昨夕からしのつく雨が降り続いている。気温が上がらずに今日もすっきりしないのだが、ふと、良寛の「謄々(とうとう)として天真に任す」という言葉を思い起こし、良寛の書を集めた本をぱらぱらとめくり、能筆家でもあった良寛が墨を擦り、紙を広げて、一文字を書き下ろす様を思い浮かべたりした。今日はそんなふうにして一日が始まったわけである。
それはともかく、隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2010年 新潮社)で、先の上巻に続く中巻であるが、中巻は慶長14年(1609年)の出来事から始まる。この年、忠輝十七歳で、信濃川中島12万石の藩主であったが、藩の実質的な運営をしていたのは、花井三九郎(吉成 生年不詳-1613年)、山田正世、松平清直、松平信直の四人の城代家老で、花井吉成を除く三人は、いずれも長沢松平家のゆかりの者たちだった。このうちの最長老であった山田正世が花井吉成を失脚させて藩政を牛耳ろうと松平忠輝の養父であった皆川広照を抱き込んで、いわいるお家騒動を起こすのである。
皆川広照を抱き込んだのは、藩主の松平忠輝が粗暴に育った(本書では傀儡子-くぐつ-と交わるようになったとされる)のは花井吉成の仕業であると証言させるためである。花井吉成は忠輝の後見人であり、大久保長安とも関係が深かった。山田正世は、初め、これを幕府年寄(老中)の土井利勝に訴えるが、相手にされず、遂に大御所であった徳川家康に訴え出るのである。
本書では、このくだりが、大久保長安の優秀な手代として働きながら松平忠輝の人柄に惚れ込んでいる雨宮次郎右衛門という人物を登場させて、彼がその手下の忍びである才兵衛を使い事柄が松平忠輝に及ばないように仕組んでいったこととして描かれていく。
花井吉成は優秀な人物で、家康の前で、山田正世の訴えをことごとく論破し、家康は、花井吉成はお咎めなし、山田正世とその子も連座で切腹、山田正世側の江戸家老であった松平親宗は改易、皆川広照も改易、松平清直も改易の処断をしている。松平信直だけがこの件とは無関係だった。家康は、生まれたときはそのあまりの怪異さに忠輝を嫌っていたと言われるが、この頃からの家康は忠輝を庇護するような行動をしている。家康の評価は様々だが、非常に優れた人間だったことに変わりはなく、優れた人間は優れた人間を理解できるし、また優れた人間の理解は優れた人間にしかできないのである。
こうしたお家騒動の後の慶長15年(1610年)、徳川家康は松平忠輝を川中島藩と合わせて越後福嶋六十万石(この石高には諸説がある)を忠輝に与えた。この間、松平忠輝は、キリシタンの宣教師や修道士たちとも交わりを深め、ラテン語を学び、医療修道士として江戸に来ていたフランシスコ会の医師であるペドロ・デ・プルギューリョスのもとで医学を学んでいる。彼は大名の身分であったが、浅草で実際に医療活動も行っていたのである。スペイン語もポルトガル語も習得したと言われている。宣教師たちにとって、家康の六男であり、大名である松平忠輝がキリスト教への理解を示すことで、豊臣秀吉が禁止して以来ずっと困難を極めていた日本宣教に望みを託していたと思われる。この辺りは、実によく歴史的検証がされた背景となっているのである。
こういう知的教養と身のこなしを身につけるようになった松平忠輝に家康は瞠目し、加賀の前田家、米沢の上杉家の押さえとして福島に松平忠輝を置いたのである。大阪にはまだ豊臣秀頼がおり、大阪の力は強く、これらの外様大名たちと戦をするわけにはいかなかったのである。福島は、上杉景勝が豊臣秀吉の命によって会津に移封された後に秀吉の寵臣であった堀秀治が治めて、名家老と言われた堀直政の助けで北陸の雄となっていたが、秀治の後を継いだ忠俊の時に、同じように家老の後を継いだ堀直次と異母弟の堀直寄との間に争いが起こり、これを機に越後福嶋藩は取り上げられて松平忠輝の所領となったのである。
