気温は高くないが、抜けるような冬の蒼空が広がっている。葉の落ちた銀杏の細枝が天を指している。このところ季節の忙しさと合わせて、春から夏にかけて書いた『彷徨える実存-F.カフカ』を掲載する雑誌の校正などに時間を取られていた。これは印刷物として出すのだが、この論文はPDFにしてご希望の方に配信することにした。
その間、夜に千野隆司『霊岸島捕物控 新川河岸迷い酒』(2003年 学習研究社)を面白く読んだ。これは、多分、先の『大川端ふたり舟』に続くシリーズの2作目だろう。変わらずに濃密で繊細な推理の組み立てがされて、多くのどんでん返しが用意されている。先の『大川端ふたり舟』が、隅田川河口にある霊岸島の岡っ引きの娘「お妙」を中心にして描かれたのに比し、本作はその父親である岡っ引きの五郎蔵の姿を中心に、霊岸島に多くあった酒問屋の乗っ取り事件に関連した話が展開されている。
物語は五郎蔵の縄張り内で酒臭い小便をかけられて男が殺される事件が連続して起こるところから始められている。その犯人の探索と同時に、五郎蔵は酒問屋同士の仕入れ量にまつわる約定破りの探索を始めていた。江戸幕府は当時の経済の基盤であった米を使う酒造りとその流通には厳密な統制を強いていたが、米価の下落を防ぐために、宝暦4年(1754年)と文化3年(1806年)に「勝手造り令」を出して、酒製造の統制をゆるめた。作品は文化3年の大火の後の「勝手造り令」のことである。
この「勝手造り令」によって江戸酒問屋の酒の仕入れ量は自由化されたが、酒問屋の株仲間では酒の価格を維持するために厳密な仕入れ量に関する取り決めをしていた。しかし、その約定を破って大量の酒を仕入れて売りさばき莫大な利益を得ることをもくろむ者が出ると五郎蔵は考えていた。そういう問屋を探し出して、脅しをかけて多額の口止め料をいただこうと考えていたのである。
江戸の岡っ引きの生計については、佐藤雅美の『半次捕物控』のシリーズでも詳細に検証されているが、「引合を抜く」(軽犯罪の罪を見逃すことで、犯罪にかかる費用を軽減するための手数料を得ていくこと)ことや、商家からの袖の下(事件が起こった時にもみ消してもらう)をもらうことが大きな収入源であったのだから、五郎蔵が酒問屋から口止め料を取ろうとしたのは岡っ引きとしては当然のことであり、市中の治安維持と社会生活の円滑化の役割も果たしたことであった。もちろん、よこしまで強欲な「悪の塊」のような岡っ引きも多数存在したが、武家社会の支配の中で町人が生き抜く弁法としてそうした行為が行われていたのである。
五郎蔵は、その意味では「まともな」岡っ引きであり、正義感も義侠心も強い。娘の「お妙」も正義感も強く人情家であり、他の点では父親の五郎蔵と反目しているが、その点では父親を認めている。だが、殺して酒臭い小便をかける犯人の探索も、約定破りの酒問屋の探索もなかなか進まない。
五郎蔵が廻る酒問屋のひとつに、彼の幼なじみの「お喜和」がきりもりする「丹波屋」という酒問屋があった。「お喜和」は小さな甘味屋の娘であったが母親がひどい女で、男を作り逃げて、地回り(やくざ)と結託して、借金の形に甘味屋を脅し取ろうと画策したりする女であった。当時、五郎蔵は塩問屋の手代をしていたが、甘味屋に脅しをかける地回りを追い払った。そしてそのことを恨みに思った地回りから狙われ、五郎蔵は地回りを打ちのめした。しかし、そのことで五郎蔵は塩問屋を首になり、その五郎蔵を土地の親分として親しまれていた岡っ引きが手先として使ってくれたのである。
「お喜和」は五郎蔵に思いを寄せていた。五郎蔵も妹のようにして接していた。五郎蔵と「お喜和」の縁談話がないわけではなかった。だが、五郎蔵は好きな女があり、その女との間に子もでき(その子が「お妙」)、所帯を持った。そして、「お喜和」は、このままいけば落ちるところまで落ちるだろうと言われるほど荒れた。見かねた五郎蔵が意見をしに行った時、「お喜和」は自分の長年の思いを伝え、「一度だけ抱いて。そしたら、まっとうな暮らしに戻るから」(77ページ)と言って、一度だけ関係を持った。五郎蔵と「お喜和」の間には、そういう関係があったのである。
