今日も晴れたり曇ったりの蒸し暑い日になった。夜は雨かも知れない。昨日、寝室に置いているサンセベリアが新しい株を作って芽を出しているに気づいた。以前、葉が広がりすぎていたので植え替えていたのが効を出したのかも知れない。
昨夜、あまりよく寝付けないままに鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 おっかあ』(2009年 双葉文庫)を読み始め、面白くなって一気に読み終えた。巻末の書店の広告からこのシリーズがたくさん書かれており、既に18冊が出版されているようだ。『おっかあ』は、その15作目である。
このシリーズは、まだこれ一冊しか読んでいないのだが、物語の「爽快感」というのが全編にみなぎっているように思われる。
娯楽時代小説の「爽快感」は、まず、主人公が一見したところ弱々しく見えるのだが実は凄腕の持ち主で、いざとなった時にその力が見事に発露していくことと、主人公が対峙する悪が、本当にどうしようもなく巧妙で狡猾、欲の塊のような人間であること。そして、主人公を取り巻く人間模様が爽やかで「情」に厚いことである。
本書の主人公は、傘張り牢人の貧乏暮らしをしている58歳の高齢の華町源九郎と、これもまた50歳を過ぎた居合抜きを大道芸にして糊口を潤している菅井紋太夫、元岡っ引きで還暦を過ぎて隠居している酒好きの孫六、包丁研ぎなどをしている茂次と砂絵描きの三太郎といったその日暮らしの町人である。いずれも世の中の役に立ちそうもない人間たちである。源九郎たちは、回向院の裏手の相生町にある通称「はぐれ長屋」に住んでいる。
源九郎と紋太夫は、いずれも高齢であり、その日の暮らしにも困る貧乏暮らしで、「ジジイ」と罵られたりするが、源九郎は鏡新明智流の達人であり、紋太夫は田宮流居合いの達人である。また、還暦を過ぎて老いぼれてはいるが孫六は探索名人の名岡っ引きである。
こういう主人公たちの設定そのものが、何とも嬉しくなる設定であり、それぞれに「人間くささ」も十分に醸し出されている。主人公たちの中心である華町源九郎は、娘のように年の離れた「お吟」と情を通じており、時折その色香にくらくらする。「お吟」は、かつては女掏摸であったが、源九郎に命を助けられ、今は、「浜乃屋」という小さな料理屋の女将で、源九郎に惚れている。
彼らが住む「はぐれ長屋」の近辺で、少年たちが徒党を組んで粋がり、あげくに商家を強請って金を巻き上げるという事件が頻発した。深川の材木問屋から強請られているので何とかしてほしいと依頼を受けた源九郎は、その依頼を五人で引き受けることにして、強請の現場に立ち会い、少年たちを諫めるが、そのことによって五人がそれぞれに命を狙われるようになる。どうもその裏に、尋常ではない悪が潜んでいるようである。
少年たちは粋がって町を闊歩しているうちに、やくざに手なずけられ、強請の片棒を担いで次第に抜けられなくなっていくのである。「はぐれ長屋」の住人の息子も、その悪に引きずり込まれていく。彼らの狼藉は次第に度を超すようになっていくが、その裏で暗躍していたのは、悪を悪とも思わず強請りや強盗を当たり前にしている欲の塊であるやくざである。凄腕の用心棒もいる。
そして、やくざの一員になって悪を働こうとする「はぐれ長屋」の住人の息子を母親が身をもって救い出そうとしたり、主人公たち五人がそれぞれに知恵と力を発揮して、裏で少年たちを操っていたやくざの捕縛に手を貸していったりするのである。
悪に染まりそうになる少年を救い出すのは母親の必死さであり、一見老いぼれて役に立ちそうもない主人公たちが諸悪の根源を摘み取っていく。彼らは、よたよたとではあるが胸のすく活躍をするのである。「はぐれ長屋」の住人たちの貧乏暮らしの助け合いもある。もちろん、凄腕のやくざの用心棒と源九浪、紋太夫との立ち会いも、作者が自ら剣道をするだけに堂に入っている。こういう人物の設定と物語の展開が、「爽快」でないわけはない。
この作品が書かれた頃、少年たちが引き起こす理由なき残虐な殺人事件や、徒党を組んでの弱いホームレスの虐待事件が頻発した。そういう現代の時代背景も、この作品の背景にはあるかも知れない。21世紀の初め頃から、青少年を取り巻く状況が閉鎖的になって、まじめに自分の問題や課題に取り組むものと、何となくやけになって世をすねて暴れる者とに世相が二分した嫌いがある。多くが「生きる意味」を探しあぐねている。そういう背景が、この昨品にはあるような気がするのである。
そしてそれゆえにこそ、貧しく、高齢となり、その日暮らしを余儀なくされている中で、それでも懸命に生きたり、「情」を大事にしたり、爽快に生きたりする本書の主人公たちの姿が光っていくように思われるのである。
いずれにしろ、「面白く読める」シリーズである。
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