2012年4月18日水曜日

山本周五郎『彦左衛門外記』


 久しぶりに白い雲と晴れた蒼空を見る思いがする。今年の春はいつまでも寒いが、今日のような日があるとどことなく嬉しくなる。昨日、熊本からツツジが咲き始めたと便りをくださり、もうそんな季節なのだと改めて思ったりした。

 このところ相変わらず仕事が立て込んで気ぜわしい日々なのだが、山本周五郎『彦左衛門外記』(1981年 新潮文庫)を読んでみた。これは、1959年6月から1960年8月まで『労働文化』という雑誌に『御意見番に候』という題で連載され、1960年に『彦左衛門外記』と改題されて講談社から出されたもので、山本周五郎としては異色のユーモア時代小説で、文体もおどけ、作中に作者が登場するなどして、おそらく「反骨」のおかしさを実験的に書いた作品だろうと思う。ユーモアというより滑稽本の類と言った方がよいかもしれない。

 題材は、大久保彦左衛門忠教(ただたか 15601639年)が天下の御意見番として祭り上げられるということを主題にしたものだが、大久保彦左衛門が記して徳川幕府初期の歴史資料ともなっている「三河物語」や、後に鶴屋南北の弟子の河竹黙阿弥(18161983年)が歌舞伎芝居として書いた「大久保彦左衛門と一心太助の物語」などを取り入れながら、虚実をない交ぜて、武勇を誇ったり英雄豪傑を誇ったりしていくことのおかしさを滑稽本として描いたものである。

 大久保彦左衛門は、実際、武骨な人だったと言われ、三河以来からの徳川家康の家臣であり、兄の大久保忠世と甥の忠隣(ただちか)が小田原城主に任じられると3000石を与えられたという。次兄の大久保忠佐は沼津城主になっている。大久保忠隣は小田原城主で、初期の江戸幕府の重臣である。しかし、彼は、徳川家康が最も信頼していたと言われる本多正信、正純親子と対立し、家康の後継者として徳川秀忠を推挙し、やがて二代目将軍徳川秀忠の側近となっていたが、対立の激化と共に大久保長安事件(大久保長安は忠隣の推挙を受けていた)で連座し、加えて豊臣秀頼に内通しているとの誣告を受けて、大御所として権力をふるっていた徳川家康の不興を買って改易させられた。

 この出来事で、大久保彦左衛門も一時改易されたが、家康直臣の旗本として召し出され、家康の死後も秀忠に仕え、三代将軍徳川家光が、家康の苦労話や戦国時代の話を聞くために御伽衆に加え、晩年、その話をまとめて『三河物語』を記したといわれている。功績に対する加増の話はすべて断り、沼津藩主であった次兄の大久保忠佐の嫡男である忠兼が早世した時も、彦左衛門忠教を養子として藩主を継がせようとしたが、「自分の勲功ではない」と固持している。ただ、それによって大久保忠佐の沼津藩は改易された。

 こうしたことから「反骨の武人」として祭り上げられ、たとえば、登城に際して旗本以下の輿が禁止されたのに立腹し、大盥に乗って登城したというエピソードや徳川家光にことあるごとに諫言を行ったなどの逸話が講談の中などで作り上げられていったのである。

 山本周五郎『彦左衛門外記』は、この大久保彦左衛門の血筋で貧乏旗本に養子にいった五橋数馬を主人公にして、彼が大叔父に当たる大久保彦左衛門の戦記をでっちあげ、「天下の御意見番である」との家康の御墨付まで偽造し、それによって貧乏旗本から脱却して何とか世に出ようと企む顛末を描いたのである。基本は英雄のでっちあげ作戦で、それだけでアイロニー(皮肉)に富んだ作品に仕上げているのである。

 もちろん、この五橋数馬は作者の創作上の人物で、腕を磨いて賭け試合をしていたが、その途中で美貌の娘に目を奪われ、その娘が小大名の姫であったことから、大名屋敷の姫のところに忍び込み、相愛の仲になってしまうのである。

 他方、自分が世に出るためにでっち上げた大久保彦左衛門は、そのでっち上げられたものを自らも信じ込んで行動を始め、旗本奴で知られる水野十郎左衛門などの青年旗本たちを扇動し、どたばた劇が進行していく。そして、彼と相愛になった大名家でのお家騒動に絡み、これを解決して、五橋数馬は見事婿養子となっていくというもので、この大名家のお家騒動も深刻なものではなく、馬鹿げたぬるいいもので、お家騒動を企むものも愚かさ極まりない発想をする者として描かれている。

