「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」と歌ったのは中原中也だったが、今日も黄色い銀杏の葉が舞い落ちてあたりを埋め尽くしている。昨夜遅く、市の清掃車が道路の落ち葉を舞いあげていた。ありのままが好きなわたしとしては、あまり落ち葉を掃除してほしくないと思いながら清掃車が行き過ぎるまで眺めていた。気分は中也の「悲しみ」とは縁遠いものだったが。
その深夜、出久根達郎『猫の似づら絵師』(1998年 文藝春秋社)を江戸浮世噺を読むようにして読み終えた。これは先に読んだ『猫にマタタビの旅』の前作に当たるもので、面白おかしい洒落っ気のある軽妙な語り口の中にも何とも言えない味わいのある作品だった。
貸本屋の写本作りをしていた銀太郎と丹三郎という青年(共に二十六歳)が、勤め先の貸本屋が主の博奕好きのために経営が悪化して首となり、途方に暮れているところに、南八丁堀の金時長屋という貧乏長屋に住む男に声をかけられ、彼の両隣の家に住むことになり、この三人があの手この手で世すぎをしていく姿が描かれていく。二人に声をかけた男は、「名前なんかどうでもいい」というので、風呂嫌いで垢にまみれているところから「垢餓鬼源蔵」という名を忠臣蔵の四十七士の赤垣源蔵の名をもじってつけたもので、源蔵はどうしたことかうどんに凝っており、四六時中うどんをこねて、試作品をふたりに食べさせるという変わり者である。
しかし、この源蔵は知恵豊かで、元は武家のようでもあり、その実、東州斎写楽を匂わせるものだが、銀太郎には猫の似顔絵を書く商売を思いつき、丹三郎には貧乏神売りの商売を思いついて、二人はこの商売を始めることにしたのである。なかなかこの商売はうまくいかないが、それぞれの商売にまつわる事件に関わり、特に、猫に関連した事件に関わることになるのである。猫の似顔絵描きの最初の商売は、好色な鰹節問屋の若旦那に囲われていた猫好きの娘「きの」が、若旦那の足が遠のき、好色家であることを知って、何とかこれに仕返しをしようと「探し猫」の広目(広告)を依頼するものである。鰹節問屋だから猫が来ると困るが、市中から「探し猫」を見つけたといって猫を連れてくるものが後を絶たないという事態に陥る。そういう話が第一話で展開される。この「きの」が、どうしたことかその後、源蔵のところに転がり込んで、四人の暮らしとなっていくのである。
その他、猫寺と呼ばれている寺の奇妙な猫の絵馬から、その寺の若い住職が阿片の密売をしていることがわかったり(第二話「猫にマタタビ初春に竹」)、猫の絵を餌にして男から儲けようと一攫千金を企んだ吉原の遊女が、結局、だまされる話(第三話「招き猫だが福にあらず」)や、江戸城米倉の鼠退治に使う猫を飼っている家の男と書院の鼠退治の青大将(蛇)の餌となる鼠を飼っている家の娘の恋のとりもちをしたりする話(第四話 窮鼠猫を好む))、盲目の娘が飼っている黒猫が行くへ不明となり、見つかったが、それは違う黒猫で、金貸しの座頭が飼っている猫であり、その金貸しを恨みに思っている薬種屋がその猫の爪にトリカブト(猛毒)を塗っていたことが分かっていく話(第五話「闇夜に鴉猫」)、猫を押しつけて餌を押し売りする地回り(やくざ)の話(第六話「虎の威を借る猫」)などが、人情味豊かに面白おかしく語られている。
作者の「あとがき」によれば、猫の似づら絵師や貧乏神売りという商売は実際にあった商売らしく、物語はやがて銀太郎が猫の似づら絵で、丹三郎が貧乏神の絵で、そして源蔵がうどんで大きな権力と闘うことになり、幕府転覆に繋がっていくそうだが、これも洒落だろうと思うほど、洒落っ気に飛んだ物語である。しかし、軽妙さにリアリティーがあって、ただの軽妙ではなく、貧乏ではあるが洒落で粋な江戸市民の姿を通して時代を見据えようとする姿勢がある。
主人公たちはすこぶるつきの善人で、大望などはとても描かないが、善人が善意で生きることができる世界がここにあって、何とも言えない味があるのである。「洒落で生きているのだ」というのも悪くないどころか素敵であるに違いないということを思わせる作品である。こういう作品を読むと、「人生ケセラセラ」という気がしないでもない。
2010年11月30日火曜日
2010年11月29日月曜日
杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』
昨日、シクラメンの小さな鉢植えを一鉢買った。紅色に白の筋が入った花びらの柔らかさもそうなのだが、何よりもその丸い葉の鶯色に和みがある。そして、今日は洗濯日和で、朝から寝具を干し、シーツを洗い、掃除をしていた。このところ少し予定が立て混ではいるのだが、ゆっくりとこなしていければと思っている。
昨夕、杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』(2007年 文藝春秋社)を読み始め、興が乗って結局最後まで読んでしまった。これは、このシリーズの6作目で、2002年に中山義秀文学賞の受賞作品となった第1作の『おすず 信太郎人情始末帖』以外は、シリーズの順番ごとに読んでいるので、呉服太物問屋の大店の総領息子が、許嫁がありつつも吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と恋仲となり、勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら、様々なことがらに関わり、その中を自分の恋を貫き、やがて父親の死を迎えて勘当が解けるという物語の展開の次第を順に追っていることになる。
このシリーズの作品には、いくつもの世界が無理なく組み込まれていて、大きくは主人公が芝居小屋と関係していることから江戸の芝居の世界、役者や戯作者、また芝居小屋の運営に携わる世界と、太物問屋の世界、つまり商人の世界の2つであるが、勘当された信太郎が裏店の貧乏長屋に住んでいることから描き出される江戸庶民の世界、芝居の笛方として働いていた御家人の次男坊との関わりから下級武士の世界、その恋人が芸者であることから芸者の世界、そして、信太郎が惚れている「おぬい」が吉原の引手茶屋の女将であることから吉原遊女の世界、また、信太郎の幼なじみが岡っ引きであることからの市中で起こる様々な事件、そうした世界が巧みに描かれているのである。もちろん、恋愛や親子、嫁姑の問題なども主たる大きな筋立てとなっている。それらが実に人情豊かに描き出されるのである。
本作では、勘当を解かれ亡き父親の後を継いで太物問屋の後を継いだ信太郎が商人として生きていく姿を中心に、「おぬい」を嫁として迎えていくことにまつわる様々な誤解が氷解していく過程が描かれているが、芝居小屋の火事の際に大札(「おぬい」の叔父)を助け出そうとして失明してしまった信太郎の手足となるためにすべてを捨てて女中奉公となった「おぬい」と、彼女を受け入れない信太郎の母「おさだ」との関係、乗っ取りを企む商売上の裏切りと信頼の姿が描かれている。「おぬい」の決断によって丁稚奉公に出された連れ子の「千代太」の成長していく姿もひと味もふた味もある。
この作品の最も優れていると思えるところは、人をその丸ごと受け入れていくことの難しさと大切さが丹念に描き出されているところで、社会的な身分の問題や人の欲、様々な思惑が渦巻く中を、周囲に細かい配慮をしながらもひたすらお互いの思いを大切にしてきた信太郎と「おぬい」の姿が頂点に達する婚礼の日の描写は、人を受け入れて生きていくことの素晴らしさに満ちている。情の細やかさは作者ならではのものだろうと思う。
「その日」というのは、安政の大地震(1855年11月11日・・旧暦10月2日)が起こった日ということで、その日の登場人物たちの安否がひとりひとり、それぞれの人物に合わせて描き出されるのもいい。「おぬい」が営んでいた引手茶屋を預かる老夫婦が共に死んでいく姿も胸を打つ。安政の大地震はマグニチュード7ぐらいの大地震で、これで江戸市中はほとんど崩壊し、死者4000人以上を出したもので、各地で悲惨な状態が展開された。
何と言っても、この作品で描かれる人物たちは、「生きて、そこで生活している」人たちとして作品の中で動いている。そのリアリティーがしっかりしているので、「情」も生きる。
