2014年1月23日木曜日

海老沢泰久『無用庵隠居修行』(1)

 ここ数日、ここでは寒さが少し緩んでほっとしている。再び寒波の襲来が予報されているとはいえ、中休みのような気がして有難い。今週は、少し「自分のことをする」余裕ができて、書斎や部屋をぐるりと見回し、引越しで処分するものを考えたりしていた。いつか書こうと思って集めていた資料などは、結局は書かないだろうから、この際に処分した方がいいだろうな、と思ったりする。

 先日、図書館に行った折に、海老沢泰久『無用庵隠居修業』(2008年 文藝春秋社)という軽妙なタイトルの作品を見つけたので、読んでみた。「無用庵」というのもいいし、「隠居修業」というのもどことなく味がある気がしたからである。出来るなら、自分を「無用」の人間としたいし、「隠居」も望む所で、なんとなくわたしの心情に合う気がしたのである。

 作者についての知識がなかったので、調べてみたら、海老沢泰久という人は、1950年茨城県出身で、國學院大学文学部を卒業後、同大学の折口博士記念古代研究所に勤務され、1974年に『乱』で小説新潮新人賞を受賞されて作家デビューされ、その後は、野球、F!自動車レース、ゴルフなどのスポーツに関するノンフィクションを書かれたり、面白いのは『これならわかるパソコンが動く』(1997年 NECクリエイティブ)を書かれたりしている。また、1994年に『帰郷』(文藝春秋社)で直木賞を受賞されている。おしむらくは、2009年に十二指腸癌で帰天されており、作品一覧を見る限りにおいては、歴史時代小説は数少ない。

 本書は、どこか娯楽時代小説の旗手であった山手樹一郞を彷彿させるような作品で、主人公が旗本の中でも気概を持っていたと言われる大番士(将軍警護役だが、舞台となっている天明七年(1787年)ごろには、主としての勤めは江戸城の警護)を努めていたという設定もあり、昔、まだ小さい頃に見た東映映画の「旗本退屈男」も思い起こしたりした。もっとも、本書の主人公は、54歳で、蔵米300表という小禄の旗本であり、どこか飄々としたところのある味わい深い主人公になっている。彼が小禄なのは、上役に付け届けなどを一切しないし、世辞も言ったりしないからで、役務で出世しようなど露ほども思っていないからである。彼の出来のいい実弟は、大身五千石の松平家に養子となり御目付をしているが、その弟を使う気もさらさらないからである。

 そして、主人公の日向半兵衛は、もうそろそろ城勤めが嫌になって隠居したいと思っている。二年前に妻女を亡くし、父親の代から家政を取り仕切る用人の勝谷彦之助家族と下男の作造とで暮らしている。この用人の勝谷彦之助が、また、なかなか洒脱な人物で、主人の半兵衛にいろいろと意見したりする言葉が洒落ており、主人と用人の絆の深さと思いやりを感じるものになっている。彦之助の子どもの24歳になる孝之進も彦之助の後を継ぐ者として半兵衛の若党にようにして仕えている。半兵衛は隠居を口にするが、子がなくて跡取りがいないため、なかなか隠居できないでいる。

 第一話「無用庵隠居修行」は、そうした日向半兵衛が、新しく番入り(役務として採用されること)した若い旗本の笹岡鉄太郎が催す宴席に招かれるところから核心に入っていく。新人が番入りするときに先任の番士に披露目の振る舞いをする慣行がかなり以前から行われており、そうしたことが官吏としての武士を腐敗と堕落に導いていったのだが、この辺りの社会風潮は実によく調べられており、その披露目の仕方によっては陰湿ないじめが行われていた。本作でも、小禄の若い笹岡鉄太郎はかなりの借金をしてまで披露目の振る舞いを行ったが、そこで先任の前田源八郎という旗本とその提灯持ちのようにしている大久保外記という旗本が、笹岡鉄太郎に振る舞いが不足していると難癖をつけて、いじめを行ったのである。同席していた日向半兵衛は、そのいじめを止めるが、笹岡鉄太郎と前田源八郎の間には、何か遺恨があるような気がしていた。

 その帰り、日向半兵衛は、今度は若い侍が三人の浪人風の男に襲われているのに出会う。半兵衛は一刀流の目録をもらったほどの腕前で、その三人の浪人風の男たちから若い侍を助け出す。若い侍は、旗本相馬弥五郎の次男で新太郎と名乗り、なぜ襲われたのかは分からないという。相馬弥五郎は将軍家の日常の世話をする御小姓であった。

 翌日、披露目の席でいじめから助けられた笹岡鉄太郎と浪人風の男たちから助けられた相馬新太郎が日向半兵衛に礼を言うために訪ねて来て、図らずも二人が竹馬の友であったことがわかる。そして、新太郎の口から、笹岡鉄太郎の妻女となった女性に前田源八郎が横恋慕して、それが適わなかったために笹岡鉄太郎にいじめを行っていることがわかる。

