2010年12月15日水曜日

米村圭伍『風流冷飯伝』

 よく晴れていたが気温が低く、黄昏時から雲が広がって冷え冷えとしてきた。明日からはまた寒さが一段と厳しくなるという予報が出ている。葉の落ちた木々の梢も震えている。

 だが、米村圭伍『風流冷飯伝』(1999年 新潮社)を、その軽妙で奇想天外な着想を楽しみつつ読んだ。本のカバーの裏に記された作者の略歴によれば、作者は1956年横須賀生まれで、1997年に『安政の遠足異聞』で菊池寛ドラマ賞佳作に入選され、1999年に本書で小説新潮長編新人賞を受賞して、本格的な作家活動を始められたようで、「圭伍」という作家名は佳作ばかり五回入選されたことによるらしい。

 この作者のことについては全く無知であったが、わたしがこの本を手に取ったのは、その題名の面白さに惹かれたからで、「冷飯伝」とあるから居場所のない武家の次男か三男の「冷や飯喰い」の境遇にあった誰かの生涯を描いたものかと思ったら、そうではなく、作者が創作したと思える四国の風見藩という小藩を舞台にした少し風変わりな「冷や飯喰いたち」を中心にした小説で、語り口も軽妙なら物語の展開も軽妙で、しかしながら時代や社会に対する風刺も洒落ている、いわゆる「気楽に楽しめる小説」だった。

 物語の中心になるのは、目立つ桜色の羽織を着込んだ吉原の幇間(たいこもち-宴の座を楽しく取り持つ者-)「一八」と、彼が風見藩で知り合った武家の次男の飛旗数馬で、幇間である一八と物事に拘泥せずにのんびりとして心優しい純粋な数馬の絶妙な掛け合いの中で物語が進んで行く。幇間が主人公なのだから、その語り口は洒落に富んでいるのだが、歴史的な知識や文学的な知識も洒落の中にきちんと収められている。

 ともあれ、一八は、幇間ではあるが、老中田沼意次から風見藩を探索するように命じられた隠密の手先として風見藩にやってきて、そこで「見る」ことが趣味だという風変わりでのんびりしている飛旗数馬と知り合うのである。そして、この数馬を通して、他の「冷や飯喰い(武家の次男や三男)」と知り合っていく。数馬の無欲ぶりも群を抜いているし、数馬の双子の兄や兄嫁も特色があるが、そこで知り合った「冷や飯喰い」たちは、皆、一風変わっている。

 お互いがもっている手製の将棋盤と駒を持ち寄って数馬の家で将棋を指している男たち、真っ黒になって毎日魚釣りばかりしている男、身体が大きいので身の置き所がないと思って、自分の物を整理し、ついには自分自身まで整理しようと考えている男、そういう武家の次男や三男が数馬の友人として日々を暇つぶしの穀潰しとして過ごしているのである。

 その風見藩自体に風変わりな慣習や規則がある。まず、城そのものが二層半という中途半端な天守閣をもち、開けた湊(港)の方ではなく南の山側を向いており、武家町も南にあって、通常なら武家が出入りする大手門はその武家町の方にあるのだが、風見藩では大手門は町人町の方に、搦手門(裏門)が武家町の方にあるという門が逆になった造りになっている。そして、男は城を左回りに、女は右回りに廻るように定められているという。つまり、武士はもし右隣に行こうと思うなら城を左回りに一周しなければならないのである。

 さらに、武家の長男は囲碁将棋が禁じられ、武士が対面を隠すために頬かむりなどをして顔を隠してはならない、などの武家の規則が設けられているのである。それらは風見藩の先々代の藩主が定めたものだという。

 その風変わりな風見藩で吉原の幇間を装いながら隠密の手先として一八が探索するのは、藩で一番将棋の強い者とその腕前の程度という、真に人をくった内容だが、それが実は、老中田沼意次が企む藩の取り潰し計画と関係しているという大事へと繋がっていく。

 藩主が帰国して、突然、藩の将棋所を作ると言い出す。将棋はそれまで禁じられていたので藩をあげての大騒動となる。その騒動で一八は、二年前に江戸で流行った流行歌に謎があることに気づき、城の改築を賭けた将軍家治との将棋の勝負が行われることを突きとめていく。田沼意次は、その勝負に勝っても負けても藩を取り潰す腹らしい。

 物語の後半では、展開が一気に進んで行くように構成されている。藩では、将軍との将棋の試合をする人物を選抜する試合が行われ、将棋道を極めようとした人物が慢心から敗れ、将棋とは縁のないと思われていた美貌の青年が勝利する。彼は藩内の武家の娘たちから道を歩くたびに黄色い声をかけられていた青年である。彼の家には難解な詰め将棋の問題である『将棋無双』があり、将棋の才能があった姉が青年に教えていたのである。青年は江戸に出て藩の代表として将軍家治との試合に出る。勝っても負けても藩が窮地に陥ると一八と数馬から知らされた青年は、勝ちも負けもしない「千手詰め」で試合に臨む。そして、事情を察した将軍家治が、「封じ手」をして試合を無期の延期とし、田沼意次の企みは頓挫する。

 一件が落着して、一八は江戸に帰ろうとするが、数馬から藩には秘密の文書があると聞かされ、その文書の探索を命じられて再び風見藩に戻っていくところで終わる。

 こうした物語の発想そのものが奇想天外で滑稽極まりないが、風見藩の姿について、「どうにかやりくりをしてゆくために皆がほんの少しずつ我慢する。それでこの藩はうまくのんびりゆったり成り立っているのでしょう。いえ、もしかしたら・・・ただ我慢しているだけではなく、遊び心で我慢を楽しんでいるのかも知れません」(253ページ)と記すあたり、なかなかどうして、無理難題を押しつける権力に対する庶民の抵抗の姿を描き出すものである。

 この作品は、面白いの一言に尽きるが、そこには人間味が溢れる面白さがある。読後の爽快感と期待感もある。こうした洒落た滑稽本は最近では珍しいと思う。

 今夕、中学生のSちゃんが来たので、数学の絶対値というものの考え方を話したりした。絶対値という考え方は、極めて西欧的な感覚から生まれてきた考え方だから、「絶対」なるものを想定してこなかった日本人の日常的な感覚で理解することが難しいだろうとは思う。中学生も、今は、本当に大変だ。Sちゃんはヴァイオリンの演奏もし、今度、発表会でモーツアルトのヴァイオリンソナタ5番を弾くといって、その練習もしている。いつか聴く機会もあるだろう。

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