ひとつ欲を言えば、安政の大地震のころから世情の不安定さも増し、やがて安政の大獄(1858-1859年)なども起こっており、その10年後には徳川幕府も滅びたわけだし、そうした世情の不安定さは人間の生き方にも大きな変化をもたらし、経済状況も大きく変わったはずで、その影響を太物問屋の主として生きる主人公がどのように受けていたのかという歴史のリアリティーも織り込まれると良いと思ったりもする。しかし、それは小説としては望外の望みだろう。
ともあれ、この作品は読んで嬉しくなる作品である。とかく注文をつけたがる社会の中で、「何も足さず、何も引かず」人を受容することができる人間の素晴らしさがここにはある。
昨夕、杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』(2007年 文藝春秋社)を読み始め、興が乗って結局最後まで読んでしまった。これは、このシリーズの6作目で、2002年に中山義秀文学賞の受賞作品となった第1作の『おすず 信太郎人情始末帖』以外は、シリーズの順番ごとに読んでいるので、呉服太物問屋の大店の総領息子が、許嫁がありつつも吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と恋仲となり、勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら、様々なことがらに関わり、その中を自分の恋を貫き、やがて父親の死を迎えて勘当が解けるという物語の展開の次第を順に追っていることになる。
このシリーズの作品には、いくつもの世界が無理なく組み込まれていて、大きくは主人公が芝居小屋と関係していることから江戸の芝居の世界、役者や戯作者、また芝居小屋の運営に携わる世界と、太物問屋の世界、つまり商人の世界の2つであるが、勘当された信太郎が裏店の貧乏長屋に住んでいることから描き出される江戸庶民の世界、芝居の笛方として働いていた御家人の次男坊との関わりから下級武士の世界、その恋人が芸者であることから芸者の世界、そして、信太郎が惚れている「おぬい」が吉原の引手茶屋の女将であることから吉原遊女の世界、また、信太郎の幼なじみが岡っ引きであることからの市中で起こる様々な事件、そうした世界が巧みに描かれているのである。もちろん、恋愛や親子、嫁姑の問題なども主たる大きな筋立てとなっている。それらが実に人情豊かに描き出されるのである。
本作では、勘当を解かれ亡き父親の後を継いで太物問屋の後を継いだ信太郎が商人として生きていく姿を中心に、「おぬい」を嫁として迎えていくことにまつわる様々な誤解が氷解していく過程が描かれているが、芝居小屋の火事の際に大札(「おぬい」の叔父)を助け出そうとして失明してしまった信太郎の手足となるためにすべてを捨てて女中奉公となった「おぬい」と、彼女を受け入れない信太郎の母「おさだ」との関係、乗っ取りを企む商売上の裏切りと信頼の姿が描かれている。「おぬい」の決断によって丁稚奉公に出された連れ子の「千代太」の成長していく姿もひと味もふた味もある。
この作品の最も優れていると思えるところは、人をその丸ごと受け入れていくことの難しさと大切さが丹念に描き出されているところで、社会的な身分の問題や人の欲、様々な思惑が渦巻く中を、周囲に細かい配慮をしながらもひたすらお互いの思いを大切にしてきた信太郎と「おぬい」の姿が頂点に達する婚礼の日の描写は、人を受け入れて生きていくことの素晴らしさに満ちている。情の細やかさは作者ならではのものだろうと思う。
「その日」というのは、安政の大地震(1855年11月11日・・旧暦10月2日)が起こった日ということで、その日の登場人物たちの安否がひとりひとり、それぞれの人物に合わせて描き出されるのもいい。「おぬい」が営んでいた引手茶屋を預かる老夫婦が共に死んでいく姿も胸を打つ。安政の大地震はマグニチュード7ぐらいの大地震で、これで江戸市中はほとんど崩壊し、死者4000人以上を出したもので、各地で悲惨な状態が展開された。
何と言っても、この作品で描かれる人物たちは、「生きて、そこで生活している」人たちとして作品の中で動いている。そのリアリティーがしっかりしているので、「情」も生きる。
ひとつ欲を言えば、安政の大地震のころから世情の不安定さも増し、やがて安政の大獄(1858-1859年)なども起こっており、その10年後には徳川幕府も滅びたわけだし、そうした世情の不安定さは人間の生き方にも大きな変化をもたらし、経済状況も大きく変わったはずで、その影響を太物問屋の主として生きる主人公がどのように受けていたのかという歴史のリアリティーも織り込まれると良いと思ったりもする。しかし、それは小説としては望外の望みだろう。
ともあれ、この作品は読んで嬉しくなる作品である。とかく注文をつけたがる社会の中で、「何も足さず、何も引かず」人を受容することができる人間の素晴らしさがここにはある。
2010年11月27日土曜日
高橋克彦『完四郎広目手控 いじん幽霊』
朝からよく晴れ渡った蒼空が広がっている。紅葉見物には絶好の日和だろうと思いつつも、仕事が少し立て込んでいるので、通常と変わらぬ土曜日になった。
木曜日の夜から金曜日にかけて、高橋克彦『完四郎広目手控 いじん幽霊』(2003年 集英社)を作者の想像力の豊かさと物語作りの妙を感じながら読んだ。これは、このシリーズの3作目で、前に4作目の『文明怪化』を読んでいたので、物語の展開としては遡る形になったのだが、改めて、慧眼というか明察というか、名探偵ぶりを発揮する主人公の香冶完四郎と、主人公の卓越した推理を導く名脇役としての仮名垣魯文との兼ね合いが、幕末の激動する横浜を舞台に展開されるあたりが面白いと思った。
仮名垣魯文は、もちろん実在の人物(1824-1894年)だが、少しひょうきんで現実主義的で、作家としての意地もあるという本書の人物像は作者の創作だろう。それにしても、挿入してある当時の写実絵(今回はマスプロ美術館所蔵)から全く新しい事件や物語を創作として展開させる作者の手法は驚嘆に値する。本書で取り扱われる時代が、新撰組による池田屋事件(1864年)や佐久間象山暗殺事件(同年)の年であり、1859年に開港されたばかりの横浜は、外国人居留地によって西洋化が進み始め、1862年の生麦事件(現鶴見区生麦・・イギリス人が薩摩藩士によって殺される)をはじめとして、攘夷思想を持つ武士たちの襲撃が繰り返され、特殊な状況下に置かれていた。
この時に、広目屋(瓦版・新聞広告業)を手伝っていた香冶完四郎と仮名垣魯文が横浜に赴いて、そこで起こっている事件を大事に至らないように解決していく。香冶完四郎は新しい情報手段としての新聞を出すことを考えており、その関連でも、後に新聞記者ともなった岸田吟香(1833-1905年)や福地源一郎(1841-1906)も登場する。岸田吟香は、本書でも登場するジョゼフ・ヒコ(1837-1897年・・本名浜田彦蔵で、13歳の時江戸に向かう途中の船が難破し、漂流して米国商船に助けられ、米国に帰化し、帰国後通訳として活躍、その後横浜で貿易商館を開く)と共に、1864年に英字新聞を翻訳した日本で最初の新聞『海外新聞』を発行している。本書では、仮名垣魯文とどちらが優れた記事を書くか競争する物語として展開され、その記事の裏にある事件を香冶完四郎が見抜いていく物語が展開されてもいる(第十話 筆合戦)。
こうした歴史的な背景が見事に織り込まれて、当時の横浜の居留地の人々の暮らしや状況を基に、牛肉と阿片の絡む事件(第一話 夜明け横浜)、攘夷派が画策した外国人相手の遊女屋での自殺事件(第二話 ふるあめりかに)、流行始めたヌード写真に関連した事件(第三話 夜の写真師)、幽霊屋敷と噂されることで人が近寄ることを避けた外国人性病患者の施療所の出来事(第四話 娘広目屋・・ここで完四郎に恋をするフランス娘のジェシカ・アルヌールが登場する)、イギリスが清国人(中国人)をつかって画策した阿片の密輸事件(第五話 いこくことば)、天狗党(1864年に水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵した)の名を借りて横浜襲撃を企む事件(第六話 横浜天狗)、気球を使って火の雨を降らせ、人心を惑わしつつも気球を武器として売り込もうとする事件(第七話 火の雨)、フランスの将校が仕組んだ痴情事件(第八話 遠眼鏡)、両国に異人の幽霊が出ることを仕掛けて、生糸の貿易で利を得ようとした商人の事件(第九話 いじん幽霊)、先述した第十話、これまで香冶完四郎の名推理によって事件が公にならずに煮え湯を飲まされてきたイギリスが仕掛けた虎を使っての完四郎暗殺事件(第十一話 虎穴)、そして、横浜どんたく(祭り)を利用してフランス人との娘の結婚に反対する清国人商人が起こす事件(第十二話 横浜どんたく)といった物語が展開されている。