 この話が後に大きな事件になっていくが、ここでは、場面が変わって、それからしばらく後に、隠居を口にした日向半兵衛に、用人の勝谷彦之助が見合いを画策する。後妻をもらって子を作れというのである。相手は、小普請組(無役)の旗本の妻女で、出戻りではあるが、ふっくらとした美女の松田奈津という女性であった。日向半兵衛は「おれは再婚する気はない」と奈津に言うが、奈津は積極的である。奈津は、物事をはっきり言う性格で、自分の思っていることも直截に言うことができる女性で、人の機微も心得ている。奈津は「わたくしがお世話をしてさしあげます」とその場で明言する。しかし、半兵衛は煮え切らないでいるのである。だが、この奈津が後に大活躍をしていく。

 そうした浮いた話が挿入された後、前田源八郎の笹岡鉄太郎に対するいじめが手ひどくなり、ついに、堪忍袋の緒を切らした笹岡鉄太郎が城中で前田源八郎を斬るという事件が発覚する。事件後に駆けつけた日向半兵衛は、前田源八郎が絶命していることを確かめ、激昂している笹岡鉄太郎を鎮め、その場で切腹の覚悟をしている彼を介錯してやる。それが笹岡鉄太郎の家族を守る最良の手段だったからである。そして、笹岡鉄太郎は、最後に友人の相馬新太郎を助けてやって欲しいと半兵衛に言い残すのである。

 彼は、用人の勝谷彦之助の碁敵として出入りしていた岡っ引きの仁吉の子で、その後を継いで本所一帯を縄張りにしている文蔵に、笹岡鉄太郎の最後の願いを叶えるためにも、浪人風の男たちに襲われていた相馬新太郎の家の内情を探らせていた。

 相馬新太郎の父親は、さる大名家から妻をもらったが、夫婦仲は初めからしっくりいかず、日本橋の蝋燭問屋から見習い奉公に来ていた菊という女性に手を着け、子を産ませた。それが新太郎で、新太郎は屋敷で育てられたが、菊は蝋燭問屋に帰され、間もなく病没した。新太郎は嫡男としては届けられず、その二年後に妻の志摩が男の子を産み、数馬と名づけ、それが嫡男として届けられたために、年は上でも次男となった。義母の志摩は新太郎を嫌い、他家に養子に出したら自分の子の数馬より出世するかもしれないというので、養子にも出さずに、いわば飼い殺しの状態に置いていたのである。そして、数馬が17歳となり、絶家の心配がなくなると、弥五郎を隠居させて数馬に家督を継がせようとした。その際に年上の新太郎を邪魔に感じて、これを亡き者にしようとしたのである。

 そういうことが分かって、その人柄も気に入っていた新太郎を日向半兵衛は自分の養子に迎えると言い出すのである。だが、幕法では50歳以上の当主の養子は認められていなかった。半兵衛は秘策があると言って、新太郎に養子になれ、と申し出るのである。

 そして、新太郎が母親の祥月命日で実母の実家の蝋燭問屋である伊勢屋に行った帰り、再び浪人風の男たちが襲ってくるのを待ち構えて、その一人を捕らえ、襲撃の依頼主を白状させるのである。動かぬ証拠を掴んだ半兵衛は、相馬家の用人を呼びつけて、志摩を説得させ、父親が御小姓であることを使って、幕府を説得させ、新太郎を養子に迎えることができるようにしたのである。その際、半兵衛の実弟が目付であることももちだして、説得させる。力で来る者は力に弱いことをよく知っているのである。こうして、無事に新太郎を養子にし、自分は隠居することができたのである。

 その際に甥に当たる新太郎が助けられたことを恩にきた日本橋蝋燭問屋の伊勢屋金右衛門が、彼の隠居所を提供することになる。その隠居所を「無用庵」と名づけ、欲という欲を無用のものとして捨て去ろうと決心する。それが「隠居修行」である。だが、無欲の者には金が舞い込む。新太郎の父は新太郎の養子の持参金に500両も差し出すし、伊勢屋金右衛門はお礼にと千両ももってくる。半兵衛は、その金を受け取らずに伊勢屋に預けるが、伊勢屋はそれを運用するという。また、奈津という美貌の女性に惚れられ、また深川芸者だった料理屋の女将に惚れられていく。そうしたことが話を面白くするように展開されるあたりに作者の力量がある。「無用庵」で隠居した日向半兵衛だが、それからいくつかの事件に関わっていく。そのくだりが第二話以降で連作の形で展開されていく。その第二話以降については次回に記すことにする。

0 件のコメント:

コメントを投稿