2013年4月10日水曜日

宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(2)


 「花冷え」というのがふさわしいような肌寒い日になっている。このところいくつかの事柄を含めた整理を始めているが、これがなかなか進まないし時間がかかる。まあ、ぼちぼちするしかないなあ。

 さて、宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(2010年 文藝春秋社)の第二話「秋雨の余韻」は、二十七歳にもなってまだ嫁のきてがない龍之進の焦る心や彼の同僚の橋口譲之進の母親が亡くなる場面から始まる。彼らも、もうそろそろ親を亡くす歳になってきたのである。

 その龍之進が、急に降ってきた雨で雨宿りをした「千成屋」という酒屋の軒先で、不思議な娘と出会う。その娘「おゆう」は理由があって千成屋が預かっていた娘で、千成屋は龍之進の父親のことを知っていた。そして、龍之進は橋口譲之進の母親の仮通夜の帰り道に、同輩で例繰方同心をしている西尾左内からその事情を聞くことになる。

 「おゆう」は、日本橋の廻船問屋の大店である大和屋の娘で、縁談も決まって結納を交わすばかりになっていたが、突然、相手から家風に合わないと断られたという。大和屋の娘の「おゆう」は、あまりに物知らずで、数の勘定もできず、お内儀の器ではないと判断されたらしい。それで、大和屋では世間体をはばかって知り合いの千成屋に娘をあずげたいうのである。

 伊三次の妻のお文は、仕事の関係で大和屋も千成屋も知っており、その関係で「おゆう」に礼儀作法を教えてくれと頼まれていた。道でばったり彼女にあった龍之進は、そのお文から、自分よりも龍之進の母親の「いなみ」の方が「おゆう」の教育には適しているので、頼んでくれないかと相談される。通夜の夜に帰宅した龍之進は母親の「いなみ」にその話をする。

 そのとき、「いなみ」は、「似たような話があるのですよ」と言って、「縁談を断られた娘がいて、父親がそれを不服として相手方へ談判に行き、ついに刃傷沙汰を起こしてしまった」と話し始める(111ページ)。その挙句に、仰せつかっていた剣術指南役も下ろされ、父親は抗議の意味で自害し、その娘も父親の後を追って自害した、と語る。その自害した父親と娘は「いなみ」の父親と姉だった。こうして、「いなみ」の家は一家離散となり、「いなり」は吉原に身を沈めたのである。「いなみ」は言う。「わたくしはあなたのお父上に助けられました。そうでなければ、今頃は命を縮める生業のために、とっくにこの世にいなかったことでしょう」と言う(112ページ)。

 その話を聞いて、龍之進は、ぽろりと涙をこぼす。彼は、人の痛みがわかる人間になったのである。「いなみ」は、そう話し終えてから、「おゆう」にいろいろなことを教えると言う。こうして「おゆう」は不破家に礼儀作法を始めいろいろなことを学ぶために出入りするようになる。

 その夜、日本橋の裏店で火事が起こり、幼い子どもたちが焼け死ぬという悲惨な出来事が起こる。両親が、幼い子どもたちを家に残したまま気晴らしに二人で酒を飲みに出た間に出火しての出来事だった。

 こういう事件を物語の間に挟むのは、作者が現代の社会の中で起こっている子どもを犠牲にした事件を痛ましく思っているからだろうと思う。子どもは保護を必要とする存在であるだけにいつでも親の犠牲になりやすい。子どもと老人を大切にしない社会はろくでもない社会だという思いがわたしにもある。

 ともあれ、礼儀知らずと言われた「おゆう」は、「いなみ」のもとで様々なことを学び始めるが、「いなみ」は娘の茜の教育も兼ねて、「お吉」も誘っていろいろなことを無理なく自然に学べるように配慮していく。「いなみ」は「おゆう」が気に入って、龍之進の妻にならないかと願ったりするし、「いなみ」も龍之進に想いを抱き始める。だが、「おゆう」は、知識はなくても思いのほか賢く、自分が同心の妻には向かないこともしている。そのあたりは、また後に展開されていくが、第二話「秋雨の余韻」は、「いなみ」が「おゆう」の教育を引き受けるところで終わる。

 第三話「過去という名のみぞれ雪」は、「おゆう」が意外と和歌に堪能であることがわかるし、いろいろなことで自身をなくし始めていた茜の剣術稽古の姿を「お嬢さん、乙にすてきだ」と感嘆し、それぞれがそれぞれに「いなみ」の下で自分を認められていくという姿から始まっていく。いなみ、おゆう、茜、お吉が醸し出す空気は温かい。

 そんなおり、伊三次は自分が髪結いに使う鋏(はさみ)が刃こぼれして歪んでいることに気がついて、その修理のために刃物商である「阿波屋」を訪れる。阿波屋には看板娘の「お鉄」という娘があり、彼女が目をかけ、阿波屋が刃物師の弟子にしたいと思っている青物売りの若者が出入りしていた。しかし、その若者は入れ墨者で、たとえ入れ墨者でも阿波屋の家族がやり直す機会を与えることを伊三次は嬉しく思うと同時に、その若者に何かしら訝しいものを感じた。

 他方、臨時町廻りをしている不破友之進は、子どもを道連れに母子心中しようとした事件に関わっていく。母親はまだ24歳と若く、子どもの首を斬って自分も死のうとしたところを隣家のおかみさんに気づかれ、未遂に終わったのである。父親は、かつては幕府の役人だったが、上司の公金横領に連座させられて失職し、内職をしながらなんとか暮らしていたが、失踪していた。そして、最近では食べるものにも事欠いたようで、切羽詰って事に及んだというのである。息子が、もうお腹が空いたとは申しませぬゆえ、どうぞお許し下さいと泣き叫んでいる声を隣家のおかみさんが聞いたという。子どもの健気さに胸が詰まる思いがする。