例によって、複雑に政治や経済、国際情勢が入り組んだものであれ、人間の心情が入り組んだものであれ、事件はあまりにも簡単に解決していくのだが、それによって主人公の香冶完四郎の名推理がさえていくわけだし、状況についての分析も(もちろん、歴史的状況は明白なのだが、明察として展開されている)、何とか事件を国際紛争にまでしないようにすることや罰される者を作らないことも、本作で描かれる主人公の姿として浮かび上がって来るし、ずば抜けた才能を持ちながら、恋にも金儲けにも執着せず、「世に出るつもりはない。・・・こうして生きていられるだけでありがたい。・・・」(164-165ページ)と言い切って、「ただの広目屋」であろうとする人物像は、理想的すぎるとはいっても、味のあるものとなっている。
本書の末尾で、主人公がアメリカ行きを考えることになっていて、次作が維新後にアメリカからの帰国後の物語になっているのも、なかなか面白い構成だと思う。個人的に、この頃から「新しい社会機構をもつ日本」という国が形作られてきて、多くのいびつな構造を生んでいくことを考えることがあって、どこがどういびつになってしまったのかを探ってきたので、こういう物語の展開は物語としてなかなかのものだと思っている。もちろんわたしの個人的な関心は作者の意図とは無関係であるが。
木曜日の夜から金曜日にかけて、高橋克彦『完四郎広目手控 いじん幽霊』(2003年 集英社)を作者の想像力の豊かさと物語作りの妙を感じながら読んだ。これは、このシリーズの3作目で、前に4作目の『文明怪化』を読んでいたので、物語の展開としては遡る形になったのだが、改めて、慧眼というか明察というか、名探偵ぶりを発揮する主人公の香冶完四郎と、主人公の卓越した推理を導く名脇役としての仮名垣魯文との兼ね合いが、幕末の激動する横浜を舞台に展開されるあたりが面白いと思った。
仮名垣魯文は、もちろん実在の人物(1824-1894年)だが、少しひょうきんで現実主義的で、作家としての意地もあるという本書の人物像は作者の創作だろう。それにしても、挿入してある当時の写実絵(今回はマスプロ美術館所蔵)から全く新しい事件や物語を創作として展開させる作者の手法は驚嘆に値する。本書で取り扱われる時代が、新撰組による池田屋事件(1864年)や佐久間象山暗殺事件(同年)の年であり、1859年に開港されたばかりの横浜は、外国人居留地によって西洋化が進み始め、1862年の生麦事件(現鶴見区生麦・・イギリス人が薩摩藩士によって殺される)をはじめとして、攘夷思想を持つ武士たちの襲撃が繰り返され、特殊な状況下に置かれていた。
この時に、広目屋(瓦版・新聞広告業)を手伝っていた香冶完四郎と仮名垣魯文が横浜に赴いて、そこで起こっている事件を大事に至らないように解決していく。香冶完四郎は新しい情報手段としての新聞を出すことを考えており、その関連でも、後に新聞記者ともなった岸田吟香(1833-1905年)や福地源一郎(1841-1906)も登場する。岸田吟香は、本書でも登場するジョゼフ・ヒコ(1837-1897年・・本名浜田彦蔵で、13歳の時江戸に向かう途中の船が難破し、漂流して米国商船に助けられ、米国に帰化し、帰国後通訳として活躍、その後横浜で貿易商館を開く)と共に、1864年に英字新聞を翻訳した日本で最初の新聞『海外新聞』を発行している。本書では、仮名垣魯文とどちらが優れた記事を書くか競争する物語として展開され、その記事の裏にある事件を香冶完四郎が見抜いていく物語が展開されてもいる(第十話 筆合戦)。
こうした歴史的な背景が見事に織り込まれて、当時の横浜の居留地の人々の暮らしや状況を基に、牛肉と阿片の絡む事件(第一話 夜明け横浜)、攘夷派が画策した外国人相手の遊女屋での自殺事件(第二話 ふるあめりかに)、流行始めたヌード写真に関連した事件(第三話 夜の写真師)、幽霊屋敷と噂されることで人が近寄ることを避けた外国人性病患者の施療所の出来事(第四話 娘広目屋・・ここで完四郎に恋をするフランス娘のジェシカ・アルヌールが登場する)、イギリスが清国人(中国人)をつかって画策した阿片の密輸事件(第五話 いこくことば)、天狗党(1864年に水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵した)の名を借りて横浜襲撃を企む事件(第六話 横浜天狗)、気球を使って火の雨を降らせ、人心を惑わしつつも気球を武器として売り込もうとする事件(第七話 火の雨)、フランスの将校が仕組んだ痴情事件(第八話 遠眼鏡)、両国に異人の幽霊が出ることを仕掛けて、生糸の貿易で利を得ようとした商人の事件(第九話 いじん幽霊)、先述した第十話、これまで香冶完四郎の名推理によって事件が公にならずに煮え湯を飲まされてきたイギリスが仕掛けた虎を使っての完四郎暗殺事件(第十一話 虎穴)、そして、横浜どんたく(祭り)を利用してフランス人との娘の結婚に反対する清国人商人が起こす事件(第十二話 横浜どんたく)といった物語が展開されている。
例によって、複雑に政治や経済、国際情勢が入り組んだものであれ、人間の心情が入り組んだものであれ、事件はあまりにも簡単に解決していくのだが、それによって主人公の香冶完四郎の名推理がさえていくわけだし、状況についての分析も(もちろん、歴史的状況は明白なのだが、明察として展開されている)、何とか事件を国際紛争にまでしないようにすることや罰される者を作らないことも、本作で描かれる主人公の姿として浮かび上がって来るし、ずば抜けた才能を持ちながら、恋にも金儲けにも執着せず、「世に出るつもりはない。・・・こうして生きていられるだけでありがたい。・・・」(164-165ページ)と言い切って、「ただの広目屋」であろうとする人物像は、理想的すぎるとはいっても、味のあるものとなっている。
本書の末尾で、主人公がアメリカ行きを考えることになっていて、次作が維新後にアメリカからの帰国後の物語になっているのも、なかなか面白い構成だと思う。個人的に、この頃から「新しい社会機構をもつ日本」という国が形作られてきて、多くのいびつな構造を生んでいくことを考えることがあって、どこがどういびつになってしまったのかを探ってきたので、こういう物語の展開は物語としてなかなかのものだと思っている。もちろんわたしの個人的な関心は作者の意図とは無関係であるが。
2010年11月25日木曜日
諸田玲子『美女いくさ』
昨日はよく晴れていたのだが、今日は、時おり陽が差すくらいで薄く雲が覆っている。気温が低くなってきていて初冬の感がある。
二日ほどかけて諸田怜子『美女いくさ』(2008年 中央公論社)を味わい深く読んだ。諸田怜子の作品をなんだか久しぶりに手に取ったような気がしたが、この作品もなかなかの傑作だった。これは織田信長の妹で絶世の美人と謳われた「お市の方」の娘で、後に二代将軍徳川秀忠の妻となり、三代将軍家光の母ともなった「お江(小督-おごう-、江与-えよ-とも呼ばれるが、本作では小督、後に崇源院-そうげんいんーと呼ばれる)の生涯を記した歴史小説で、2007年4月から2008年2月まで読売新聞夕刊に連載されたものをまとめたものでさる。
「お江」については、独自の解釈をした永井路子『乱紋』(1974年 文藝春秋社)が先に出されており、最近では、「お江」の姉の「初」を主人公にした畑裕子『花々の系譜 浅井三姉妹物語』(2009年 サンライズ出版)が出されたり、来年のNHK大河ドラマで田淵久美子原作・脚本で『江~姫たちの戦国~』が放映される予定があったりするが、諸田怜子『美女いくさ』は一読に値する作品だと思っている。