この時、花井吉成は家老として、北陸道を整備し、商工業を発展させ、福嶋城(現:直江津)に代わって高田城(現:上越市)の築城に働き、加えて、全国天領の総代官(後の勘定奉行)であり、年寄(後の老中)でもあった大久保長安が松平忠輝の補佐役であった。大久保長安の財力と権勢は相当なものになっていたのである。ちなみに、高田城の築城は、義父である伊達政宗が総指揮を執り、慶長19年(1614年)であった。
そして、本書では、ここで大久保長安を良く思っていなかった二代目将軍徳川秀忠とその意を受けた柳生宗矩が大久保長安を失脚させようと暗躍し、大久保長安は大久保長安で権力を掌握しようと策謀を練り、松平忠輝が、秀忠と大久保長安の間で微妙な立場に置かれていくことを語る。だが、忠輝は、そんなことを歯牙にもかけないで、自らの道を歩み続ける人間になっていくのである。
複雑に入り組んだ歴史と状況が展開されるのは、たとえどのような重層的な状況が張り巡らされようと、松平忠輝が、ひとりの人間として、文武を究め、愛情をもって颯爽と生き抜く姿勢をもっていたことを示すものである。隆慶一郎の主人公たちは、とにもかくにも、颯爽と生き方を貫く男たちである。
事柄は、秘かに天下を掌握しようとする大久保長安と二代目将軍徳川秀忠およびその意を受けて自らの地位を確保しようとする柳生宗矩の争いであり、柳生宗矩は密偵や柳生の刺客たちを放ち、その刺客たちと松平忠輝を何とか守りたいと願っている雨宮次郎右衛門と才兵衛との闘いが展開されるし、江戸初期のキリシタン宣教師たちの事情がそこに絡んでくる。
作者は、大久保長安が70万人もいたと言われるキリシタンを使って、天下を掌握しようと企てていたという設定をして物語を進める。大久保長安が新しく松平忠輝の所領となった福嶋高田藩にキリシタン牢人たちや職人たちを家臣として新しく集め、これを一大勢力としようと企てていったと語るのである。
この設定にも無理はない。大久保長安は新しい鉱山技術などをもって金山や銀山の開発を推し進め、それによって莫大な財を築いていったのだが、この新しい鉱山技術を大久保長安がキリシタン宣教師から習得したというのである。大久保長安がキリシタンであったかどうかの確証はどこにもないが、彼がキリシタン宣教師と何らかの関係を持っていたのは事実であるだろう。
また、豊臣秀吉のバテレン追放令によって改宗していったキリシタン大名は数知れず、かつてはその大名のもとでキリシタンとなった家臣や領民たちも大名の廃絶によって牢人していたのは事実である。徳川家康は、はじめ、西欧諸国との貿易に熱心で、秀吉が出したキリシタン禁令をゆるめ、宣教師たちの活動を黙認していた。やがて伊達政宗もイスパニア(スペイン)とローマに支倉常長(1571-1622年)などを派遣するくらいであった(慶長遣欧使節団-1612年-慶長17年)し、本書では、松平忠輝の正室となった五六八姫もキリシタンであったとしている。
この伊達政宗の遣欧使節団については、支倉常長の人物像と共に本書の後半で出てくるが、ちなみにこの支倉常長の洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコといい、フランシスコ会によって洗礼を授けられたもので、ローマで教皇パウルス5世に謁見し、貴族としての待遇を受けていたが、彼が帰国したときは既に江戸幕府はキリシタン禁教令を強め、伊達政宗が望んだ通商を果たすことはできなかった。一説では、伊達政宗はそれによって徳川幕府の転覆を謀ったとも言われるが、そのことも本書で松平忠輝と関連して語られていく。
