2012年4月27日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(1)


 昨日から小糠雨が降り続いている。今、窓の外を小さな女の子が水色の雨具を着て、お母さんに手を引かれて歩いて行った。黄色の長靴の足の運びをお母さんの歩幅に合わせて大股で歩いて行く。昔、「こんな雨の降る日には、傘もささずに歩くがいい。心を込めて歩くがいい」と書き記した言葉を、ふと、思い出した。

 それはさておき、隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2010年 新潮社)は、慶長18年(1613年)の遣欧使節団の顛末から始まる。物語では、優れた能力を持つ松平忠輝を守るために、彼を亡命させるため、伊達政宗と宣教師のソテーロ、忠輝を信奉する者たちがこの使節団を謀ったとされていく。前年に幕府直轄地でのキリシタン禁制が出され、この年にはそれが全国に広がっていたのだから、この時期に遣欧使節団が派遣されることには相当の理由がなければならず、伊達政宗がなぜこの時期にこうした行動を取ったのかは歴史的に面白いところである。

 この遣欧使節団の派遣に際しての実際の船の建造や経過は、実に詳細に調べてあり、そこに忠輝亡命の話を絡ませて物語が展開していく。

 また、この年、権勢を誇った大久保長安の死去に伴い、いわゆる大久保長安事件が起こる。事柄は長安の葬儀に関して、遺言によって金無垢の棺を使いたいと長安の息子が願い出て、それでなくともそのあまりの贅沢ぶりとおごりで「天下一の奢り者」と言われていた長安に対してあまりよく思っていなかった家康は、これを禁止し、金無垢の棺を壊したところ、そこに長安がしたためていた謀反計画書が出てきたという展開になっている。

 歴史的にはそのあたりは不詳であるが、長安の死後に、その遺体を掘り起こしてまで処罰し、長安と関わりがあった者たちを厳しく断罪し、果ては、幕閣の中心でもあり二代将軍秀忠の側近でもあった大久保忠隣まで、そのとばっちりで突如に改易させられるということを考えれば、その理由が単に「奢って私腹を肥やし、幕府の金を使い込んだ」というだけではすまないものがあっただろうと思われる。本書は、それを長安が松平忠輝を頭にして70万人のキリシタンを動員する謀反計画をもっていたと展開するのである。大久保長安がなんらかの権力掌握を謀っていたことは事実である。そして、大久保忠隣の突然の改易は、大久保長安事件に関連して松平忠輝をなき者にしようと謀った徳川秀忠への家康の手痛いしっぺ返しであったというのである。

 こうした状況の切迫もあって、忠輝のイスパニアへの亡命計画が急がれ、忠輝も自由の地を求めて五六八姫と竹を連れてイスパニアにいくつもりであったが、自分の亡命によって秀忠が越後福嶋藩(高田藩)を取り潰し、家臣団は路頭に迷い、まして集まったキリシタンたちは苦難の道を歩まねばならないことに思い至って、イスパニア行きを取り止めるのである。作者が描く松平忠輝は、単に及びもつかない人並みはずれた能力を持つ者だけではなく、他者を心底思いやることができる人間である。遣欧使節団は忠輝なしに出航する。

 他方、キリシタンに対する弾圧は全国に広まり熾烈を極めていく。その理由を作者は次のように語る。「これ(全国でのキリシタン弾圧)に先だつ有馬領の弾圧があまりに凄まじかったためでもある。凄まじい弾圧が起こったということは、凄まじい抵抗があったからということにある。抵抗といっても後年の島原に見られる武装蜂起ではなく、徹底した無抵抗の抵抗だった。どれほど過酷な拷問にあっても『ころぶ』ことなく、どれほど残虐な処刑をしても、平然と神の御名を讃えて死んでゆくのである。
 大名たちにとって、こんなやり切れないことはなかった。領民が目に見えぬ神のために現世の主君を棄てて死んでいくのである。凄まじいまでの忠節心だが、主君に向けられぬ忠節心は国を亡ぼすもとであろう。・・・早急に皆殺しにして、芽を完全に摘んでしまわなければならない」(100ページ)

