2010年10月30日土曜日

千野隆司『雪しぐれ 南町同心早瀬惣十郎捕物控』

 台風が接近してきて、雨が降り続けている。今夕から夜にかけてこちらに最も接近し、上陸するかも知れないとの予報が出ているが、今のところあまり強い風はない。

 昨日の千野隆司『鬼心 南町同心早瀬惣十郎捕物控』に引き続き、シリーズの第4作目である『雪しぐれ 南町同心早瀬惣十郎捕物控』(2007年 角川春樹事務所 ハルキ文庫)を読んだ。これも前作と同様、バザーか何かで購入していたものだが、発行年を見ると、前作から2年後にこの作品が出ているので、書き下ろしとはいえ、時間をかけて書かれたものに違いない。

 この作品では、巧妙に仕組まれた強盗籠城事件が取り扱われている。善右衛門という主人が一代で築き上げた京橋の薬種屋「蓬莱屋(ほうらいや)」が夕暮れ時に押し込んできた強盗に襲われた。犯人たちは、店の奉公人や客たちを縛り上げ、人質にして立てこもった。周囲を捕り方が囲み、南町奉行所同心の早瀬惣十郎も駆り出される。雪が降りしきる寒い夜だった。膠着状態が続く。犯人たちの意図がよくわからない。寒さに震えながらも早瀬惣十郎は事件の背景を探ろうとする。

 早瀬惣十郎と琴江夫婦が養子にしようと思っている乱暴者でどうしようもない八歳の末三郎も、子ども同士の喧嘩で「蓬莱屋」に逃げ込んで、事件に巻き込まれ人質となっていることがわかる。琴江も案じて事件の現場に駆けつけてくる。

 みぞれ交じりの雪が降る寒い中で、膠着状態は長く続く。捕り方たちも疲れてくるし、奉行所のだらしなさを責める市中の非難の声も上がってくる。惣十郎は人質の救出を第一に考え、犯人と交渉し、病気の者と子どもの解放を要求する。そこで、ようやく犯人たちは末三郎を解放する。解放された末三郎は案じていた琴江にしがみつき、惣十郎は琴江と末三郎の繋がりが深まったことを知ったりもする。

 そして、解放された末三郎は、意外にもしっかりと冷静に中の様子を伝え、そのことから惣十郎は、さらに事件の背景や犯人たちの狙いの探索を進めていく。強盗籠城が単なる金目当てではないと次第に確信していくのである。

 やがて、外面をおもんばかり、業を煮やした町奉行は強行突入を指示し、強行突入をして、それが功を奏して人質が助け出される。だが、犯人たちはひとりもいない。誰が犯人かわからないように巧妙に人質にまぎれているのである。吟味(取り調べ)が続くが、犯人が誰かは全くわからない。

 金も取られておらず、人質も殺されたり傷つけられたりした者はひとりもいない。事件後は落ち着いていく。「蓬莱屋」の主人の善右衛門と奉行が図って事件は一件落着したものとなる。だが、早瀬惣十郎はどこかにひっかかりを感じて、探索をひとつひとつ進めていく。そして意外な犯人の像が浮かび上がって来る。

 事件の29年前、「蓬莱屋」が店を始めたころ、深川中島町の両替商が強盗に襲われ、大金を奪われて主人が殺され、主人一家が離散した事件があった。事件の犯人は捕まっていない。その後、母親と幼い男の子ふたりはさんざん苦労し、母親が病で亡くなった後は、子どもたちは家々をたらい回しにされて苦労していく。その子どもたちが成長し、自分たちの家を襲って苦労の元を作った強盗殺人犯人を突きとめ、これに復讐しようとしたのである。

 その犯人が、実は、善人の仮面をかぶった「蓬莱屋」の主人、善右衛門だったのであり、「蓬莱屋」に押し込んだ強盗は、その証拠の品を探し出そうとしたのである。彼らは証拠の品を手に入れ、善右衛門と密かに交渉を始める。だが、昔の悪事がばれることを恐れた善右衛門は彼らを殺そうとする。しかし、事件の真相を知った早瀬惣十郎が駆けつけ、すべてを明らかにする。

 巧妙に仕組まれた人質籠城事件の犯人たちの知恵、奉行所という組織の一員として働かなければならないやるせなさを抱えながらも、その事件の背景にひとつひとつ丁寧に薄皮をはぐようにして肉薄し、やがて真相を明らかにしていく惣十郎の歩み、犯人たちの積み重ねられた恨み、善人の仮面をかぶる人間、親子の情、そうした事柄が見事に展開されていく。どうしようもないと思っていた末三郎も、「子どもは育て方次第です」といって愛情を注ぐ琴江の姿とこの事件をきっかけにして変わり、成長していく。惣十郎と琴江の夫婦の絆も次第に深まっていく。

 序章として、29年前の強盗殺人事件の顛末が記されているのも、心憎い演出で、作品としてよく構成されていると感じさせるものがあるし、早瀬惣十郎と琴江、末三郎の家族がこの後どうなっていくのかもシリーズの骨として魅力的である。人質籠城事件を起こした犯人たちの苦労も、安っぽいお涙ちょうだい式でないのがいい。作者の力量は相当なもので、読んでいて飽きが来ない。面白いシリーズだと思う。

2010年10月29日金曜日

千野隆司『鬼心 南町同心早瀬惣十郎捕物控』

 今日もどんよりと曇って、肌寒い。台風が九州沖に接近し、もしかしたら関東地方を直撃するかも知れないと予報が出ている。先の雨で被害を受けた奄美の人たちは、また台風の接近で踏んだり蹴ったりでたまらないだろうと思う。九州南部もそうだが、自然災害が毎年のように続くので経済的に豊かになる時がない。ただ、その分、自然の恵みも大きいが、貨幣経済社会では生活が苦しくなる。

 千野隆司『鬼心 南町同心早瀬惣十郎捕物控』(2005年 角川春樹事務所 ハルキ文庫)を大変面白く読んだ。以前、この作者の作品で『札差市三郎の女房』というのを優れた作品だと思って読んでいたし、書棚を見るとこの作品をバザーか何かで購入していたのに気づき、さっそく読んで見たのである。

