2012年6月6日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集17・18 花と火の帝 上下』(1)


 昨夜から降り続けていた雨がようやく上がったが、曇天の重い空が広がっている。久しぶりに朝寝をしてゆっくりと起きだしたが、かえって疲れを覚える気がするのは、身体が貧乏症になっているからだろうか、と思ったりする。山積みしている仕事を横目にゆっくりとタバコを噴かす。

 今、数日かけて隆慶一郎『隆慶一郎全集1718 花と火の帝 上下』(2010年 新潮社)を読んでいる。これは、これは1988年(昭和63年)から1889年(平成元年)の約一年半をかけて『日本経済新聞』の夕刊に連載されたもので、江戸時代の初期に最も光彩を放った後水尾天皇(15961680年)を描いたもので、「八瀬童子」という独特の「自由の民」を物語の中心に据えることによって、時の幕府である徳川将軍たちとの争いの中で、自由で風雅でさえある才気活発な、しかし忍従を強いられた後水尾天皇の姿を浮き彫りにしたものである。

 戦争経験を持つ隆慶一郎は、この作品で、日本の根としての天皇制の問題を真正面から取り上げようとしたことは明らかであるが、作者らしいスケールの大きさで凄みのあるエンターティメントとして仕上がっている。

 後水尾天皇は、その即位(1611年 慶長16年)の時から波乱の多い人生を歩んでいる。父親である後陽成天皇(15711617年)は、豊臣秀吉の意向で第一皇子であった良仁親王を皇位継承者にしていたが、武家の朝廷への介入を嫌い、秀吉が亡くなるとこれを廃して、弟である八条宮智仁親王に譲位を望んだ。しかし、徳川家康や朝廷の臣たちに反対され、第二皇子であった良仁親王も強引に仁和寺に出家させて、若年に過ぎなかった第三皇子の政仁親王を皇位継承者にしたのである。ここには、朝廷の力を抑えようとした徳川家康の強い思惑が働いていた。

 この第三皇子であった政仁親王が天皇に即位して後水尾天皇となったのである。こういういきさつのために父親である後陽成上皇は、息子の後水尾天皇に冷淡で、親子の間はずっと不仲であったと言われている。後陽成天皇という人は、戦国の世で自分の無力さをつくづく感じなけらばならなかったようである。武力的な力が支配した時代だった。

 江戸幕府は、後水尾天皇が即位して2年後に(1613年 慶長18年)、朝廷の権威を弱めるために「公家衆法度」、「勅許紫衣(ちょっきょしえ)法度」を制定し、続いて1615年(慶長20年)に「禁中並公家諸法度」を制定し、朝廷は幕府の京都所司代を通じての幕府の管轄下に置かれることになったのである。朝廷の運営は摂政と関白によって主宰される朝議での決定を武家伝奏(幕府と朝廷の連絡係)を通じて幕府の承諾を得ることが必要となったのである。

 これによって、元来治外法権的存在であった朝廷は法の下に置かれた。後水尾天皇はこの時期に苦慮を強いられ、加えて、徳川秀忠の娘であった和子を女御(側女)とすることを強いられ、また、徳川家光の乳母であった春日局(お福)を参内させなければならなくなるという数々の権威の失墜を強いられていくのである。英邁で才気活発であった後水尾天皇は、こうした幕府側の処置に抵抗していくのであり、やがてはこれが長い時間をかけての朝廷と江戸幕府の水面下での問題ともなっていく。

 後水尾天皇が、自ら「後水尾」とされたのは、「水尾」というのが平安前期の天皇であった清和天皇(850881年)のことを指し、清和天皇は後の武門の棟梁となっていく清和源氏の祖であり、徳川家が清和源氏を称していたので、自らは徳川家の上に立つ者であるという意志を表明されたのだと言われている。後水尾天皇は才気に溢れ、学問や華道などの風雅を好み、情熱にあふれた人物だったと言われるが、その情熱は女性にも向けられて、女性関係は派手で、30人以上の子どもをなし、56歳で出家したにも関わらず、58歳の時に後の霊元天皇を生ませている。85歳で没するという長命であった。