 この見解は、妥当だろう。初期のキリスト教のローマ帝国による弾圧の最たる理由は、皇帝礼拝に対する不服従であったし、第二次世界大戦下でのキリスト者の投獄は天皇よりもキリスト教の神を優先させるということにあったからである。弾圧の大義名分はいつも政治的である。

 こうした中で、キリシタン大名として信頼の篤かった高山右近は、それまで加賀前田家の預かりであったが、慶長19年(1614年)内藤如安らと共に家康によってマニラに国外追放されている。高山右近が追放になったのは、諸大名からも信頼の篤かった高山右近を殺すと大騒動が起こることを家康が危惧したためではないかと思われる。かくして、キリシタン武士たちは大阪城内へと集結していくのである。

 そして、武士が集まれば戦端が切り開かれる危険も増す。「いくさ人」である家康は、このことを察知して大阪の豊臣側との争いが起こるかもしれないことを予測して戦闘の準備を始めていくのである。家康は可能なら大阪との和平のままに秀頼が軍門に降ることを望んでいたが、他方では戦争は避けられないかも知れないとも思っていたと作者は言う。

 この時期、大阪方は愚かな失敗を繰り返す。秀頼が能登の前田利長に黄金千枚を与えるから軍備を整えるように促す書簡を送っていたことが発覚するのである。これは秀頼の意というよりも豊臣家の重臣で、淀の意のままに動いていた大野修理亮治長が出したものである。これを聞いて家康はたかが黄金千枚で徳川に対抗する軍備を整えようとする大野修理亮治長のけちくささを笑ったという。だが、これによて家康は、城を棄てるか戦うかの決着をさせる腹を固めたと言われている。

 また、淀は、秀吉が作って地震で壊れた京都東山方広寺の大仏建造を家康の勧めのままに行い、軍用金として蓄えられていた金に手をつけた。時価でも100億円を遙かに越す金で、これによって大阪城の金蔵は逼迫を来していくと見られた。そして、大仏開眼にあわせて秀吉供養を派手に大々的に行おうとしたのである。今から考えれば、豊臣家の滅亡は彼ら自身の愚かさが招いたことではある。

 そして、その大仏殿のために新しく作られた鐘に刻まれた言葉「右僕射源朝臣 君臣豊楽 子孫殷昌 国家安康」に言いがかりをつけ、大阪方に、秀頼が大阪城を出るか、他の諸大名と同じように徳川側に参勤するか、淀を人質として出すか、の三つのうちの一つを取るように迫ったのである。

 この言葉の言いがかりを進言したのは、徳川秀忠の側近として重んじられていた金地院崇伝と林羅山である。作者は、こうした言いがかりは家家康の本意ではなく、権力掌握を望む徳川秀忠ではないかと語る。秀忠にはずる賢いところがあったのである。しかし、たとえそうであったとしても、その後の展開を見れば、家康もこれを承知していただろうと思う。林羅山は優れた学者ではあったが、どうも権力におもねる学者であったような印象をぬぐえない。金地院崇伝も林羅山も、学者としての誠実さを捨てたのである。

豊臣側は踊らされていく。交渉に当たった片桐且元を家康の手先ではないかと疑い、主戦派の大野修理亮治長らは片桐且元を暗殺しようとさえするのである。正式な交渉人であった且元を暗殺するということは徳川方と戦争をするということに繋がるのだが、そこに思いも至らないのである。

 且元は武人である。さすがにこの暗殺計画を知り、愛想を尽かして大阪城から出て行く。織田有楽斎(常真)を初めとして有能な武士たちも、こうした内紛に嫌気がさして大阪城を出てしまうのである。大阪方は片桐且元が言い渡された高野山での蟄居ではなく、弟の居城であった摂津の茨城城にはいったことを怒り、多数の軍勢を出して茨城城を攻めようとするのである。これが戦端となって大阪冬の陣が始まるのである。内部で争って家が立ちゆくはずがない。愚行、ここに極まれり、の感がある。だいたい、滅亡は内紛によって起こる。