 これはシリーズ化されていて、本作品は第3作目だそうだが、書き下ろしとは思えないくらい丁寧に物語が展開されていて、奇をてらうこともない平易な文章で、物語も人物もじっくりとにじむように綴られている。最近多く出されている書き下ろしの時代小説の中では完成度の高い作品だと思った。

 主人公の早瀬惣十郎は、南町奉行所の同心で、この作品では妻の琴江と結婚して9年目になるが、子どもはいない。元々、妻の琴江は既に他の者との結婚が決まっていたのを、惣十郎が惚れて奪うようにして結婚したのだから夫婦仲は決して悪くはないし、生涯連れ添う女は他にはいないと思ってはいるが、忙しさにかまけているうちに、いつの間にか夫婦の間に溝のようなものができてしまっている。

 そして、それを打開するためにも、また子どもができないためにも、養子をもらうことを決めるが、琴江が養子として選んだのは、惣十郎の又従兄弟の三男の末三郎で、八歳になるが貧相で、顔は猿のようだし、少しも落ち着きがなく、食い意地が張って、意地悪で、弱い者いじめも平気でし、強く出ると泣き叫んで我を通すような、どうしようもない子どもだった。琴江は「子どもは育て方次第です」と言い張るが、惣十郎は手を焼いている。

 こうした主人公の家庭を背景としながら、市中に起こった事件の探索を、ひとつひとつ積み重ねるようにして物語が展開されるのだが、『鬼心』は、巧妙な誘拐事件を取り扱ったものである。

 日本橋に本店のある小間物屋に長く勤めていた市之助という男が、本店の娘と結婚し、暖簾分けされて深川に小間物屋を開いていた。だが、あまり才のない市之助は、焦って商売に穴を開け、借金をこしらえていた。妻となった娘のお光は、派手好きで、性悪で、市之助と結婚する前も遊びくれて、誰の子かわからぬ子を妊娠し、市之助はいわば外聞をつくろうためにていよく押しつけられた結婚だった。そして、結婚してもその行状は変わらず、親元から金をもらいながら派手に遊んでいた。市之助は相変わらず奉公人としてしか見られていなかった。

 そこで、借金の穴埋めのために、市之助は、市中の剣の腕のたつ冷徹な浪人、鑿(のみ)を使って人を殺す破落戸(ごろつき)、本店の小間物屋に恨みを抱く男に依頼し、妻の誘拐事件を企んで、自分を馬鹿にする本店から金を脅し取ろうと計画する。

 雪の降る夜、誘拐は決行される。だが、その現場を岡っ引きに見られ、腕の立つ浪人はこれを一刀のもとに斬り殺す。その現場をまた見たお光の顔見知りの身重の「おあき」に見られる。「おあき」は身重であったが、お光が拐かされることを知り、後をつけて助け出そうとする。だが、「おあき」も発見され、監禁される。

 早瀬惣十郎は岡っ引き殺しの犯人を追おうとするが、手がかりが何もない。いろいろと調べてみても何も浮かんでこない。そうしているうちに、身重の妻が帰ってこないと心配する亭主が現れる。事件に繋がりがないように見えるが、惣十郎はかすかな繋がりの匂いをかぐ。

 そして、誘拐の金の受け渡しのさい、最初の計画とは違って、自分で何でもできると傲慢に思っていたお光の父親が剣の使い手である剣道場主をつれて受け渡しの現場に行く。道場主も相当な剣の遣い手であったが、犯人の冷徹な浪人に斬り殺される。だが、その時、犯人が印籠を落としてしまう。

 惣十郎は、その印籠から手探りのようにして持ち主を捜し出すが、事件全体の姿はまだ見えてこない。そして、あれこれと探索の結果、ようやく、小間物屋の娘が誘拐されたのではないかと推察する。小間物屋の本店の主でお光の父親も、二度目の金の受け渡しの時に殺されてしまう。その殺しの現場に残る足跡を辿り、誘拐されたお光と「おあき」が監禁されている武家屋敷跡に行き、犯人と対決するのである。

 事件の粗筋はそんなものだが、ここには周囲に馬鹿にされ認めてもらえないが自意識だけは強い小心者の市之助と、親元から離れられずに我が儘な限りを尽くし、自分のことしか考えられないお光と言う夫婦、身重で出産を控え(監禁された場所で出産する)、亭主をどこまでも信じようとする「おあき」と「おあき」の身をひたすら案じる亭主、そして惣十郎と琴江という三組の夫婦の姿が描かれている。また、娘の我が儘を何とも思わない傲慢な父親とそれを当たり前のように思う娘、手を焼く養子の末三郎を暖かく包もうとする琴江の親子関係、金を巡って仲間割れを起こす犯人たち、そういう人間模様が織りなされている。

 巻末の、
 「『あいつが望むなら、もうしばらく末三郎との三人で過ごしてみるか』
  惣十郎は胸の中で呟いてみた。
  おあきは、自分が助けに行くことを必ず待っている。仁助はそう信じていた。惣十郎も、琴江を信じてみようと思ったのである」(248ページ)
 という言葉が、この物語の核をよく示している。

 事柄の顛末が、無理なく丁寧に展開され、それぞれの人間模様が真っ直ぐ描き出されている所がいいし、あれこれと枝葉がなくて、一つの事件が一冊で取り扱われるのもいい。中編の優れたところも持ち合わせている時代小説で、読ませるものがある。

 今日は、これから少し出かけなければならない。雨模様で寒いので、早めに帰りたいとは思っている。昨日めいっぱい仕事をしたので、少し時間的に余裕があるから、図書館にも行きたい。夕食にお肉でも買ってきて焼こうかと思っている。

2010年10月28日木曜日

宇江佐真理『雨を見たか 髪結い伊三次捕物余話』

 今の時季にしてはとてつもなく寒い日々になっている。仙台に行っていたが、雪が降るかと思える寒さで、朝の気温は真冬並みの5度以下だった。留守中、横浜も寒かったらしい。今日も、冷たい雨模様で、気温は低い。少し厚手のカーディガンを引っ張り出してきた。