 こうした歴史背景をもとにして、本書は、まず、天皇家の駕與丁(がよちょう-天皇が乗る輿を担ぐ者で、身の回りの雑用も行なった)である「八瀬童子」を登場させて始まる。「八瀬の童子」については柳田国男なども触れているが、京都近郊の八瀬で独特な風習を持つ人々で、本書ではこれを本来的に「自由の民」である「鬼の子孫」とし、鬼のような恐ろしい顔と体格を持つ岩兵衛という人物と、厳しい訓練を朝鮮で積んできて卓越した武術や読心術などの才能を持つようになった息子の「岩介」という異能者を登場させるところから始まる。

 こうした人物の登場は作者がもっている抜群のエンターティメント性を発揮させるもので、「自由人」としての後水尾天皇と「自由人」としての八瀬童子である岩介を織り交ぜて、「天皇の権威」とは何かを底流にしながら歴史を展開していくのである。

 岩介は5歳の時に、「天狗」と呼ばれる不思議な老人に魅了され、彼の下で修行をし、朝鮮に渡って10年間の「鬼(異能の武術者)」の修行を積むのである。そして、帰国して、幼馴染であり、また一緒に修行を積んだ読心能力を持つ「とら」と契を結んで夫婦となる。彼が「とら」と夫婦になるくだりも実に面白く描かれ、夫婦の閨においても、岩介は自由な自然児である。時は、豊臣秀吉なきあとから徳川家康が天下掌握を行おうとする時代で、関ヶ原の合戦前である。この間、岩介は朝鮮での修行中であり、歴史の経過が詳細に語られていくが、やがて大阪冬の陣(1614年 慶長19年)が始まる前の慶長14年(1609年)、岩介が朝鮮から帰国するあたりから物語が本格化していく。後水尾天皇即位の直後である。

 岩介と後水尾天皇との出会いも、自由な意志をもつ者どうしの出会いとして描かれるが、岩介は「八瀬童子」の父親と同じように天皇家に仕える者となっていくが、特に、「天皇の隠密」として活躍を展開していくことになる。関ヶ原合戦後の緊張が高まる豊臣家と徳川家の間で、後水尾天皇は朝廷の権威のために豊臣家に接近し、豊臣秀頼を抱き込んで反徳川勢力を築き上げるために、岩介を大阪城に派遣する。

 だが、大阪城は淀君に支配された状態で、とても家康と対抗できるようなものではないことを見抜いた岩介は、その状況判断を天皇に伝える。その大阪城で、真田幸村の意を受けていた優れた忍者である猿飛佐助と出会う。猿飛佐助は、もちろん架空の人物であるが、人の良さそうな楽天的な性格で、ずんぐりした体型を持ち、とても優れた忍びには見えないが、猿飛と異名をとるほどの敏捷性に優れた忍びの者で、優れた者は優れた者を知るという出会いがここで起こるのである。「優れた者が優れた者を知る」というよりも、むしろ「優れた者しか優れた者がわからない」のであり、岩介と猿飛佐助は、お互いがお互いを認め合う関係となっていくのである。

 家康は、自分の年齢のこともあり、豊臣家との決着を急ぐ。この辺のことについても詳細に語られていくが、かくして大阪冬の陣が起こる。朝廷側は、その推移を見守るしかできなかった。この後の物語の展開については次回に記していく。

2012年6月4日月曜日

葉室麟『恋しぐれ』


 ときおり強く射す初夏の陽射しがまぶしく、日傘をさして人々が街路樹の道を歩いていくが、このごろの天候はひどく不安定である。台風3号が沖縄に接近したとの報も入っている。

