔した浪人でありながらも脇坂安薫に気に入られているという設定で物語が進められているから、本書で大奥絡みの話が展開するのもうなずけられる。

 大奥は女の悲しさと欲望が渦巻いたところであるが、その大奥で並ぶことのない権勢をもつ年寄の霧島は、その権勢を利用して、役者買いをしたり、高価な麝香の抜け荷をしたりで、権勢を傘にして好き放題をしていた。彼女は、いくぶん狂気を帯びて、大奥に忍ばせてきた役者が気に入らないと丸焼けにさせて、それがもとで江戸城の西の丸の火災を引き起こしたりもしていた。もちろん、その罪は他の者にかぶせるのである。

 また、麝香の抜け荷のために、大奥で仕える女中を「神隠し」と称して監禁し、麝香取引の値の一部として売り飛ばしたりもしていた。咲も霧島に捕らえられて売り渡されそうになったりするのである。

 毬谷慎十郎は、大胆不敵にも大奥に忍び込んで女中を助けたりして活躍するが、咲に「命に代えても守る」と約束したとおり、咲を救出するために奔走していくのである。闇の元締めというのも登場したりする。

 これはこれでおもしろく読めるのだが、読んでいる途中で、だんだん、作者の代表作の一つともなっている『うぽっぽ同心』にどことなく主人公や構成が似てきたところを感じたりもする。咲は次第に毬谷慎十郎に想いを寄せていったりするし、慎十郎は慎十郎で彼を藩主の手先として使おうとする龍野藩家老の娘のことを心にもっており、それがどうなるのか、といったことや、咲は父親を殺されており、その仇を討つことを考えており、そうした展開がどうなるのかということもあるが、まあ、あまりしゃちこばったことは考えずに、娯楽作品として、ほかの多くの娯楽時代小説文庫の一冊と同じように楽しめる作品だろうと思う。

 ただ、時代は天保9年で、社会が危機に瀕して騒然とし始めた頃で、将軍家斉は惚けたように淫蕩にふけっており、時代が大きく変わろうとしているころであり、そうした中で、何者にも捕らわれずに鷹揚に豪放磊落に生きるという姿を描くというところには、実は大きな意味があるように思っている。「何ものにもとらわれない」という姿勢は大事である。

 ただ、「なにものにもとらわれない自由」というものは、しばしば飢える。その点では、この作品の主人公も飢えて路頭に迷うことしばしばであるが、その飢えにもとらわれないというのが爽快である。「まあ、飢えたら死ねばいい」、わたしもそう思っている。

2013年3月6日水曜日

高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』

 温かさに誘われて土中の虫たちが顔を出すという啓蟄も過ぎて、ようやく昨日あたりから春を感じる日々となり、今日は、気温も20度近くまで上がって穏やかに晴れ渡っている。「春は平和にのんびり」が一番似つかわしい。

 ただ、中国からの大気汚染や黄砂が広がって、花粉も大量に飛び、「う~む」と思ったりするし、ちょうど中国で「全人代」が開催され、新たな富国強兵策が打ち出され、富国強兵策が向かう先が帝国主義的侵略であることを思うと、「騒がしい国」を隣に控えて何とも言えない気になったりする。「あげひばり、名のりいで、かたつむり、枝にはひ、神、空に しろしめす、すべて世は 事もなし」とはいかないものだろうか。

 閑話休題。少し軽いものをと思って、高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』(2001年 中公文庫)をおもしろく読んだ。これは、『続・ご隠居忍法 黄金谷秘録』として1997年に実業之日本社から出されたものを文庫化したものである。「続」と付いているように、このシリーズの2作目で、このあとに続く『鬼切丸』、『唐船番』、『亡者の鐘』などを既に読んでおり、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲って隠居した元公儀隠密の鹿間狸斎の活躍を描いたもので、中年の悲哀なども盛り込まれて娯楽時代小説のおもしろさがある。

 彼は隠居して、奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らしているが、「おすえ」という手伝いの娘に手をつけて子どもをもうけ、気の強い実の娘のひんしゅくを買っている人物だが、元公儀お庭番伊賀忍者としての抜群の技量をもっている。当然、薬草などにも詳しく、生薬を作って生計の足しにしたりしている。