 火曜日の夜、宇江佐真理『雨を見たか 髪結い伊三次捕物余話』(2006年 文藝春秋社)を、機会があって再読してみた。改めて、この作者の文章の軟らかさと人を見る目の温かさをつくづく感じた。

 これは、このシリーズの7作目で、主人公の伊三次と辰巳芸者のお文との間に生まれた伊与太は言葉を覚え始める二歳になり、伊三次が手下として仕える北町奉行所の同心の不破友之進の長子の龍之進は見習い同心として奉行所に出所しており、その後に生まれた龍之進の妹の茜は伊与太よりも少し年上の三~四歳で、きかん気で強情な「つわもの」ぶりを発揮していく。

 その茜が拐かされる(誘拐)事件を扱った第一話「薄氷」は、博打打ちの父親と酒飲みの母親から岡場所(遊郭)に売られることになった十二~三歳の少女が、その両親の悪事に荷担して子どもをさらう話である。拐かされた子どもたちは船で日向まで送られ、そこで売り飛ばされるのである。

 茜が拐かされたことを知り、急を知った伊三次と不破友之進、龍之進は、船着き場に駆けつけて、寸前のところで茜や子どもたちを助ける。そのひとつひとつの場面に、情が溢れている。一方で親に岡場所に売られようとする少女、他方で命をかけて我が子を守ろうとする親、そして、薄幸な少女に対する伊三次の情け、それらが実に見事に描き出されている。その少女は拐かしをする前に通りかかった伊三次に、どうせ岡場所に売られるからわたしを買ってくれと言ってきた少女で、その身の上を知っており、事件後どうなるかもわかっているが、祈るような思いでその少女の行く末を案じるのである。

 この第7作『雨を見たか』は、全体に十五歳の見習い同心不破龍之進を中心にして、見習い同心たちが結束して本所無頼派と名乗る乱暴狼藉を働く若者たちを探索していきなながら成長していく話が展開されており、見習い同心たちは、それぞれに個性豊かな人物たちで、それぞれに個性を発揮していく。

 見習い同心のリーダー格とでもいうべき緑川鉈五郎は、腕も度胸もあるが現実主義的で、どこか割り切った冷めた部分を持ち合わせているし、西尾左内は気弱な所のある学者肌で、例繰方(過去の事件の判例を調べる)の書庫に出入りして、事件を綿密に調べ、事実から推理力を発揮する。古川喜六は、元は商家につとめていたが、人才が見込まれて同心の養子となり、見習いとして出所しているのである。人柄も謙遜で数字にも明るいが、元は無頼派の一員であり、また侍の作法に戸惑ったりする。橋口譲之進は仲間思いの情のある人物で、正義感もある。

 見習い同心としての彼らの日常が描き出されながら、力を合わせて無頼派を追い詰めていくのだが、一方でひたむきに生きる彼らと、他方で無頼派として日常の鬱憤を晴らそうとする青年たちの姿が描かれ、人の生きる姿を考えさせるものとなっている。

 第二話「惜春鳥」では、その本所無頼派がついに押し込み強盗までやってしまい、巧妙に仕組まれたアリバイ工作をどう解き明かすのかが鍵となっていく序章ともなっているが、芸者をしているお文の客となった呉服屋の少し悲哀のある物語も描き出されている。

 呉服屋の佐野屋は、呉服問屋の集まりでお文の客となったが、お文は愚痴や嫌みばかり言う佐野屋に嫌気が差してしまう。佐野屋は三十年も呉服屋の大店に奉公して、ようやく暖簾分け(支店を出す)で独立したが、商売があまりうまくいってなかったのである。だが、親店である呉服屋の大店から仕事を回してもらい、ようやく一息つけるようになり、家族と奉公人のために宴をもつという。お文はその宴に芸者として出かけ、子どもたちが争うようにして卵焼きを食べ、分け合う姿を見、佐野屋の内儀の素朴な姿に胸を熱くするのである。

 宇江佐真理は、苦労して生きなければならない人間を温かく包みこむようにして描く。ほんの些細な日常が気持ちの良い温かさで包まれている。佐野屋の話もそういう話である。

 第三話「おれの話を聞け」は、龍之進の同僚である西尾左内の姉が労咳(肺病)をやみ、婚家から戻って戻ってきていることを知り、龍之進が見舞いに行くと、左内の姉の夫が来て、「おれの話を聞け」と怒鳴りあう夫婦の諍いが始まってしまうのをきっかけにして、それぞれの夫婦の姿が描き出されていく話である。左内の姉にはまだ小さい三人の子どもがいた。そして労咳を病んでいるために夫の両親は、その子たちの世話のためにも、病に倒れた嫁と離縁して、新しい嫁を迎える算段をしているのである。だが、夫は離縁する気はない。左内の姉は、自分はもう無理だから離縁してくれと言う。それで、「おれの話を聞け」と叫んだのである。

 その場に居合わせた龍之進は家に帰り、父親の友之進に「もし母上が病に倒れ、回復の見込みがないとしたら、どうしますか」と尋ねる。友之進は「いなみ(妻)には身を寄せる実家はねぇ。・・・おれが最後まで面倒を見るさ」(126ページ)と当たり前のようにして答える。次に、龍之進は伊三次に「お文さんに、おれの話を聞けと、切羽詰まった声を上げたことがありますか」と尋ねる。すると伊三次は、「わたしは甲斐性なしの男ですから、そんな台詞をほざいたことはありやせんが、うちの奴が・・・わっちはお前の何なんだ、と詰め寄ってきたことがありやす。正直、ぐうの音も出やせんでした」(144ページ)と答える。

 夫婦の姿は様々だ。様々であっていい。ただ、かけがえのない相手だと確信できればいいし、またその確信が欲しい。「おれの話を聞け」、「あっちはお前の何なんだ」という台詞は、そのかけがえのなさを確信しようとする言葉である。相手がかけがえのないものであることを覚えること、それが愛の本質であるに違いない。第三話は、そういうことをそれとなく語るものである。

