10月10日という日は、「晴れの特異日」(晴れになる可能性が非常に高い)で、1964年の東京オリンピックでは、この日をオリンピックの開催日にするという細やかな配慮がなされた日である。7年後の2020年東京オリンピックは真夏に開催されるという。酷暑の中で競技をすることになるのだが、開催日について、1964年のような細やかな配慮はなされなかったのだろう。「お・も・て・な・し」の精神はどこにもない気がする。人間の都合で物事が進められると、手痛いしっぺ返しを自然から受けることになるかもしれない。だが、それにしても今日は異例の夏日になっている。
それはともかく、林真理子『本朝金瓶梅』(2006年 文藝春秋社 2009年 文春文庫)は、「さて、いつの世にも、色ごとが好きな者はいくらでもおります。その好きさ加減というものは尋常ではない。まわりの人間を巻き込み、殴り倒し、好きな相手を手に入れるためには、もう気がおかしくなったかと思うほどの執着ぶり」(文庫版 9ページ)という軽妙な噺の語り口で始まる。
そして、西門慶ならぬ西門屋慶左衛門が無類の「色ごと好き」の人物であり、男盛りのいい男で、親の金を元手にした札差もうまくいく金持ちであることが述べられていく。彼は女をものにするのが生き甲斐のような男で、正妻の他に、吉原の花魁、浅草の芸者、妾もいるが、美人と聞けば、人妻であれ、何であれ、手を出したいと思うような男である。
その彼が富岡八幡宮の参道のようじ屋に二十三~四の色っぽい美女がいると聞き及んで見に行くのである。その女が、藩金蓮ならぬ「おきん」で、彼女は、博打好きの父親から七十歳の爺さんの妾に売られ、その爺さんをたらしこんで金を巻き上げて捨ててから、その金でさんざん「役者買い」をしたあげく、与太者の女房となってようじ屋で働いていたのである。
「おきん」もまた、西門屋慶左衛門を見て、その男っぷりと金の有りそうな身なりに目を留めていく。「おきん」の亭主の与太者は、「おきん」を使って美人局で「おきん」に言いよる男から金を巻き上げていたが、西門屋慶左衛門からも金を巻き上げることを考えて「おきん」に美人局を仕込むように言う。ところが、「おきん」も「色ごと好き」の女で、「おきん」と西門慶左衛門は亭主の目を盗んで色ごとを始めるのである。
「おきん」は西門慶左衛門の床上手さにすっかりまいってしまい、西門慶左衛門も「おきん」の体にまいっていく。その色ごとの様子が最初に微細に、あるいは滑稽に描かれるのである。ここまでだけでは、これは単なるエロ小説と思ってしまうのだが、これから色欲と禁欲のためにあの手この手を、しかもあっけんからんと使っていく「おきん」という女性の姿が展開され、西門慶左衛門が次々と手を出していく女たちとの闘いや葛藤が展開されて、そういう中で何とか「自分が考える幸せ」を手に入れたいとあくせくする「おきん」の姿が描かれていくのである。
「おきん」は美女であり、悪女である。彼女は自分の色ごとと金のある生活のためには、平然とほかの者を利用し、また策略を用いて蹴落としていく。だがそこに、自分の幸せを手に入れようと必死になる人間の哀しみもある。作者は、そういう女の哀しさというものを「おきん」に託して描いている。
本元の『金瓶梅』ほどの社会批判の色彩はないが、設定されている時代はオットセイ将軍の異名を取った第11代将軍徳川家斉の時代であり、上から下まで色ごとに明け暮れるというのは、なかなか面白い作者の批判精神だと思う。語り口調が講談や漫談風で、内容に合わせた軽妙さを持っている。
「人間は胃袋と性器でできている」と言ったのが誰だったのかは失念したが、本書は、まさにその「胃袋と性器」の話である。
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