 本書では、その彼が男として役に立たなくなり、烏骨鶏の卵などの回春を試みるがうまくいかないところから始まり、ふとしたことから笹野藩領北部で隣藩と接する霧降山での不可解な事件と関わっていくという展開がされている。

 霧降山の麓で、白骨化された人の手首が発見され、なおそのあたりで多数の殺害遺体が発見されたのである。近隣の村々から行くへ不明になった男たちの話も伝わってくる。狸斎の友人で娘の義父である元郡奉行の新野耕民も何事かを秘しているようであり、公儀隠密も関わっているような事件であった。

 霧降山山麓は、その昔、銅山や金山があり、今は廃鉱になってしまっているが、どうやらそこに隠し金があるようで、狸斎は、この事件が隣藩の戸沢藩の奏者番と天領の代官、そして京都の金工が関わって、金の横流しをしていることをようやく突きとめていくのである。

 物語の大筋としてはそれだけだが、五合桝村の祭礼としての相撲取りがあったり、その相撲取りが狸斎を助ける振りをしながら、実は隣藩の奏者番と繋がっていたり、新野耕民が幽閉されたのを助け出したり、天領の代官の悪巧みがあったりするし、真相を突きとめようとする狸斎が襲われたり、様々な事件が勃発していく。その間に、狸斎の回春の苦労が盛り込まれ、なかなかの妙味で物語が展開されていくのである。

 隠し金山を巡る物語では、その多くが最後は金山が爆破されたり、跡形もなく土中に埋没したりする展開になるが、本書も、黄金谷という隠し金の埋蔵地は土砂に埋もれていく。こうした展開は、ひとつの安心感と期待感が交差して、気楽に読める物語となる。気楽に読める一冊だった。

2013年3月4日月曜日

火坂雅志『臥竜の天』


 この2~3日、寒い日が続き、北海道では猛吹雪による被害が生じた。以前、札幌にいたころも地吹雪で前が全く見えなかったり、雪で道路に立ち往生したりするということがあったが、今回通過した低気圧は台風並みの風が吹いいて、猛威を振るった感じだ。ここでも寒い。

 いくつかのしなければならないことが頭を横切っていくが、何となく面倒だな、と思ったりもする。

 週末から、独眼竜の名で畏敬され、激動の時代に常に天下を睨み、悠然と志を貫きながらも生き残った伊達政宗(15671636年)の生涯を描いた火坂雅志『臥竜の天 上下』(2007年 祥伝社)を、面白く読んでいた。伊達政宗を描いた作品は、これまでにも小説や映画、テレビドラマなど数多くあり、その生涯も、彼の多くのエピソードもよく知られているが、火坂雅志『臥竜の天』は、文章の歯切れもよくて非常に読みやすい本だった。

 仙台には、仕事の関係で年に数回は訪れるが、青葉城址を訪れたりした時に、政宗が没して既に450年近くも経った今でも、その城下町の形成の仕方にいつも驚嘆させられる。

 本書は、著者自身が「あとがき」で記しているように、同じように傑出した人物であり、また互いに意識し合っていた上杉家の直江兼続との対比も意識されてはいるが(著者は前年の2006年に直江兼続を描いた『天地人』を発表している)、伊達政宗の独自の風采をよく描き出している。

 ちなみに、「あとがき」では、次のように述べられている。
 「政宗という男のおもしろさは、信長、秀吉、家康らほかの戦国群雄たちから遅れた時代に生まれ、地の利にもめぐまれなかったにもかかわらず、彼らに匹敵する強烈な印象を史上にとどめたことにある。
 それは直江兼続にしても同じで、二人はたがいの方法論に反発を覚えながらも、関が原合戦前後の激動期をしたたかに生き抜き、歴史の荒波をみごとに乗り切った。
 臥竜のごとくひたすら天下をめざし、目的のためなら手段を選ばなかった政宗と、みずからの理想に従って上杉家の舵取りをした直江兼続――。
 一見、正反対のように見える彼らだが、じつは大きな共通点がある。
 一炊の夢のような人生の中で、いかに自分らしく生き、悔いなくおのれをつらぬき通したか。結果として、伊達政宗は天下を取る夢が叶わず、直江兼続も上杉家を存亡の危機に陥れた張本人として長く汚名を着ることになるが、彼らが与えられた運命のなかで、ぎりぎりの自己実現をしたことはたしかである。そして、その果敢な生き方が人の心に響き、ある意味で、天下人となった秀吉や家康以上に勁い輝きを放つのではないか」(402403ページ)。