戦国時代随一の美女といわれた「お江(小督)」の母「お市の方」自身が、まことに戦乱に翻弄された生涯を生きており、織田信長の妹として、浅井長政に嫁がされ、そこで、茶々(淀)、初、江の三姉妹を儲けるが、姉川の闘い(1570年)で兄の信長から夫の浅井長政が殺され(自害)、三姉妹と共に兄の織田信包(のぶかね)に庇護された。しかし、やがて、信長亡き後、秀吉によって柴田勝家に嫁がされ、その柴田勝家も秀吉と争い敗れて、「お市の方」は勝家と共に自害している。享年37歳だったといわれている。
浅井家三姉妹といわれる「お市」の娘たちは、いずれも母の美貌を受け継いだ美女であったが、戦乱に翻弄され続け、長女の「茶々」は、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生むが、「お江」の義父となった徳川家康によって大阪の役(1615年)で大阪城落城の際に秀頼と共に自害している。次女の「初」は秀吉のはからいで近江の京極高次と結婚し、やがて「お江」と秀忠の四女「初姫」などを養女として育てている。
三姉妹の末妹「お江(小督)」は、最初、豊臣秀吉の命によって伊勢の佐治一成(母は信長の妹「お犬」と結婚させられ(従って、夫の佐治一成は従兄)るが、秀吉の命によって離婚させられ、豊臣秀勝と結婚させられる。しかし、豊臣秀勝が秀吉の大陸制覇の野望の最中に病死したため、次に徳川家との関係を深めようとした秀吉によって徳川秀忠と結婚させられた。
「お江(小督)」は、叔父であった織田信長の剛胆さや母の「お市」の誇り高い性格を引き継ぎ、大胆であるが、物事に動ぜずに出来事を平然と受け止めていくようなところがあったと言われているが、この数奇な運命を生き抜いて、徳川将軍の母となっていく姿を、『美女いくさ』は、女性の心情を織り交ぜながら見事に描き出している。
浅井三姉妹は、昨日の味方が今日の敵となる戦国の非情な世界を生きなければならなかっただけに仲の良い姉妹だったと言われるが、両親を殺され、殺した相手に嫁がされ、姉妹同士が敵味方に分かれなければならない状態の中を生きなければならなかった。本書は、その運命の変転の中を女として生きる喜びや悲しみ、その細やかな心情とそれぞれに誇りをもって生きる姿が描き出される優れた作品だと思う。文章も展開も作者の円熟味を感じさせてくれる。秀吉や家康をはじめとするそれぞれの人物の描き方もいい。
人はただ、己に置かれた状況の中を、それを受け止めながら生きる以外に術がない。何らかの作為をもつ者は、その作為によってまた滅びていく。作為に人の幸せはない。「お江(小督)」の生涯を思うと、そんな思いが彷彿してくる。本書の終わりに「煩悩こそ女子の戦」という言葉が出てくるが(443ページ)、まさに煩悩こそ人の命に違いない。天から才を与えられた者は苦もまた与えられるから、煩悩も強くなる。だが煩悩こそ命だと、わたしは思う。
しかし、この時代の人間関係は、政略結婚や養子縁組などがあって、本当に複雑であるが、表面は滅びていっても信長から徳川家光に至る血筋が「江(小督)」によって面々と受け継がれていたことを思うと、なんだか不思議な気がしないでもない。
このところ朝鮮半島が焦臭くなって、なんだかマルクスの予言が当たってきたかも知れないと思ったりするが、世界構造のいびつさが露呈する中で、その影響を受けていながらも、大所高所から世界や社会を論じても意味のないことで、「今夜は寒いからお鍋にしよう」という日々の暮らしを自分なりに過ごしていくことを改めて心がけようと思ったりもする。それにしてもナショナリズムほどつまらないものはない。
二日ほどかけて諸田怜子『美女いくさ』(2008年 中央公論社)を味わい深く読んだ。諸田怜子の作品をなんだか久しぶりに手に取ったような気がしたが、この作品もなかなかの傑作だった。これは織田信長の妹で絶世の美人と謳われた「お市の方」の娘で、後に二代将軍徳川秀忠の妻となり、三代将軍家光の母ともなった「お江(小督-おごう-、江与-えよ-とも呼ばれるが、本作では小督、後に崇源院-そうげんいんーと呼ばれる)の生涯を記した歴史小説で、2007年4月から2008年2月まで読売新聞夕刊に連載されたものをまとめたものでさる。
「お江」については、独自の解釈をした永井路子『乱紋』(1974年 文藝春秋社)が先に出されており、最近では、「お江」の姉の「初」を主人公にした畑裕子『花々の系譜 浅井三姉妹物語』(2009年 サンライズ出版)が出されたり、来年のNHK大河ドラマで田淵久美子原作・脚本で『江~姫たちの戦国~』が放映される予定があったりするが、諸田怜子『美女いくさ』は一読に値する作品だと思っている。
戦国時代随一の美女といわれた「お江(小督)」の母「お市の方」自身が、まことに戦乱に翻弄された生涯を生きており、織田信長の妹として、浅井長政に嫁がされ、そこで、茶々(淀)、初、江の三姉妹を儲けるが、姉川の闘い(1570年)で兄の信長から夫の浅井長政が殺され(自害)、三姉妹と共に兄の織田信包(のぶかね)に庇護された。しかし、やがて、信長亡き後、秀吉によって柴田勝家に嫁がされ、その柴田勝家も秀吉と争い敗れて、「お市の方」は勝家と共に自害している。享年37歳だったといわれている。
浅井家三姉妹といわれる「お市」の娘たちは、いずれも母の美貌を受け継いだ美女であったが、戦乱に翻弄され続け、長女の「茶々」は、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生むが、「お江」の義父となった徳川家康によって大阪の役(1615年)で大阪城落城の際に秀頼と共に自害している。次女の「初」は秀吉のはからいで近江の京極高次と結婚し、やがて「お江」と秀忠の四女「初姫」などを養女として育てている。
三姉妹の末妹「お江(小督)」は、最初、豊臣秀吉の命によって伊勢の佐治一成(母は信長の妹「お犬」と結婚させられ(従って、夫の佐治一成は従兄)るが、秀吉の命によって離婚させられ、豊臣秀勝と結婚させられる。しかし、豊臣秀勝が秀吉の大陸制覇の野望の最中に病死したため、次に徳川家との関係を深めようとした秀吉によって徳川秀忠と結婚させられた。
「お江(小督)」は、叔父であった織田信長の剛胆さや母の「お市」の誇り高い性格を引き継ぎ、大胆であるが、物事に動ぜずに出来事を平然と受け止めていくようなところがあったと言われているが、この数奇な運命を生き抜いて、徳川将軍の母となっていく姿を、『美女いくさ』は、女性の心情を織り交ぜながら見事に描き出している。
浅井三姉妹は、昨日の味方が今日の敵となる戦国の非情な世界を生きなければならなかっただけに仲の良い姉妹だったと言われるが、両親を殺され、殺した相手に嫁がされ、姉妹同士が敵味方に分かれなければならない状態の中を生きなければならなかった。本書は、その運命の変転の中を女として生きる喜びや悲しみ、その細やかな心情とそれぞれに誇りをもって生きる姿が描き出される優れた作品だと思う。文章も展開も作者の円熟味を感じさせてくれる。秀吉や家康をはじめとするそれぞれの人物の描き方もいい。
人はただ、己に置かれた状況の中を、それを受け止めながら生きる以外に術がない。何らかの作為をもつ者は、その作為によってまた滅びていく。作為に人の幸せはない。「お江(小督)」の生涯を思うと、そんな思いが彷彿してくる。本書の終わりに「煩悩こそ女子の戦」という言葉が出てくるが(443ページ)、まさに煩悩こそ人の命に違いない。天から才を与えられた者は苦もまた与えられるから、煩悩も強くなる。だが煩悩こそ命だと、わたしは思う。
しかし、この時代の人間関係は、政略結婚や養子縁組などがあって、本当に複雑であるが、表面は滅びていっても信長から徳川家光に至る血筋が「江(小督)」によって面々と受け継がれていたことを思うと、なんだか不思議な気がしないでもない。
このところ朝鮮半島が焦臭くなって、なんだかマルクスの予言が当たってきたかも知れないと思ったりするが、世界構造のいびつさが露呈する中で、その影響を受けていながらも、大所高所から世界や社会を論じても意味のないことで、「今夜は寒いからお鍋にしよう」という日々の暮らしを自分なりに過ごしていくことを改めて心がけようと思ったりもする。それにしてもナショナリズムほどつまらないものはない。