ともあれ、物語は、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の謁見へと進んで行く。本書では、徳川家康は最後までなんとか豊臣方との和平を進めていこうとし、むしろ二代目将軍徳川秀忠が権力掌握のために豊臣家の滅亡を謀ったとされている。徳川家康の腹の内は分からないが、この時点では家康は確かに豊臣方との和平の手段を講じていたのである。これをぶちこわしたのは、むしろ秀頼を溺愛しすぎていた淀君であった。この時、秀頼十九歳であったが、淀は典型的な子離れしない母親であったのである。豊臣家は、この淀と自己保身ばかり図る無能な家臣団によって自ら滅びの道を進んだとも言えるのである。
徳川家康は、この会見に豊臣家恩顧の大名であった加藤清正と浅野幸長を仲介役に選んで豊臣家の説得に当たらせたが、淀君が猛反対したことはよく知られている事実である。本書では、状況を知らずにいる豊臣秀頼に、慶長10年(1605年)に出会って秀頼が敬服している松平忠輝が大阪城に忍び込んで秀頼のために説得したと展開され、その際、大阪城の天井裏に偲んでいた真田幸村の意を受けていた猿飛佐助と出会ったと話が膨らませてあるし、秀頼が家康と二条城で謁見した後に、忠輝と共に向け出して京都市中を遊びに出る約束をし、それが実行されたという展開になっている。
二条城での秀頼と家康の謁見は成功裏に終わる。秀頼は以丈夫の立派な若者に成長し、家康はその秀頼のものおじしない堂々として姿に瞠目したと言われているが、本書は、そこに松平忠輝の姿が大きく働いていたと語る。そして、かねての約束通り、忠輝は秀頼を連れ出して、京都市中に遊びに出て、傀儡子(くぐつ)たちとこだわりもなく交わる忠輝の自由闊達な姿に触れて、秀頼が大いに喜んだと展開されていく。通説では、家康は秀頼のあまりの立派さにこれを放っておけないとこの時に決断したともされている。
ともあれ、ここで猿飛佐助を出したり、何ものにもとらわれずに自由闊達に、しかも颯爽とする忠輝の姿を描いたり、傀儡子(くぐつ)たちとの親密な交わりと深い信頼を描き出すのは、語り部としての作者の力量である。しかもここで、柳生宗矩が放つ柳生の者や二代将軍徳川秀忠におもねって家康との謁見を阻止しようとする藤堂高虎が放った手の者との暗闘を盛り込んだりしている。忠輝は藤堂高虎が放った刺客たちを一瞬にして退けたりするのである。
しかも、この後、忠輝が二条城へ赴いて父の家康に会う場面が描かれ、家康が「お前は将軍になるのはいやなんだろうな」と尋ねたことに対して、忠輝が「いやですね」とはっきり答える場面が描かれたりする。忠輝は「ただの人が一番いい」と答えるのである(188ページ)。「越後七十五万石の大大名でありながら、浅草のフランシスコ会の療養所で、貧民たちの診療に携わっていた男など、日本史の中にもほとんどいない筈だ。しかも来たいと思えば、こうして単身ひょっこりと京に現れたりする。大大名のすることではなかった。正に只の人の気楽さであり、身軽さだった。家康の息子たちの中でそんな破天荒なことのできる者は一人もいない」(188-189ページ)と、その自由闊達ぶりを描くのである。
他方、天下の覇権を望んだ大久保長安は、この頃から自分の年齢のこともあって焦り初め、様々な画策を展開していく。大久保長安はこの2年後の1613年(慶長18年)に卒中によって死去するが、1614年(慶長19年)には大阪冬の陣が起こっており、このころの政情は激変していくのである。そうした事柄を踏まえて、大久保長安の策謀が織りなされていく様子が次に展開されていくが、その後のことは次回に記す。そうした策謀の中でも、松平忠輝はまっすぐに自分の信じるところを怖じることなく歩いて行く人間として描き出されていくのである。
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