 これは、言うまでもなく、滑稽本である。その滑稽さはとりわけて面白いというわけではないが、武勇を誇ったり武勲となっていたりすることや英雄譚などに対する強烈な風刺である。作品の出来はともかくとして、「人間ちょぼちょぼ」という姿勢が貫かれていて、そういう視点で歴史と人間を見ることは大事だとわたしも思うので、後半になるに従って面白く読めた一冊だった。

 世の中で華々しく活躍することやそういう人に一切関心はなく、世間の評判というものもあまり意味がないと思っているわたしにとっては、「こういう茶化し方も一理あるなあ」と思いながら読んでいて、S.キルケゴールほど深刻ではないが、「人間はアイロニー」と思ったりもした。

2012年4月16日月曜日

中村彰彦『若君御謀反』


 雲が重く垂れ込めて花冷えのする寒いに日になった。まだ暖房がいる気もするが、その花曇りの空であったとしても、空を仰いで、「ああ、春」と思う。どこからか遅咲きの桜の花びらが一枚飛んできてひらひらと舞う。その風情がたまらなくいい。

 この空気の中で、中村彰彦『若君御謀反』(2003年 角川書店)を面白く読んだ。これは、「若君御謀反」、「母恋常珍坊」、「二度目の敵討」、「おりん小吉 すかしの敵討」、「おとよ善左衛門」、「紺屋町の女房」、「堀部安兵衛の許嫁」の7編が収められた短編集である。

 作家には、それぞれに作品に取り組むときの姿勢(思想)のようなものがあり、特に歴史時代小説ではそれが顕著に表れ、人物を歴史的な事象の中で生きた人間として描き出そうとするときには、その歴史的背景や社会的背景をきちんと盛り込んだり、他の人との関わりの中で描き出そうとしたり、あるいは情景描写一つにしても、人が感じる情景がその人の心情を表すことを必要とする。それを意識する良心的、かつ意識的な作家は、そのためにそれが大きな事件や出来事を描かなくとも、勢い長編にならざるを得ないところがある。

 中村彰彦は、これまで読んだ理解では、歴史的な背景を可能な限り踏まえて描き出そうとするから、作品が長編になる作家だと思っていた。短編には短編としての別の切れが必要で、文外や行間の余韻、結末に俳句の余韻のようなものが必要であり、人間の一断面を鋭く切るほど味わい深い作品になり、その場合、歴史的な背景などは、それが踏まえられていればいるほど言外になるからである。

 しかし、この短編集に収められている作品は、その短編の切れが十分に発揮された作品だと思った。本書の巻末に「あとがき」があり、作者自身によるそれぞれの作品の解題のようなものが記されているが、この中で一番完成度の高い作品は、やはり、表題作となった「若君御謀反」だろうと思う。

 これは、戦国の名将と言われ、名城の熊本城を築いて豊臣秀頼を守ろうとした加藤清正の後を継いだ加藤忠広の凡愚さと嫡男で清正の孫に当たる加藤光正の愚かさの話である。加藤家はこの三代で潰れたが、その潰れたいきさつを記したものである。

 加藤清正は、豊臣秀頼を庇護した後、大阪から熊本に帰る船中で急に病を得て死亡したが(一説では
清正を恐れた徳川家康か徳川秀忠の影の手が伸びたともいわれるが真相は不明)、石田三成と反目していたために関ヶ原の合戦では徳川方について、家康の天下平定の後も、加藤家はその子である加藤忠広が継いで、肥後五十四万石の藩主となった。有力な外様大名だったのである。

 しかし、忠広は凡愚だった。そして、その子の光正ともなれば、愚かを二乗しても足りないほどの人物でしかなく、贅を好み不遜で、単に知り合いを貶めて笑い飛ばそうとして、時の老中土井大炊頭利勝の名を使って謀反の計画書を作り、それに右往左往する知り合いたちを眺めて笑おうとしたのだが、それが発覚し、飛騨高山に配流され、父親の忠広も庄内藩に蟄居されるのである。この時、光正十五歳である。

 徳川幕府は三代将軍の徳川家光の時代に入り、参勤交代や武家諸法度などの諸制度を制定して戦国武将たちの影響を払拭しようとしていたころで、隙あらばお家断絶にもちこもうとしていた状勢で、光正のいたずらを、事柄が謀反に関わるだけに見逃すはずがないのである。ことに知恵伊豆とまでいわれた松平信綱は、こうしたことには手厳しい手段を執った。九州には最も有力な島津家が鹿児島にあり、肥後熊本はその島津家を押さえる重要な要で、肥後に加藤家を置いておくこと自体に危惧があったのだから、徳川幕府はこれを幸いに、細川家を加藤家に代わって肥後に置くことにするのである。こういうところは、江戸幕府初期の頃の人たちに抜かりはなかった。加藤清正の子の加藤忠広も、その子の光正も、こういう自覚はなかったし、情勢を分析していく才覚もなかった。

