日本海側は大荒れの天気だそうだが、よく晴れた大晦日になった。何とはなしの大晦日ではあるが、「今年もまた一年が終わる」という思いは、やはりある。人は、こうして自然の流れの時間に区切りをつけて生きることを学んできたのだから、つけられるものならつけた方がいいと思う。
先日、図書館が年末の休館をする前に出かけ、まだ読んでいない宇江佐真理『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』(2006年 角川書店)があったので、すぐに借りてきて昨日読み終えた。調べてみると、この人の作品で読んでいないのは、残すところ数冊であり、どの作品も素晴らしい。
『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』は、文政4年(1821年)に盛岡藩士であった下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)が弘前藩主であった津軽寧親(つがる やすちか)を狙って起こした暗殺未遂事件を題材に、弘前藩と敵対していた盛岡藩の重臣の息子が父の命によってその暗殺計画を手伝うように言われ、町屋に住み、世間を知り、恋を知り、成長していく過程を描いた青春時代小説である。
歴史的に言えば、南部一族であった弘前藩主の津軽家の祖である津軽(大浦)為信(つがる ためのぶ)が戦国時代の1571年に挙兵して同じ南部一族を攻撃し、津軽地方一帯を支配し、豊臣秀吉の小田原城攻めにも参戦して秀吉から正式な大名として認められたが、そうした経緯から南部一族の盛岡藩から遺恨をかっていたのである。以後も領地をめぐっての「檜山騒動」と呼ばれるような事件が起こっていた。
そして、文政3年(1820年)に盛岡藩主の南部利敬(なんぶ としたか)が、一説では弘前藩への積年の恨みから悶死したといわれるような死に方を39歳の若さでおこない、後を継いだ南部利用(なんぶ としもち)がまだ14歳で無位無冠であったのに対し、津軽寧親はロシアに対する北方警備を命じられて従四位下に任じられたり、盛岡藩八万石を越える十万石と石高を改められたりしたために、盛岡藩は、自分たちより格下だと思っていた弘前藩に対して遺恨を抱いていたと言われている。
盛岡藩士の次男に生まれた下斗米秀之進は、江戸で夏目長右衛門(なつめ ちょうえもん)の下で武術をおさめ、また当時の兵法家であった平山行蔵(ひらやま こうぞう)の下で兵法を学び、文武共に優れた人物として師範代まで務めている。そして、1818年に父の病で郷里に帰り、そこで私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設して多くの武家や町人の子弟教育にあたっていたが、藩主の悶死事件で「忠」をつくさんと津軽寧親に果し状を送り隠居を勧めたが、聞き入れられなかったために津軽寧親が参勤交代で帰国する途上をねらって暗殺を企てるのである。
しかし、仲間の密告によって失敗に終わり、下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて盛岡藩を脱して江戸へ向かうが、幕吏(実際は弘前藩士)に捕えられ、1822年に処刑されている。
この事件は「相馬大作事件」と呼ばれ、後に勤皇思想を説いた水戸藩の藤田東湖やさらには吉田松陰にまで影響を及ぼし、「みちのく忠臣蔵」と呼ばれたりして、講談や小説、映画にもなっている。
宇江佐真理は、この事件を背景にして、その事件と関わる一人の青年武士が成長していく姿を、彼女の柔らかな文体で実にさわやかに描き出す。作品の中では、弘前藩は「島北藩」、藩主の津軽寧親は「島北利隆(しまきた としたか)、盛岡藩は「仙石藩」、下斗米秀之進は「正木庄左衛門(まさき しょうざえもん)」と名前が変えられ、暗殺計画のもととなった事件としても、時の第十一代将軍徳川家斉の実父で権勢を誇っていた一橋治済(ひとつばし はるさだ)が自分の隠居所をたてるための賄賂として檜を要求したのに「仙石藩」は応えられず、「島北藩」がこたえたために、江戸市中で「仙石藩」が馬鹿にされるようになったということで、その汚名をそそぐために暗殺計画が起こったということになっている。
この辺りにも、作者が「世の権力」や世間体、外聞というものがいかにつまらないものであるかを示すものであると言えるだろう。
物語は、その「正木庄左衛門」の補佐を命じられた主人公・刑部小十郎(おさかべ こじゅうろう)が父命によって、町の骨董屋の長屋に住むところから始まる。その骨董屋は、かつては長崎奉行同心であったが武家に嫌気がさし、骨董屋をしながら岡っ引きをしている変わり種で、美貌の娘と妻の三人暮らしである。後にその娘が、実は「拾い子」であることが分かるが、娘もさっぱりしたちゃきちゃきの江戸っ子で、主人公は彼らを通して、世間を知り、生きることの喜びを知っていくのである。彼は修業中の青年僧とも友人になっていく。
一方、彼が補佐しなければならない「正木庄左衛門」が計画の途中で父の病のために郷里に帰って行ったために、その後の詳細を調べる目的で郷里にいくことになるが、金がないために友人となった青年僧と寺に泊めてもらうことにして、そのため禅寺での生活を学ぶ修業をしたりする。
やがて、暗殺計画は見事に失敗し、「正木庄左衛門」は捕えられ、主人公は軟禁状態に置かれる。そういう出来事の中で、骨董屋の娘への恋心も増し、「いったい人間の幸せとは何か」をつくづく知っていくのである。
物語の結末は、主人公の刑部小十郎は自分の意を通し、また、骨董屋の娘も自分の気持ちに素直になって結婚し、主人公も、一度は父親や武家の面目を保とうとして果てた正木庄左衛門などの姿や軟禁状態が続いたりして、武家など捨てようと思っていたが、事態が好転して父の家督を継いでいくということになるが、展開の仕方に無理がなく、主人公と骨董屋の娘の会話にもユーモアがあり、友人の青年僧の姿や骨董屋家族の温かさがにじみ出て、主人公のまっすぐな性格も柔らかい筆致で描かれているために、取り扱われている事件の暗さが「爽やかさ」と「温かさ」で覆われている。