 友之進は、このままだとまた母親が息子を道連れに心中を図るかもしれないと案じ、大家と町名主と相談して子どもの預かり先を捜す。母親は息子をどうするも私の勝手と言い張るが、友之進は母親と息子を一晩離し、善後策を検討する。だが、母親は子どもを置いてそのまま疾走してしまうのである。幸い、子どもは商人の家の養子先が見つかるが、世情はそんな親が増えているのである。これもまた、現代の社会の世情を反映したものである。

 そん中で、「いなみ」が教育している「おゆう」は、文字も上手に書けるようになっていくが、「いなみ」は「おゆう」が龍之進の嫁になってくれないかと心中ひそかに思っていくようになるし、娘の茜も「おゆう」の気持ちに気がついて、龍之進の嫁に勧めたりする。だが、「おゆう」は、龍之進のことを慕っているが、どんなに恋してもそれが成就しないことを明確に自覚していたのである。

 伊三次は、刃物商の阿波屋が弟子にしたいと思っている青物売りの若者に両国橋で出会う。彼は、昔は手がつけられないくらいの悪餓鬼で、木場の材木をかっぱらったって捕まえられたいうふうに自分の悪事を手柄話のようにして語る。罪を悔やんでいる様子はなく、都合の悪いことには口を閉ざすようなずる賢さを伊三次は彼に感じていく。そして、それから十日後、木場の材木盗難事件が起こる。かなり大規模な盗難事件で、伊三次はその事件のことを聞いたときに、その若者のことを思い出す。案の定、その若者も強盗団のひとりだった。阿波屋は、目をかけた若者がそんな人間だったことにがっかりしたし、伊三次は、その若者をうまく導いてやれなかったことを後悔したりする。

 みぞれのように、雨か雪かはっきりしないような中途半端はよくない。不破友之進は、そんな思いを抱きながら、みぞれが降る中を歩いていくのである。だが、そんな中途半端な状態に置かれているのが龍之進の嫁取り問題である。その顛末が以下の話で展開されていく。人はみな、中途半端にしか生きられないのも厳しい現実である。

2013年4月8日月曜日

宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(1)


 土・日曜日と春の嵐が荒れ狂ったが、今日は一転して穏やかな春の陽射しがさし、暖かく過ごしやすい日になっている。朝から窓を開け放ち、寝具を干して変えたり、掃除や洗濯をしたりしていた。現代社会は日常を保つだけでもかなりの能力と根気がいる、などと大げさなことを考えて、ふとおかしくなったりした。古いパソコンに保存しているファイルが、早く整理してくれと言っているような気もする。

それはともかく、週末にかけて、宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(2010年 文藝春秋社)を、やはりこの人の作品はいいと、つくづく思いながら読んだ。『髪結い伊三次捕物余話』は長いシリーズになっていて、これは、その九作品目で、ますます、作者が醸し出す温かさや柔らかさが全体を包むようになって、円熟味が増しているように思う。

 このシリーズは、廻り髪結いをしながら奉行所同心の手先として働く伊三次と、気が強くてきっぷのよいしゃきしゃきの深川芸者であるお文の恋から始まり、障がいを乗り越えながら夫婦となり、今度はその子どもたちの成長物語となっていくが、彼を使う奉行所同心である不破友之進の家族や子どもたちの成長物語も描きつつ、青年期から家族を持つようになり、やがて世代がその子どもたちに移っていく姿も描く一大叙事詩ともなっている。そして、一話一話も味わい深い。

 本書の巻末に、これまでのこのシリーズの短い紹介があり、書名だけでも抜き出してみると、伊三次が奉行所同心の手先となる過程やお文との出会いとその恋を描いた第一作となる『幻の声』から始まり、美貌のお文に囲い者にならないかと申し出る商人の出現で人生と恋の狭間で悩むお文と伊三次のすれ違いを描いた『紫紺のつばめ』、お文に執着する商人が嫉妬に狂ってお文の家に火をつけるという顛末になる『さらば深川』、伊三次と夫婦になり仕事を辞めるが、伊三次の髪結いの弟子ができたり、近所との折り合いがわるくなったりしていく『さんだらぼっち』、二人の間にやっと子どもができるが、廻り髪結いだけの生活が苦しくて再び芸者としての働きに出るが、お腹の子が逆子とわかって心配する『黒く塗れ』、奉行所同心の不破友之進の息子の龍之進が元服して同心見習いとして出仕し始め、仲間たちとの交流を深めていくが難題を抱え続ける『君を乗せる舟』、幾分気弱な人間に育った伊三次とお文の息子の伊与太を親として案じる姿や伊与太の成長、見習い同心としての不破龍之進たちの活躍、龍之進の妹の茜のきかん気ぶりを描く『雨を見たか』、見習い同心から晴れて番方若同心になり、一人前になっていく不破龍之進の人間的な成長を描いた『我、言擧げず』となっている。それぞれが、それぞれの事件に絡めて展開されているのだが、何よりも作者の人間を見る目が温かいのがいい。

 そして、本書では、不破龍之進は父親と同じ定町廻り同心になっており、不破友之進は臨時廻り同心となり、伊三次の弟子も一人前である。伊三次の息子の伊与太は絵師に弟子入りしているし、娘の「お吉」も成長して九歳となり、賢い少女となっている。龍之進の妹の茜は、その性格通りに剣術の修行に明け暮れくれるはっきりと物を言う女性となり、兄の不破龍之進は二十七歳で、本書はその彼の嫁取りの話である。奉行所の仲間内で、なぜか彼だけがまだ妻帯していなかった。本人の焦りと周囲の思惑、そんなものが交差していくのである。