2010年11月22日月曜日
芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 猫の匂いのする侍』
このところ2~3日おきに天気が変わり、今日は雨模様の空が広がって寒くなっている。だんだん寒さが身に染むようになってきた。
少し根を詰めなければならない仕事があって、これを書くことが出来なかったが、ようやく一段落ついて、先週の水曜日以来、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)を読んでいたので、記すことにした。
この作家の作品は初めて読むのだが、文庫本カバーによれば、1953年東京生まれで、早稲田を出た後、出版社勤務を経て作家活動に入られたようで、本作はこのシリーズの2作目とのこと。このシリーズの他にも、いくつかのシリーズがあるようで、多くは書き下ろし作品のようである。
書名の「おいらか」というのは、「おっとりした」という意味であることが本書の28頁にも述べられているが、本書は、あまり細かいことにこだわらないおっとりした性格を持つ侍が、浪人となり、貧乏長屋に住んで、自分が背負っている運命と闘いながら、明晰な頭脳と剣の腕を発揮して、自分と関係する者たちの間で起こる事件を解決していくというもので、大筋から言えば、この手の時代小説は、たとえば最近のもので言えば、佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』のシリーズなど、実にたくさん出ている。
浪人ものでいえば、藤沢周平の『用心棒日月妙』などの作品が展開も設定されている人物も、それこそ「妙」があって、もっとも味わいも深く、読み応えがあると思うが、最近のものには、その設定にひとつの類型のようなものがあるような気がする。
1)主人公は、理由があって浪人しており、裏店などの貧乏長屋に住んで、日々の生活にあくせくしなければならないが、あまり自分の境遇や生活にこだわらない鷹揚でおっとりした性格をしている。思いやりもあり、人情も深く、正義感もある。人に好かれ、慕われる。
2)美男だが容貌や容姿にもこだわらず、頭脳も明晰で剣の腕がたったり才能が豊かだったりするし、武士としての矜持ももっているが、普段はそういうところを見せることもなく、町人や長屋に住む住人とも気さくな関係を持っている。
3)主人公を理解し、彼を助ける者がいる。それが同じ長屋に住む浪人であったり、町人であったり、また元の上司であったり、あるいは美しい女性であったりするが、いずれも主人公を「ひとかどの人物」として認めている。彼が住む貧乏長屋には、太めで世話好きの女性がいて、日常生活を助けたりする。
4)自分の運命を背負い、それが元の藩の藩政を巡る権力争いであったり、世継ぎ問題であったり、金を巡る争いであったりするが、彼が浪人とならなければならなかった理由がそこにあり、物語が展開していくにしたがって、その理由が明らかにされたり、自分の背負っている宿命がはっきりしたりしていく。
5)主人公を慕う美貌の女性がいる。主人公もその女性に思いを寄せるが、その関係を深めていくことがなかなか出来ない。しかし、最後には思いが通じていく。
6)辻斬りや誘拐、強盗といったいくつかの事件に関わりを持って、これを解決していくと共に、主人公が背負っている宿命を解明していくことが物語の大筋となっている。
その他にも、いくつかの類型の特徴を挙げることが出来るが、そうした類型をもつ作品の出来不出来は、作家の表現力や時代や社会の理解力、あるいは人間に対する洞察力次第であろう。情景描写ひとつとってみても、その作家の力量が現れている。
本書も、だいたいこうした類型の下で書かれており、「おいらか」と渾名されている滝沢俊作という主人公が、理由もわからないままに藩から追い出されて浪人となり、同じ長屋に住み用心棒などをして暮らしている浪人生活の長い荒垣助左衛門と共に、ふとしたことで関わった飾り職人の誘拐・監禁事件を解決したり(第一章「朝の光」)、辻斬り事件の犯人を捜して対決したり(第二章「隻眼の犬」)、子どもの誘拐事件(第三章「かどわかし」)、旗本のつまらない競争心から生まれた剣術試合(第四章「猫の匂いのする侍」)、そして、仇討ち事件(第五章「小侍の仇討ち」)などを解決しながら、理由もわからないままに元の藩から命を狙われ続けるという展開になっている。
類型的にはそうであるが、しかし、本書は展開や描き方が比較的丁寧で、物語としての妙もあり、この類の作品としては面白く読める作品になっている。事柄に対する時には「おいらか」ぶりがあまり発揮されず、たとえば自分の命が狙われる時や剣での立ち会いでも、「まあ、斬られてもいいか」とはなかなか思えずに、真剣に立ち向かおうとするが、それはまあやむを得ないことだろう。「おいらか」といってもそんなときはそこまでいかないだろうから。
娯楽時代小説としては、最近の流行を取り入れたものではあるとはいえ、面白いし、深淵な文学作品でもなければ、ましてや思想や信条を綴ったものでもないのだから、面白ければそれでいい。この作家の、このシリーズをはじめとして他の作品も読んでみたいと思っている。
少し根を詰めなければならない仕事があって、これを書くことが出来なかったが、ようやく一段落ついて、先週の水曜日以来、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)を読んでいたので、記すことにした。
この作家の作品は初めて読むのだが、文庫本カバーによれば、1953年東京生まれで、早稲田を出た後、出版社勤務を経て作家活動に入られたようで、本作はこのシリーズの2作目とのこと。このシリーズの他にも、いくつかのシリーズがあるようで、多くは書き下ろし作品のようである。
書名の「おいらか」というのは、「おっとりした」という意味であることが本書の28頁にも述べられているが、本書は、あまり細かいことにこだわらないおっとりした性格を持つ侍が、浪人となり、貧乏長屋に住んで、自分が背負っている運命と闘いながら、明晰な頭脳と剣の腕を発揮して、自分と関係する者たちの間で起こる事件を解決していくというもので、大筋から言えば、この手の時代小説は、たとえば最近のもので言えば、佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』のシリーズなど、実にたくさん出ている。
浪人ものでいえば、藤沢周平の『用心棒日月妙』などの作品が展開も設定されている人物も、それこそ「妙」があって、もっとも味わいも深く、読み応えがあると思うが、最近のものには、その設定にひとつの類型のようなものがあるような気がする。
1)主人公は、理由があって浪人しており、裏店などの貧乏長屋に住んで、日々の生活にあくせくしなければならないが、あまり自分の境遇や生活にこだわらない鷹揚でおっとりした性格をしている。思いやりもあり、人情も深く、正義感もある。人に好かれ、慕われる。
2)美男だが容貌や容姿にもこだわらず、頭脳も明晰で剣の腕がたったり才能が豊かだったりするし、武士としての矜持ももっているが、普段はそういうところを見せることもなく、町人や長屋に住む住人とも気さくな関係を持っている。
3)主人公を理解し、彼を助ける者がいる。それが同じ長屋に住む浪人であったり、町人であったり、また元の上司であったり、あるいは美しい女性であったりするが、いずれも主人公を「ひとかどの人物」として認めている。彼が住む貧乏長屋には、太めで世話好きの女性がいて、日常生活を助けたりする。
4)自分の運命を背負い、それが元の藩の藩政を巡る権力争いであったり、世継ぎ問題であったり、金を巡る争いであったりするが、彼が浪人とならなければならなかった理由がそこにあり、物語が展開していくにしたがって、その理由が明らかにされたり、自分の背負っている宿命がはっきりしたりしていく。
5)主人公を慕う美貌の女性がいる。主人公もその女性に思いを寄せるが、その関係を深めていくことがなかなか出来ない。しかし、最後には思いが通じていく。
