2012年6月22日金曜日

葉室麟『刀伊入寇 藤原隆家の闘い』(2)


 朝から篠つく雨が降り、肌寒い日になっている。このところ「しなければならないこと」に追われる日々だったが、ようやくひと段落つきそうな気配があり、ちょっと気を抜いている。雨が降ると、やはり、晴耕雨読を考えると、昨夜熊本のSさんと話したりしていた。

 さて、葉室麟『刀伊入寇(といにゅうこう) 藤原隆家の闘い』(2011年 実業之日本社)の続きであるが、事柄のついでに本書にも触れられている清少納言と紫式部という傑出した二人の才女にも触れておこう。

 「清少納言」という名は、実名ではなく、女子が出仕する際につけられた「女房名(女房とはお世話をする女性という意味)」であるが、彼女が、歌人として著名であった清原元輔(908990年)の晩年の娘であり、幼少の頃からずば抜けた機知に飛んでいた女性であったこと以外に、実名は解っていない。966年頃の生まれではないかと言われている。981年(天元4年)に一度結婚し、子どもをもうけるが、無骨な夫とうまくいかずに離婚している。そして、993年の冬頃から、一条天皇の中宮(皇后)であり藤原道隆の娘であった「定子」(従って、本書の藤原隆家の姉)に仕えるために出仕し、博識と才気活発さを愛されて、中宮定子から寵愛され、宮中で著名になっていく。このころ歌人でもあった藤原実方(ふじわらのさねかた)と恋愛関係にあったとも伝えられているが、藤原実方は、20人以上の女性と関係しており、紫式部の「光源氏」のモデルの一人とも言われる人で、たとえ恋愛関係にあったとしても、それは実りのある恋愛ではなかったのではないかと思われる。清少納言は20歳以上も年の離れていた藤原棟世(ふじわらのむねよ)という人物と再婚しているが、再婚の時期は不明である。

 996年(長徳2年)ごろから名随筆と言われる『枕草子』を書き始めたと言われるが、仕えていた中宮定子が1000年(長保2年)に出産で亡くなると、まもなく宮仕えを辞め、再婚相手の任国であった摂津に身を寄せていたという説がある。『枕草子』の最終稿の完成がいつかは定めることができないが、遅くとも1010年(寛弘7年)ごろまでには完成していたのではないかと言われる。

 彼女が寵愛を受けていた中宮定子は、先にも触れたように藤原道隆の娘であり、当然、その弟であった藤原隆家も知っており、道隆の死後の中関白家の衰退を見てきたわけであるが、その中で藤原隆家を好ましい人物として見ていたことなど『枕草子』の中で触れられている。

 清少納言が残した歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」は小倉百人一首にも入っているが、この清少納言が物語作家として光彩を放った紫式部を意識していたかどうかは不明である。『枕草子』には紫式部に関することは一切出てこない。しかし、無関心ではなかっただろうと思う。

 他方、紫式部も実名は不明で、出仕に際しての女房名は「藤式部」だったと言われるが、漢詩人であり学者としても著名であった藤原為時の娘で、幼少の頃から漢文をすらすらと読みこなすほどの才女であったと言われている。彼女もまた、998年に親子ほども年の離れた藤原宣孝という人と結婚し、一女をもうけているが、夫の死去後に召し出されて、1005年(寛弘2年)ごろから一条天皇の中宮「彰子」の女房兼家庭教師のような役で仕えている。そして、この「彰子」に仕えている時に『源氏物語』を書いたと言われている。しかし、彼女が中宮彰子に仕えたのはもう少し早い時期だったのではないかという説も有力である。

彼女が仕えた中宮彰子は、藤原伊周と藤原隆家、中宮定子の中関白家をことごとく排斥することで権力を掌握していった藤原道長の娘で、道長の策略で一条天皇は定子と彰子の二人の中宮(皇后)をもったわけだが、清少納言が定子に仕え、紫式部が彰子に仕えていたこともあるのか、あるいは才女として名高かった清少納言を強く意識していたのか、著名な『紫日記(紫式部日記)』の中で清少納言のことを「したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり(得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない)」と言ったり、「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ(こんな人の行く末にいいことがあるだろうか、ないだろう)」と言ったりして酷評している。確かに、紫式部は当代随一の才女であり、彼女が記した『源氏物語』は、彼女が書く片端から宮中で大評判をとっていったが、しかし、清少納言の気品にはかなわないことを感じていたのではないだろうか。