 「自己実現」というのは、その是非はともかく、いつでも個人にとっての大きな課題であり、ましてや下克上の世情の中では、意識ある人々にとっては最大の目標ともなるのだから、たとえそれが叶わなかったとしても、そこに向けて邁進していく人間の姿は大きな光彩を放つものとなる。伊達政宗は、まさにそうした人間の代表のような人物であるに違いなく、本書が、そうした伊達政宗の自己実現の記録として描かれるのは的を射ていることだろうと思う。

 本書でも描かれる伊達政宗の生涯やその事跡については、よく知られていることでもあり、ここでは触れないが、本書を読み終えての所感として次の二つのことを記しておきたい。

 ひとつは、伊達政宗という傑出した人物の形成には、彼の学問や人生の師として京都妙心寺出身の禅僧であった虎哉宗乙(こさいそういつ 15301611年)という人と、直江兼続と並び称されるほどの優れた人物であった片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな 15571615年)の力が大きかったということである。

 仏教の守護神である梵天に守護されているとして梵天丸と名づけられた政宗であったが、五歳の時に疱瘡(天然痘)にかかり、生死の境をさまよい、かろうじて命をとりとめたものの顔中に醜いあばたが残り、右目を失明するという悲劇で、そのあまりの醜さのために母親の義姫から嫌われる中で、政宗は幼少期を過ごさねければならなかった。

 そのために彼は、劣等感の強い、いじけてひねこびた子どもであったが、父親の伊達輝宗が守役(側近)としてつけてくれた片倉小十郎景綱と学問の師である虎哉宗乙が、実にしんぼう強く彼を包んで養育していくのである。片倉小十郎景綱は、政宗の中に眠る非凡な才能をどこまでも信じ、彼を将来の主君としてどこまでも仕えたし、虎哉宗乙は、隻眼(片目)であるのは心眼への道と説き、折に触れて人の歩むべき道を教えたのである。両者とも、伊達政宗の生涯を通じての優れた相談役であり、また、政宗自身も彼らを慕った。

 伊達政宗がもっていた底の抜けたような生死観は、それがその後に遭遇した幾度もの危機を救うが、この二人の人物によって育まれたのではないかと思う。こうした人物が人生の途上でいるかどうかで、人間は大きく変わる。三者は、共に絶大な信頼と尊敬の関係を築いた。

 もうひとつは、伊達政宗は退くべき時に退く力をもっていたということである。伊達政宗は、戦において連戦連勝したわけでは決してなかった。その事跡を見てみると、むしろ負け戦の方が多い。1854年の佐竹氏が率いる南奥州諸候連合軍との安達郡人取橋での戦いでは、政宗自身が矢弾を浴びるなどの敗北をきっしているし、1588年の大崎合戦では最上義光によって敗北している。豊臣秀吉の小田原合戦の際には、遅参によって叱責を被っているし、蒲生氏郷には頭が上がらなかった。関が原合戦の際の上杉軍との攻防にも苦慮している。徳川家康の治世下でイスパニアとの交易を図るために派遣した慶長遣欧使節も、結果的に見れば失敗である。

こうした敗北や失敗の中で、伊達政宗は退却を余儀なくされる。しかし、その退却は、単なる退却ではなく、自らの力を貯める退却であった。これは直江兼続もそうであったが、彼らの退き方は、決して敗北を意味しなかったのである。秀吉や家康からも恐れられ、常に警戒された中で、「鄙の華人」と言われるほどの教養も高かった伊達政宗は、自分が退かなければならなかった時に何をしなければならないかを知っていたのである。