 この冬の陣の時、松平忠輝は江戸城の留守を任される。秀忠は忠輝を禁足させるのである。忠輝が伊達家を初めとする外様大大名やキリシタン武士たちと共に秀頼と千姫の救出に動いたら徳川幕府はひとたまりもないことを恐れたと、作者は語る。そして、この江戸城留守の時に、秀忠は、柳生宗矩の配下に命じて忠輝暗殺を企て、人並みはずれた身体能力と剣の腕をもつ忠輝によって失敗したと展開する。この辺りはエンターテイメントの世界である。柳生宗矩配下の伊賀者たちは、忠輝暗殺に失敗するが、以後、執拗に忠輝の命を狙うことになる。

 徳川秀忠はこの大阪冬の陣で一気に豊臣家を亡ぼそうと焦るが、いかんせん彼は凡人である。大阪城で真田丸という出城を築いて知略を尽くす真田幸村によって翻弄されていくのである。真田幸村の武将としての優れた才は、このときにいかんなく発揮されれ、徳川軍をことごとく退けていく。思えば、徳川秀忠は関ヶ原の合戦の時に真田昌幸・幸村親子に翻弄され、また、冬の陣の時に幸村に翻弄されたのである。彼はとうてい真田幸村の敵となる器ではなかった。

 業を煮やした家康は、一方では大阪方との和平を進めながら、他方では大阪城に向けて大砲を打ちはなし、気位ばかり高かった淀を震え上がらせ、和平へと道を進めていく。かくして、和平会議が開かれて大阪冬の陣は終わるのである。大阪城が通常では難攻不落の城であることを家康はよく知っていたのである。

 問題はこの和平の中身で、大阪城は二重の堀をもつ四重構造で、一番外側の惣構には高い城壁と広くて深い堀があった。和平の中身は、この一番外側の惣構と三の丸の堀の破却を徳川側が行うというものであった。しかし、大阪方はこの時自ら進んで自分たちの手で二の丸と三の丸の堀を潰すことを申し出るのである。

自分たちの手で守りの要となる堀を埋めるという大阪方の提案は自分の首を自分で絞めるような提案だが、大阪方としてはその工事にいつ間でも取りかからないでいようという腹だっただろう。だが、こんな見え透いたことを家康が見逃すはずはない。真田幸村はこれを聞いてあきれたといわれているが、淀を中心にした大阪方の重臣たちはどこまでも甘いのである。

 二の丸と三の丸の堀は、あいついであっという間に徳川方によって埋められていく。難攻不落の大阪城はこれによって丸裸になる。本書では、これをしたのは家康ではなく秀忠と本多正純だったとしている。本多正純は父の本多正信と共に家康が最も信頼を寄せる者であったが、秀忠の器量を見抜いて、なんとか家康在命中に大阪との決着をつけようとしたと言うのである。本多正信と正純は秀忠を見限っていて、豊臣を亡ぼして後顧の憂いをなくし、家康が死んだら自分たちも死ぬ覚悟を決めていたと語るのである。かくして、徳川側の条約破りが行われた。家康は、この一連の出来事で汚名を着ることになるが、本多正信の決意を知ってそれを了承したと、作者は語るのである。

 物語は、この後、忠輝の命が柳生宗矩配下であった伊賀者たちから執拗に狙われるがこれを排撃し、大阪から駿府に帰っていた家康と会う場面へと向かう。江戸城留守を預かっていた松平忠輝が駿府の家康と会見したのは事実であるが、ここで、作者は、家康が「わしが死んだら、秀忠はお前を殺そうとするだろう。だが死ぬなよ。しつこく生き延びて、あいつを口惜しがらせてやれ」(199ページ)と忠輝に語り、「秀忠にとってお前はこの上なく恐ろしい生き物だ」(200ページ)と語ったとしている。

 この場面は、なかなか妙味のある場面で、家康と忠輝の親子の情と忠輝が長命であったことが合わさって、後の家康の死の場面と重なる上手い構成になっているのである。忠輝はこの後、高田に帰るが、翌年の春にすぐに再び戦火が切って落とされる。ここでもまた、大阪側は見通しの甘い手痛い失敗をしてしまうのである。そのくだりについては、次回に書き記していくことにする。

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