 この光正の愚かさは、昨今の青少年の愚かさと通じるところがあり、自分の行為がもたらす結果を考えることができない愚かさの典型と言えるだろう。加藤清正はその死後も現在まで名将と言われ、慕われるが、その子と孫はひどいものだったのである。光正に仕えた家臣も主と同様にひどかった。

 本書は、その愚かさの極みの姿が、よく描かれていて、光正が飛騨高山に配流される途中の駕籠の中で自害したことを伝えて終わる。「うつけもの」の短い生涯である。

 その他の短編もそれなりに面白く、特に「紺屋町の女房」は、高潔な人として生涯を全うした名奉行の矢部定謙の名奉行ぶりを描き出した作品で、先に読んでいた『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』の中にも取り入れられていた。

 7作目の「堀部安兵衛の許嫁」は、赤穂浪士として著名になった堀部安兵衛の許嫁だったと語っていた老婆の話で、この稀代とも言える詐欺師の姿を描いたものである。これは、どちらかと言えば、歴史を資料で解説するような司馬遼太郎の方法に近い展開がされている。その他の作品は、敵討ち物が3編で、定説をくつがえすような解釈もなされているし、親孝行の一つの典型といわれた話を覆すような「母恋常珍坊」も味わいのある作品になっている。

 個人的には、短編よりも長編を好むので、最初の「若君御謀反」のような作品を良いと思うのだろうが、短編には短編の良さがあり、本書はそうした良さを味わうことができる作品群である。

2012年4月13日金曜日

諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2)

 花曇りの日で、こういう日は何もせずにただぼんやりと一日を過ごしたいのだが、そうもいかない日常がある。北朝鮮のミサイル打ち上げ(衛星打ち上げだそうだが)失敗が報じられたり、スマトラ沖の地震が報じられたり、中身のないまま増収だけが先行している消費税増税案をめぐる政治のごたごたがあったり、何とも騒がしい状態で、「思想なき世界の混乱」が今日も続いている。

 こういうことは人間の精神に大きな影響を与えてくるが、世相に右往左往しないで坦々と生き続け、花鳥風月を愛で、あるがままに今日も過ごす。「分析」と称するいらいらした精神は御免被りたいので、「確たる思想に基づいて何も考えない」という日々、これがいいと思ったりする。のんびりと川下りをするような日々を今日も過ごす。

 さて、諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2010年 毎日新聞社)の続きであるが、佐久間象山が、9年もの間、信濃の松代で蟄居させられたのは、やはり象山にとって大きな痛手であったような気がする。この9年の間に社会の状況はすっかり変わり、象山が考えていたような外国の知識・技術を取り入れて外国と対等になっていくということとは全く反対の攘夷思想が席捲していったからである。特に象山のように世間的な名誉欲の強い人間にとって、世相が変わる流れにいないということは致命的だっただろう。

 だからといって松代で象山がぼんやりしていたというのではない。この間に象山は望遠鏡をつくって月を見ることに成功したり(おそらく日本人で最初に月を望遠鏡で見たのではないかと思う)、天然痘の牛種痘を試みたり、様々な医学を取り入れようとしたりしている。本書では「お順」がコレラにかかったときに寝ずの看病をしてなんとかこれを克服させている姿が描かれている。そして、そのことによって「お順」と象山の仲がしっくりいくようになったという具合に記されていく。

 やがて、1864年(元治元年)に、将軍後見職から朝廷との間を取りもつ禁裏御守衛総督に就任した一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に公武合体論を推進するために京都に招かれ、象山は有頂天になるが、状況は全く異なって攘夷論が中心となっており、象山は「西洋かぶれ」という印象しかもたれなかった。そして、象山の傲岸な性格が禍して、供も連れずに三条木屋町を行ったときに、肥後熊本藩士であった河上彦斎らによって暗殺された。享年54歳である。

 「お順」は、象山を暗殺したのが長州の人間だと思って、ながく長州を毛嫌いし、何とかしてその仇を討ちたいと思っていたし、象山の子である格三郎も、象山の仇を討つために新撰組に加入している。だが、格三郎は、やがて、新撰組を脱退していくし、象山を暗殺したのは肥後藩士だった。

 この象山暗殺の前、彼が京都に招かれていく前に、「お順」は母親の「お信」の病状悪化のために江戸に帰り、兄の勝海舟のもとに身を寄せていた。そこで、激動する社会の中で奔走する兄の姿を見ていくし、象山が暗殺されたことも知る。これ以後、「お順」が松代に帰ることはなかった。