たとえば、父命をうけて町の骨董屋を訪ねることになった最初の部分で、骨董屋のある久松町を訪れた時、当時流行っていた戯作の「お染と久松」をもじって、「お染参上」と口に出したり(6ページ)、郷里への旅程のために金がなくて寺に泊まるために禅寺で生活作法を学ぶときに、厳しくしつける年長僧侶に対して、今までそれに従順に従ってきたが、その修業の終わりに、「なるほど、道元は偉い坊主だ。だが、もっと偉い奴がいることをお前は忘れている。言え、言ってみろ」と啖呵を切って、「釈迦だろうが。お前は釈迦の教えを忘れておるようだ。釈迦は八正道を会得せねば涅槃には至らぬと説いた。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定だ。この七日間、お前には八正道の教えがことごとく欠けていた。お前は『正方眼蔵』におれを当て嵌めることに躍起となっていただけだ。よいか、お前達は道元を崇めるが、道元は釈迦の中間だ。さよう心得よ、くそ坊主!」と言ったりする(177ページ)。
主人公は鷹揚でまっすぐで、そのくせ短気だが、その彼を骨董屋の家族や郷里の母親が温かく包んでいく。ひとつひとつの逸話が、そうした主人公の成長には欠かせないものとして描かれていく。
やはり、この人の作品は、読んでいて本当に嬉しくなる作品である。言いつくせない嬉しさがある。
さて、明日は元旦で、2010年はどんな年になるだろうと誰もが思っているだろう。個人的にあまりいいことも続いていないが、多くの感動があればと願っている。これからお雑煮の材料でも買いに行くとしよう。
2009年12月31日木曜日
2009年12月29日火曜日
北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(2)
よく晴れた寒い師走の日になった。昨日はなんだかんだと過ぎてしまった。前夜に眠るのが遅くなったので起き出すのも遅く、中学生のSちゃんに数学の因数分解のこつを教えたり、「あざみ野」の「神戸珈琲物語」が年末セールをするという案内が来ていたので、新年用もあわせて買いにいったりして、時間が過ぎてしまった。
北原亞以子の『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、やはり、いい作品だと思う。「第四話 鬼の霍乱」は、木戸番小屋の笑兵衛の妻「お捨て」が急な病気で倒れ、夫婦の深い絆が描かれて、「よく分れずに、ここまで来た――。今、落ち着いた気持ちで毎日を過ごせるのは、お捨てが連れ添ってきてくれたからではないか」(文庫版 176ページ)と笑兵衛が思ったりする。
お捨ての病が癒えて帰ってきた時、出かけていた笑兵衛が帰って来るとそこにお捨ての姿を見る場面が、何とはなしにしみじみしていい。
「お捨てが寝床の上に座り、おけいと弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者夫婦で、お捨てを引き取って看病していた)が女房にはさまれて、白湯を飲んでいた。
『お帰りなさいまし、あなた』
笑兵衛はふと、涙ぐみそうになった。
お捨てが弥太右衛門の家に運ばれて行ったのは三日前のことだった。その上、今日も見舞いに行っているのである。が、片頬に深い笑靨(えくぼ)のできるお捨ての面に、ようやく会えたような気がするのだ。
『もういいのか』
と、笑兵衛は言った。
『熱なんざ、やたらに出すな』
お捨てのころがるような笑い声が、狭い番小屋の中に響いた」(文庫版 175-176ページ)
こういう味わいのある情景が随所に描かれていくのである。
その一方で、隠居させられた木綿問屋の主人が、妻をなくし、話し相手をなくして、人付き合いが不器用で孤独のうちに日々を過ごしていく姿が丹念に描かれていく。
「三国屋(木綿問屋)からはじき出され、長屋の人達はなじんでくれず、忠実な喜兵衛(手代)にはその姿は見せられない。浜吉(隠居させられた木綿問屋の主人)の言う通り、天涯孤独にひとしい淋しさではないか。お捨ての作った味噌汁を飲んでいる時の、或いは弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者)と深夜まで将棋を指している時の浜吉は、いったいどこで笑っていたのだろうか」(文庫版 184ページ)と笑兵衛は思う。
浜吉は、ひとりですねて、ひとりで孤独になっているのである。しかし、この老人の心情を木戸番夫婦は察していくのである。
「第五話 親思い」は、木戸番夫婦を親のように慕う複雑な生育経過を持つ蔬菜(青物野菜)売りの豊松が、自分の生みの親が、自分が嫌っている老婆であることを知り、また、父親がひどい武家だったことを知り、その中で葛藤していくが、生みの親と育ての親、そして笑兵平夫婦に「親孝行」をしていく話である。
人違いから豊松に自分の武家としての家を再興するチャンスが訪れる。家を再興するために育ての親のもとを離れ、四国丸亀藩へ行こうとする。そのくだりは、次のように表わされている。
「『戸田(武家としての豊松の家)を再興する時がきた、俺あ、そう思ったよ。おふくろは、親父を自慢していた。その親父を殿様も藩の人達も見直してくれたのだもの。あの世でどんなにか喜んでいるだろうと思った。すっかり気持ちが昂っちまってね。寝床の中で、武家の礼儀作法を、あらためて小父さん(笑兵衛)に仕込んでもらわなくっちゃならねぇと、そればかり考えていたんだが』
でも――と、豊松は言う。
『六つの鐘が鳴る前に起きて台所に行くと、もうおみねおっ母(育ての親)がめしを炊いているんだ。赤飯を炊いているんだと言ったけど、おみねおっ母は泣いていた――』
お捨ても、ふと涙ぐみそうになった。
八歳の時から、いや、赤子の時からあとを追われ、田圃や畑にも連れて行って育てた豊松であった。この子は武士の子、いつか離れてゆくことがあるかもしれないと自分に言い聞かせていても、諦めきれぬものがあるにちがいない。それは、吾助(育ての父親)とて同じことだろう。
『俺あ、おみねおっ母や吾助父つぁんと顔を合わせているのがつらくなって、うちを飛び出して来たんだ』」(文庫版 207ページ)
こういうくだりは、それぞれの優しい思いやりが素朴ににじみ出ている。
「第六話 十八年」は、指物大工をしてそれぞれに修業を重ねた二人の男の姿を描いたもので、ひとりは、不器用で気が聞かない奴と言われながら、修業を重ね、親方の娘に惚れていたが、娘はもう一人に惚れて結婚し、もう一人の男を羨みつつすねて、自分の職人としての腕にも言い訳ばかりしていたが、良きできた女房をもらい独立し、もう一人は、優れた腕を持って親方の娘と結婚したが、自分の職人としての気質が理解してもらえず、夫婦別れをして上方に修業に出ようとするのである。