6)辻斬りや誘拐、強盗といったいくつかの事件に関わりを持って、これを解決していくと共に、主人公が背負っている宿命を解明していくことが物語の大筋となっている。
その他にも、いくつかの類型の特徴を挙げることが出来るが、そうした類型をもつ作品の出来不出来は、作家の表現力や時代や社会の理解力、あるいは人間に対する洞察力次第であろう。情景描写ひとつとってみても、その作家の力量が現れている。
本書も、だいたいこうした類型の下で書かれており、「おいらか」と渾名されている滝沢俊作という主人公が、理由もわからないままに藩から追い出されて浪人となり、同じ長屋に住み用心棒などをして暮らしている浪人生活の長い荒垣助左衛門と共に、ふとしたことで関わった飾り職人の誘拐・監禁事件を解決したり(第一章「朝の光」)、辻斬り事件の犯人を捜して対決したり(第二章「隻眼の犬」)、子どもの誘拐事件(第三章「かどわかし」)、旗本のつまらない競争心から生まれた剣術試合(第四章「猫の匂いのする侍」)、そして、仇討ち事件(第五章「小侍の仇討ち」)などを解決しながら、理由もわからないままに元の藩から命を狙われ続けるという展開になっている。
類型的にはそうであるが、しかし、本書は展開や描き方が比較的丁寧で、物語としての妙もあり、この類の作品としては面白く読める作品になっている。事柄に対する時には「おいらか」ぶりがあまり発揮されず、たとえば自分の命が狙われる時や剣での立ち会いでも、「まあ、斬られてもいいか」とはなかなか思えずに、真剣に立ち向かおうとするが、それはまあやむを得ないことだろう。「おいらか」といってもそんなときはそこまでいかないだろうから。
娯楽時代小説としては、最近の流行を取り入れたものではあるとはいえ、面白いし、深淵な文学作品でもなければ、ましてや思想や信条を綴ったものでもないのだから、面白ければそれでいい。この作家の、このシリーズをはじめとして他の作品も読んでみたいと思っている。
2010年11月17日水曜日
山本一力『損料屋喜八郎始末控え』
昨夕から降り続いた雨も、今は何とか治まっているが、今にも泣き出しそうな重い雲に覆われ、気温も低く、どこかわびしい冬を感じさせる世界が広がっている。
だが、山本一力『損料屋喜八郎始末控え』(2000年 文藝春秋社 2003年文春文庫)を、掛け値なしに味わい深い作品だと思いつつ読み終えて、日常の煩雑さがどこかに吹き飛んでいくような思いがした。
以前、この続編である『赤絵の桜 損料屋喜八郎始末控え』の方を先に読んで、どことなく物足りなさを感じたのだが、この第一作は、作者の単行本第一作目の作品ということもあって、完成度の高い優れた作品だと思った。
主人公の喜八郎は極貧の浪人の子であったが、剣道場で一緒であった北町奉行所蔵米方上席与力の秋山久蔵にその人柄と才能を見込まれて一代限りの同心として勤めていた。蔵米方というのは、米の石高で俸給をもらっていた旗本や御家人などの武士の俸給米の仲買人であった札差しを監督する役人であった。武家は少ない俸給でやりくりしなければならないから、いきおい不足分を1~2年先の俸給を担保にして札差しから高利で金を借りたために、札差しの多くは金融業が主となり、莫大な金額を扱い、江戸経済の中心となっていった。だから、蔵米方は、いわば江戸経済を取り締まるものでもあったのである。
札差しは、1723年(享保8年)に109名が株仲間を願い出て株(営業権)組織を結成し、1764-1788年のいわゆる田沼時代と呼ばれるころには全盛で、贅を尽くした遊びをしたりして力を誇り、株(営業権)は売買されて千両にもなったといわれている。この物語の時代である寛政年間には、株仲間は少し減少して96組で、棄損令などで大打撃を被むり、株も500両前後に下がったが、江戸の大金持ちであったことは間違いない。もちろん札差しの全員というわけではないが。寛政の改革(1787-1793年)のひとつとして旗本・御家人の生活救済のために1789年に出された棄損令は、札差しからの借財を帳消しにするものであったが、江戸の経済を一気に冷やすものとなったといわれ、貸し渋った札差しのために旗本・御家人の生活はいっそう窮乏するものになったと言われている。本書では、そうした棄損令にまつわる出来事が背景となっている。
本書の主人公である喜八郎は上役の秋山久蔵の信頼を得ていたが、米相場に手を出した上司の詰め腹を切らされる形で奉行所を辞めざるを得なかった。しかし、札差しのひとりであった初代の米屋政八が彼の人柄を見込み、頼りにならない二代目を影から支えるために、表向きは損料屋(今のレンタルショップ)を開かせ、いわば後見人として用いることにしたのである。喜八郎は、何事にも動じない胆力と明晰な頭脳をもって、札差し業界の影で行われる巨利を貪るための画策を見抜いて、初代亡き後の米屋を窮地から救い、初代の米屋政八から依頼されたことを果たしていくのである。
物語は、深川の富岡八幡宮の祭りの前日に、傲慢で、湯水のように金を使うひとりの札差しである笠倉屋の遊びの場面から始まり、ここで、やがて喜八郎の恋人となる料理屋「江戸屋」の女将「秀弥」の毅然とした気っぷの良い姿や喜八郎とので出会が語られていく。この笠倉屋は、やがて自ら身を滅ぼしていくことになるが、その没落過程が一本の筋ともなっている。その構成も見事である。
そして、二代目米屋政八が、自らの才覚のなさと器量のなさから、店をたたむと言い始め、そこから喜八郎の活躍が始まり、米屋を買い叩こうとした強欲な札差しである伊勢屋との知力を尽くした駆け引きが始まっていくのである。喜八郎は、自分を信頼してくれていた上司であった秋山久蔵や深川の仲間たちの助力を得て、米屋の窮地を救っていく。若い喜八郎が、強欲なやり手の札差しである伊勢屋と胆力に満ちた毅然とした姿で渡り合う光景は爽快さがある。
この伊勢屋が、いわば宿敵のような存在で、米屋を買い叩きそびれた意趣返しもこめて、米屋を詐欺に嵌めて窮地に追いやろうとしたり、伊勢屋の手代が自分の使い込みを隠そうとして「秀弥」が経営する料理屋の板前を罠に嵌めたり、棄損令によって窮地に追いやられた笠倉屋が贋金作りを画策し、それで渡世人に嵌められていったりして自滅していく出来事が本書の大まかな筋書きである。
それらが、棄損令という大きな混乱を招いた社会的出来事を背景にして、実に丁寧に展開されている。そして、それらを乗り切っていく喜八郎という存在も味わい深いものになっていくし、喜八郎と秀弥の恋の進展も緩やかだがしっかり心情をつかみながら展開されている。
また、ひとつひとつの場面も実に細やかに描かれ、たとえば、第三話「いわし祝言」で、罠に嵌められた江戸屋の板前の窮地を救った後で、板前と料理屋の奥女中との船着場での祝言の様子が描かれるが、板前の郷里の兄弟たちがたくさんの魚を持ち込み、長屋の女房連中が料理し、いわしの丸焼きの煙の中で、ひと組の夫婦を祝う思いが満ちている光景は、その前後の顛末と合わせて見事に美しく盛り上がるものとなっている。また、第四話「吹かずとも」で、棄損令を発案してかえって経済的窮地を招いてしまった責任を取ろうとする秋山久蔵が町奉行に辞任の願いを出すことを察知した町奉行が、駕籠脇で「一切、聞く耳は持たぬぞ」と言って、多くの人々の非難の眼を承知しながらも、彼を支える場面があったり、祭り御輿に全力を注ぐ人間の姿があったり、それらが言外の思いやりに満ちた行為として描かれるのは、懸命に生きる人間を描く姿として見事というほかない。
ひとつひとつの場面が詳細に至まで丁寧で、しっかり展開され、それでいて物語としての醍醐味もあって、読ませる作品のひとつと言えるだろう。山本一力の作品をまだ多くは読んでいないが、これまで読んだものの中では、『だいこん』とこの作品が最も気に入った作品である。
それにしても、江戸時代の改革を顧みながら、現在の日本政府の政策を見て、行き当たりばったりの政策は、いずれは窮乏を生むと思ったりもする。
今日は雨が降ったり止んだりして冷えている。こんな日は鍋が美味しいのだろうが、昨日鳥鍋にしたので、別のものを作ろう。冷蔵庫にお肉の買い置きがあったかも知れない。明日、天気が回復してくれればいいが。
だが、山本一力『損料屋喜八郎始末控え』(2000年 文藝春秋社 2003年文春文庫)を、掛け値なしに味わい深い作品だと思いつつ読み終えて、日常の煩雑さがどこかに吹き飛んでいくような思いがした。