 やがて、大政奉還が行われ、坂本龍馬の暗殺事件が起こり、鳥羽伏見の闘い、江戸城開城というように急速な時代と社会の変化にもまれていく。特に、江戸城開城に関しては兄の勝海舟の大きな働きがあり、「お順」は,その姿をつぶさに見ていくのである。そして、上野戦争の際に幕臣であった勝家に官軍の者たちが襲ってきたときに、一人でこれに立ちふさがって家族を守ったという武勇も果たしたりしている。

 「お順」は,どうしても象山の仇を討ちたいと願い、山岡鉄舟の門下で会津藩士の剣客村上政忠(村上俊五郎)の力を借りようとし、彼に嫁ぐ。このあたりのくだりは諸田玲子らしい展開になっていて、「お順」が村上俊五郎にかつての想い人の島田虎之介の面影を見たからだとしているが、村上俊五郎は、ただの女たらしのいい加減な男で、象山の仇を討つためには何一つ動かなかった。そのことがわかって「お順」は彼と離縁(正式な結婚ではなかったが)し、彼が手をつけた女との間に生まれた子を引き取って育てている。だが、これが後々も落ちぶれた村上俊五郎に金をせびられていく要因になってしまうのである。

 だが、その後は、勝家の中で平穏に暮らし、養女とした貞子を結婚させ、明治40年(1907年)、73歳で生涯を終わっている。本書は、その晩年に至るまでの「お順」の姿を、彼女の目を通して明治維新の激動を見るということも含めて丁寧に描いたもので、勝海舟の姿もまことに良く描けていると思う。

 江戸屈指の蘭方医で学者でもあった高野長英が「蛮社の獄」(1839年-天保10年)で捕らえられ、五年の入牢の後に脱獄して勝麟太郎のところにやってきた時に、勝麟太郎が彼について「お順」に語った言葉として、「先生はとびきり優れた蘭医だった。だが、ひとつだけ、足りないものがあった」と語り、「教えてやる。よう聞いておけ」がまんだ-と言うのである。そして、「上手くいかないことを、上手くいくようにするには、忍耐しかない。だれになんと言われようと、ただ、じっとがまんするのサ」と語るのである(上巻 154ページ)。

 「お順」は,その麟太郎を見て、「麟太郎は明朗闊達で、やもすればお調子者のホラ吹きに見られるが、実は努力と忍耐の人だった。物事を理路整然と組み立て、一歩一歩着実に前進する。情にほだされて道を踏みはずすことは決してない」(上巻 156ページ)と思うくだりが記されているが、これは作者が勝海舟という人間を理解している言葉であろう。

 勝海舟という人は、やがて時代の寵児となっていくが、実は、その通りに努力と忍耐の人で、それゆえにまた、本物と偽物を見分ける力をきちんともっていた人であったのである。立場や考え方が異なったとしても、評価すべきものを評価し、評価べきでないものは決して評価しなかった。それがはっきりしていた人だったとわたしは思う。「忍耐が人をつくる」まことにその通りである。
               
 また、佐久間象山の甥が、尊敬していた象山が蟄居を命じられて松代で閉塞していることで自分の将来を悲観し、絶望的になって放蕩を始めたことに対して、「お順」が父親の勝小吉の放蕩ぶりについて思い返す言葉が次のように記されている。

 「小吉の放蕩は安世(象山の甥)の比ではなかったが、家族は平然としていた。それが当たり前と思っていたのだ。妻の信は、順の知るところでは、一度も小吉をなじったことがない。愚痴も言わず、悲観もしなかった。麟太郎も同じく、剣術に励み、蘭学に熱中し、黙々と我が道を歩きながら、父への敬愛を失うことはなかった。むろん順も、どんなに破天荒だろうが、父が大好きだった。無茶をしながらも小吉が愛すべき善人であり得たのは、心のどこかで、家族の無条件の愛情に応えようとしていたからだろう」(下巻24ページ)。

 こういう人間観や家族観、それが勝家の姿だったし、勝海舟(麟太郎)という人物の大きさを養ったことは間違いない。立派だったのは、小吉の妻の「お信」なのである。本書がこうした視点で勝家の人々や、特に「お信」を描いているところが作者の真骨頂だろうと思っている。

 また、佐久間象山の自尊心の強い自惚れについても、「お順」がコレラを患い、象山がつきっきりで看病した姿に触れて、「尊大な自惚れ屋の素顔は、情にもろく、無私無欲で、家族や弟子、いや、命あるものすべてに惜しむことなく愛を注ぐ、類いまれな男だったのである」(下巻52ページ)と記されている。佐久間象山という人物の人間像を慈しむ作者の視点がここに込められている。象山は、確かに物質的には無私無欲の人であった。