 第一話「今日を刻む時計」は、伊三次とお文の娘で、賢い少女になっている「お吉」の話から始まる。「お吉」は、父親や母親の状況をよくわかる子だが、母親のお文が芸者をしているために少し寂しい思いをしている。「お吉」の家にはお文が気に入っている女中の「おふさ」が台所仕事をしており、「お吉」は、その「おふさ」からもいろいろなことを学びながら育っている。

 「おふさ」は、葛飾村の農家の出身で、十六の時に同じ農家に嫁いだが、亭主に女がいて、その女が子を産んだために婚家を追い出されて、実家で畑仕事などを手伝っていたところを八丁堀で女中奉公をしないかと誘われて、その奉公先がお文の家だったのである。「おふさ」もお文に似て、はっきりと物を言う女性で、「お吉」が悪さをしたら本気で叱ったりもする。お文は、そこのところも気に入っているのである。この「おふさ」の恋の物語が後に展開される。

 「お吉」の成長ぶりが語られたあと、物語は不破龍之進の現況へと展開する。不破龍之進は、芸者のお文ができりしている芸妓屋に入り浸って、幾分ふしだらな生活をするようになっていた。二十七歳になっても、持ち上がる縁談がことごとく断られ、いくぶん自棄になっていたのである。縁談が断られる理由が、母親がかつて吉原の遊女をしていたからだという。

 お文はそれを聞いて、龍之進の頬を張り倒して、「情けなくって涙が出ますよ」(23ページ)と言い放つ。そして父親の友之進が妻を迎えたときの顛末を次のように啖呵を切って言う。

 「不破の旦那は男でござんすよ。奥様をずっとお慕いしていて、奥様が吉原にいると聞くと矢も楯もたまらず駆けつけたそうだ。若旦那のお祖父様も偉かった。何も言わず奥様の身請け料を工面なすったんだ。奥様は旦那とお舅お姑さんの恩に報いるために、一生懸命、同心の妻になろうと努められた。これまで、若旦那は奥様に僅かでも吉原の匂いを嗅いだことがありましたか?奥様は武家の娘の気質を失っていなかったんだ。わっちはとても奥様の真似なんてできない。それなのに、若旦那は奥様のせいで縁談を断られたと恨んでいるご様子。若旦那がこれほど了見の狭い男だとは思いませんでしたよ」(24ページ)。

 ここでのお文と龍之進のやりとりを読んでいると、しゃきしゃきのきっぱりした女性として、まるでお文が生きてそこでしゃべっているようなリアリティがある。しかし、龍之進はなかなか煮え切らないのである。

 他方、龍之進の妹の十五歳になる茜は、家事も裁縫もだめで、下男の三保蔵を連れて剣術の修行に明け暮れている。

 三保蔵は十年前から不破家で奉公をしている男で、元は盗人である。三保蔵は人足寄場に送られてこともあり、そこから戻った時に、この先真人間になるなら自分が面倒見ようと言って不破友之進が引き取ったのである。その時、三保蔵は四十も半ばになり、若い頃の酒の飲み過ぎで身体を壊しており、身寄りもなかったからである。

 ところが、体調が回復すると、盗人根性が頭をもたげ、不破家から金を盗んで逃げようとしたのである。そこを不破友之進の妻の「いなみ」に見つかってしまう。三保蔵は開き直って、隠し持っていた匕首で「いなみ」を脅した。しかし、「いなみ」は小太刀の使い手だった。「いなみ」は三保蔵を本気で成敗するつもりであった。そこに中間の松助が帰ってきて、間一髪で三保蔵は助かったのである。

 不破友之進は、三保蔵をもう家には置けないといったが、意外にも「いなみ」が、自分は本気で三保蔵を成敗するつもりであったが、運良く助かった。それを神仏の加護と捉え、三保蔵は必ず改心すると、執り成したのである。三保蔵はその一件以来、不破家の下男として働く決心をして、不破家に奉公しているのである。

 その三保蔵を連れて、茜はせっせと剣術の稽古に励むが、自分の力量に限界も感じていた。茜は伊三次とお文の子である伊与太のことも気になるし、「お吉」も妹のようにして可愛がっていた。そして、兄の自堕落ぶりに腹を立てていた。

 伊三次と友之進のそれぞれの子どもたち、伊与太、お吉、龍之進、茜といった構成や展開は、どこか平岩弓枝『御宿かわせみ』を思わせるものがあるのだが、本書の中で、伊三次とお文が住んでいる家の持ち主でもある箸屋の隠居である翁屋八兵衛がもつ櫓時計の話が出てくる。洋式の時計である櫓時計は高価なものだったが、このころ大名や商人たちも持つようになっていた。その時計が暮れ六つの時を刻んだとき、八兵衛が「これのお蔭で時刻をわすれることはなくなったが、・・・何だか寿命が残り少ないよと言われているような気がする」(38ページ)と伊三次に言うのである。つまり、未来を持つ若い者たちと老いていく者たち、そういう組み合わせで物語が進んでいくのである。こういうところが、この作品の温かみを醸し出していくように思われ、そこにこの作品の良さもあるような気がするのである。

 ともあれ、芸者の置屋で自堕落な生活をしていた不破龍之進だったが、日頃の鬱憤が溜まっていた料理屋の板前見習いが、その鬱憤を爆発させて日本橋で無差別に人を刺し、人質を取る事件が勃発し、他の役人たちが手を出せないでいたところに駆けつけてきて、あっという間にその板前見習いを取り押さえて人質を助けるという出来事が起こる。それで奉行所に出所し、芸者の置屋から自宅に帰るきっかけをもつことができて自宅に帰るようになる。

 龍之進はその犯人の取り調べに立ち合い、そこで犯人が、自分があのようなことをしでかしたのは「おっかさんのせいだ」というのを聞く。板前の修行が辛いから、辞めさせてくれといっても聞かず、邪険にされ、店では兄貴分から責められ、切羽詰って凶行に及んだというのである。龍之進は、自分の不幸を母親のせいにし、世の中のせいにする犯人を見るのである。犯人は自分が犯した犯罪を悔いてもいなかった。そして、その姿は、まるで自分と同じだと気づいていくのである。

