二~三日寒い日が続いたが、ようやく春、という感じである。若い頃は晩愁の凛とした空気が好きだったが、この頃は春ののどかさと温さが何ともいえず良いと思っている。そういう気分の中で、風野真知雄『耳袋秘帖 佃島渡し船殺人事件』(2011年 文春文庫)を気楽に読んだ。
これは、先に読んだ『耳袋秘帖 赤鬼奉行根岸肥前守』の前に位置づけられている作品であるが、物語の展開からすれば、根岸肥前守の直属の部下となった南町奉行所同心の栗田次郎左衛門が奥女中をしていた雪乃と結婚し、本作ではその雪乃が懐妊しているから、ずいぶん後のことになる。
本作で記されている事件は、佃島の渡し船に屋形船が衝突し、そこで上がった遺体が水死ではなく刺殺されていたことから、その死の真相を探っていくというもので、御船手奉行である向井将監の下で働く御船手同心が絡んだ事件であったことが明白になっていくのである。
その際、佃島漁師が、かつて徳川家康が江戸の海防として設けた特殊な任務を与えられていたことと海防を一手に引き受けていた御船手奉行所との歴代に渡る確執が背景として取り上げられるなどして、物語に深みを添えている。その佃島漁師が彼らに伝わる特殊な忍びの業を用いて大泥棒を働いていたことや、欲に絡んだ仲間の裏切りと復讐、私欲にかられた御船手同心の姿、若く御船手同心となっただらしのない武士たちの成長などが描かれ、ひとつの円熟した作品になっている。
佃島の漁師たちを江戸海防のために家康が設置した「忍び」とすることなどは、面白い設定だと思うし、そのあたりがもう少し展開されても良いような気もするが、本作は根岸肥前守の姿を描き出すもので、それはまた別の主題の作品となるだろう。
もちろん、その間に『耳嚢(袋)』から採られている「清正公のふんどし」と称する見せ物の話や、「売り出されていた万能胃腸薬の話」、「鬼火の話」や、「食が大事といって食べ過ぎて早死にした男の話」などが盛り込まれているし、部下である栗田次郎左衛門が初めて子どもの父親となっていくことの不安などもあり、作者が描く根岸肥前守の、鷹揚で懐が深く、清濁を併せ呑みながらも情に厚い姿も余すところなく描かれている。
主人公の根岸肥前守をこういう人物として描き出し、それを欲に絡んだ人間たちの尖った精神と対比させて明瞭に浮き彫りにするところが、本書の魅力だろうと改めて思ったりする。読みやすさということがよく考えられた文章も馴染みのものになっているから、生活感もあり、娯楽時代小説として肩肘張らずに読める作品である。
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