 本書はこうした観点で、「お順」やその周囲の人物たちがとらえ直され、描き出されて、その意味でも優れた作品と言える。読みながら、作者の思想、あるいは人間観が徐々に確固たるものになりつつあるのを感じていた。明治政府は西郷隆盛や勝海舟といった懐の大きな人間をやがては目の前の実利を優先させて排除していったので、そのあたりも含めて勝海舟その人について、もう少し記されても良いかなとは思うが、それは望みすぎだろう。読み応えのあるいい作品だと思う。

2012年4月11日水曜日

諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(1)


 「花散らし」の雨が降り、変わりやすい春の天気の中で、桜の花びらが散っていく。桜は散るときも凛として散る。凛としているが柔らかい。「願わくは花の下にて」と謳った西行ではないが、ふとそんな思いがする。西行の「あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき」と思ったりするのである。

 それはともかく、勝海舟(18231899年)の妹で佐久間象山(18111864年)の妻となった「お順(18361907年」の生涯を描いた諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2010年 毎日新聞社)をお面白く読んだ。

 いうまでもなく登場人物のすべてが幕末の歴史を彩った人々であり、それぞれが個性豊かな人物たちであったのだから、この作品は、単に「お順」という一人の女性の姿だけではなく、それぞれの人物たちと幕末の歴史を一人の女性の目を通して描き出そうとする意欲作ともなっている。

 勝海舟とお順の父親は、無役の小普請で貧乏旗本であった勝小吉という破天荒な人物で、この小吉と勝海舟(勝麟太郎)の姿を描いた名作である子母澤寛の『親子鷹』を、以前、感動して読んだことがあるが、ここでは、娘の「お順」の目を通してそれが描かれている。勝小吉は破天荒であったが、情に厚くまっすぐな人で、何よりも息子の麟太郎(勝海舟)を信じていた人であった。「お順」は、この父親を深く尊敬していたし、父親譲りの物怖じしない大胆な気質を備えていた人であった。

 本書は、その「お順」が五歳の時に、父親が売りさばいてしまった預かり物の刀のことで怒った武士が玄関にやってきたときに、その男の脛に噛みついて撃退したというエピソードから始まる。そして、最初の恋の相手としての島田虎之介との出会が織りなされていく。

 勝小吉は男谷家の三年で勝家に婿養子に入った人であったが、甥に幕末の「剣聖」といわれた男谷信友(男谷精一郎)がおり、勝海舟はこの男谷精一郎から剣を学び、後に男谷精一郎の高弟であった島田虎之介から直心影流を学んでいる。また、島田虎之介から剣だけではなく禅の学びも勧められ、島田虎之介をいたく尊敬していた。

 島田虎之介(18141852年)は、幕末の三剣士の一人といわれるほどの人物で、儒教や禅も好み、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉を残すほどで、この言葉は本書でも取り入れられている。彼は、豊前中津藩士の子として生まれ、九州一円を武者修行した後、江戸を目指すが、下関で造り酒屋の家に寄食するうちにその娘と相愛になって娘「菊」をもうけた。そして、江戸に出て男谷信友(精一郎)の内弟子となったのである。天与の才があり、見る間に頭角を現し、師範代となり、東北武者修行の後に浅草新堀に道場を開いた。

 勝海舟は、従兄弟である男谷信友(精一郎)の推挙もあってこの島田虎之介に弟子入りしたのである。勝家と男谷家の関係、また、兄の麟太郎(勝海舟)が弟子入りしたこともあって、当然、妹である「お順」も島田虎之介をよく知り、その人柄にも接していた。島田虎之介は39歳の若さで病没したが、「お順」と島田虎之介がどのような関わりを持っていたかの詳細はよくわからない。

 しかし、本書では「お順」が島田虎之介に惚れ、自分の気持ちにまっすぐに進む「お順」の気質からして、島田虎之介と婚儀をするところまでいったが、島田虎之介の病没でその恋が実らなかったとして、その顛末が描かれていく。「お順」が佐久間象山という自意識の強い変わり者の後妻となった理由を、その実らなかった恋の反動だと描いているのである。こうした視点は女性ならではの展開かもしれないとも思う。

 佐久間象山は、信濃松代藩士の長男として生まれ、長身大柄の男子で、20歳の時に藩主の真田幸貫の世子であった真田幸良の近習(教育係)として抜擢されるほどの秀才であったが、癇が強く傲岸で、自説を決して曲げない不遜なところがあり、周囲からはあまりよく思われない人物であった。しかし、天保4年(1833年)に江戸に出てきて(松代藩士として)、儒学、朱子学、詩学をさらに学び、「二傑」と称されるまでになり、天保10年(1839年)に私塾である「象山書院」を開いた。