一人は独立し、その祝いの席にお捨てが招かれ、もう一人は、上方へ立つ前に留守番をしていた笑兵衛を訪ねる。人生は、まことに奇異。
『深川澪通り木戸番小屋』は、人の幸いも不幸も描き出される。不幸には涙を流し、幸いには喜ぶ。そういう木戸番夫婦の姿が、人情味あふれて描かれるのである。
本書の「第五話 親思い」に最初に、お捨ての人柄を見事に描いた場面が出てくる。お捨ては、土間の床几の上で居眠りをして、床几から転げ落ちそうになる。
「『あら、いやだ』
床几から落ちそうになっていたにちがいない自分の姿を想像して、お捨ては笑い声を上げそうになった。
が、夫の笑兵衛は、一間しかない四畳半で眠っている。枕屏風の向こう側から、少々荒い寝息が聞こえてくるのは、昨夜の騒動で疲れているせいかもしれなかった。
お捨ては両手で口許をおおい、急いで外へ出た。指の間から笑い声がこぼれてきて、お捨てはふっくらと太った軀を二つに折って笑った。床几から転げ落ちそうになっている自分の姿は、想像すればするほどおかしかった。
ころがるような笑い声が澪通りにひびいたが、向かいの自身番は静まりかえっている」(文庫版 187-188ページ)
お捨ては、自分に正直で素直で、天真爛漫である。そういうお捨てを夫の笑兵衛は、包み込むように愛していくのである。こういう夫婦に触れた人々が、その夫婦の姿を見ただけで、深い慰めを覚えていくのである。彼らの木戸番小屋は、いつも開いている。
北原亞以子のこの作品は、本当にいろいろな意味で噛めば噛むほど味わいが出てくる作品だと思う。このシリーズは、読み終わった後の読後感が優しい気持ちで満たされる。肝心の一作目をはやく読みたいものである。
北原亞以子の『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、やはり、いい作品だと思う。「第四話 鬼の霍乱」は、木戸番小屋の笑兵衛の妻「お捨て」が急な病気で倒れ、夫婦の深い絆が描かれて、「よく分れずに、ここまで来た――。今、落ち着いた気持ちで毎日を過ごせるのは、お捨てが連れ添ってきてくれたからではないか」(文庫版 176ページ)と笑兵衛が思ったりする。
お捨ての病が癒えて帰ってきた時、出かけていた笑兵衛が帰って来るとそこにお捨ての姿を見る場面が、何とはなしにしみじみしていい。
「お捨てが寝床の上に座り、おけいと弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者夫婦で、お捨てを引き取って看病していた)が女房にはさまれて、白湯を飲んでいた。
『お帰りなさいまし、あなた』
笑兵衛はふと、涙ぐみそうになった。
お捨てが弥太右衛門の家に運ばれて行ったのは三日前のことだった。その上、今日も見舞いに行っているのである。が、片頬に深い笑靨(えくぼ)のできるお捨ての面に、ようやく会えたような気がするのだ。
『もういいのか』
と、笑兵衛は言った。
『熱なんざ、やたらに出すな』
お捨てのころがるような笑い声が、狭い番小屋の中に響いた」(文庫版 175-176ページ)
こういう味わいのある情景が随所に描かれていくのである。
その一方で、隠居させられた木綿問屋の主人が、妻をなくし、話し相手をなくして、人付き合いが不器用で孤独のうちに日々を過ごしていく姿が丹念に描かれていく。
「三国屋(木綿問屋)からはじき出され、長屋の人達はなじんでくれず、忠実な喜兵衛(手代)にはその姿は見せられない。浜吉(隠居させられた木綿問屋の主人)の言う通り、天涯孤独にひとしい淋しさではないか。お捨ての作った味噌汁を飲んでいる時の、或いは弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者)と深夜まで将棋を指している時の浜吉は、いったいどこで笑っていたのだろうか」(文庫版 184ページ)と笑兵衛は思う。
浜吉は、ひとりですねて、ひとりで孤独になっているのである。しかし、この老人の心情を木戸番夫婦は察していくのである。
「第五話 親思い」は、木戸番夫婦を親のように慕う複雑な生育経過を持つ蔬菜(青物野菜)売りの豊松が、自分の生みの親が、自分が嫌っている老婆であることを知り、また、父親がひどい武家だったことを知り、その中で葛藤していくが、生みの親と育ての親、そして笑兵平夫婦に「親孝行」をしていく話である。
人違いから豊松に自分の武家としての家を再興するチャンスが訪れる。家を再興するために育ての親のもとを離れ、四国丸亀藩へ行こうとする。そのくだりは、次のように表わされている。
「『戸田(武家としての豊松の家)を再興する時がきた、俺あ、そう思ったよ。おふくろは、親父を自慢していた。その親父を殿様も藩の人達も見直してくれたのだもの。あの世でどんなにか喜んでいるだろうと思った。すっかり気持ちが昂っちまってね。寝床の中で、武家の礼儀作法を、あらためて小父さん(笑兵衛)に仕込んでもらわなくっちゃならねぇと、そればかり考えていたんだが』
でも――と、豊松は言う。
『六つの鐘が鳴る前に起きて台所に行くと、もうおみねおっ母(育ての親)がめしを炊いているんだ。赤飯を炊いているんだと言ったけど、おみねおっ母は泣いていた――』
お捨ても、ふと涙ぐみそうになった。
八歳の時から、いや、赤子の時からあとを追われ、田圃や畑にも連れて行って育てた豊松であった。この子は武士の子、いつか離れてゆくことがあるかもしれないと自分に言い聞かせていても、諦めきれぬものがあるにちがいない。それは、吾助(育ての父親)とて同じことだろう。
『俺あ、おみねおっ母や吾助父つぁんと顔を合わせているのがつらくなって、うちを飛び出して来たんだ』」(文庫版 207ページ)
こういうくだりは、それぞれの優しい思いやりが素朴ににじみ出ている。
「第六話 十八年」は、指物大工をしてそれぞれに修業を重ねた二人の男の姿を描いたもので、ひとりは、不器用で気が聞かない奴と言われながら、修業を重ね、親方の娘に惚れていたが、娘はもう一人に惚れて結婚し、もう一人の男を羨みつつすねて、自分の職人としての腕にも言い訳ばかりしていたが、良きできた女房をもらい独立し、もう一人は、優れた腕を持って親方の娘と結婚したが、自分の職人としての気質が理解してもらえず、夫婦別れをして上方に修業に出ようとするのである。
一人は独立し、その祝いの席にお捨てが招かれ、もう一人は、上方へ立つ前に留守番をしていた笑兵衛を訪ねる。人生は、まことに奇異。