 その夕、龍之進は、芸者の置屋で自堕落な生活をしていた時に、ねんごろになった「小勘」という女に妻にしろと迫られ、脅される。「小勘」は、「若旦那のおっかさんは吉原の小見世にいた人じゃないですか。立場上もへったくれもありませんよ。どうして吉原の女郎がよくて芸者が駄目なのかしらね。おかしな話じゃないの」と言われてしまう。「女郎を女郎と言って、何が悪いのよ」とまで「小勘」は悪態をつく。龍之進は、「母上を貶めたお前は許せん」と「小勘」の申し出を断る。「小勘」は龍之進を奉行所に訴えるとまで言い出す。

 そこに、伊三次の妻で「小勘」の姐さんでもあるお文が行きあわせてその話を聞き、「小勘」をいさめて、龍之進に「おなごを甘く見ると火傷をしますよ。小勘のことはいい薬になったと思って、これからは気持ちを入れ換えてお勤めに精進してくださいましな」と言い、自分や伊三次が人生を誤ったことがあることを話して、「人はね、変わるんですよ。手前ぇが間違ったことをしたと思ったら、二度としないと肝に銘じ、以後、まっとうに生きて行けば、昔のことなんてチャラになりますよ。また、そう思わなければ生きては行けない」と言う(71ページ)。

 その話を聞いて、龍之進は事件を早急に解決したことで奉行所からもらった祝儀を母親の「いなみ」の手に渡し、「これは母上に差し上げます。お好きなものをお買いなさい」と言い、「いなみ」はその祝儀袋を両手で受けて、その上にぽろぽろ涙をこぼすのである。龍之進は、「お許し下さい。わたしは悪い息子でした」と謝りたかったが、面と向かって言えないので「母上、腹が減りました」と言うのである(7374ページ)。

 伊与太は絵師になる修行をしている。だが、雑用ばかりの毎日だった。早く一人前になって父親の伊三次に楽をさせてやりたいと思っているが、なかなかそうはいかない。伊与太は、明日も明後日も父親は仕事をする。そしてそれは息のやむまで続くのだ、と思って、初めて父親に哀れなものを感じていくのである。

 人は、成長し、老いていく。時計はその時を刻んでいく。第一話「今日を刻む時計」は、過ちや後悔や失敗や喜怒哀楽を刻んで進んでいく時の中での人の姿を描いたものであり、伊三次と友之進の子どもたちが乗り越えなければならない課題をなんとか乗り越えていく姿を醸し出すのである。

2013年4月5日金曜日

千野隆司『夏越しの夜 蕎麦売り平次郎人情帖』


 週末はまた荒れた天気が予想されているが、昨日、今日と、春を感じる暖かい日になっている。昨日は、本当に久しぶりに吉祥寺まで出かけていった。駅の雑踏はともかく、少し行くと武蔵野の面影が色濃く残っていて、横浜とはまた違った風景が広がっていた。京王井の頭線は、昔から好きな路線だったが、これもいいと思ったし、数十年ぶりで留学時代の知人にも会うことができた。

 往復の電車の中で、千野隆司『夏越しの夜 蕎麦売り平次郎人情帖』(2010年 角川春樹事務所 時代小説文庫)をいい作品だと思いながら読んだ。これはシリーズ化されて、おそらくこの次作である『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』(2011年 角川春樹事務所 ハルキ(時代小説)文庫)を先に読んでいたので、遡って読むことになったのだが、短編連作の形式が取られているので、その時も面白いと思っていた。

 物語の主人公の菊園平次郎は、元南町奉行所定町廻り同心だったが、逆恨みした人間によって妻と娘を殺され、貧乏裏店に住みながら屋台の蕎麦売りをしている中年の男である。この平次郎が、同じ裏店に住む住人やふとしたことで関わりを持った人物が抱える事件や出来事に関係していく話で、本作には「覗き見夜鷹」、「芋飯の匂い」、「夏越しの夜」の三話が収められており、この中編三話形式というのも読み手にちょうどよくて、嬉しくさせる構成だと思う。

 「覗き見夜鷹」は、平次郎と同じ貧乏裏店に住み、夜鷹(安手の娼婦)をしている「おてつ」という女性の話で、「おてつ」は、夜鷹にしてはまだ若いが、体を売って金を貯め、その金を高利で貸してさらに金を貯めて、周囲の人々からは金の亡者のように言われている女性である。

 この「おてつ」が何者かに襲われる。「おてつ」が溜め込んでいる金が目当てかと思われたが、どうもそうではなく、「おてつ」の命が狙われていることが次第にわかっていく。「おてつ」は奉行所に訴えたりするが、夜鷹のいうことなど誰も聞いて切れず、日頃から一目置いていた平次郎に自分を狙う犯人を捕まえてくれと依頼する。

 「おてつ」は、三、四歳の頃に両親を火事で失った孤児で、木戸番夫婦に育てられたが、その木戸番夫婦も十一歳の頃に亡くなり、古手屋に奉公に出た天涯孤独の女性だった。だが、そこでやがて、修行に来ていた同じ古手屋の跡取りに見初められて結婚し、子どもも生まれて懸命に働くが、気の強い姑と折り合いが悪く、加えて亭主の女癖も悪くて、身一つで追い出されたのである。子どもを引き取りたかったら、自分で店の一軒でももってみろ、と言われて、それから夜鷹をしながら歯を食いしばりながら小金を貯めていたのである。それまでに彼女の周囲には彼女を助けるものはひとりもいなかった。