 そして、天保13年(1842年)に松代藩主真田幸貫が老中兼任の海防掛に任じられたことから、洋学研究の担当者に抜擢され、象山は、近代的な沿岸防備を称え、西洋砲術を普及させていた江川英龍(江川太郎左衞門 18011855年)のもとで兵学、砲術などを学ぶ。ちなみに、この江川英龍は、領民から「世直し江川大明神」といわれるほど慕われた温厚な人物で、日本で初めてパンを焼いたり、「気をつけ、右向け右とか廻れ右」といった今でもよく使われる号令のかけ方を考案したりした人で、温厚で思慮深い人であった。鳥居耀蔵がこの江川英龍を憎々しく思っていたことはよく知られている。傲岸で不遜な佐久間象山はこの江川英龍からはあまりよく思われていなかったが、高島秋帆の砲術などの技術も取り入れ、大砲の鋳造などにも成功し、江戸市中で名を高めたのである。

 やがて、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せ、書物から学んだことはすべて公開し、教育にも熱心となり、当時の洋学の第一人者となったのである。佐久間象山という人は自信過剰なだけに私欲というものはなかった人だったのである。彼の門下生となった人物名を列挙するだけでも、吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、橋本左内、加藤弘之、坂本龍馬などの幕末を彩った蒼々たる人物がいるのである。

 「お順」が、この象山のもとに嫁いだとき、象山には「お菊」と「お蝶」という二人の妾がいて、「お菊」との間には格三郎(後に三浦啓之助)という子がいたが、「お菊」は幕府御典医の後妻となって出ていた。象山は自分の才能に自惚れていて、自らを「国家の財産」と言い、自分の血を残すことが社会のためになると信じて、弟子の坂本龍馬に「おれの子をたくさん産めるような大きな尻の女を紹介して欲しい」などと言っていたらしい。

 こんな象山のもとに嫁にやることに父親の勝小吉も兄の勝海舟も反対したが、「お順」は、普通の女にはできないこととして、敢えて、象山との結婚生活に入るのである。「お順」は切れ長の目をもつ美貌で、わざわざ象山のような男の嫁にならなくても良かったのだが、象山42歳、「お順」17歳の25歳も歳の離れた結婚であった。この辺りの「お順」の心を本書は丁寧に綴っている。

 だが、結婚して一年余の時、黒船騒動が起こり(1853年)、1854年にペリーが再来航したときに、門下生であった吉田松陰が密航を企てて失敗し、師である佐久間象山が吉田松陰の密航を幇助したということで捕らえられ、伝馬町の牢に投獄される出来事が起こる。そして、半年後に出獄をゆるされるが、その後9年間、1862年(文久2年)まで、松代で蟄居を命じられ、「お順」は、姑、妾の「お蝶」と格三郎と共に松代へ移り、そこで暮らすのである。

 この時代は社会が激動していた時代で、夫である佐久間象山の人生も変転していくのだから、それをたどるだけでも相当な分量となるし、父親の勝小吉、兄の勝海舟、そして象山の門下生であった吉田松陰や坂本龍馬など、それぞれがずば抜けて個性豊かな人物たちなのであるから、それを描き出すだけでも相当なものである。しかし、この辺りの顛末は「お順」というひとりの女性の目を通しての姿として実によく描けていると改めて感嘆した。続きや本書の優れた観点などについては、次回に書くことにする。

2012年4月9日月曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 佃島渡し船殺人事件』


 二~三日寒い日が続いたが、ようやく春、という感じである。若い頃は晩愁の凛とした空気が好きだったが、この頃は春ののどかさと温さが何ともいえず良いと思っている。そういう気分の中で、風野真知雄『耳袋秘帖 佃島渡し船殺人事件』(2011年 文春文庫)を気楽に読んだ。

 これは、先に読んだ『耳袋秘帖 赤鬼奉行根岸肥前守』の前に位置づけられている作品であるが、物語の展開からすれば、根岸肥前守の直属の部下となった南町奉行所同心の栗田次郎左衛門が奥女中をしていた雪乃と結婚し、本作ではその雪乃が懐妊しているから、ずいぶん後のことになる。

 本作で記されている事件は、佃島の渡し船に屋形船が衝突し、そこで上がった遺体が水死ではなく刺殺されていたことから、その死の真相を探っていくというもので、御船手奉行である向井将監の下で働く御船手同心が絡んだ事件であったことが明白になっていくのである。