『深川澪通り木戸番小屋』は、人の幸いも不幸も描き出される。不幸には涙を流し、幸いには喜ぶ。そういう木戸番夫婦の姿が、人情味あふれて描かれるのである。
本書の「第五話 親思い」に最初に、お捨ての人柄を見事に描いた場面が出てくる。お捨ては、土間の床几の上で居眠りをして、床几から転げ落ちそうになる。
「『あら、いやだ』
床几から落ちそうになっていたにちがいない自分の姿を想像して、お捨ては笑い声を上げそうになった。
が、夫の笑兵衛は、一間しかない四畳半で眠っている。枕屏風の向こう側から、少々荒い寝息が聞こえてくるのは、昨夜の騒動で疲れているせいかもしれなかった。
お捨ては両手で口許をおおい、急いで外へ出た。指の間から笑い声がこぼれてきて、お捨てはふっくらと太った軀を二つに折って笑った。床几から転げ落ちそうになっている自分の姿は、想像すればするほどおかしかった。
ころがるような笑い声が澪通りにひびいたが、向かいの自身番は静まりかえっている」(文庫版 187-188ページ)
お捨ては、自分に正直で素直で、天真爛漫である。そういうお捨てを夫の笑兵衛は、包み込むように愛していくのである。こういう夫婦に触れた人々が、その夫婦の姿を見ただけで、深い慰めを覚えていくのである。彼らの木戸番小屋は、いつも開いている。
北原亞以子のこの作品は、本当にいろいろな意味で噛めば噛むほど味わいが出てくる作品だと思う。このシリーズは、読み終わった後の読後感が優しい気持ちで満たされる。肝心の一作目をはやく読みたいものである。
2009年12月26日土曜日
北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1)
朝のうちはどんよりと曇っているし、雨模様であるが、午後からは晴れるらしい。昨夜は、人間関係が冷え切ってしまった出来事を聞いて、なんとなく気の重い夜となったので、こういう時は、今とてもいいと思っている『のだめカンタービレ』を見るに限ると思い、三度目だが、「パリ編(ヨーロッパ編)」をぶっ続けで見て、細かい演出と演技で表わされる上野樹里が演じる「のだめ」の姿に深い感動を覚えながら眠った。
そんなわけで、読みかけの北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1995年 講談社 1998年 講談社文庫)も読みかけのままである。これは、この人の作品の中でも一番好きなシリーズで、4冊出ている中での3番目の作品である。武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。
『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」、「第二話 うまい酒」、「第三話 深川育ち」、「第四話 鬼の霍乱」、「第五話 親思い」、「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。
彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。
「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。
だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。
木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。
「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。
「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。
その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。
偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)
彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。
その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。
「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」
善蔵は黙って笑った。
「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」
「だってさ・・・」
善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。
「俺、人に好かれねえから・・・」
蚊の鳴くような声だった。
「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」
偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。(文庫版 72ページ)
だが、偬七は思う。
「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。
笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。
何が身内だ、何が親戚だ・・・・・
誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。――(文庫版 80-81ページ)
そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。
「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。
木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。
「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」(文庫版 133ページ)
本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。
