2010年10月20日水曜日

多田容子『やみとり屋』

 今にも泣き出しそうな雲が覆って、少し肌寒さを感じる。風邪が完全に抜けきらず、体力も気力も衰えたような気がするし、この衰えた状態でこのまま生きていくような気弱な思いがふと横切ったりもするが、多分、一時的な感覚だろう。ある論文の関係で、今朝、ふと、大きな網で世界をすくい取ったようなヘーゲルの歴史と状況の卓越した概念把握のことを考えていたら、「こういうふうに物事を考えながら生きていかなければならない人間の不幸とつまらなさ」という言葉が浮かんできて、いったい自分が何をしたいと望んでいるのか、それがわからないところにわたしの不幸があるなぁ、と思ったりもした。

 というのは、ヘーゲルの哲学とは全く無関係なのだが、昨夜、椎名軽穂という人の少女漫画を原作にした『君に届け』というアニメ・テレビドラマを涙をポロポロこぼしながら感動して見て、そこに描かれているひたむきで素直で真っ直ぐな高校生の姿が目に焼きついて、今の歳になっていたく反省させられ、「自分で納得すれば、自己完結も悪くない」と思ったりしたからである。この作品は、最近、実写映画で上映されているらしいが、このような物語に感動を覚えることができるような人たちがたくさんいるということは、素敵なことに違いない。

 アニメ・ドラマは、先にとても好きになった『のだめカンタービレ』と、この『君に届け』の2作しかしらないが、このDVDもぜひ手に入れたいと思っている。

 それはともかく、月曜日の夜から火曜日にかけて、多田容子『やみとり屋』(2001年 講談社)を読んだ。作者について本のカバーの裏に「1971年、香川県生まれの尼崎市育ち、京都大学経済学部在学中から時代小説を書き始め、・・・2000年3月には『柳影』を刊行、若き剣豪小説作家の誕生と注目される」とあり、武術、それもとりわけ柳生新陰流に詳しく、2009年には『新陰流 サムライ仕事術』(マガジンハウス)という異色の実用書を出されているようである。

 そういう作者の著作傾向からすれば、『やみとり屋』は作者の作品群の中でも異色の作品だろう。愚将軍としても名高い五代将軍徳川綱吉の時代の「生類憐れみの令」が施行された時代に、向島の森でひそかに鳥料理を食べさせる「やみとり屋」を営む潮春之介と吉本万七郎という二人の男を中心に、その店に集う様々な人々の姿を描いたもので、巻末にわざわざ吉本の芸人であるダウンタウンのトークや作品を参考にしたと断られているように、時代小説では珍しく会話、それも大阪弁の会話が中心となり、しかも、主人公の一人称の形式で物語が進められている。

 主人公の「俺」である潮春之助は、複雑な出生で、上方の醤油商の潮屋で育てられ、成長し、百両の金を盗んで家を出て江戸に出てきて、「言部流」という話術を極めた男であり、もうひとりの春之助の相方としての万七郎は、かなりの武術の腕をもつ元侍で、義兄を殺し、敵持ちとして江戸に出てきて春之助と出会い、一緒に「やみとり屋」を始めることになったのである。

 禁令の鳥を食そうとして集まってくるのだから、ここに集まってくるのはいろいろな思惑を抱いている人間たちであり、やがて「やみとり屋」は幕府転覆を企む集まりとして探りを入れられるようになり、そのうち、万七郎を敵とする武士も現れたり、虎の衣を切る目付に出世の道具としてつけ狙われ、これと対決しなければならなくなったり、幕府隠密が登場したりして、てんやわんやの騒動となる。

 そういう騒動を春之介と万七郎の「しゃべり」で切り抜けようとするのである。もちろん、春之助、万七郎のそれぞれの恋も絡んでいる。

 ただ、題材や物語の展開からすれば、あまり意味のない「しゃべり」が先行して、どこかまとまりがないような構成が気にならないことはない。あえて作者がそれを意図しているのかも知れないが、あまりにも盛りだくさんな具蕎麦を煮込みすぎた醤油味で食べさせられているような気がしてしまった。物語そのものは後半に行くに従って引き込まれていく展開をもっているだけに、「しゃべり」ということに重点が置かれ過ぎているような気がするし、「しゃべり」に意味をもたせようとするところに無理があるのかも知れないと思ったりもする。「しゃべり」は「しゃべくり」で、本来、何の意味もないような、他愛もないもので、軽く受け流されることを目的としたものに過ぎない。一つの小説作品として見れば、作者の思い入れが強すぎるような気がするのである。

 もちろん、これだけで作者云々と言えるわけではない。他の作品では違った面もあるだろう。ただ、わたし自身、武術をしないわけではないが、今のわたしにとってはどうも「勝負」を描く剣豪小説というのは触手が動きにくい。この作品の中で描かれる「立ち会い」は本物だとは思っているが。

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