 その際、佃島漁師が、かつて徳川家康が江戸の海防として設けた特殊な任務を与えられていたことと海防を一手に引き受けていた御船手奉行所との歴代に渡る確執が背景として取り上げられるなどして、物語に深みを添えている。その佃島漁師が彼らに伝わる特殊な忍びの業を用いて大泥棒を働いていたことや、欲に絡んだ仲間の裏切りと復讐、私欲にかられた御船手同心の姿、若く御船手同心となっただらしのない武士たちの成長などが描かれ、ひとつの円熟した作品になっている。

 佃島の漁師たちを江戸海防のために家康が設置した「忍び」とすることなどは、面白い設定だと思うし、そのあたりがもう少し展開されても良いような気もするが、本作は根岸肥前守の姿を描き出すもので、それはまた別の主題の作品となるだろう。

 もちろん、その間に『耳嚢(袋)』から採られている「清正公のふんどし」と称する見せ物の話や、「売り出されていた万能胃腸薬の話」、「鬼火の話」や、「食が大事といって食べ過ぎて早死にした男の話」などが盛り込まれているし、部下である栗田次郎左衛門が初めて子どもの父親となっていくことの不安などもあり、作者が描く根岸肥前守の、鷹揚で懐が深く、清濁を併せ呑みながらも情に厚い姿も余すところなく描かれている。

 主人公の根岸肥前守をこういう人物として描き出し、それを欲に絡んだ人間たちの尖った精神と対比させて明瞭に浮き彫りにするところが、本書の魅力だろうと改めて思ったりする。読みやすさということがよく考えられた文章も馴染みのものになっているから、生活感もあり、娯楽時代小説として肩肘張らずに読める作品である。

2012年4月6日金曜日

牧南恭子『旗本四つ葉姉妹 七夕の使者』


 昨日に続いて、今日も春の陽射しが差し込む日になっている。ただ、昨日よりも気温は低い。しかし、ようやく「春」という感じがするこの頃で、桜(ソメイヨシノ)も5分ほど開いている。今日は聖金曜日で、人間というものを少しじっくり考えたりしていた。

 牧南恭子『旗本四つ葉姉妹 七夕の使者』(2010年 学研M文庫)を比較的面白く読んでいたので記しておくことにする。以前、このシリーズの一作目である『旗本四つ葉姉妹』(2009年 学研M文庫)を読んで、文章の柔らかさやそれぞれ個性的な四人の姉妹の設定、物語の展開など、なかなかいいと思っていたが、本書は、それに加えてさらに桜田門外の変という大きな事件を背景とする激動し始めた政局が背景となって、さらに味わい深いものになっていた。

 貧乏旗本の花岡家には、きっちりした性格を持つ長女の一枝、家計を心配しながらも好奇心旺盛で町娘に姿を変えて探索をしたりする次女の双葉、おしゃれと自分の美貌を保つことにしか関心がない三女の三樹、学問好きで知識も豊富な四女の花代の四姉妹があり、長女の一枝は奉行所与力の家に嫁ぎ、両親は夫婦ともどこか一本ねじが脱けたような性格で、家を取り仕切るのは次女の双葉であるが、好奇心旺盛なこの娘の姿を中心にして物語が展開される。

 一作目の『旗本四つ葉姉妹』では、家の窮状を救うために大身の旗本家からの婚儀の申し入れを受けた双葉が、どうしても想いを寄せている奉行所定町廻り同心の北方章三郎への想いを立ち切ることができずに、婚家に向かう途中で逃げ出してしまうところで終わっていたが、本作では、その婚儀の申し入れをしたのが御船手奉行の向井将監(向井家は代々に渡って御船手奉行で、この名を名乗っていた)で、双葉の代わりに三女の三樹が嫁いだことになっている。この辺りの事情は二作目の『旗本四つ葉姉妹 恋つぼみ』で展開されているのだろう。

 さて、本書では、主として二つの事柄が交差して展開される。ひとつは、ふとしたことで知り合った水戸藩浪人となっている男が、実は、大老井伊直弼を桜田門外の変で暗殺した武士で、その暗殺の後、彼は捕らえられ三田藩預かりとなるのである。北方章三郎への想いがあっても、なかなかそれがうまくいかない双葉は、ふと、その男のもっている熱気のようなものに触れて、その男への想いを揺らしたりしながら、その男の死を看取っていくというものである。

 もう一つは、御船手奉行である向井将監に嫁いだ三女の三樹が三田藩家老の息子と浮気をして子どもまで作ってしまうという事件である。向井将監はすべてを承知の上で、生まれる子どもを自分の子どもとすることを決心するが、相手の男の処分を求め、三田藩家老の息子は、預けられていた水戸浪人の死を看取った後で自決する。ここには旗本家の世継ぎ問題が色濃く描かれている。