改めて、本書で伊達政宗の姿を見ながら、そういうことを考えていた。なお、政宗の遺訓というのが残されていて、そこに直江兼続を意識した言葉などもあり、「なるほど」と思うところもあるので、以下に記しておく。

「伊達政宗遺訓」
1)仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
2)気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備うべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば、何の苦しみもなし。
3)朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来、客の身に成れば好き嫌いは申されまじ。
4)今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

このうちの「気長く心穏やかにして」は、伊達政宗には似つかわしくないかもしれないが、おそらく、ひとつの到達点でもあるだろう。

ともあれ、本書は「自己実現」を志した者としての伊達政宗の生涯を描いた力作であろうと思う。

2013年3月2日土曜日

高橋義夫『渤海国の使者』


 昨日は春一番が吹き荒れて、強風の中でも暖かく感じられ、本当に春が近づいて来た、という感じだった。今日は冬型の気圧配置の中で、気温は上がらないものの、以前のように寒さに震えるということはない陽射しがさしている。このところ小さな地震が頻発して、2011年の東日本大震災を思い起こしたりする。どことなく気が重い。

 それはさておき、日本の奈良時代(710794年)に交流があった中国東北部の沿海に位置した渤海国との最初の使節団の活躍を描いた高橋義夫『渤海国の使者』(2003年 廣済堂文庫)を読んだ。高橋義夫は、エンターテイメント性の高い時代小説だけでなく、優れた歴史小説もいくつか書いているが、これもまた、そのひとつである。

 渤海国(698926年)の詳細な歴史は不明なところが多く、主に中国で記された『旧唐書』、『新唐書』や朝鮮の『大金国史』などの周辺の諸国の歴史書による以外にはないのだが、中国東北部(現在はロシア連邦の日本海沿岸地方)で農耕と漁業を行っていた靺鞨族(まっかつぞく)の指導者大祚栄(だいそえい)が、それまで中国東北部の南部から朝鮮半島の北中部までの広範囲な領土をもって治めていた高句麗(紀元前37668年)が唐と朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ・しんら)の連合軍によって滅んだことにより、自立を画策して、698年に自立の動きを抑制しようとした唐軍を破って、「震国」を建国したのが始まりとされている。

 唐は、その後も懐柔策を打ち出したり軍事的な圧力をかけたりし、特にこの時代には朝鮮半島全域を治めていた新羅と共同して渤海国に脅威を与えており、唐とは緊迫した状態にあったが、周囲との交易で栄えて、最盛期の領土は朝鮮半島北部からロシアの沿岸にかけての広大なものとなったのである。

 渤海国二代目王の大武芸は、唐から「渤海国王」の冊封(中国の天子が称号や任命書、印章などを授けて名目的な宗属関係を結ぶこと)を受けたが、独立色を強め、唐との関係は常に大きな問題となり、特に隣接した新羅との関係は悪化し、これらを牽制するために日本との交流を求めたのである。

 本書は、その渤海国からの最初の使者として727年に日本海の荒海を越えてやってきた高仁義らの使節の山形漂着から始まる。その時、高仁義らは蝦夷と呼ばれていた人々によって殺され、生き残った高斉徳ほか8名は翌年に聖武天皇に奈良で拝謁し、やがて、引田虫麻呂を頂点にした送渤海客使を派遣して彼らを送り返し、軍事同盟的な交流が始まった。そういう過程を、それぞれ渤海国の高文矩(こうぶんく)と日本側の船人(ふなひと)という二人の人物の深い信頼と友情を描くことで描き出したものである。渤海国との交流は、その後軍事的なものから商業的、文化的なものに変わったが、以後200年ほど続いた。

 渤海国側では、二代目王大武芸の兄弟で唐に渡って親唐派であった高武門との確執や、武芸の子で三代目となった大欽茂(だいきんも)による親唐的な文治政治への転換などの変化が起こっているし、日本では、729年に権勢を誇った長屋王(天武天皇の孫)と藤原家の争いが起こり、藤原不比等の子らが長屋王を自殺に追い込む事件が起こっている。