 先日、同級生の作詞家の辻哲二氏が5月30日に演歌の新曲を日本コロンビアから出したとのことで訪ねてくれた。大石まどかという歌手で「うちわ」という曲だが、その中で「涼暮月(すずくれづき)」という美しい日本語が使われている。「涼暮月」とは旧暦の六月の別名だが、改めて、こんなに美しい日本語があったのだなあ、と思ったりした。辻哲二氏は、わたしに葉室麟の本を教えてくれた人である。

 その葉室麟の『恋しぐれ』(2011年 文藝春秋社)を、作者にしては珍しくスケールの大きさを感じさせないが、意欲的な文学的試みがなされている作品だと思いながら読んだ。これは江戸中期の享保から天明にかけて生き、俳人として、また画家として優れた作品を残した与謝蕪村(17161784年)の晩年の姿を中心にして、彼の周囲にいた人々の姿を描きながら「人の愛」を描いたものである。特に蕪村が残した優れた俳句を彼自身や彼の周囲の人たちの生活や人生と重ね合わせて描き出したもので、蕪村の句や俳画に作者の豊かな想像力と解釈が込められている。

 蕪村は、現在の大阪市都島区に生まれたが、20歳の時に江戸に出て、当時の著名な俳人であった早野巴人(後に夜半亭宋阿と称す)に師事し、27歳の時に(1742年 寛保2年)夜半亭宋阿が亡くなったことを機に、松尾芭蕉に憧れて東北を旅したり、栃木、茨木、丹後や讃岐を旅したりしながら詩作を続けた人である。そして、42歳の時に京都を永住の地と定め、このころから「与謝」を名乗るようになった。俳句を教えながら45歳の時に結婚し、一人娘の「くの」をもうけ、1770年、55歳の時に「夜半亭二世」をゆるされている。

 蕪村は、芭蕉や一茶と並んで、江戸時代の俳諧を代表する人物であると同時に、俳画の創始者でもあり、たとえば代表作となった「鳶鴉図」などは、厳しい岩肌の潅木に爪をしっかり立てて超然としている鳶や風雪の中で身を寄せ合っている二羽の鴉が描かれ、見るものを圧倒する。蕪村の句もなかなか味わい深いもので「春の海 終日のたりのたり哉」とか「菜の花や月は東に日は西に」などがどことない温かみを感じさせる気がする。句も画も写実的で、その写実の中に生きることの喜怒哀楽を埋め込んだ作風を持つという印象を、わたしはもっている。

 その点では、当代随一の絵師と言われた円山応挙(17331795年)と通じるものがあったのか、本書でも応挙との交流が描かれていたりする。蕪村と応挙は比較的近所に住んでいた。もちろん、蕪村と応挙では画風が異なっている。蕪村は無骨で応挙は繊細である。

 本書は、その蕪村が「夜半亭二世」を名乗ることを許されて以降の晩年の蕪村の姿を描いていくが、蕪村は、晩年、「小糸」という若い芸妓と深い恋をしていき、そのあたりも描き出されていくし、特に蕪村の弟子であり、円山応挙との交流などで独自の画風を確立していった松村月渓(17521811年)の姿を通して物語が構成されている。

 松村月渓は「呉春」という号の方が著名かもしれない。彼の画風は、やがて蕪村から離れて円山応挙に近づいていくが、生涯にわたって蕪村を慕い、蕪村の死も看取っていくし、蕪村の遺句集『新花摘』も自ら挿絵を描いて出版したり、蕪村の家族の世話をずっとし続けたりした人である。この月渓は島原の名妓と言われた「雛路」(本書では「おはる」)を身請けして妻としたが、里帰りの途中の海難事故で妻を失っている。本書でも、その月渓の恋と彼の思慕が切々と描き出されている。本書は、いわばその月渓と蕪村の深い信頼に基づく師弟関係を描いた作品であるとも言えるだろう。月渓(呉春)という人は、愛情の深い人であったと改めて思う。

 本書の中で、月渓が愛する妻を海難事故で亡くした後、蕪村の句集の中の「北寿老仙をいたむ」と題する和詩を読んで胸を突かれたと語るくだりがある(135136ページ)。それは次のような詩である。