 第四話「のうぜんかずらの花咲けば」は、見習い同心としての訓練が進んで行く中で、奉行所の岡場所などの私娼窟の手入れで捕縛された娘の話が展開されている。娘は、質の良くない一膳飯屋の女中として十両で父親に売られた。やがては客を取らされることになるだろうと思われる十四、五歳の娘で、龍之進は、手入れの前に娘が稲荷神社の前で何かを一心に祈っている姿を目撃していた。娘は、自分は客を取っていたと言い張る。もしそうなら罰として吉原送りになる。龍之進には娘が客を取っていたとは思われない。なぜ、自ら吉原送りを望むのだろうか。

 牢内で、引退前の老同心が娘にいたずらを仕掛けようとする。例繰方として権威もある同心だった。だが、寸前で宿直をしていた龍之進が気づき、これを阻止する。そして、娘は龍之進に、夜中まで働かされ、朝は暗いうちに起こされて、眠る時間も与えられない、吉原に行ったらもう少し眠れるだろう、そして、吉原にはいとこの姉さんがいて、どうせ売られるならそこに行きたい。姉さんの見世の庭に、「のうぜんかずら」が咲いていて、そりゃあきれいだそうだ、と言う。

 娘は吉原の引き手茶屋の女中奉公として出ることになる。そこが遊女屋でなかったことだけが救いである。龍之進は吉原へも見回りに行くが娘に会うことはなかった。ただ、娘がつとめている引き手茶屋の横手に「のうぜんかずら」が咲いていたと同僚の古川喜六に教えてもらい、その花の名の意味が「高くつるを伸ばし、空いっぱいに咲き誇る」という意味であることを知る。「のうぜんかずら」は猛暑をしのぎ、秋まで咲き続けるたくましさもあるという(189ページ)。娘にぴったりの花だと龍之進は思う。

 第五話「本日の生き方」は、腰を痛めたお文が治療のために骨接ぎ(実は、この骨接ぎの弟子が本所無頼派のひとりであるが、お文は知らない)に行く途中で、亭主が盗っ人の嫌疑をかけられて引っ張られていくのに出会う。お文は、岡っ引きにすがりつく女房をなだめ、ご飯の支度をして亭主を待つようにと声をかける。この世でたったひとりの男と思っている女房の姿に、お文は自分の姿を重ね合わせる。亭主の無罪が証されて大番屋(牢)から解き放たれる場面にも遭遇するが、自身番の前で心配そうに亭主を待つ女房の姿に、かつて自分の亭主である伊三次が殺人の疑いで大番屋に引っ張られたとき、同じように伊三次を待っていた姿を思い起こす。

 それとは別に、辻斬り騒ぎが起こる。見習い同心たちは、どうもその辻斬りが本所無頼派の仕業ではないかと推測をつけ、無頼派の首領格が養子に入った旗本(幕府老中)の家を密かに見張ることにする。案の定、その夜、旗本家から出てきた男が辻斬りを働こうとする。見張りに立っていた不破龍之進と緑川鉈五郎は、その辻斬りを阻止するが、男は仲間(骨接ぎの弟子)を自ら刺して逃げる。町奉行所は旗本には手は出せない。刺された男は死ぬ。だが、事件は明白となる。

 見習い同心たちはお手柄だったが、無断でそのようなことをしたと叱られ反省文を書かせられる。龍之進の反省文の一節、「本日の小生の生き方、上々にあらず、下々にあらず。さりとて平凡にあらず。世の無常を強く感じるのみにて御座候」(235ページ)が表題になっている。

 龍之進は、まだ十五、六の少年だが、普段の彼の言動からして、この一文はなるほどと思う。彼は自分の生き方をとことん探している素朴で素直な、そしてひたむきな少年なのである。

 第六話「雨を見たか」は、「しくじり(失敗)」の話である。逃げた旗本を初めとする無頼派への探索が進んで行く。押し込み強盗も彼らの仕業に違いないが、アリバイが崩せないし、証拠がない。船を使ったようだが、その船の船頭がわからない。そういう中で伊三次が、客を川に突き落としたかどで捕まっている船頭が、押し込み強盗事件の後で急に金遣いが荒くなったのを聞き込んできて、日本橋から深川まで舟に乗ったときに、その舟の船頭から、それとなく押し込み強盗の犯人は伊三次が考えている船頭ではないかという話が持ち込まれる。巧妙に仕組まれたでっち上げ話なのだが、伊三次はそれとしてその話を奉行所にあげる。捕り方が向かうが、しかし、空振りに終わる。

 客を川に突き落とした船頭は押し込み強盗とは無関係で、伊三次は勇み足の「しくじり(失敗)」をした。同心の友之進も、昔、無実の男をひっぱったのではないかという後悔をもっている。

 それとは別に、無頼派の旗本が養子縁組を解消され、実家からも勘当されるという知らせを奉行がもたらす。勘当されれば身分を失い牢人となるから町奉行所で逮捕できる。見習い同心たちは準備を整え、無頼派の旗本が家から出てくるのを待ち、ついにこれを捕縛する。これで一件落着かと思いきや、勘当されたとはいえ相手は旗本家で、家名に傷がつかないように奉行との間で内々の取引があった。彼らが罰されることはない。龍之進も、そのどうにもならなさの中に置かれるのである。

 朝、伊三次と弟子の九兵衛が龍之進と出会ったとき、伝馬船の船頭たちが「こっちは雨を見たか」と会話しているのを聞く。龍之進が「雨は見ましたよ.心の中で・・・」とつぶやく。それから伊三次も「わたしも雨を見ましたよ」と続ける。

 人は多くの失敗を重ねていく。「雨を見る」ことはいくらでもある。時には土砂降りさえある。そうやって人が生きていく姿を「雨は見たか」は、かすかに、しかし、しかりとした音色で響かせているのである。