彼女は、その日記の中で彰子の父であり権力者であった藤原道長が夜中に彼女のところに忍んできたことを記し、道長の誘いをうまくはぐらかしたと記しているが、道長との関係は不明で、本書では、時の権力者の意に反することはできなかったのではないかとしている。もちろん、彼女は、本書の主人公である藤原隆家を知っている。そして、本書ではその隆家の面影が、彼女が描いた「光源氏」の「武」の部分にもあるのではないかとしている。

止まれ。本書では清少納言と紫式部のこうした姿も伝えるが、藤原隆家は大宰府に赴いて「刀伊」の襲撃の備えをはじめる。このとき、襲撃してきた「刀伊」の中に、藤原隆家と渤海国の末裔の娘であった瑠璃との間に生まれた子どもが成長して、渤海国を再興するために「刀伊」の一軍を率いて襲ってきたという展開をみせていく。

1019年3月、「刀伊(女真族)」は数千の軍を率いて壱岐・対馬地方を襲い、殺戮と略奪を繰り返しながら、ついで、筑前博多に上陸してくる。この知らせを受けた太宰府権帥となった藤原隆家は数百の武士を率いて防戦に出るのである。戦いは熾烈を極め、博多の警固に陣取った藤原隆家は何度も襲われるが、これをことごとく退けていくのである。そして、そこに作者はそれぞれの宿命を背負った親子の対決を描いていくのである。

 個人的に、昔、まだ子どもの頃に、なぜか、その歴史を知るわけもないのに、しきりに海沿いの漁村や村々が海賊に襲撃され、皆殺しにされ、家々が焼き払われて絶滅するという不思議な夢をしばしば見ていたのを思い出すが、1019年春の「刀伊」の「入寇(襲撃)」は悲惨を極めたと言われている。数百人規模で根こそぎ奴隷としてさらわれていった。

藤原隆家はその「刀伊の入寇」と真正面から対峙していくのであるが、作者はここで、藤原隆家に、これまでの花山法皇や藤原道長との争い、そして平安期の権謀術策がうずまく宮中で生み出されてきた清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』などにも触れながら、隆家自身がなぜ闘うのかを自問する姿として、次のように語る。

「勝者がすべてではない。敗者の悲しみやせつなさの中にこそ美しさは発展される。勝者の凱歌ではなく敗者の悲歌に心動かされることこそが雅(みやび)ではないか。
隆家にはそう思えてならなかった。この国には敗者を美しく称える雅の心がある。だからこそ、この国を守りたいと思う。この国が亡びればば雅もまた亡びる」(288ページ)。

この敗者が奏でることができる「雅」、それが大事にされることを作者は藤原隆家を借りて語ろうとするのである。「敗者の悲歌に心を動かされる雅」、それが守るべき「美しい日本」ということである。

かつて、川端康成がノーベル文学賞を受賞した時に「美しい日本」という言葉を使い、その後に日本で二人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎が、これを批判的に用いたことがあった。しかし、「美しい日本」を支える「雅」は、派手々々しさとは無縁で、本居宣長はこれを「もののあはれ」と呼んだ。西行は、「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり」と詠んで、都の人たちが「あはれ」と言っているのは、単なる暇つぶしに過ぎないとも語り、「もののあわれ」をしみじみと感じる心を大事にした。

「敗者の悲歌に心を動かされていくこと」、それを「雅」として生き抜く姿を作者はこの本で描こうとしたのだろうと思う。その心を失ったら、私たちの良さも失われるということを、あるいは人間であるということの良さも失われることを改めて考えたりする。個人的に、わたしもまた敗者の側に立ち続けたいと願うばかりである。

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