 君あしたに去ぬゆふべの心千々(ちぢ)に
 何ぞはるかなる

 君をおもふて岡のべに行きつ遊ぶ
 岡のべなんぞかくかなしき

 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なずな)のしろう咲きたる
 見る人ぞなき

 この詩は、愛する者を失った悲しみが切々と伝わる詩で、改めて蕪村がもっていた優しさを思わせる気がする。そして、蕪村の死後もまた、彼を慕う弟子たちが感じたことであるに違いなく、言ってみれば、本書はその姿を描いたものであるともいえる気がする。

 葉室麟の作風の中で、初期に出された『乾山晩愁』(2005年 新人物往来社)の流れの中の作品のひとつだろうと思われるが、月渓(呉春)の理解には深いものがあると改めて思ったりした。彼が天明2年(1872年)に描いた「木芙蓉鵁鶄(ゴイサギ)図」はわたしの好きな作品でもある。

2012年6月1日金曜日

和田竜『のぼうの城』


 「水無月」と呼ばれる六月に入ってしまった。六月が「水無月」と呼ばれるのは諸説があるが、旧暦の「六月」と異なっているので、現在では、まあ「水の月」というのがいいような気がする。「無」は「の」という意味の連帯副詞でもある。ちなみに英語の「June」は、ローマ神話のジュピター(ユピテル)の妻「ジュノー(ユノ)から取られたもので、彼女が結婚生活の守護神だったことから、この月に結婚をすると幸せになると言われたりもしている。「神頼み」したくなるのだろう。

 その「水の月」の最初に、先に大きな感動を与えられながら読んだ風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』と同じ舞台で、「水の城」とか「浮き城」とか呼ばれた「忍(おす)城」の攻防を描き、その攻防の中心人物であった独特の魅力を持つ成田長親(なりた ながちか)を描いた和田竜『のぼうの城』(2007年 小学館)を再び読んで、また違う感動を与えられた。

 和田竜『のぼうの城』は、2007年に小説としてまとめられているが、2003年に「忍ぶの城」という表題で脚本となっていたもので、風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』の初版が2000年だから、おそらく、その辺が踏まえられて書かれたものであろう。

 しかし、成田長親という人の人物像を「でくのぼう」の「のぼう様」と捉えて、より鮮明に浮かび上がらせたり、「忍城」を水攻めにして失敗した石田三成の姿が、知略だけでなく意地や情熱を持つものとして描き出されたりしているし、「忍城」で成田長親と共に戦った武将たちの個性が明瞭に出されたりして、「なるほど映像を意識した優れた脚本」を思わせるもので、非常に読みやすいものになっている。

 それにしても、成田長親という人は、真に胸を打つ人であったと改めて思う。この「忍城」の攻防の詳細は、先の風野真知雄『水の城、いまだ落城せず』で触れたので、ここでは触れないが、豊臣秀吉がいよいよ小田原の北条家を攻めることを決めたことが伝えられ、「忍城」で北条側につくのか、それとも秀吉に降るかという決断が迫られ、そのための軍議が開かれた時、藩主をはじめ主だった重臣たちが秀吉の大軍にはとても勝ち目がないので秀吉に降ることを決する空気の中で、長親がのんびりと「北条家にも関白にもつかず、今と同じように皆暮らすということはできんかな」と言い出す場面が描かれている(54ページ)。

 これが成田長親という人の真髄だろうと思う。吹けば飛ぶような小さな城で、能力も力もない。しかし、自主独立の心根をしっかりもって日々の暮らしを大切にしていく。それが成田長親という人であったと改めて思うのである。不器用で馬にも乗れない、武技も駄目。ただのんきに暮らしている。しかし、心根だけはしっかり持っている。こういう人は他にないかもしれない。