 宇江佐真理の作品について書いておこうとすると、どうしても長くなる。作品が多くのことを、決して饒舌ではなく静かに語っているからだろう。そして、描かれる人間の温かさがふんわりと包む。個人的に、このシリーズが平岩弓枝の『御宿かわせみ』のように、二世代に渡るものとなって、龍之進や茜、伊三次の子どもの伊与太の世代にまで続く物語になって欲しいと思っているがどうだろうか。茜という親が手を焼くようなきかん気でやんちゃな子どもは、心底いいなぁと思ったりもする。その茜を周囲の人が手を焼きながらもそのまま大事にしている姿もいい。

2010年10月26日火曜日

出久根達郎『抜け参り薬草旅』

 昨夜、雨が音もなく降ったようだ。昨日洗濯物を取り込むのを忘れていたら、ぐっしょり濡れて洗濯のやり直しという、いつもの「ぼけ」をやってしまった。仕事の関係で午後から仙台まで行かなければならないし、片づけなければならない仕事もあるので、まだ暗い早朝から起き出していた。

 昨夕から夜にかけて出久根達郎『抜け参り薬草旅』(2008年 河出書房新社)を面白いと思いながら一気に読んだ。

 「抜け参り」とは、元々は「生かされている」ことを伊勢神宮に感謝する「おかげ参り」とか「お伊勢参り」と呼ばれ、だいたいにおいて江戸時代に60年周期で起こった伊勢神宮への集団参拝のことで、江戸時代には庶民の移動には厳しい規制があったが、伊勢神宮参詣や大山詣のようなことに関してはほとんどが許される風潮があり、特に伊勢神宮の天照大神が商売繁盛の神とされたことから商家では、子どもや奉公人が「お伊勢参り」をしたいと言い出すと、親や主人はこれを止めてはならないと言われていた。また、無断で出かけていっても、伊勢神宮を参詣したという証拠のお札やお守りを持ち帰れば、お咎めなしの無罪放免とされていた。「抜け参り」は、その無断で伊勢神宮へ参詣することを言う。

 だいたいにおいて、初期には、「講(お金を出し合い、くじで当選者を決めて、当選した者が集まったお金を使うことができる)」を作ったりして本格的に行われ、参詣者は「白衣」を着ていたそうだが、中期になると仕事場から着の身着のままで行ったりして「おかげでさ、するりとさ、抜けたとさ」と囃子ながら歩いたと言われる。無一文で出かけても沿道の人々が助けるべきという風潮があった。無一文で出かけた子どもが大金をもらって帰ってきたという話もある。

 後期の文政から天保にかけての「おかげ参り」では、なぜかひしゃくを持って行き、それを伊勢神宮の外宮北門に置いていくということが流行り、こうしたことが幕末の「ええじゃないか」につながっていく。文政から天保にかけての「おかげ参り」で参詣した者は400万人を越えるというから、これがいかに江戸庶民の間で流行っていたかがわかる。

 伊勢神宮の性質が変わったのは明治になってからで、明治天皇が伊勢神宮に行幸したことから庶民の「お伊勢参り」熱がさめ、伊勢神宮は格式の高い神社になってしまった。

 ちなみに、わたしが住んでいる所は、「お伊勢参り」と同様に江戸時代に江戸の庶民で流行した「大山詣」に使われた「大山街道」の側で、現在の国道246号線が側を走っている。近くの「荏田(えだ)」という所は大山詣のための宿があった所である。

 『抜け参り薬草旅』は、江戸の瀬戸物問屋につとめていた十六歳の少年「洋吉」がその「抜け参り」の旅に出て、箱根近郊で薬草採りをする庄兵衛という人物と出会い、その庄兵衛と一緒に旅をしていくというもので、薬草に詳しく、人知にも経験にも富んだ庄兵衛と共に、特に精力剤や催淫剤(惚れ薬)などを求める人々や事件などに出くわしながら、最後には「おかげ参り」の群衆を利用して幕府転覆を企む由井正雪の子孫である由比家の騒動に巻き込まれながら成長していく話である。

 薬草が生えている所は秘中の秘であるから、特に精力剤ともなる薬草などを巡って、薬草採りの上前をはねようとする人物も出てくるし、ないはずの黄色い朝顔の種を欲する強欲者も出てくる。刺青を覚えた絵師が若い女性の肌を狙って「抜け参り」の女性たちを誘拐する事件も起こる。薬と毒は表裏一体だから、その毒を欲する者もある。「抜け参り」を利用して駆け落ちする者や羽目を外す少女もいる。そういう様々な人間の欲の模様が「薬草旅」の色をなしていき、洋吉は庄兵衛の下で人生経験を重ねていくのである。

 途中で「抜け参り」の旅を同行することになった「とし」という少女との洋吉の淡い恋もある。そして、最後に、静岡清水の府中で、由比の由比家の子孫が企む「おかげ参り」の群衆を利用した暴動に巻き込まれ、旅絵師に身をやつした幕府お庭番(隠密)や庄兵衛の活躍で助け出されていき、洋吉と「とし」は抜け参りの熱を冷まして、落ち着いていくのである。

 物語の展開が細部にわたって無理がないし、庄兵衛の人間観察眼もなかなかのもので、大げさに構えないところがいい。なんといってもこの作品にはユーモアが満ちている。人間の業(ごう)や性(さが)をそのまま受け止めていくユーモアがある。時代小説としては完成度の高い作品だと思う。

 作品とは関係ないが、薬草については、いつかもっときちんと学べたらと思ったりする。何といってもそれは人間の知恵の産物であり、歴史である。以前、中国に行ったときに関係文書がないかと思って探したが、こういうのは実際の植物を見て、手にし、乾燥させたりすり潰したりして自分の手で作らないと身につかないと思っている。子どものころヨモギの葉を血止めに使ったことがあるのを思い出した。しかし「生兵法は怪我の元」であるに違いない。

2010年10月25日月曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』

 晴れたのは土曜日だけで、昨日は朝から曇り空が垂れ込め、夜は雨になり、少し肌寒い日となり、今日も午後は少し陽が差したりもしたが、朝から雲が垂れ込めていた。雨のひとしずくごとに秋が深まっていくのだろう、街路樹の銀杏も色づき始めている。日曜日のの新聞には紅葉した日光の中禅寺湖の写真が掲載されていた。「日光に行くまではけっこうと言うなかれ」と言われている日光にはいつか行ってみたいと思っている。