 こうした事件を織り込みながら、高文矩と船人の妹秋津との恋や新羅側の画策などが展開されて、読み物として面白く読めるように構成されている。渤海国の文化や風習などは、詳細は知られていないが、唐の影響が強く、唐文化を踏襲したものとして描き出されるし、高句麗の住習慣なども取り入れられている。政治は唐の制度を模倣したものであったと言われる。

 それにしても、よくこれだけの物語にまとめたものだと感服する。渤海国は、やがて、907年に唐が滅びたあと、926年に、中央アジアの民族であった契丹に滅ぼされて歴史から姿を消したが、華北人として命脈を保っている。奈良時代について、わたしはあまりに知らなさ過ぎるところがあるが、この時代がわずか84年しかなかったことを改めて思ったりする。

2013年2月28日木曜日

乙川優三郎『武家用心集』(5)「向椿山」、「磯波」、「梅雨のなごり」


 ようやく少し暖かくなり、少し春の陽射しを感じるようになった。まだ寒い日があると思うが、明日からは弥生である。年度末が近づいたので、今年は自分の身の処理を真剣に考えようと思っているが、このところ急激な体力の衰えを感じたりして、果たしてどうしようかと思ったりもする。そういう者にとっては、春の暖かさは有難い。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)の第六作「向椿山」は、待つことができずに裏切ってしまった女への想いを細やかに描く短編である。

 医師としての五年の学びを終えて帰郷した岩佐庄次郎は、五年前に「待つ」と言って言い交わした美沙生(みさお)が自分を待っていなかったことに愕然とする。

 美沙生は、武家の娘で、庄次郎の師である医師の家に手伝いに来ていた娘であった。明るく屈託がない彼女は誰からも慕われるような娘であった。正次郎は十九歳で江戸に遊学する前、互いに想いを寄せ合っていた十六歳になる美沙生に待てるかと訊き、彼女は、はい、と屈託なく答えていたのである。だが、親の承諾を得て婚約していたのではなかった。

 それから五年、彼が遊学を終えて帰ってきたとき、しかし、そこに美沙生の姿はなかった。彼は事情を知らされないままに、藩から薬草園の設置などを任された仕事をしながら日々を過ごしていた。彼は、遊学中に、せいぜい年に一度か二度しか手紙を書かなかったし、いつのまにか美沙生からの便りも届かなくなっていた。美沙生の家に行っても、美沙生は彼に会おうともしなかった。

 やがて、美沙生についての噂話が聞こえてきた。美沙生が華道家の子どもを身ごもり、その華道家の跡を追って京へ行ったという噂話であった。そして、それから一年ほどして戻り、今は実家にいるということだったのである。それを聞いて、庄次郎の心は揺れ、彼は自分の仕事に精を出すことで忘れようとするが、どうしても美沙生のことが忘れられないでいた。美沙生の母親からの話も聞き、美沙生の裏切りが事実だということも知る。

 そうしているうちに、日々が過ぎていくが、ある日、突然、美沙生が彼を訪ねてくる。美沙生は、庄次郎が別れる時に、草木のことを知りたいのであれば生花でもしたらどうか、と軽く言ったことを覚えて、華道を習い始めたのだという。ところが、習い始めるうちに洗練された生花の腕をもつ華道の師範に次第に心が惹かれていったのである。そして、一線を超えてしまい、子を宿したのである。身ごもった彼女は尼寺に預けられて世間の目を誤魔化そうとしたが、子は生まれることなく流れてしまった。華道の師範は、まもなく京に旅立っていった。、そうして今に至ったと彼女は正次郎に語る。

 正次郎は衝撃を受けるが、待てなかった彼女の姿を見るうちに、覚悟を決めて、彼女を自分の家に連れて行くのである。

 この話はこれだけのことでしかないが、人間の回復をどこでするのかということは、なかなか重いテーマで、自分を裏切った人間を、単にゆるすだけでなく、その者と共に再び生きていけるかどうかは、いつも深遠な課題であると思ったりする。

 第七作「磯波」は、自分の想い人を闊達な妹に奪い取られ、その後ひとりで生きてきた女性の微妙な女心を描いた作品で、なんとなくこの作品集にはそぐわない作品のように思えたが、「断念」して生きていくということを考えさせられる作品であった。

