昨夜から降り続けていた雨がようやく上がったが、曇天の重い空が広がっている。久しぶりに朝寝をしてゆっくりと起きだしたが、かえって疲れを覚える気がするのは、身体が貧乏症になっているからだろうか、と思ったりする。山積みしている仕事を横目にゆっくりとタバコを噴かす。
今、数日かけて隆慶一郎『隆慶一郎全集17・18 花と火の帝 上下』(2010年 新潮社)を読んでいる。これは、これは1988年(昭和63年)から1889年(平成元年)の約一年半をかけて『日本経済新聞』の夕刊に連載されたもので、江戸時代の初期に最も光彩を放った後水尾天皇(1596-1680年)を描いたもので、「八瀬童子」という独特の「自由の民」を物語の中心に据えることによって、時の幕府である徳川将軍たちとの争いの中で、自由で風雅でさえある才気活発な、しかし忍従を強いられた後水尾天皇の姿を浮き彫りにしたものである。
戦争経験を持つ隆慶一郎は、この作品で、日本の根としての天皇制の問題を真正面から取り上げようとしたことは明らかであるが、作者らしいスケールの大きさで凄みのあるエンターティメントとして仕上がっている。
後水尾天皇は、その即位(1611年 慶長16年)の時から波乱の多い人生を歩んでいる。父親である後陽成天皇(1571-1617年)は、豊臣秀吉の意向で第一皇子であった良仁親王を皇位継承者にしていたが、武家の朝廷への介入を嫌い、秀吉が亡くなるとこれを廃して、弟である八条宮智仁親王に譲位を望んだ。しかし、徳川家康や朝廷の臣たちに反対され、第二皇子であった良仁親王も強引に仁和寺に出家させて、若年に過ぎなかった第三皇子の政仁親王を皇位継承者にしたのである。ここには、朝廷の力を抑えようとした徳川家康の強い思惑が働いていた。
この第三皇子であった政仁親王が天皇に即位して後水尾天皇となったのである。こういういきさつのために父親である後陽成上皇は、息子の後水尾天皇に冷淡で、親子の間はずっと不仲であったと言われている。後陽成天皇という人は、戦国の世で自分の無力さをつくづく感じなけらばならなかったようである。武力的な力が支配した時代だった。
江戸幕府は、後水尾天皇が即位して2年後に(1613年 慶長18年)、朝廷の権威を弱めるために「公家衆法度」、「勅許紫衣(ちょっきょしえ)法度」を制定し、続いて1615年(慶長20年)に「禁中並公家諸法度」を制定し、朝廷は幕府の京都所司代を通じての幕府の管轄下に置かれることになったのである。朝廷の運営は摂政と関白によって主宰される朝議での決定を武家伝奏(幕府と朝廷の連絡係)を通じて幕府の承諾を得ることが必要となったのである。
これによって、元来治外法権的存在であった朝廷は法の下に置かれた。後水尾天皇はこの時期に苦慮を強いられ、加えて、徳川秀忠の娘であった和子を女御(側女)とすることを強いられ、また、徳川家光の乳母であった春日局(お福)を参内させなければならなくなるという数々の権威の失墜を強いられていくのである。英邁で才気活発であった後水尾天皇は、こうした幕府側の処置に抵抗していくのであり、やがてはこれが長い時間をかけての朝廷と江戸幕府の水面下での問題ともなっていく。
後水尾天皇が、自ら「後水尾」とされたのは、「水尾」というのが平安前期の天皇であった清和天皇(850-881年)のことを指し、清和天皇は後の武門の棟梁となっていく清和源氏の祖であり、徳川家が清和源氏を称していたので、自らは徳川家の上に立つ者であるという意志を表明されたのだと言われている。後水尾天皇は才気に溢れ、学問や華道などの風雅を好み、情熱にあふれた人物だったと言われるが、その情熱は女性にも向けられて、女性関係は派手で、30人以上の子どもをなし、56歳で出家したにも関わらず、58歳の時に後の霊元天皇を生ませている。85歳で没するという長命であった。
こうした歴史背景をもとにして、本書は、まず、天皇家の駕與丁(がよちょう-天皇が乗る輿を担ぐ者で、身の回りの雑用も行なった)である「八瀬童子」を登場させて始まる。「八瀬の童子」については柳田国男なども触れているが、京都近郊の八瀬で独特な風習を持つ人々で、本書ではこれを本来的に「自由の民」である「鬼の子孫」とし、鬼のような恐ろしい顔と体格を持つ岩兵衛という人物と、厳しい訓練を朝鮮で積んできて卓越した武術や読心術などの才能を持つようになった息子の「岩介」という異能者を登場させるところから始まる。
こうした人物の登場は作者がもっている抜群のエンターティメント性を発揮させるもので、「自由人」としての後水尾天皇と「自由人」としての八瀬童子である岩介を織り交ぜて、「天皇の権威」とは何かを底流にしながら歴史を展開していくのである。
岩介は5歳の時に、「天狗」と呼ばれる不思議な老人に魅了され、彼の下で修行をし、朝鮮に渡って10年間の「鬼(異能の武術者)」の修行を積むのである。そして、帰国して、幼馴染であり、また一緒に修行を積んだ読心能力を持つ「とら」と契を結んで夫婦となる。彼が「とら」と夫婦になるくだりも実に面白く描かれ、夫婦の閨においても、岩介は自由な自然児である。時は、豊臣秀吉なきあとから徳川家康が天下掌握を行おうとする時代で、関ヶ原の合戦前である。この間、岩介は朝鮮での修行中であり、歴史の経過が詳細に語られていくが、やがて大阪冬の陣(1614年 慶長19年)が始まる前の慶長14年(1609年)、岩介が朝鮮から帰国するあたりから物語が本格化していく。後水尾天皇即位の直後である。
岩介と後水尾天皇との出会いも、自由な意志をもつ者どうしの出会いとして描かれるが、岩介は「八瀬童子」の父親と同じように天皇家に仕える者となっていくが、特に、「天皇の隠密」として活躍を展開していくことになる。関ヶ原合戦後の緊張が高まる豊臣家と徳川家の間で、後水尾天皇は朝廷の権威のために豊臣家に接近し、豊臣秀頼を抱き込んで反徳川勢力を築き上げるために、岩介を大阪城に派遣する。
だが、大阪城は淀君に支配された状態で、とても家康と対抗できるようなものではないことを見抜いた岩介は、その状況判断を天皇に伝える。その大阪城で、真田幸村の意を受けていた優れた忍者である猿飛佐助と出会う。猿飛佐助は、もちろん架空の人物であるが、人の良さそうな楽天的な性格で、ずんぐりした体型を持ち、とても優れた忍びには見えないが、猿飛と異名をとるほどの敏捷性に優れた忍びの者で、優れた者は優れた者を知るという出会いがここで起こるのである。「優れた者が優れた者を知る」というよりも、むしろ「優れた者しか優れた者がわからない」のであり、岩介と猿飛佐助は、お互いがお互いを認め合う関係となっていくのである。
家康は、自分の年齢のこともあり、豊臣家との決着を急ぐ。この辺のことについても詳細に語られていくが、かくして大阪冬の陣が起こる。朝廷側は、その推移を見守るしかできなかった。この後の物語の展開については次回に記していく。
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