 土曜日の夜、早く休みすぎて夜中に目が覚め、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』(2008年 双葉文庫)を読んだ。坂岡真という作家の作品は初めて読むが、文庫本のカバーの表紙裏によれば、1961年生まれで、大学卒業後に会社勤務をされ、その後作家活動に入られたようで、このシリーズの他に『うっぽぽ同心十手綴り』や『夜鷹人情剣』、『鬼役矢背蔵人介』といったシリーズを書き下ろして書かれているらしい。本作は、このシリーズの11作目とあるので、シリーズ物として息の長い作品の一つだと言えるだろう。

 『照れ降れ長屋風聞帖』は、江戸切り絵図で見れば、江戸の江戸橋北から親爺橋に向かう堀江町3丁目と四丁目の間の道に履物屋と傘屋が並び、通称「照降丁」と呼ばれる横町があり、そこの裏店の長屋で浪人暮らしをしている中年の浅間三左衛門を中心にした物語で、彼と交わりをもち、元会津藩士で剣の修行をしながら浪人となっている若い天童虎之介、正義感の強い八丁堀同心の八尾半四郎といった、いずれも剣の相当な遣い手たちが諸悪と闘っていく物語である。近年、こうした類の作品は、本当にたくさん出されていて、特に、優れた能力を持ちながら貧乏暮らしをしなければならず、普段はそういう能力があることすら見せないが、いざとなったときに力を発揮していくという構造を、いずれもがもっている。

 こういう主人公の姿が、なぜ今の日本の多くのサラリーマンに読まれるのかという社会考察も多く目にすることができるほど、こうした作品が出されているのである。奉行所同心が主人公になった作品もたくさんあり、その多くが、出世と言うところとは無縁のところに置かれていた奉行所の同心の地位が、閉鎖的な色合いを濃くしてきている今の日本社会の反映と言えるかも知れない。

 それはともかく、『照れ降れ長屋風聞帖』の主人公である浅間三左衛門は、小太刀の遣い手であり、知恵も機転も利き、洞察力もあるが、「おまつ」という十分の一屋(結婚仲介業)を営む女性の亭主として養われ、普段は「ぼさぼさの頭髪に無精髭、よれよれの着流しを纏い、暢気そうな顔つき」(27ページ)の痩せ浪人である。彼は家事もこなせば子守もし、およそ侍らしからぬ子持ちの中年男なのである。くたびれた中年の代表選手と言っても良いかも知れず、その意味では、この類の時代小説の一つの類型化された主人公のひとりである。

 『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』は、表題作の他に「ぼたもち」、「枯露柿」の三話からなる連作短編集だが、物語そのものは、それぞれ中心となって活躍する人物も事件の内容も異なったものとなっている。

 第一話の「盗賊かもめ」は、主人公の浅間三左衛門を師と仰いでいる元会津藩士の青年剣士である天童虎之介が、思いを寄せる裏長屋の隣の娘「おそで」を連れて千駄木の菊人形を見に出かけたときに、子どもの拐かし(誘拐)現場に出くわし、それを未然に防いだことから、子どもの父親である仏具屋の主にいたく感謝され、歓待されるところから始まる。

 仏具屋の主は、町の世話をする町役人もつとめ、将軍が見ることから「天下祭」とも呼ばれていた「神田祭」の世話もしており、天童虎之介一行を観覧席に誘ったりするが、実は、盗っ人の上前をはねる「盗賊かもめ」と呼ばれる人物であり、その蓄えた金を狙って盗賊たちが子どもの誘拐や夜襲などを企んでいたのである。

 仏具屋の主の金を狙っていたのは、籐八と呼ばれる盗っ人を頭とする一味で、彼らは神田祭を利用して、将軍上欄で右往左往する江戸城の御金蔵から大胆不敵にも金を盗むことを計画していたのである。そして、そのことを知った天童虎之介や浅間三左衛門、奉行所同心の八尾半四郎らがその企てを粉砕していくというものである。

 第二話の「ぼたもち」は、野菜売りで「変な顔のぼたもち」と呼ばれて馬鹿にされていた娘が商家の主殺しの罪で大番屋(牢)に入れられるところに出くわした同心の八尾半四郎が、その事件の真相をさぐり、権力を持つ目付(武士を取り締まる役人)が多額の借金を商家からしており、その借金を消すために商家の主を謀殺したことを明白にしていく話である。目付は奉行所内与力(奉行の家臣)とも結託し、権力による圧力をかけるが、半四郎は物ともせずに、彼が密かに思いを寄せている隠密の雪乃の助けで真相を明らかにしていく。

 第三話の「枯露柿」は、ふとした誤解で夜鷹(娼婦)の亭主から嫉妬を被り、腹を刺された浅野三左衛門であったが、その夜鷹が何者かに殺されたことを知り、その事件の裏に、将軍お目見えの格をもつ強欲で好色な検校(盲人の高官位者で、金貸し業が公認されていた)がいることを探り出し、その検校と対決していく話である。彼は検校の策略にはまり水井戸に閉じ込められるが、かろうじて脱出し、天童虎之介、八尾半四郎らの助けで検校一味を一網打尽にしていくのである。

 こうした事件の顛末が物語られているのだが、主人公の設定はともかく、わたしには事件の顛末や解決がどうも安易すぎるし、理に適わないところが多すぎる気がしてならなかった。たとえば、第一話「盗賊かもめ」では、江戸城の御金蔵破りが取り扱われるが、描かれている籐八という小悪党では、そのような大きな事件を起こすことは不可能ではないかと思ってしまうのである。また、事件の真相を浅間三左衛門が解いていくのだが、御金蔵破りという巧妙に仕組まれたはずの事件の真相が、そんなに簡単にわかっていいのだろうか、「盗賊かもめ」と呼ばれる仏具屋の主が誘拐されかけた子どもの実父ではなく、ただ演じていただけで、実母が金遣いの荒い派手な女房であるのも、どこかちぐはぐな気がした。