 第八作「梅雨のなごり」は、藩主の交代とともに行われることになった徹底した藩政の改革に携わらなければならなかった勘定方の父親をもつ娘の視点で、飄然と生きている叔父の姿を描いたもので、改革の嵐の中でも、驕ることも増長することもなく、妹の家族を守っていく姿が描かれる。状況の変化の嵐の中で、人はどう生きるかを問う作品でもある。

 藩の勘定方を務める父親の帰りが日毎に遅くなり、ついには城詰めの日々となっていく中で、母の兄である大出小市は、彼女の家の台所の板敷を居酒屋代わりにして、手酌で酒を飲むのを楽しみ通ってきていた。彼女の家はわずか二十五石の俸禄で貧しく、叔父は小普請組の小頭をして金もありそうだし、家族もいるのだが、なぜか、彼女の家で酒を飲んでは磊落で気さくな話をしたりしていた。

 そんな中で、十八歳になる兄の恭助は、道場に行くと言っては出かけて、時折、酒とお白粉の匂いをさせて帰ってきていたが、叔父がいるときに仲間と酒を飲んできて帰ってきた。そのとき、叔父の小市は、今がどんな時か考えろと言って激怒し、藩の情勢について話した。叔父は、磊落そうに見えても、情勢についてはきちんと理解していたのである。

 彼は、藩主が交代して国入りする半年前から、藩政の改革に備えてさまざまな取り調べが行われており、場合によっては奸臣の処分と執政の交代がありうるのだと言う。そのために江戸から来た側用人を頭にして監察組が組織され、父の武兵衛もそこで働いていると語るのである。そして、こうのような時は身を慎むべきだと恭助に諭すのである。

 父親の仕事については固く秘密が守られて何も知らされていなかった家族は驚くが、恭助が一緒に酒を飲む仲間に藩の重臣に繋がる須田千之介という男がいて、恭助は彼から二両の金を借りていた。須田千之介は中老の田上源左衛門と繋がり、恭助を通して監察がどこまで進んでいるかを探ろうとしていたのである。恭助はそのことに何も気づかずに暢気に酒を飲んで遊んでいたのである。須田千之介は神道流の腕が立つ。

 叔父の大出小市は、それを聞いて、道場まで出かけて行って須田千之介に金を返すが、そこで須田千之介は立会いを望み、反対に小市に足をしたたかに撃たれたのである。こうして、恭助の禍根は断たれたが、城ではいよいよ糾弾が始まり、父親も城詰めで帰宅しなくなった。父親の武兵衛は過労で倒れるのではないかと案じられた。

 藩政の改革は想像以上に大掛かりに行われ、執政の更迭が行われ、失脚した重臣たちには即座に処分が言い渡され、その中に中老の田上源左衛門もいて、田上と繋がっていた須田家の行く末も危ぶまれる状態となり、足をしたたかに撃たれた須田千之介が大出小市に仕返しをすると脅しをかけてきた。

 そして、往来で須田千之介は大出小市に斬りかかるのである。彼の父は左遷され、大出小市は普請奉行になって加増されていた。そういう恨みも重なり、気位が高かった須田千之介が私怨を果たそうとしたのである。

 往来での斬り合いであるから、それを止める仲裁が入り、小市は刀をひこうとするが、千之介は無理矢理にも斬りかかり、ついに、小市は脇差で千之介の胸を刺すのである。いくら理があっても往来での藩士どうしの斬り合いは御法度である。大出小市には、何らかの処分が下されるかもしれないが、小市はこの出来事を大目付に届けに行く。

 それを見ていた利枝は、一部始終を母に話した。母はそれを聞いて、「誰かがつらいときは周りのものが明るく振舞うものです」(208ページ)と語り、小市が頻繁に酒を飲みに来たのは、貧しい家に嫁いだ妹のことを心配してであり、叔父はそうして利枝の家を守ってくれたのだと言う。父の武兵衛もそのことを知っていて、小市に感謝していた。