以前、この続編である『赤絵の桜 損料屋喜八郎始末控え』の方を先に読んで、どことなく物足りなさを感じたのだが、この第一作は、作者の単行本第一作目の作品ということもあって、完成度の高い優れた作品だと思った。
主人公の喜八郎は極貧の浪人の子であったが、剣道場で一緒であった北町奉行所蔵米方上席与力の秋山久蔵にその人柄と才能を見込まれて一代限りの同心として勤めていた。蔵米方というのは、米の石高で俸給をもらっていた旗本や御家人などの武士の俸給米の仲買人であった札差しを監督する役人であった。武家は少ない俸給でやりくりしなければならないから、いきおい不足分を1~2年先の俸給を担保にして札差しから高利で金を借りたために、札差しの多くは金融業が主となり、莫大な金額を扱い、江戸経済の中心となっていった。だから、蔵米方は、いわば江戸経済を取り締まるものでもあったのである。
札差しは、1723年(享保8年)に109名が株仲間を願い出て株(営業権)組織を結成し、1764-1788年のいわゆる田沼時代と呼ばれるころには全盛で、贅を尽くした遊びをしたりして力を誇り、株(営業権)は売買されて千両にもなったといわれている。この物語の時代である寛政年間には、株仲間は少し減少して96組で、棄損令などで大打撃を被むり、株も500両前後に下がったが、江戸の大金持ちであったことは間違いない。もちろん札差しの全員というわけではないが。寛政の改革(1787-1793年)のひとつとして旗本・御家人の生活救済のために1789年に出された棄損令は、札差しからの借財を帳消しにするものであったが、江戸の経済を一気に冷やすものとなったといわれ、貸し渋った札差しのために旗本・御家人の生活はいっそう窮乏するものになったと言われている。本書では、そうした棄損令にまつわる出来事が背景となっている。
本書の主人公である喜八郎は上役の秋山久蔵の信頼を得ていたが、米相場に手を出した上司の詰め腹を切らされる形で奉行所を辞めざるを得なかった。しかし、札差しのひとりであった初代の米屋政八が彼の人柄を見込み、頼りにならない二代目を影から支えるために、表向きは損料屋(今のレンタルショップ)を開かせ、いわば後見人として用いることにしたのである。喜八郎は、何事にも動じない胆力と明晰な頭脳をもって、札差し業界の影で行われる巨利を貪るための画策を見抜いて、初代亡き後の米屋を窮地から救い、初代の米屋政八から依頼されたことを果たしていくのである。
物語は、深川の富岡八幡宮の祭りの前日に、傲慢で、湯水のように金を使うひとりの札差しである笠倉屋の遊びの場面から始まり、ここで、やがて喜八郎の恋人となる料理屋「江戸屋」の女将「秀弥」の毅然とした気っぷの良い姿や喜八郎とので出会が語られていく。この笠倉屋は、やがて自ら身を滅ぼしていくことになるが、その没落過程が一本の筋ともなっている。その構成も見事である。
そして、二代目米屋政八が、自らの才覚のなさと器量のなさから、店をたたむと言い始め、そこから喜八郎の活躍が始まり、米屋を買い叩こうとした強欲な札差しである伊勢屋との知力を尽くした駆け引きが始まっていくのである。喜八郎は、自分を信頼してくれていた上司であった秋山久蔵や深川の仲間たちの助力を得て、米屋の窮地を救っていく。若い喜八郎が、強欲なやり手の札差しである伊勢屋と胆力に満ちた毅然とした姿で渡り合う光景は爽快さがある。
この伊勢屋が、いわば宿敵のような存在で、米屋を買い叩きそびれた意趣返しもこめて、米屋を詐欺に嵌めて窮地に追いやろうとしたり、伊勢屋の手代が自分の使い込みを隠そうとして「秀弥」が経営する料理屋の板前を罠に嵌めたり、棄損令によって窮地に追いやられた笠倉屋が贋金作りを画策し、それで渡世人に嵌められていったりして自滅していく出来事が本書の大まかな筋書きである。
それらが、棄損令という大きな混乱を招いた社会的出来事を背景にして、実に丁寧に展開されている。そして、それらを乗り切っていく喜八郎という存在も味わい深いものになっていくし、喜八郎と秀弥の恋の進展も緩やかだがしっかり心情をつかみながら展開されている。
また、ひとつひとつの場面も実に細やかに描かれ、たとえば、第三話「いわし祝言」で、罠に嵌められた江戸屋の板前の窮地を救った後で、板前と料理屋の奥女中との船着場での祝言の様子が描かれるが、板前の郷里の兄弟たちがたくさんの魚を持ち込み、長屋の女房連中が料理し、いわしの丸焼きの煙の中で、ひと組の夫婦を祝う思いが満ちている光景は、その前後の顛末と合わせて見事に美しく盛り上がるものとなっている。また、第四話「吹かずとも」で、棄損令を発案してかえって経済的窮地を招いてしまった責任を取ろうとする秋山久蔵が町奉行に辞任の願いを出すことを察知した町奉行が、駕籠脇で「一切、聞く耳は持たぬぞ」と言って、多くの人々の非難の眼を承知しながらも、彼を支える場面があったり、祭り御輿に全力を注ぐ人間の姿があったり、それらが言外の思いやりに満ちた行為として描かれるのは、懸命に生きる人間を描く姿として見事というほかない。
ひとつひとつの場面が詳細に至まで丁寧で、しっかり展開され、それでいて物語としての醍醐味もあって、読ませる作品のひとつと言えるだろう。山本一力の作品をまだ多くは読んでいないが、これまで読んだものの中では、『だいこん』とこの作品が最も気に入った作品である。
それにしても、江戸時代の改革を顧みながら、現在の日本政府の政策を見て、行き当たりばったりの政策は、いずれは窮乏を生むと思ったりもする。
今日は雨が降ったり止んだりして冷えている。こんな日は鍋が美味しいのだろうが、昨日鳥鍋にしたので、別のものを作ろう。冷蔵庫にお肉の買い置きがあったかも知れない。明日、天気が回復してくれればいいが。
2010年11月15日月曜日
高橋克彦『完四郎広目手控 文明怪化』
朝方は晴れ間も見えていたが、午後から曇り始め、雨が落ちてきそうな気配になっている。昨日、あまり気乗りのしない会議で小田原まで出かけ、途中の渋滞で少々疲れを覚えていたのだが、帰宅してテレビで世界女子バレーを見て、32年ぶりで日本のチームがメダルを取るという試合で、長い試合日程の中でもうほとんどジャンプする力も残っていないのに、気力だけで試合をしているような選手の姿に感動した。勝負の勝敗ではなく、そういう姿が好きで、全試合を観ていた。
それから夕食を作り、食べながら、行儀が悪いと思いつつも独りの気楽さで、高橋克彦『完四郎広目手控 文明怪化』(2007年 集英社)を読んだ。
これは『完四郎広目手控』(1998年 集英社)から始まるシリーズ物の4作目であるが、前に読んだ『おこう紅絵暦』と同様、前作を読まないと登場人物の相関図がわかりにくいのが難点で、このシリーズの前3作は読んでいないので、突然、ある人物が登場してきたときには、これは誰でどういう関係なのだろうと思ったりもする。だが、巻末にある出版社の広告で、これが幕末の安政年間から続く物語で、頭脳明晰で剣の腕もたつ香冶完四郎(こうや かんしろう)という旗本の次男坊が、持ち前の明晰な頭脳で居候している広目屋(広告代理店)を手伝いながら、戯作者の仮名垣魯文(かながきろぶん)らと共に難事件を解決していくという、時代探偵小説とでもいうべき作品であることがわかる。もちろん、幕末から明治維新にかけての激動した時代の推移や、幕末から明治維新にかけて活躍した実在の人物も登場し、ある種の文明批評もきちんと盛り込まれているだろうことは想像がつく。
シリーズの4作目である本書は、維新前にアメリカに渡った主人公の香冶完四郎が明治になった日本に帰国してくるところから始まっているし、戯作者の仮名垣魯文は著名な作家となり、創刊されたばかりの東京日々新聞にも深く関わっており、本書は、その東京日々新聞の新聞錦絵(事件を絵にしたもの)に描かれた事件の謎を解いていくという趣向で物語が進められている。