 確かに、歴史上、江戸城の御金蔵は何度か破られているし、神田祭にかこつけてそれが行われたという話も、正確には覚えていないが池波正太郎か誰かの小説にあったように思うが、そこには相当の資金力と人力がいるのであり、御金蔵の鍵番が一味の女の色香で御金蔵の鍵を開けていたというのも安直なような気がした。

 また、第三話の「枯露柿」で主人公の浅間三左衛門が検校の屋敷の水牢に落とされるが、畳の部屋の真下に水牢を作り、これを引き上げるのに滑車を使ったというのは、物理的に考えて荒唐無稽のような気がしたし、助けに来た八尾半四郎が担ぎ込まれた鐘の中に身を隠しているのだが、ひとりの人間を隠すことができるような大きな鐘が半鐘のような高い音を出すことができるとも思われない。また、正義漢が策略にはまって暗い水牢に落とされるという話も、どこかで読んだような気がする。

 読み進むに従い、どこか安価に作られた話のような気がしてしまったのである。文章表現も、江戸切り絵図をなぞっていくようなところがあって、どこかごつごつした感じさえした。言葉が事柄の羅列であれば、言外の言がなくなる。書き下ろしという執筆手段では、推敲はじゅぶんではないだろう。ただ、主人公が仲人仲介業(十分の一屋)を営む女房に養われ、子煩悩で、人がいいという設定は魅力的ではある。

 もちろん、この作品一つでこのシリーズの全部を語ることはできないし、作者についても語ることはできないだろう。
 
 今日、メールを書こうと思っていた熊本のSさんからメールが届いた。嬉しい限りである。

2010年10月23日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒』

 奄美大島の水害のニュースが伝わるが、ここでは、昨日まで垂れ込めていた雲が嘘のように晴れて、気持ちの良い秋空が広がっている。気温はそんなに高くはないが、過ごしやすい.少し苦しめられた咳もだいぶ治まって、それも今日の気分の一つだろう。今朝は比較的ゆっくり起き出して、いつものようにコーヒーを飲み、新聞を読み、シャワーを浴びて、仕事に取りかかった。

 熊本のSさんや久留米のJさんなどに「元気でいますか」とメールを書こうと思っていたのだが、何やかにやで書きそびれてしまった。またの気分の時に、と思っている。

 昨夜、宇宙の果ての小さな惑星でサバイバルをしなければならなくなり、大きな建造物の上まで梯子を恐怖にかられながら昇り降りしているという奇妙な夢を見た。2000年から2001年にかけて書いた『逍遙の人-S.キルケゴール』という小さな文をまとめる作業が昨日終わったので、寝る前に、S.キルケゴールが使った「梯子」を意味する仮名について考えていたからかも知れない。

 その前に、昨夕は鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒』(2003年 双葉文庫)を読んだ。このシリーズは2作目からランダムに読んでいたし、だいたいにおいてシリーズ物の1作目はシリーズの中で最も充実しているものだから、その1作目を読んで見たのだが、改めて1作目を読んで見て、作品の質がほとんど変わらず維持されていることに、まず敬意を表したいと思った。

 これは、世のはぐれ者ばかりが住んでいるので通称「はぐれ長屋」と呼ばれる本所相生町の棟割り長屋に住む中年の傘張牢人である華町源九郎を中心に、居合抜きの大道芸で暮らしを立てている菅井紋太夫、元岡っ引きで還暦を過ぎて隠居し娘夫婦の世話になっている孫六、一流の研ぎ師のもとに弟子入りしたがうまくいかずに出て、包丁やはさみを研いで糊口をしのいでいる茂次、そして第1作では出てこないが砂絵を描いて見せることで日々の暮らしを何とかやりくりしている三太郎の五人が団結して諸悪と闘う物語である(1作目には、まだ三太郎は登場せずに、四人の活躍となっている)。

 今回は、源九郎と紋太夫が無聊をかこって将棋を指しているときに、土左衛門(溺死体)があがったというニュースを茂次が伝えるところから物語が始まる。好奇心旺盛な源九郎たちはその死体を見に行くが、どうやら手ひどく痛めつけられて殺され、川に流されたようである。

 その事件は彼らには無関係の事件であったが、次の日、華町源九郎がその川の側を通ると、ひとりの五~六歳の男の子がそこに佇んでいた。気になって声をかけると、どうやら殺された男と関係があるらしく、しかも「家はない」という。源九郎は仕方なしにその子を自分の長屋に連れてきて面倒を見て、その子の家を探そうとする。だが、探そうとすると二人の武士から襲われることがあった。そこにひとりの女が訪ねてきて、20両の金と共にその子を守って欲しいという手紙を置いて帰る。

 源九郎たち四人は、その子と土左衛門の事件には複雑な事件があることを察して、その子が旗本の妾腹の子で、旗本家のお家騒動に絡んで追ってから見を隠していたことを知る。旗本のお家乗っ取りを企んでいたのは、病弱な主の弟で、好色で強欲な男であった。主の弟は主の妻とも関係し、妾腹の子をなきものにして、五千石の家を乗っ取ろうとしていたのである。

 神道無念流の凄腕の剣客である深尾という侍も、旗本の弟から剣術道場開設の資金を出してもらうということで源九郎たちに敵対してくる。

 華町源九郎たちは知恵を使い、何とか旗本の弟一味をやっつけ、子どもを守ることができたが、華町源九郎は剣客として凄腕の剣客との対決をしなければならなくなる。老いを感じ始めた源九郎には難敵である。だが、彼に対峙した剣客は、愛する妻を病でなくし死に急ぎ、源九郎はようやくその勝負に勝つ。

 このシリーズは、概ねこうした物語の展開がその後開示されていくのである。事件の内容はそれぞれ異なっているが、まず、手ひどい悪があって、その悪行にはぐれ長屋の住人たちが巻き込まれたり、関わったりする。あるいはそういう悪から守って欲しいとの依頼を受ける。だがそこには難敵が登場し、中年の剣客である華町源九郎が剣客としての矜持を発揮していくのである。