その後「お喜和」は約束どおりまっとうな暮らしをはじめ、父親の葬儀の際に酒問屋の「丹波屋」から見初められ、後妻となり、主亡き後、弟と丹波屋を盛り上げてきていたのだった。「お喜和」は三十八歳になるが、美貌のきりりとしたいい女であり、色香もある。いろいろな噂もあるが、毅然として酒問屋の女主として見事に店をきりもりしている。知恵も度胸もある。
だが、この「お喜和」が、初春新酒番船で賑わう河岸から誰かに突き落とされる事件が起こる。いつも誰かにつけ狙われている気配もある。酒の仕入れ量の約束破り問屋を探索していた五郎蔵もそれを案じ、いつしかふたりの間に微妙な関係が生じてくる。「お喜和」は再び酒樽をころがされて狙われる事件が起こり、五郎蔵を頼りにするようになる。五郎蔵は、小料理屋を営む「お紋」という女性を生涯共にする女性と決めているが、「お喜和」との間の微妙な関係でも揺れていく。「お紋」は、五郎蔵の子を宿している。
その「お喜和」の事件の背後には、酒問屋のまとめ役であった「大垣屋」の巧妙に仕組んだ乗っ取りがあったのである。酒の積み出し量から荷揚げ量まで粘り強く丹念に調べていた五郎蔵は、まとめ役でありながら自らの利のために約定破りを企み、巧妙な乗っ取り計画を企む「大垣屋」の正体を暴いていく。「大垣屋」は幕府の勘定吟味役も取り込み、大がかりな仕掛けをしていたのである。
だが、実はそのこと自体も店を守ろうとする「お喜和」の計算であったことが判明していく。殺した遺体に酒臭い小便をかけていた男もつかまる。先の火事で女房と子どもを失い、酒に逃れていた小心者の職人だった。だが、「丹波屋」の番頭を殺したのは自分ではないと言う。そして、殺した者に酒臭い小便をかけていた酒乱の事件を利用して、裏切った番頭を殺したのが、「お喜和」と共に店を守ろうとしていた弟であったことがわかっていく。
事件の顛末はだいたい以上のようなことではあるが、展開は丁寧で微細なところにもしっかりとした仕掛けが施されている。きめの細かい丁寧な物語の推移の中で、ひとりの女性が、思う男とは添い遂げられなかったが、それでも結婚した相手との生活を慈しみ、亭主が亡くなった後の店を立派にきりもりし、それを守ろうと懸命になり、様々な噂や風聞の中でも毅然とし、言い寄ってくる様々な男の色欲をうまくかわしながら、生き抜いていく姿がいろいろな場面の中で描き出される。計算もする。画策もする。だが愛する男への思いを胸の底に秘めながら、きっぱりと江戸ところ払いとなって五郎蔵の前を去っていく。その生き方には、どこかすごみすらある。
こういう女性と、その間で揺れる五郎蔵の姿を、本作は見事に描き出している。この作品の優れたところは、欲や保身をする人間も登場するが、根っからの悪意をもった人間がいないところだろう。犯罪は起こる。事件も起こる。だが、それぞれに犯人には事件を起こしてしまう弱さがあり、それぞれの弱さが描き出されるところである。人はそれぞれの事情の中で罪を犯す。その事情は自分勝手なものに過ぎないが、その自分勝手になってしまう「弱さ」が丹念に描かれるところが、本作を読み応えのあるものにしている。それは、事件を探索する岡っ引きの五郎蔵の姿にも明瞭に描かれるものである。五郎蔵は愛する「お紋」との関係、娘の「お妙」との関係に心底悩んでいく人間である。人間のリアリティーということから言えば、そこにこそリアリティーがあるのだから、その意味で内容が豊かな作品だとおもう。優れたミステリー仕立ての「捕物帳」物であると同時に、人間が描かれるところがいい。
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