 多分、兄の恭助が叔父を迎えに行くだろう。その兄は、それを聞いても呑気で能天気であるが、その明るさが救いかもしれないと利枝は思うのである。

 小市がどのようになるかは記されない。しかし、全体に変革の嵐が吹き荒れて、つらい時に、辛抱して日々をたゆまずに過ごしていくことや、さりげなく愛する者を守ることに徹していく姿があって、作品の出来はともかく、なんとなく爽やかに読めた作品だった。

 乙川優三郎のこの短編集は、文学性も盛り込まれている思想のさりげなさも、優れて高いと思う。時代小説の形で現代の問題を取り込み、しかもそれが違和感なく著されている。こういう短編を優れているという、と改めて思った。

2013年2月26日火曜日

乙川優三郎『武家用心集』(4)「うつしみ」


 昨日は久しぶりに池袋まで出かけて、E教授やT先生たちと様々なことについて話した。病室でこれからのことを話されていた京都のM先生が24日の朝に予想外に早く帰天されたこともあり、いろいろと考えることの多い日だった。今年になって身近にいた人たちが次々と召されることもあり、静かに瞑目しながら残されている時間のことも思ったりする。身近にいる「明日」を語る人々の中で、「明日はない」と密かに思ったりもする。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)に収められている五作目は「うつしみ」という作品で、何の咎かはっきりわからないままに夫を大目付に捕縛された女性が自分を育ててくれた祖母の生き方を省みて、自分の生き方を模索していく話である。

 夫が大目付に捕縛された松枝は、親戚や実家の者が関わり合いになるのを恐れて、ひとり孤独な日々を過ごしていた。事態がどのようになっているのかわからないままの不安を抱えた日々の中で、彼女は幼い頃に祖母に手を引かれて登った実家の菩提寺の石段を登り、香華を手向けて、自分を育ててくれた祖母のことを思い起こす。

 彼女の実母は彼女が幼い頃になくなり、父親はその後に後妻をもらって、その後妻との間に男の子が生まれ、父親の愛情は男の子に偏った。それを見かねた祖母が彼女の養育を引き受けたのである。しかし、その祖母もまた祖父の後妻で、祖父との間に子どもはなく、祖母といっても血の繋がらない関係だった。だが、祖母の津南は松枝を自分の子どものように育てたし、松枝もまた祖母を母のようにして育ったのである。

 祖母の津南は、二十二歳で前夫に離婚を言い渡された。津南の兄が不始末をしでかしたことが原因で、彼女は四歳と二歳の子を残したまま婚家をさり、実家に戻った。しかし、わずか15石の小身である津南の実家には、謹慎中の兄夫婦と二人の子ども、両親が暮らしており、彼女の身の置き所はなかった。兄の不始末というのは、実家の貧しさから役所の金一朱を無断で借用したことであり、生活はそれほど苦しかったのである。

 津南は、何か身過ぎの術を身につけなければならないと思い、奉公に出たいと考えていたが、兄が見つけてきたのは、酔客を相手にする城下のはずれの料亭の仲居奉公であった。だが、津南はその料亭の住み込みの仲居奉公に出た。実家にいたのはわずか二月であった。

 しかし、彼女は日が経つにつれて、同じ仲居として働く百姓や町人の娘たちの屈託のなさに触れて、武家の娘という誇りなどは打ち捨てて明るく振舞うことを学んでいった。そうして懸命に働き、料亭の女将のように自立した女になることを目指したのである。同輩の信頼も得るようになり、比較的落ち着いた暮らしを送るようになっていた。

 そんな折、料亭の女将から突然、縁談話が持ち込まれた。相手は郡奉行のひとりで、西村宣左衛門という四十歳近くの男で、料亭で津南を見染めたというのである。津南は、その男があまり風采の上がらない小役人のように思えたし、結婚にも懲りていたので、その話を断る。女将のように自立した女になりたいと話すと、女将から、女がこうして生きていくのはさらに苦労すると言われてしまう。

 津南は、しばらく考えて、やはり断ることにすると言い出すと、女将は、実家の兄が既に支度金まで西村からもらっているという意外な返事をする。彼女の兄は金にこすっからい。兄が受け取ったという支度金を返すあてもなく、津南の結婚は決められたようなものだった。そこで、津南は西村に会って話をしてみることにする。