 こうした類型があるのだが、長屋に住む庶民の日常がいきいきと描かれ、無理のない流れるような文章で情景と状況が描かれるので、物語として読みやすい。最近は、こういうパターンで描かれる「長屋物」がいろいろな作家の作品で出されているが、酸いも甘いもかみ分けたような中年から老年期の男が中心となって物語が展開される娯楽小説としては面白い。

 鳥羽亮の他の作品でもそうだが、剣の試合を描く際に、彼は「斬気」というものを頂点にして闘いを描く。「斬気」というのは、気が最も高くなった瞬間で、剣道でも他の柔術でも、多くの場合、特に真剣の場合はその気の高まりで勝敗が決まるから、主人公が「斬気」を見極めていく姿は納得できる。

 ただ、勝ち負けというのがあまり好きではないわたしとしては、個人的に、華町源九郎のような主人公には、たとえそれが悪との対決であったとしても、「斬気」も何もなく、のんべんだらりと、あるいはのらりくらりとやってもらうといいように思ったりもする。物語の展開や構成上はそうもいかないだろうが、もうすこし「だらしない」方がいいと思うのである。わたし自身、もう少しだらしなく生きたいと思っているからだろう。

 今日は土曜日で、相変わらず仕事は山積みしているが、天気もいいことだし、のんべんだらりと過ごそうと思っている。

2010年10月20日水曜日

多田容子『やみとり屋』

 今にも泣き出しそうな雲が覆って、少し肌寒さを感じる。風邪が完全に抜けきらず、体力も気力も衰えたような気がするし、この衰えた状態でこのまま生きていくような気弱な思いがふと横切ったりもするが、多分、一時的な感覚だろう。ある論文の関係で、今朝、ふと、大きな網で世界をすくい取ったようなヘーゲルの歴史と状況の卓越した概念把握のことを考えていたら、「こういうふうに物事を考えながら生きていかなければならない人間の不幸とつまらなさ」という言葉が浮かんできて、いったい自分が何をしたいと望んでいるのか、それがわからないところにわたしの不幸があるなぁ、と思ったりもした。

 というのは、ヘーゲルの哲学とは全く無関係なのだが、昨夜、椎名軽穂という人の少女漫画を原作にした『君に届け』というアニメ・テレビドラマを涙をポロポロこぼしながら感動して見て、そこに描かれているひたむきで素直で真っ直ぐな高校生の姿が目に焼きついて、今の歳になっていたく反省させられ、「自分で納得すれば、自己完結も悪くない」と思ったりしたからである。この作品は、最近、実写映画で上映されているらしいが、このような物語に感動を覚えることができるような人たちがたくさんいるということは、素敵なことに違いない。

 アニメ・ドラマは、先にとても好きになった『のだめカンタービレ』と、この『君に届け』の2作しかしらないが、このDVDもぜひ手に入れたいと思っている。

 それはともかく、月曜日の夜から火曜日にかけて、多田容子『やみとり屋』(2001年 講談社)を読んだ。作者について本のカバーの裏に「1971年、香川県生まれの尼崎市育ち、京都大学経済学部在学中から時代小説を書き始め、・・・2000年3月には『柳影』を刊行、若き剣豪小説作家の誕生と注目される」とあり、武術、それもとりわけ柳生新陰流に詳しく、2009年には『新陰流 サムライ仕事術』(マガジンハウス)という異色の実用書を出されているようである。

 そういう作者の著作傾向からすれば、『やみとり屋』は作者の作品群の中でも異色の作品だろう。愚将軍としても名高い五代将軍徳川綱吉の時代の「生類憐れみの令」が施行された時代に、向島の森でひそかに鳥料理を食べさせる「やみとり屋」を営む潮春之介と吉本万七郎という二人の男を中心に、その店に集う様々な人々の姿を描いたもので、巻末にわざわざ吉本の芸人であるダウンタウンのトークや作品を参考にしたと断られているように、時代小説では珍しく会話、それも大阪弁の会話が中心となり、しかも、主人公の一人称の形式で物語が進められている。

 主人公の「俺」である潮春之助は、複雑な出生で、上方の醤油商の潮屋で育てられ、成長し、百両の金を盗んで家を出て江戸に出てきて、「言部流」という話術を極めた男であり、もうひとりの春之助の相方としての万七郎は、かなりの武術の腕をもつ元侍で、義兄を殺し、敵持ちとして江戸に出てきて春之助と出会い、一緒に「やみとり屋」を始めることになったのである。

 禁令の鳥を食そうとして集まってくるのだから、ここに集まってくるのはいろいろな思惑を抱いている人間たちであり、やがて「やみとり屋」は幕府転覆を企む集まりとして探りを入れられるようになり、そのうち、万七郎を敵とする武士も現れたり、虎の衣を切る目付に出世の道具としてつけ狙われ、これと対決しなければならなくなったり、幕府隠密が登場したりして、てんやわんやの騒動となる。

 そういう騒動を春之介と万七郎の「しゃべり」で切り抜けようとするのである。もちろん、春之助、万七郎のそれぞれの恋も絡んでいる。

 ただ、題材や物語の展開からすれば、あまり意味のない「しゃべり」が先行して、どこかまとまりがないような構成が気にならないことはない。あえて作者がそれを意図しているのかも知れないが、あまりにも盛りだくさんな具蕎麦を煮込みすぎた醤油味で食べさせられているような気がしてしまった。物語そのものは後半に行くに従って引き込まれていく展開をもっているだけに、「しゃべり」ということに重点が置かれ過ぎているような気がするし、「しゃべり」に意味をもたせようとするところに無理があるのかも知れないと思ったりもする。「しゃべり」は「しゃべくり」で、本来、何の意味もないような、他愛もないもので、軽く受け流されることを目的としたものに過ぎない。一つの小説作品として見れば、作者の思い入れが強すぎるような気がするのである。

 もちろん、これだけで作者云々と言えるわけではない。他の作品では違った面もあるだろう。ただ、わたし自身、武術をしないわけではないが、今のわたしにとってはどうも「勝負」を描く剣豪小説というのは触手が動きにくい。この作品の中で描かれる「立ち会い」は本物だとは思っているが。