そんなわけで、読みかけの北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1995年 講談社 1998年 講談社文庫)も読みかけのままである。これは、この人の作品の中でも一番好きなシリーズで、4冊出ている中での3番目の作品である。武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。
『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」、「第二話 うまい酒」、「第三話 深川育ち」、「第四話 鬼の霍乱」、「第五話 親思い」、「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。
彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。
「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。
だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。
木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。
「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。
「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。
その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。
偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)
彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。
その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。
「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」
善蔵は黙って笑った。
「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」
「だってさ・・・」
善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。
「俺、人に好かれねえから・・・」
蚊の鳴くような声だった。
「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」
偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。(文庫版 72ページ)
だが、偬七は思う。
「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。
笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。
何が身内だ、何が親戚だ・・・・・
誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。――(文庫版 80-81ページ)
そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。
「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。
木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。
「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」(文庫版 133ページ)
本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。
2009年12月25日金曜日
藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』
よく晴れたクリスマスの朝になった。昨夜少し遅くなったので起きるのも遅く、なんとなくボーっとして午前中が過ぎてしまった。今日はこんなふうに一日が過ぎていきそうだ。
朝、Tさんが親戚の家でとれたというキャベツや白菜をもって来てくださった。Tさんはプロテスタント教会の牧師の娘として生まれ育ち、今はたくさんのお孫さんに囲まれて過ごされている。90歳を越えている介護を必要とするお母さんのお世話にも心を砕かれている。御主人は植木職人として現役で働かれている。
昨夜、というか丑三つ時を過ぎていたが、ベッドの中で藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』(2006年 光文社文庫)を読んだ。これは、五日ほど前に読んだ『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』の第一作目で、勧善懲悪の娯楽時代小説ではあるが、やはり第一作目の方が作者の熱意や思い入れも深くていい。特に、金貸しで借金の取り立てを生業としている「おきん」という女性をめぐる事情など、主人公の片桐弦一郎を取り巻く登場人物たちの詳細が描かれていて、その描き方も丹念であるし、浪人となった主人公の生活苦もにじみ出ている。
主人公の片桐弦一郎は、仕えていた大名家が取潰しにあい、その騒動で新妻も失い、就職活動をするが叶わず、ようやくわずかな労賃で筆耕の仕事をもらって細々と裏長屋で暮らしを立てている浪人で、地主大家の知り合いの「口入屋」(現:人材派遣屋)から頼まれて、貧苦にあえいでどうにもならなくなった旗本家の再興のために臨時の「用人(秘書官)」として働くようになるところから話が展開していく。
その旗本家の道楽息子がした借金の取り立てに現れるのが「おきん」で、「おきん」は、飲む・打つ・買うの三拍子もそろった亭主を追い出し、女手一つで借金取り立て業をして子どもを育てるが、成人した子どもたちはそういう母親の生業を嫌って家を出ている。「おきん」は「青茶婆(金取り婆)」と嫌われているが、その内実は、気風のいいさっぱりした女性であり、やがて主人公を助けていく人物となる。