 嫌われ者の「おてつ」の身を案じた平次郎は、元は平次郎の小者(手先)であり今は平次郎の屋台の横で同じように屋台の天麩羅屋を出している鶴七や、彼に地酒を安く卸している蔦吉、そして、殺された娘の許嫁で定町廻り同心である北原左之助とともに、「おてつ」の命を狙う犯人がもう一度「おてつ」を襲うだろうと踏んで、「おてつ」の命を狙った犯人を捕まえるのである。

 犯人は、辻斬り強盗の一団で、夜鷹をしている「おてつ」に強盗の現場を見られたと思って、口封じのために「おてつ」を殺そうとしたのである。

 事件の顛末は単純なものであるが、鶴七や蔦吉は、平次郎が同心をしていた頃に助けられたのを恩義と感じ、平次郎に絶対の信頼を置いて、何はさておいても平次郎の頼みを聞くようになり、人情の温かさで動く人間たちであり、平次郎は、誰からも嫌われて相手にされない夜鷹の「おてつ」のために身の危険を顧みずに彼女を守っていく人間で、そういう人間の姿がここで描き出されているのである。

 第二話「芋飯の匂い」も、同じ長屋に住む長谷川忠兵衛という浪人の話である。長谷川忠兵衛はそうとうの剣の使い手で、用心棒や道場破りをして糊口をしのいでいたが、胃に硬いしこりができて倒れる。彼は平次郎の屋台で蕎麦を食べたあとで倒れてしまい、平次郎が長屋にかつぎ込んで医者に見せたところ、病はかなり重く、もう助からないだろうという。

 しかし、彼は病を押して、出かけていく。心配した平次郎が鶴七や蔦吉に後をつけさせたところ、彼は一軒の荒物屋の裏で、隠れるようにしてその荒物屋の内儀と幼い娘の姿をじっと眺めているのであった。彼は平次郎にそのわけをぽつりぽつりと話す。

 その荒物屋の内儀は、かつての彼の妻であったが、家に金を入れることもしないし、妻の「なを」を顧みることもせずに、好き勝手にし、他にいい女はいくらでもいると思い、別れて、金持ちに誘われて大阪に行ったりしたという。彼女は、最初は日雇いの女房だったが、亭主が酒飲みの乱暴者で、同じ長屋にいた長谷川忠兵衛が別れさせ、それから一緒に暮らし始めたと語る。そのあと、蕎麦屋の女中をしていた時に荒物屋に見初められて結婚し、一女をもうけて平穏に暮らしていた。荒物屋の内儀としてしっかり働き、店を盛り上げて夫婦仲も良い。長谷川忠兵衛は己を後悔して、その彼女の幸せをそっと見守っていたのである。

 平次郎は、その長谷川忠兵衛のために「芋飯」をもってくるが、そのとき、長谷川忠兵衛は、自分は元の妻といたときに金がなくて「芋飯」ばかり食わされ、その貧乏臭さも嫌だったといいながら、そういう自分を恥じて、平次郎が持ってきた「芋飯」を美味しそうに食べたりする。彼は、今となってはただただ、元妻の平穏な暮らしを願うばかりだと語る。

 ところが、その荒物屋が騙りにあって、店が潰れそうになる。同業の荒物屋の借金の保証人になり、大金の返済を迫られて、店を手放さなくてはならなくなりそうになり、元の妻の平穏を願う長谷川忠兵衛は、それを案じていたのである。平次郎は、その騙りの背後に、巧妙に仕組まれた際物師の頭と同業の荒物屋の悪巧みを鶴七や蔦吉を使って探り出し荒物屋の家族を救っていくのである。もちろん、長谷川忠兵衛も病を押してその闘いをするが、自ら名乗り出ることはない。平次郎は、そういう長谷川忠兵衛の心を大事にしながら、彼を見守っていくのである。

 第三話「夏越しの夜」は、平次郎を商売敵として彼を追い出そうとする同じ屋台の蕎麦屋とその息子の話である。

 熊十は、人通りが多い芝橋の袂で蕎麦の露天を出していたが、自分が売る蕎麦よりも少し値が高いにもかかわらず、うまいと言われる平次郎の屋台が店を出すことを妨害するような男だった。平次郎は争いを避けて、ほかの橋の袂で店を出していたが、振売りであり、ときに露骨な熊十の妨害にあうこともあった。

 熊十には一人息子がいたが、ぐれて博打などにも手を出し、勘当されて地回りの手先などもしていた。息子は、いつまでたっても下っ端であったが、あるとき、その地回りが囲っている女性がひどい折檻を受けて乱暴され、彼に助けを求め、彼はその女性を連れて逃げるのである。地回りは、逃げた熊十の息子と女を捜し出して殺すと息巻き、熊十の店に行って嫌がらせをしたり、手ひどい仕打ちをしたりして行くへを聞き出そうとする。

 ぼろを着て物貰いをしながら生活をし、月に一度か二度、平次郎の旨い蕎麦を食べるのを楽しみしている丑は、貰い金の運上を収めるために地回りの家にも行っていたが、あるとき熊十の行動に不信を抱き、そのあとを地回りの手先がつけていることに気がついた。そして、事情を察するのである。

 また、熊十の屋台が乱暴されていることを聞いた平次郎は、その場に駆けつけてそれを収めて、そこに丑がいることに気がついて、事情を尋ねてみた。そして、熊十の息子と女が逃げて、それを地回りが探しているという事情を聞く。地回りには凄腕の用心棒もついていた。