 藩主の成田氏長は、一応は北条家の要請に応えて小田原城の籠城戦に出兵するが、はじめから秀吉の軍門に降ることを決していたし、いよいよ石田三成が率いる2万以上の大軍が「忍城」に押し寄せてきたとき、「忍城」にいたのはその十分の一にも満たない者たちであり、全ての者が降伏を決める中で、降伏を勧めに来た石田三成側の使者の長束正家のあまりの傲慢高飛車な態度や戦略的な脅し、「忍城」の甲斐姫を秀吉に差し出せと言ったことで、ひとり長親だけが「戦う」と言い出すのである。

 「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ」(142ページ)と言い出すのである。このあたりのくだりを作者は次のように記す。

 「強き者が強さを呼んで果てしなく強さを増していく一方で、弱き者は際限なく虐げられ、踏みつけにされ、一片の誇りを持つことさえ許されない。小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。ならば、無能で、人が良く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったままで死ねというのか。
 『それが世の習いと申すなら、このわしは許さん』
 長親は決然といい放った。その瞬間、成田家家臣団は雷に打たれたごとく一斉に武者面をあげ、戦士の目をぎらりと輝かせた。
 ・・・・
 なんの武技もできず聡明さのかけらも感じさせないこの大男が、余人が捨てたただひとつのものを持ち続けていた。
 (・・・この男は、異常なまでに誇り高いのだ)」(142ページ)

 こうして「忍城」側は、成田長親を城代代理として、わずかな手勢で石田三成の大軍と戦うことになるのである。このとき、「忍城」には、百姓や町人、女子どもまで入れて3740人、このうち15歳以下の子どもと女子が1113人で戦力となるのは2627人に過ぎず、このうち百姓がほとんどであり、しかも老齢者が600人以上あり、最も働き盛りの武者たちのほとんどは小田原城へといっていた。これが23000人ほど(後には5万以上)の大軍と戦陣を開いたのである。

 そして、地の利を活かし、知恵を使い、押し寄せる大軍を見事に退け、初戦に勝利するのである。城への八つの出入り口の戦いすべてに深田や森を利用し、少ない兵器を十分に生かし、いわば長親によって高められた士気だけで戦ったようなものである。この攻防戦はよく調べられた上で物語性が高められて描かれている。

 それはともかく、「忍城」側が城に籠っての籠城戦のために近郊の百姓たちを集める際に、百姓たちは、どうせ負け戦になるから籠城は断ると言っていたのだが、戦いを決めたのが「のぼう様」であることを知ると、一気に「忍城」にこもることを承諾したくだりが次のように表されている。

 「ならば何様が戦をしようなどと仰せになられた」
 「長親だ」
 丹波(「忍城」を守る武将で、勇猛さではよく知られていた)がそう怒鳴り返すと、たへえ(村長)は虚をつかれたような顔をした。百姓らも同様である。
 わっ。
 直後、百姓屋敷は爆笑に包まれた。
 こんなうまいシャレはねえや、とでもいうように笑死寸前で身体をけいれんさせながら笑いに笑った。ちよ(たへえの娘)も笑った。子供のちどり(ちよの幼い娘)でさえケラケラと笑っている。
 「しょうがねえなあ、あの仁も」
 たへえは、ひいひい言いながら笑いを飲み込み涙を拭くと、ようやく言葉を発した。
 「のぼう様が戦するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。なあ皆」
 そうたへえが一同に呼びかけると、皆、「ああ」とか「ったくよう」などと、とうてい領主の徴発に応じる百姓とは思えない態度で返している。
 ・・・・
 恐ろしい領主に引きづられて城に行くのでもなければ、領民を慰撫する物分りのいい領主を慕って入場するのでもない。それらはいずれもが下から上を仰ぎみる思考である。彼らを突き動かしたのは、そんな従属から発する思考ではなかった。(163164頁)