 これらの事柄の対応を双葉は求められるのである。また、市中で起こった殺人事件の探索を北方章三郎が行い、それを手助けしていたが、その事件が、実は尊王攘夷派へ資金の提供をしていた者への公儀御庭番が起こした事件であったことから、上役から突然に探索中止を命じられ、義を貫こうとする北方章三郎が悩んでいくということが絡み、双葉もまた章三郎との意思の疎通がうまくいかないことに悩んでいくのである。

 こうした事柄が、丁寧に描かれて、味わいのあるものになっている。三女の三樹は、浮気相手が自決したのだが、おそらく、これからも何事もなかったかのように生きていくだろう。そのあたりの女の怖さもあるし、自分の気持ちに正直であろうとする双葉も、一時は想いを揺らしたが、改めて北方章三郎に自分がいかに惚れているかを感じ、その道を進んでいくだろう。四女の花代も、男装して昌平坂学問所に通い、それが発覚していくが、新しい学問の道を進んでいくだろう。

 時代が急を告げ、今後も時代の中で翻弄されていくことになるだろうが、そうした背景がしっかり盛り込まれているので「女の生き方」をそれぞれの姉妹が見せていく展開は、文章と表現が軟らかいだけに味わい深いものになっている。こういう展開は、やはり女性にしか書けない女心のひだのようなものがあっるが、それがあっさり書いてあるところもいいと思っている。幕末の混迷した武家の姿も丁寧に描かれる。この作者の作品は、まだ三作しか読んでいないが、力のある作家だと思っている。

2012年4月4日水曜日

中村彰彦『いつの日か還る』


 昨日のすさまじいほどの暴風雨から一転して、嘘のように春の蒼空が広がっている。風はまだ強く、雲の流れも速いが、春の陽射しが柔らかい。自然に翻弄される小さな生き物である人間にとってこれは嬉しいことだと思ったりする。

 以前、天保のころの名奉行と言われた矢部定謙を描いた中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読んで、しっかりした歴史考証の上で矢部定謙の人物を巧みに描いてあることに目を見張る思いがしたので、幕末のころの新撰組の隊士であった島田魁(嶋田ともいうし、名の読みも「かい」といったり「さきがけ」といったりする 18281900年)の姿を描いた『いつの日か還る』(2000年 実業之日本社)を、これも面白く読んだ。

 582ページに及ぶ長編で、島田魁が盟友となる永倉新八と出会い、新撰組に加入するところから明治33年(1900年)に死亡するまでの姿が描かれると同時に、新撰組の詳細な記述が、一人の隊士の目から見たものとして描かれ、特に、永倉新八とのつきあいから時代に流されるようにして新撰組隊士となり、180㎝以上ある力士のような大柄な体格にも関わらず、俊敏であると同時に細やかな情をもつ人間として描き出されていくのが圧巻である。

 本書の参考文献には挙げてないが、島田魁は「島田魁日記」を初めとするいくつかの記録を残しているので、著者はおそらくそれらにもあたりながら、新撰組の結成当時から鳥羽伏見の闘い、近藤勇と土方歳三などの死に至る姿、そして、維新後に京都の西本願寺の夜警をしていくまでの彼の生涯を詳細に考慮したのではないかと思われる。

 新撰組の顛末については、ここで記しても仕方がないが、島田魁が鳥羽伏見の闘いに行く直前に恋女房に「いつの日か、かならず還る」と伝えたことや、やむを得ずに手にかけてしまった人間の霊を慰めるために南部鉄の鉄瓶に記された「南無妙法蓮華経」の文字を慈しみながら贖罪の晩年を送った姿などが胸を打つ。

 時代の奔流に流されながらも、その中で自らのあり方を求めつつ、ひとりの武芸者として、あるいは人間として生きていく姿が描かれているのである。内部で争ってしまうようになってしまう新撰組、無策の幕府の姿などが、ひとりの人間としての島田魁と対比されるようにして描かれるのが、何とも味わい深い。

 それにしても、こういう書物を読むと、やはり江戸幕府は倒れるべくして倒れたという思いをもつ。最後の将軍であった徳川慶喜が大阪城から夜逃げしたことは、どういう理屈をつけても言い逃れできない愚行であったと思う。その下で働き、死んでいった者たちの無念は計り知れない。幕末から明治にかけてのころの薩摩藩に対しても、わたしは疑念をもっているが、明治がもう少しまともに始まっていたら、今の日本とは違った姿になっていたのに、とほぞをかむ気がしないでもない。

 作者は、歴史の中心的人物ではなく、歴史に巻き込まれながらも騒ぎ立てずに静かに、しかし毅然と生きた人間の姿を描きたいという意味のことを語られているが、本書も、そういう書物で、そして頗る面白い。長編歴史小説の本領がいかんなく発揮されている作品だと思う。