 平次郎は、それをなんとかしようと、鶴七や蔦吉、長屋の老婆の「お船」などの手を借りて、熊十の息子と女を捜し出し、これを助けようと一計を立てる。地回りは口入れ屋稼業(人材斡旋)をしており、大名行列の際に出す雇い中間の人数をごまかして、暴利を得ていたことをつきとめ、その証文を丑に盗み出させて、熊十の息子と女の身柄の安全と交換しようとするのである。死を目前にした長谷川忠兵衛も平次郎たちに味方し、ことは収まる。平次郎は、熊十の息子に心を入れ替えて働けといい、熊十の息子と女は夫婦になって父親を助けて働くようになるのである。平次郎は、文字も読めるし、高価な味醂の味も知っている不思議な丑に、その働きを報じて、一月間、毎日蕎麦を食べさせることにして、物語が終わる。

 本書は、書き下ろし作品ではあるが、書下ろしとは思えない丁寧な展開と人物像があり、貧乏長屋に生きる人物がそれぞれの人生を含めて取り上げられて、大変面白く読める作品であると思う。

2013年4月3日水曜日

山本兼一『狂い咲き政宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎』


 春の嵐になった。雨はともかく、風が時折強く吹き荒れていく。もちろん気温は低く寒い。咲き残っていた桜も、これで散ってしまうだろう。

 昨日、雨の音を聞きながら、山本兼一『狂い咲き政宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎』(2008年 講談社)を比較的面白く読んだ。この作家の作品は、前に『とびきり屋見立て帖』『千両花嫁』(2008年 文藝春秋社)『ええもんひとつ』(2010年 文藝春秋社)を読んで、その二作は、幕末の京都を舞台にした古道具の「目利き(鑑定眼)」に加えて人間の「ほんもの」を見分けていくことが主題となっていた。そして、本書は、刀剣の鑑定眼を中心にした短編連作になっている。作者は、「本物」とそれを見分けることができる人間に関心があるのだろうと思う。「本物」を見分けることは、人であれ物であれ、実に難しい。

 本作の主人公の「ちょうじ屋光三郎」は、父親が将軍家のお腰物奉行(刀剣の管理をする)をしている関係から、幼い頃から刀の美しさに魅了された旗本の息子で、それだけにしっかりした刀剣の鑑定眼をもつようになり、やがて、名刀中の名刀とまで言われた政宗を巡って父親と意見が合わなくなり、激突して、勘当され、刀剣商である「ちょうじ屋」の入婿となった人物である。

 刀は、言うまでもなく人殺しの道具であり、武器であるが、日本刀は一級の芸術品でもあり、それを持つ者の象徴でもあった。武家が政治と社会の中枢に置かれるようになってからは、刀は権力の象徴ともなり、「武士の魂」とも呼ばれるようになっていくが、刀は極めて高価であり、優れた刀を持つことは豊かさの象徴でもあった。そのために、刀をめぐる争いもしばしば起きており、本書は、そうした日本刀をめぐる様々な事柄、特に「ほんもの」を見極めていくことについてや刀をめぐる争いなどを展開していくもので、そこに人間の姿も映し出されていくものとなっている。

 表題作ともなっている最初の「狂い咲き政宗」は、将軍のお腰物奉行を務める旗本の嫡男であった主人公が、武士をやめて刀剣商の「ちょうじ屋」に入婿となり、名を光三郎と改めていく経過が記されているが、権威づけられていた「政宗」という名刀が、いずれもただ金や権威づけのためにそう呼ばれるだけで、本当はその真贋が怪しいものではないかと主張して、父親の勘気を買ってしまい、勘当されるのである。

 時は、ペリーが浦賀にやってきて幕府の権威が表面切って揺らぎ始めた時代であり、「本物の刀の見分け」を志す光三郎は世の権威というものに否を言うのである。

 折しも、幕閣では、揺らぎ始めた将軍家の権威を示すために将軍家の佩刀の中でも最高のものと言われた「政宗」で堅物の試し切りをして吉凶を占う案が出され(この当時の幕府はこの程度のことしか考えられなかったのは事実である)、お腰物奉行である黒沢勝義が事前に試したところ、その「政宗」が真っ二つに折れてしまい、事は内密を要するので、何とかして同じ「政宗」を捜して欲しいと息子の光三郎のところに話を持ち込むのである。

 光三郎は、彼が出入りしていた刀鍛冶の山浦清麿にそっくり同じ刀を作らせる。山浦清麿は「四谷政宗」と呼ばれるほどの腕を持ち、光三郎はその弟子としてその鍛冶場に出入りしていたのである。そして、山浦清麿が作った刀は、「政宗」として見事に兜を斬る。幕閣は、「神君家康公のご遺徳が生きておる」と喜ぶが、将軍家慶の病状は悪化して、それからひと月後に死去する。

 光三郎は事の真相を父親に明らかして、将軍家の蔵にある備前長船長光と来国光も実は自分がすり替えた贋作だといい、さらに、山浦清麿が作った「政宗」も、その弟子である鍛冶平こと細田平次郎直光という男と自分が打ったものだと言う。事の真贋というのは、このようなもので、世の権威というものはあてにならないと父親にぎゃふんといわせるのである。

 第二話「心中むらくも村正」は、妖刀と言われ将軍家から忌み嫌われた「村正」をもったお指物奉行配下の御家人の話で、「村正」銘の刀を持つことだけで謀反と受け取られないことを案じた光三郎の父が、その「村正」の出処を探るように依頼されるのである。

 「村正」を持っていた御家人は、吉原の花魁からそれをもらったということで、光三郎は、新婚の妻の悋気を感じつつも、吉原に行ってその花魁と会う。花魁の心を開かせ、話を聞くために、妻の悋気を気にしながらも光三郎は吉原に通い、その花魁も彼を信用して話をするようになる。