雇われ用人として旗本家の借金を何とか減らしたいと思った主人公の片桐弦一郎は、その「おきん」の実情を知り、「おきん」の窮状を助け、祖語のあった親子の関係を修復させ、その息子を助けていったりする。このあたりは、親と子の関係の修復の姿が素朴に描かれていていい。
主人公は、窮状していた旗本家を再興するために、旗本家の道楽息子を立ち直らせ、旗本家の領地に赴き、その実情を調べ、そこで無理難題を言うのではなく、紅花の栽培などのていあんをするなどして領民たちの暮らしも成り立つように知恵を働かせていく。その領地の村で起こった事件のために奔走したり、強盗を捕えたりする。物語は、旗本家の息子が妾腹の子であったり、友人から利用されていただけだったり、また、領民の中で村八分のようにして扱われていた娘が殺されたりと伏線がたくさんあり、それが繋がって主人公の再興の努力が実っていくというふうになって、結構面白く読めるように構成されている。
主人公の片桐弦一郎は、細々とした自分の暮らしは貧しいが、そのことにあまり拘泥しないし、事にあたっても内情を正直に話して対応しようとする。彼は飾らない。そういうところが人々から信頼されて事件の解決にあたっていくのである。
こういう主人公の設定は、それを言葉ではなく事柄で描き出そうとすると、なかなか難しいのだが、作者は、この作品ではそれを、出来事を丹念に描いていくことによって成功していると言えるような気がする。こういう作品は面白く読めればそれでいいのだから欲を言う必要はないが、万事がうまくいきすぎているような気がして、出来たら、主人公が手痛い失敗をしてしまうような状況の中で苦労することもあってもいい気もする。もちろん、それはない物ねだりではあるが、藤沢周平の『用心棒日月妙』のような展開になればいいと期待したりする。
ただ、個人的には、何事にも拘泥しないという人間の姿は、わたしはとても好きで、臨時雇いの「渡り用人」だから自分の地位や名誉にも拘泥しないし、もちろん生活苦もあるのだから金銭の必要性もあるが、それにも拘泥しないところがいい。その意味で、この主人公は魅力的である。
朝、Tさんが親戚の家でとれたというキャベツや白菜をもって来てくださった。Tさんはプロテスタント教会の牧師の娘として生まれ育ち、今はたくさんのお孫さんに囲まれて過ごされている。90歳を越えている介護を必要とするお母さんのお世話にも心を砕かれている。御主人は植木職人として現役で働かれている。
昨夜、というか丑三つ時を過ぎていたが、ベッドの中で藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』(2006年 光文社文庫)を読んだ。これは、五日ほど前に読んだ『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』の第一作目で、勧善懲悪の娯楽時代小説ではあるが、やはり第一作目の方が作者の熱意や思い入れも深くていい。特に、金貸しで借金の取り立てを生業としている「おきん」という女性をめぐる事情など、主人公の片桐弦一郎を取り巻く登場人物たちの詳細が描かれていて、その描き方も丹念であるし、浪人となった主人公の生活苦もにじみ出ている。
主人公の片桐弦一郎は、仕えていた大名家が取潰しにあい、その騒動で新妻も失い、就職活動をするが叶わず、ようやくわずかな労賃で筆耕の仕事をもらって細々と裏長屋で暮らしを立てている浪人で、地主大家の知り合いの「口入屋」(現:人材派遣屋)から頼まれて、貧苦にあえいでどうにもならなくなった旗本家の再興のために臨時の「用人(秘書官)」として働くようになるところから話が展開していく。
その旗本家の道楽息子がした借金の取り立てに現れるのが「おきん」で、「おきん」は、飲む・打つ・買うの三拍子もそろった亭主を追い出し、女手一つで借金取り立て業をして子どもを育てるが、成人した子どもたちはそういう母親の生業を嫌って家を出ている。「おきん」は「青茶婆(金取り婆)」と嫌われているが、その内実は、気風のいいさっぱりした女性であり、やがて主人公を助けていく人物となる。
雇われ用人として旗本家の借金を何とか減らしたいと思った主人公の片桐弦一郎は、その「おきん」の実情を知り、「おきん」の窮状を助け、祖語のあった親子の関係を修復させ、その息子を助けていったりする。このあたりは、親と子の関係の修復の姿が素朴に描かれていていい。
主人公は、窮状していた旗本家を再興するために、旗本家の道楽息子を立ち直らせ、旗本家の領地に赴き、その実情を調べ、そこで無理難題を言うのではなく、紅花の栽培などのていあんをするなどして領民たちの暮らしも成り立つように知恵を働かせていく。その領地の村で起こった事件のために奔走したり、強盗を捕えたりする。物語は、旗本家の息子が妾腹の子であったり、友人から利用されていただけだったり、また、領民の中で村八分のようにして扱われていた娘が殺されたりと伏線がたくさんあり、それが繋がって主人公の再興の努力が実っていくというふうになって、結構面白く読めるように構成されている。
主人公の片桐弦一郎は、細々とした自分の暮らしは貧しいが、そのことにあまり拘泥しないし、事にあたっても内情を正直に話して対応しようとする。彼は飾らない。そういうところが人々から信頼されて事件の解決にあたっていくのである。
こういう主人公の設定は、それを言葉ではなく事柄で描き出そうとすると、なかなか難しいのだが、作者は、この作品ではそれを、出来事を丹念に描いていくことによって成功していると言えるような気がする。こういう作品は面白く読めればそれでいいのだから欲を言う必要はないが、万事がうまくいきすぎているような気がして、出来たら、主人公が手痛い失敗をしてしまうような状況の中で苦労することもあってもいい気もする。もちろん、それはない物ねだりではあるが、藤沢周平の『用心棒日月妙』のような展開になればいいと期待したりする。
ただ、個人的には、何事にも拘泥しないという人間の姿は、わたしはとても好きで、臨時雇いの「渡り用人」だから自分の地位や名誉にも拘泥しないし、もちろん生活苦もあるのだから金銭の必要性もあるが、それにも拘泥しないところがいい。その意味で、この主人公は魅力的である。
2009年12月24日木曜日
佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2)
It’s Christmas Eve.
朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。
このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。
わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。
さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。
作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。
佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。
主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。
何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。
紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。
しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。
クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。
朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。
このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。
わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。
さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。
作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。
佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。
主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。
何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。
紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。
しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。
クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。
2009年12月22日火曜日
佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(1)
よく晴れてはいるが、底冷えのする日になった。
先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。
そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。
この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。
そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。
ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。
だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。
今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。
先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。
そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。
この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。
そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。
ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。
だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。
今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。
2009年12月21日月曜日
藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控え(二)』
よく晴れて入るが、今日も寒い朝になった。朝から掃除や洗濯などの家事を2時間ほどかけてして、一息入れ、少し仕事をして、プリンターインクがなくなって印刷ができなくなったので、今日は、近くの家電店まで歩いて出かけようかと思ったりしている。
昨夜、少々疲れを覚えていたが、テレビで「JIN-仁」の最終回を見て、これが終わってしまうのを残念に感じながら、主演の綾瀬はるかの演技力に感心していた。テレビといえば、18日(金)と19日(土)に連続して二ノ宮知子原作の『のだめカンタービレ』が放映されて、あまりのおもしろさと着想の良さに抱腹絶倒して見入っていた。原作は漫画で、そちらは読んだことはないが、ドラマは傑作だった。とくに「のだめ」を演じた上野樹里がすばらしくいい。使われる音楽も本当にいいし、場面と音楽がぴったり合って、演出の素晴らしさを感じた。だから、金・土・日と久しぶりで3日間もテレビで嬉しさを与えられた。
「JIN-仁」の放映の後で、コーヒーを飲みながら、藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』(2007年 光文社文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズを読んでおり、これも文庫書き下ろしのシリーズとなっているが、主人公の片桐弦一郎は、安芸津藩(現:広島県)の江戸留守居見習いであったが、藩の世継ぎ継承問題で主家がとりつぶされ、そのときに国元にいた妻もその事件の道連れで失い、江戸で古本屋の筆耕をしながら暮らしている浪人である。