ちなみに、東京日々新聞は、現在の毎日新聞の前身で、1872年(明治5年)に戯作者であった山々亭有人こと粂野伝平(1832-1902年)と貸本屋の番頭であった西田伝助(1839-1910年)、浮世絵師であった歌川芳幾(1833-1904年)が創立したもので、この頃、鉄道が開通したり、東京-大阪間の電信や全国に郵便施設が開設されたりして、通信手段が発展し、現在の読売新聞とスポーツ報知などの前身である郵便報知新聞も同年に創刊されている。本書でも、歌川芳幾と人気を二分した芳年(月岡芳年・・1832-1892年)が郵便報知に挿絵を描く人物として登場する。
ただ、物語よりも最初に驚いたことであるが、本書で取り扱われている歌川芳幾と芳年の新聞錦絵が著者所蔵となっており、作者に収集癖があるのか、それとも金に飽かせて買い集めたのかはわからないが、これだけの明治初期の新聞錦絵を個人で所蔵し、おそらくはそれをじっくり見ながら本書の主人公よろしく推理を組み立てただろうと思われるその想像力の巧みさに恐れ入った。
物語は、その新聞錦絵で取り扱われている怪談や幽霊話、残酷な事件などの記事と描かれている絵から想像されることとの違いから、主人公がそれぞれの事件の裏に隠されている真相を明晰な頭脳で暴いていくというもので、それが肉の検査制度の発足や迷信の払拭などといった明治の政策と絡めて展開されている。その着想や発想はとてもおもしろい。罪人を作らないのもいい。
ただ、主人公の頭脳明晰さを強調するためだろうが、それぞれの事件が主人公によってあっさり謎解かれ、解決されるのに物足りなさがあるような気がするし、以前横浜にいて主人公と知り合い、再び主人公を慕って米国からやってきたジェシカという娘の恋心があまり伝わらない。主人公の朴念仁ぶりが語られているが、恋をする娘の姿はあまり感じられない。彼女の恋心は、アメリカから追ってきたにしては、あまりにあっさりしている気がするのである。
作者自身が主人公の口を借りて新聞について、「アメリカやイギリスでは、・・・・こんな事件があったというのではなく、なぜこんな事件が生まれたかに主眼を置いている。日本人は目の前のことにしか関心を持たない。せっかち過ぎる。新聞の記事もそうだ。事実はそうに違いないが、それだけ並べて終わりという書き方だ。・・・・」(235ページ)と語っているが、その「なぜ、そんな事件が起こったのか」の掘り下げが、少し物足りない気がするのである。人間の怨恨は深く、またそれを巡る思いを関係も複雑で、金と欲では簡単に片づかないだろうと思うからである。
たとえば、実際に絵師の芳年は神経症で苦しんだが、本書では、それが前妻の幽霊を見るということで表されたりしている。しかし、実際の神経症はそう単純ではないし、芳年の絵にはどこか狂気のようなものが感じられるので、物語の筋とはあまり関係ないにしても、そのあたりが掘り下げられても良かったのではないかと思ったりもする。
とは言え、通常の捕物帳のようなものではなく、ある種の探偵小説というようなものであり、新聞錦絵からの奇抜な発想は、間違いなく読んでいて面白い。あまり物事にこだわらずに自由な発想をする主人公の姿もいい。いずれにしろ前3作を読んでいないので、何とも言えないことではあるが。
今日は嬉しいメールが一通届いたし、夕方からの予定はあるものの気分的には比較的ゆっくりしている。いくつかの仕事を夕方までに片づけて、夜はまた違う本を読むつもりである。
それから夕食を作り、食べながら、行儀が悪いと思いつつも独りの気楽さで、高橋克彦『完四郎広目手控 文明怪化』(2007年 集英社)を読んだ。
これは『完四郎広目手控』(1998年 集英社)から始まるシリーズ物の4作目であるが、前に読んだ『おこう紅絵暦』と同様、前作を読まないと登場人物の相関図がわかりにくいのが難点で、このシリーズの前3作は読んでいないので、突然、ある人物が登場してきたときには、これは誰でどういう関係なのだろうと思ったりもする。だが、巻末にある出版社の広告で、これが幕末の安政年間から続く物語で、頭脳明晰で剣の腕もたつ香冶完四郎(こうや かんしろう)という旗本の次男坊が、持ち前の明晰な頭脳で居候している広目屋(広告代理店)を手伝いながら、戯作者の仮名垣魯文(かながきろぶん)らと共に難事件を解決していくという、時代探偵小説とでもいうべき作品であることがわかる。もちろん、幕末から明治維新にかけての激動した時代の推移や、幕末から明治維新にかけて活躍した実在の人物も登場し、ある種の文明批評もきちんと盛り込まれているだろうことは想像がつく。
シリーズの4作目である本書は、維新前にアメリカに渡った主人公の香冶完四郎が明治になった日本に帰国してくるところから始まっているし、戯作者の仮名垣魯文は著名な作家となり、創刊されたばかりの東京日々新聞にも深く関わっており、本書は、その東京日々新聞の新聞錦絵(事件を絵にしたもの)に描かれた事件の謎を解いていくという趣向で物語が進められている。
ちなみに、東京日々新聞は、現在の毎日新聞の前身で、1872年(明治5年)に戯作者であった山々亭有人こと粂野伝平(1832-1902年)と貸本屋の番頭であった西田伝助(1839-1910年)、浮世絵師であった歌川芳幾(1833-1904年)が創立したもので、この頃、鉄道が開通したり、東京-大阪間の電信や全国に郵便施設が開設されたりして、通信手段が発展し、現在の読売新聞とスポーツ報知などの前身である郵便報知新聞も同年に創刊されている。本書でも、歌川芳幾と人気を二分した芳年(月岡芳年・・1832-1892年)が郵便報知に挿絵を描く人物として登場する。
ただ、物語よりも最初に驚いたことであるが、本書で取り扱われている歌川芳幾と芳年の新聞錦絵が著者所蔵となっており、作者に収集癖があるのか、それとも金に飽かせて買い集めたのかはわからないが、これだけの明治初期の新聞錦絵を個人で所蔵し、おそらくはそれをじっくり見ながら本書の主人公よろしく推理を組み立てただろうと思われるその想像力の巧みさに恐れ入った。
物語は、その新聞錦絵で取り扱われている怪談や幽霊話、残酷な事件などの記事と描かれている絵から想像されることとの違いから、主人公がそれぞれの事件の裏に隠されている真相を明晰な頭脳で暴いていくというもので、それが肉の検査制度の発足や迷信の払拭などといった明治の政策と絡めて展開されている。その着想や発想はとてもおもしろい。罪人を作らないのもいい。
ただ、主人公の頭脳明晰さを強調するためだろうが、それぞれの事件が主人公によってあっさり謎解かれ、解決されるのに物足りなさがあるような気がするし、以前横浜にいて主人公と知り合い、再び主人公を慕って米国からやってきたジェシカという娘の恋心があまり伝わらない。主人公の朴念仁ぶりが語られているが、恋をする娘の姿はあまり感じられない。彼女の恋心は、アメリカから追ってきたにしては、あまりにあっさりしている気がするのである。
作者自身が主人公の口を借りて新聞について、「アメリカやイギリスでは、・・・・こんな事件があったというのではなく、なぜこんな事件が生まれたかに主眼を置いている。日本人は目の前のことにしか関心を持たない。せっかち過ぎる。新聞の記事もそうだ。事実はそうに違いないが、それだけ並べて終わりという書き方だ。・・・・」(235ページ)と語っているが、その「なぜ、そんな事件が起こったのか」の掘り下げが、少し物足りない気がするのである。人間の怨恨は深く、またそれを巡る思いを関係も複雑で、金と欲では簡単に片づかないだろうと思うからである。
たとえば、実際に絵師の芳年は神経症で苦しんだが、本書では、それが前妻の幽霊を見るということで表されたりしている。しかし、実際の神経症はそう単純ではないし、芳年の絵にはどこか狂気のようなものが感じられるので、物語の筋とはあまり関係ないにしても、そのあたりが掘り下げられても良かったのではないかと思ったりもする。
とは言え、通常の捕物帳のようなものではなく、ある種の探偵小説というようなものであり、新聞錦絵からの奇抜な発想は、間違いなく読んでいて面白い。あまり物事にこだわらずに自由な発想をする主人公の姿もいい。いずれにしろ前3作を読んでいないので、何とも言えないことではあるが。
今日は嬉しいメールが一通届いたし、夕方からの予定はあるものの気分的には比較的ゆっくりしている。いくつかの仕事を夕方までに片づけて、夜はまた違う本を読むつもりである。
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