 彼女は、「ひな菊」という源氏名をもつ女性だが、先祖は九州の取り潰された大名だという。調べてみると、豊後府内(大分)の竹中采女正重義の名前が上がる。竹中重義は、1629年(寛永9年)に長崎奉行となり、壮絶なキリシタン弾圧を行った。踏み絵を行ったのも彼である。ところが、平野屋三郎右衛門の美人の妾に横恋慕し、彼女を奪い取って、平野屋を取り潰して全財産を没収し、彼女の兄まで投獄するという横暴を働いた。平野屋はその横暴さを幕府に訴え、加えて、長崎奉行の権勢を笠に着て私腹を肥やし、密貿易までしたいたことが発覚し、家名断絶の処分を受けたのである。そして、幕府が竹中の屋敷を調べると、そこに多数の村正が所蔵されており、これによって、謀反人として、その子とともに切腹を命じられている。

 「ひな菊」のとろこにその先祖伝来の村正があったのかもしれないということになり、「ひな菊」は惚れたお指物奉行にそれを渡して、金に変え、身請け金にしてもらおうとしたのである。しかし、妖刀と嫌われた村正はおいそれとは売れなかったのである。そして、その御家人と「ひな菊」は、別の村正銘の小刀で心中を遂げるのである。

 第三話「酒しぶき清麿」は、「四谷政宗」とまで評判を取り、光三郎が刀鍛冶の師として仰ぐ山浦清麿の話で、酒浸りとなり、女房に逃げられて仕事をしない清麿の身を案じて、彼の女房を捜し出し、なんとか立ち直らせていく話で、清麿の女房に対する想いと女房の清麿に対する想いが交差して、人が愛する者によって生きていく姿がしみじみと描かれる。

 第四話「康継あおい慕情」は、徳川家康に気に入られて代々将軍家のお抱え鍛冶師となり、代々「康継」の名を継承している康継作の名刀を巡る話である。

 刀剣商として生きている光三郎は、お腰物奉行をしている父から初代康継の名刀を見せられる。ある旗本が家康から直々に拝領したもので、それを売って欲しいと依頼されるのである。値段は500両という途方もない金額だが、茎(なかご)に初代康継が家康と秀忠の二人から江戸に召された時の記念に作ったものだと彫ってあり、世に二つとない刀であった。それにしても少し高めの値段であった。

 ところが、相州屋という刀剣商がそれを買うという。光三郎はその刀を相州屋に500両で売ることができたが、実はそこに裏があった。刀を売りに出した旗本は、父の黒沢勝義の友人の家で、大御番組の組頭をしていたが、早世したため、一人娘が婿をとって家督を継いだ。ところが、その婿も死んでしまい、子がなかったために東縁の男子を養子にすることになった。ところが、上司に当たる大御番頭の橋本監物という人物がその末期養子を認めないと言いだしたのである。そして、それを認めるには500両の金がいると言う。収賄を要求したのである。そこで困り果てた旗本家では、伝来の家宝の康継の刀を売ることにし、黒沢勝義が一肌脱いだという経緯があった。

 康継の刀は500両で売れ、金は橋本監物に渡って丸く収まるはずだったが、末期養子を認めるにあたって、家康から拝領した家宝の康継の刀を確認させろと言い出すのである。橋本監物は刀剣商の相州屋と結託し、康継の刀を手に入れ、さらに旗本家を取り潰して、新たに組頭になる家からも賂を取ろうと企てたのであった。

 黒沢勝義は、友人の旗本家のために康継を取り返して欲しいと光三郎に依頼するのである。どうも亡くなった友人の妻女と少なからぬ因縁もあるようである。

 光三郎は、茎(なかご)に家康と秀忠が駿府で槌を握った初代康継の作という銘を入れていた贋作を仲間の鍛冶平と作り、十一代目の康継を訪ねる。彼は、十一代目の康継と知り合いで、幼い頃から康継の鍛冶場に出入りしており、彼の力を借りて橋本監物から刀を取り返す策を練るのである。十一代目の康継が、家康と秀忠が槌を振るった初代康継を売りに出そうとしているという噂を流し、橋本監物の康継好きに乗じようというわけである。その値段は千両だが、500両と先の旗本家から取り上げた初代康継の刀でもいいということにして、さっそく相州屋と橋本監物がそれに食いついた。

 こうして、光三郎は500両と刀を取り返し、旗本家は事無きを得ていくのである。その後で、光三郎は父親と初老の婦人が料理屋で食事をするために船に乗っているのを目撃し、若い頃の父親の恋を見たような気がして、声を上げて笑う。痛快な結末で、刀には贋作や収賄が絡んでいくから、こういう痛快さが本書の真骨頂になっている。

 以下、「うわき国広」、「浪花みやげ助広」、「だいきち虎徹」とそれぞれの刀にまつわる物語が続くが、いずれも人間の執着心や欲、あるいは不安や恐れというものがテーマになった作品で、真贋を見分け、「ほんもの」を見ようとする光三郎の知恵に満ちた活躍が展開されている。物語の展開は、ここでは割愛するが、日本刀にはそれぞれの作によって刀の相というものがあるような気がする。国広は優しいし、虎徹を好む人間は闘いが好きなような気がするが、どうだろう。

 ともあれ、物事の「目利き」、特に「人間の目利き」というのは、なかなか難しい。人の目は曇りやすく、目の前の現象に目が移ってしまうからである。「これ」といった人間に出会うことは、特に一生を左右することでもあるが、贋者だらけの現代では特に難しいと思う。作者はそうとうな凝り性と思うが、この作品も面白く読めた作品であった。

2013年4月1日月曜日

和田竜『忍びの国』


 今年の春は、行きつ戻りつで、気温の変化が激しく、昨日もひどく寒い日で、体調管理の難しい季節になっているが、ようやく春本番の4月になった。今月から時間が少し慌ただしく過ぎていくような気がしないでもない。

 昨夜は、和田竜『忍びの国』(2008年 新潮社)を面白く読んでいた。1590年(天正18年)に現在の埼玉県行田市にある忍(おす)城の攻防を描いた『のぼうの城』(2007年 小学館)に続く作者の2作品目の作品である。