 会ってみると、風采の上がらない小役人のように思っていた西村宣左衛門は、体面などには拘わらない人物であることが分かり、彼女は彼の求愛を受け入れることにしたのである。西村の家には息子と姑がおり、姑は彼女を身分の低い女として蔑んだし、五歳の息子は彼女を母親とは認めなかった。彼女は再び孤独を味わったが、辛抱する道を選んだ。

 だが、やがて一年が経ったころ、家族の不和に気づいた宣左衛門が、姑にきっぱりと嫁を見下したような態度を改めるよう忠告したし、やりたいようにやっていいと夫に言われ、彼女は姑の顔色を見ることをやめて生き生きと自立していった。彼女は身分の差などなく誰かれと客を歓待したので、西村の人望も上がっていった。継子の又吉は気性が荒く、とはしばらくうまくいかなかったが、きっぱりと、「わたしが嫌いなら、いつかこの家から追い出しなさい。そのときがきたなら必ずあなたの指図に従いましょう」と言って、無理に馴染ませようとせずに乗り越えていくのである。津南は背筋をちゃんと伸ばす女になっていくのである。

 だが、こうして平穏になった家庭も長くは続かなかった。又吉が元服した年に、宣左衛門は視察のために出向いた海辺の村で津波に飲み込まれてあっけなく他界してしまうのである。それを追うようにして姑もなくなってしまう。津南と敬十郎と名を改めた又吉のちの繋がらない二人が残されたのである。

 津南は、昔、又吉に語ったように家を出る覚悟もあったが、敬十郎は津南を頼りにした。その後、敬十郎が妻帯するまでの十年間ほど、津南は西村の家を守って過ごした。やがて、敬十郎は妻帯し、三年後には松枝と名づけられた女の子が生まれた。だが、松江の母は、松枝が三歳の時に病没し、ほどなく敬十郎は後妻を迎えた。そして、男の子が生まれて、敬十郎は松枝に冷たくなり、それを見かねて血の繋がらない孫の面倒を見ることにしたのである。彼女は、血が繋がらないとはいえ、孫娘である松枝に愛情を注ぎ、「教えられること何でも教える」のである。

 ところが、津南が六十歳を過ぎてから、藩そのものが大変な事態となってしまう。藩主の実弟が江戸で旗本と斬り合って殺害されたうえに、藩がそれをもみ消そうとしたことが幕府に露見したのである。お咎めは必置で、改易の危機に瀕したのである。悲観した藩士は早々に家財道具の処分を始め、西村家でもその準備が進められた。

 幕府の評定で藩主が他家にお預けになることが決まった時、津南の兄が路銀を無心に来た。一家で遠国の親戚のところに身を寄せると言う。そのとき、彼女は穏やかに兄を諭す。

 「武士たるものが浅ましいことを考えるものではございません。殿さまが他家へお預けとなったいま、ご帰宅を願うのが家臣の務めであり、家財道具を片付けたり、他国へ逃れることを考えたりするのはもってのほかでございましょう。たとえ願いが叶わず、御家が断絶したとしても後始末というものがございます。諸道具の片付けはそれからでも遅くはありませんし、そもそも家財なるものは武具から衣服に至るまで俸禄のお蔭をもって調えたものです。さもしい真似をして後の世まで悪名をとるか、実否の定まるまでおまちもうしあげるか、武士としてすべきことは言わずと知れておりましょう」(173ページ)

 と言うのである。これを聞いて、西村敬十郎も家財の整理をやめて家の中を元通りにした。そして、幸い、藩は一万石の減封、揉み消しをした重臣らは重追放となったが、藩の存続は叶うのである。

 津南は次第に松枝の中に自分がかつて置いてきた子どもの幻影を見るようだったが、松枝に女としての生き方を教え、やがて他界した。

 松枝はその祖母の津南の生き方を思い起こす。そして、津南には孤独を丸め込んで生きていく力があったが、自分にはなかったと思う。だが、孤独に負けて夫を疑うのは、自分で自分を粗末にしていることだと思い直し、立ち上がって石段を下り、帰路につくのである。祖母と同じような道をたどる、そういう意味で、祖母の「うつしみ」という表題が付けられているのだろう。