しかし、剣の腕も立つし、頭脳も明晰で、爽やかな人柄も買われて、時折、「渡り用人」(臨時雇いの秘書官)として用いられて、雇い主が抱えている問題を解決していくという筋立てになっている。
この作品でも、ふとしたことで関わりをもった信濃(現:長野県)の飯坂藩という藩の世継ぎ問題と絡んだ政権争いによって困窮に陥っている紙漉き百姓や町人、貧苦にあえぐ下級武士たちを「渡り用人」となって助けていくという話で、勧善懲悪の娯楽時代小説としてけっこう面白く読んだ。
この作品の構成が「第一話 鳴鳥狩(ないとがり)」、「第二話 蕗の盃」、「第三話 桜雨」の三部構成で物語が展開されているのだが、なかなか趣向が凝らしてあり、第一話が「梅」にまつわり、第二話が「桃」にまつわり、第三話が「桜」にまつわる話となって、たとえば、「第一話」の書き出しが、「片桐弦一郎は、手酌で酒を飲みながら、時折部屋に忍びこんでくる梅の香に気づいていた」(7ページ)となっており、「第二話」の書き出しが、「日毎に春を感じてはいたが、昨日終日降った雨が、一本の桃の木の花を一気に咲かせてしまうとは・・・その神秘な自然の力に弦一郎は驚いていた」(101ページ)となっている。そして、「第三話」の表題「桜雨」は、桜の花びらが雨のように降り注いでいる様を指す。
第一話の表題として使われている「鳴鳥狩(ナイト狩り)」とは、前日の夕方、鳥が鳴いている場所を覚えていて、翌朝早くその鳥を、鷹を放って狩りをすることで、前々から目をつけられていて悪事の道具として使われた人々を示すものらしい(90ページ)。主人公は、その「鳴鳥狩」として政争の道具に使われた人物への仕打ちに憤りを感じて、この事件に関わっていくのである。
彼が関わった飯坂藩は「紙漉きによる元結」の産地として成り立っており、作者の藤原緋沙子は、その「紙漉き」の過程も詳しく調べて書いているし、藩の悪家老と悪徳商人によってその制作者が困窮に陥っている状態や、人々が爆発して一揆になっていく過程も盛り込んで、なかなか味のある作品に仕上げている。
ただ、主人公の片桐弦一郎が、あまりにも格好良すぎるきらいがある。この作品の第一作目を読んでいないので確かなことは言えないが、すこぶる格好いい。浪人でありながら、臆することも卑屈になることもなく、また、屈託もなく、颯爽と事件を解決していく。そして、藩政にからむような大きな事件を解決したからといって。それに執着することなく元の生活に戻る。彼は、極めて優しく、困窮にあえぐものを助けていく。まさに、拍手喝采の主人公なのである。
だから、読み物としてはとても面白い。が、少し物足りなさを感じるような気もする。出来たら、この作品の一作目を読んでみたい。
昨夜、少々疲れを覚えていたが、テレビで「JIN-仁」の最終回を見て、これが終わってしまうのを残念に感じながら、主演の綾瀬はるかの演技力に感心していた。テレビといえば、18日(金)と19日(土)に連続して二ノ宮知子原作の『のだめカンタービレ』が放映されて、あまりのおもしろさと着想の良さに抱腹絶倒して見入っていた。原作は漫画で、そちらは読んだことはないが、ドラマは傑作だった。とくに「のだめ」を演じた上野樹里がすばらしくいい。使われる音楽も本当にいいし、場面と音楽がぴったり合って、演出の素晴らしさを感じた。だから、金・土・日と久しぶりで3日間もテレビで嬉しさを与えられた。
「JIN-仁」の放映の後で、コーヒーを飲みながら、藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』(2007年 光文社文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズを読んでおり、これも文庫書き下ろしのシリーズとなっているが、主人公の片桐弦一郎は、安芸津藩(現:広島県)の江戸留守居見習いであったが、藩の世継ぎ継承問題で主家がとりつぶされ、そのときに国元にいた妻もその事件の道連れで失い、江戸で古本屋の筆耕をしながら暮らしている浪人である。
しかし、剣の腕も立つし、頭脳も明晰で、爽やかな人柄も買われて、時折、「渡り用人」(臨時雇いの秘書官)として用いられて、雇い主が抱えている問題を解決していくという筋立てになっている。
この作品でも、ふとしたことで関わりをもった信濃(現:長野県)の飯坂藩という藩の世継ぎ問題と絡んだ政権争いによって困窮に陥っている紙漉き百姓や町人、貧苦にあえぐ下級武士たちを「渡り用人」となって助けていくという話で、勧善懲悪の娯楽時代小説としてけっこう面白く読んだ。
この作品の構成が「第一話 鳴鳥狩(ないとがり)」、「第二話 蕗の盃」、「第三話 桜雨」の三部構成で物語が展開されているのだが、なかなか趣向が凝らしてあり、第一話が「梅」にまつわり、第二話が「桃」にまつわり、第三話が「桜」にまつわる話となって、たとえば、「第一話」の書き出しが、「片桐弦一郎は、手酌で酒を飲みながら、時折部屋に忍びこんでくる梅の香に気づいていた」(7ページ)となっており、「第二話」の書き出しが、「日毎に春を感じてはいたが、昨日終日降った雨が、一本の桃の木の花を一気に咲かせてしまうとは・・・その神秘な自然の力に弦一郎は驚いていた」(101ページ)となっている。そして、「第三話」の表題「桜雨」は、桜の花びらが雨のように降り注いでいる様を指す。
第一話の表題として使われている「鳴鳥狩(ナイト狩り)」とは、前日の夕方、鳥が鳴いている場所を覚えていて、翌朝早くその鳥を、鷹を放って狩りをすることで、前々から目をつけられていて悪事の道具として使われた人々を示すものらしい(90ページ)。主人公は、その「鳴鳥狩」として政争の道具に使われた人物への仕打ちに憤りを感じて、この事件に関わっていくのである。
彼が関わった飯坂藩は「紙漉きによる元結」の産地として成り立っており、作者の藤原緋沙子は、その「紙漉き」の過程も詳しく調べて書いているし、藩の悪家老と悪徳商人によってその制作者が困窮に陥っている状態や、人々が爆発して一揆になっていく過程も盛り込んで、なかなか味のある作品に仕上げている。
ただ、主人公の片桐弦一郎が、あまりにも格好良すぎるきらいがある。この作品の第一作目を読んでいないので確かなことは言えないが、すこぶる格好いい。浪人でありながら、臆することも卑屈になることもなく、また、屈託もなく、颯爽と事件を解決していく。そして、藩政にからむような大きな事件を解決したからといって。それに執着することなく元の生活に戻る。彼は、極めて優しく、困窮にあえぐものを助けていく。まさに、拍手喝采の主人公なのである。
だから、読み物としてはとても面白い。が、少し物足りなさを感じるような気もする。出来たら、この作品の一作目を読んでみたい。
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