 『忍びの国』は、その表題のとおり、伊賀忍者で知られる伊賀の「丸山合戦」(1578年天正6年)と言われる戦いの攻防を描いたもので、物語は、伊賀に隣接していた伊勢の北畠具教(きたばたけ とものり 15281576年)の暗殺から始まる。

 北畠家は歴代、伊勢の国司であったが、織田信長の伊勢侵攻で敗れ、八代目の具教が暗殺されたことで途絶える。北畠具教は、織田信長と、信長の次男で北畠具教の婿養子となっていた織田信雄(おだ のぶかつ)の命で、旧臣の長野左京亮や加留左京進によって暗殺されたと言われるが、本書では加留左京進は登場せずに、代わりに、武士の誇りを強烈に持つ人物としての日置大膳と、かつては伊賀忍者であったが、伊賀の忍者集団のあまりの非人間性のために伊賀を捨てて織田信雄についた柘植三郎左衛門を登場させる。

 こうした登場人物像の設定は、本書の中心的な流れに関係しており、物語は、非人間性をもつ伊賀の忍びの代表としての一流の技を持つ「無門」(この人物の前では防御門は無きに等しいという意味でこの名が付けられている)という人物と、武士の矜持に生きる日置大膳、そして、その間で揺れる柘植三郎左衛門の姿を中心にして、「戦う集団」であった伊賀忍者の姿を描くことで、「人間とは何か」を問いかけようとするものとなっているのである。

 日置大膳は、かつての主君を暗殺することに躊躇しつつも、暗殺団の一人に加わるが、そうした自分の所業を恥じて、武士であることを純粋に誇りとする武辺一辺倒の無骨な人間になることへと進んでいく。彼は日置流の弓の名手であるとともに、その武功は伊勢で並ぶ者がないと言われるほどの剛直な人物として描かれる。

他方、戦闘集団としての伊賀忍者は、ただ己の利だけで生きる刹那主義的な人間の集団として描き出され、百地三太夫らの伊賀忍者の頭たちは、若くて凡庸な織田信雄を伊賀との戦に引きづり込んで、これを撃つことで名を挙げ、諸国の諸大名たちに自分たちを高く売り込むことを画策していくのである。彼らは肉親の情もなく、それぞれに利用し合うだけで、息子が殺されても平然とし、人の心理の隙をついて物事を画策していくだけである。

 こうした伊賀忍者のあり方に嫌気がさして、かつては伊賀忍者の頭領の一人でもあった柘植三郎左衛門は、伊賀忍者のようなものがあってはならないと考え、織田信長のもとに走り、織田信雄の家臣となって伊賀殲滅を考えていたのである。

 また、愛する弟を殺されても平然としているばかりか、実は弟を殺させて織田信雄を戦に引き込もうと画策するような父親の姿に愕然とした下山平兵衛も伊賀の滅亡を望んで、信雄のもとに走るのである。しかしそれもまた伊賀の頭領たちの心理作戦の一つだったのである。

 こういう中で、伊賀の中でも超一流と言われるほどの腕をもつ「無門」という人物が異彩を放っていく。彼は、百地三太夫によってどこからか連れてこられて、厳しい忍びとしての修行を重ね、驚くべき技を発揮するようになった。彼もまた「銭、銭」の人間であるが、自由人としての闊達さや人間らしさを温存させているところがあるのである。

 彼には「お国」という妻がいる。京都の武家の家からさらってきたのであるが、「お国」は、勝気な女性で、平然と、苦労をかけないと言ったのだから、月に40貫の銭を稼いでくるまでは寝屋を共にしないと豪語し、「無門」は彼女に頭が上がらないのである。誰もが恐るほどの「無門」だが、「お国」の前ではただの腰抜け夫に成り下がるのである。

 だが、「無門」は命懸けで「お国」を守る。「お国」を傷つけようとするものがあれば、的であれ味方であれ、彼は容赦なく敢然と戦うのである。彼にとって「お国」は、自分が人間であることの最後の砦であり、彼女を大切にすることが人間であることの証であるからである。

 伊賀の頭領たちの画策で、織田信雄は次第に伊賀攻めへと駆り立てられていく。信長という偉大すぎる父を持つ信雄は、鬱屈した精神の持ち主で、その隙をつけ込まれるのである。

 こうして、1578年(天正6年)の「丸山合戦」の火蓋が切られていく。戦闘は激烈で、日置大膳らの働きで伊賀は破れそうになるが、「無門」の活躍がめざましく、織田信雄は敗戦の憂き目を見ることになる。この戦で、人間らしさを求めた柘植三郎左衛門は死ぬ。

 戦に勝った伊賀の頭領たちは、彼らの思惑通りにことが運びほくそえむ。しかし、この戦の中で「お国」を失った「無門」は、伊賀の非人間性を思い知り、伊賀にも織田信長にも与しない自由人として生きていく道を選んでいくのである。織田信雄は戦には敗れたが、そのことで人間として、武将として成長する。そして、伊賀は、結局は、1581年(天正9年)、織田信長の大軍によって滅ぼし尽くされるのである。

 なお、この作品には、後に石川五右衛門となる人物も登場し、「利」を求める伊賀忍者の一人として描かれている。そして、伊賀の忍者集団が生来的にもつ非人間性が全国にはびこってきという図式が描かれていく。

 利を求める人間と義理を重んじる人間、そして利からも義理からも自由で、自分の愛を大切にする人間。この作品にはそうした人間模様が、伊賀の国の攻防戦を通して描かれているのである。

 天の下の何ものにも属さない。しかし、属さないで生きていくには力が必要。そうかもしれないが、力がなくても、何ものにも属さないで自由な人間として生きる道もある。そんなことを思いながら、この本を読み終えた。