 これが「忍城」を一丸とさせた成田長親という人であったのである。「忍城」が石田三成の言語を絶するような水攻めにあった時に、10万人以上が昼夜を問わず労働に駆られて築き上げられた強大な堤防によって「忍城」が水の中に沈みこもうとした時、成田長親は小舟を出させて水上で田楽踊りをするということをしているが、その時、石田三成が命じて鉄砲を撃たれて負傷する。

 城内では、「のぼう様」が撃たれたということで、すべてが死兵となって決することになっていくのである。それほど人々は「のぼう様」が好きだったのである。そして、石田堤は決壊する。その決壊に手を貸した百姓が捕らえられた時、彼はこう言う。「のぼうを撃たれ、田を駄目にされた百姓が、黙っておると思うたか。ざまあみやがれ」(285ページ)。

 結局、関東にあったすべての北条家の支城が滅び、小田原城が滅んでも、「忍城」は落城することはなかった。それは、ひとりひとりの自由な心意気が成田長親という人物を中心に発揮されたからであり、彼自身が、そうした自由なあり方を尊重したからである。「忍城」の開城後の石田三成との交渉においても、成田長親は怯むことなくそれを貫徹し、人々が生きていくことを最上のこととして貫き通す。

 和田竜『のぼうの城』は、こういう成田長親の人物像をくっきり浮かび上がらせて、小手先の力や能力はないが、そんなものがないことすら平然として、しかし、本当に大事なことだけを大事にし、「明るく、暖かく、優しく、そして柔らかく」、しかも誇り高く生きていく人物として描き出しているのである。戦国の世に、こういう人がいたことを改めて思い、泰然と、坦々と生きることを改めて考えさせられる作品だった。

2012年5月30日水曜日

宇江佐真理『寂しい写楽』


 この2~3日、突然に夕方から夜にかけてにわかに曇り、風が吹いて、集中的な雨が降るという不順な天候が続き、一昨日は図書館に行く途中で土砂降りとなり、駅の構内で破れた屋根から雨がじゃあじゃともるという事態になって、駅の構内にあるコーヒーショップでしばらく雨宿りをしたり、昨日は会議に出かけた帰りに大粒の雨が降り出すという事態に遭遇したりした。今日は雲が空を覆っている。

 その図書館で、宇江佐真理『寂しい写楽』(2009年 小学館)を見つけ、さっそく読み出した。これは謎の多い浮世絵師であった東洲斎写楽という人を巡る当時の出版元であった蔦屋重三郎や山東京伝、葛飾北斎、十返舎一九、滝沢馬琴、そして狂歌師として名をなした太田南畝などの人々の姿を描き出したもので、特に写楽という人の絵を売り出し、また失敗していくことを中心に据えてこの時代の文化人たちの姿が描かれると同時に、写楽が残した絵を「寂しい」という独特のニュアンスのある観点から見ようとした意欲作でもある。

 ここに名を記した人々は、今日では極めて優れた才能を開花させた人々として著名であり、現代では写楽の役者絵も高い評価を得ているが、それぞれに生活の苦労をしながら戯作や絵画芸術に打ち込んでいく姿が人間臭く描かれている。彼らを動かしやのは、それぞれの矜持や誇り、そして情熱であっただろう。芸術は情熱なしには生み出すことができないものである。

 これらの人々が活躍し、一気に江戸文化を花開かせた天明(17811788年)の終わり頃から寛政(17891800年)、享和(18011803年)、文化(18041817年)文政(18181829年)にかけてのおよそ40年間というのは、実に不思議な時代という気がする。この期間の将軍はずっと、後に「オットセイ将軍」の異名をとった徳川家斉で、家斉は将軍在位になるとすぐに前時代に自由経済を目論んで「賄賂政治」とまで言われた田沼意次を失脚させ、白河藩主で名君の誉れが高かった松平定信を老中首座にすえ、松平定信は、逼迫した幕府財政の立て直しのために「寛政の改革」を断行した。

 この「寛政の改革」は、あまりにも厳格すぎて、かえって江戸経済を混乱させると同時に、あらゆる奢侈な生活や贅沢を禁止し、芝居や出版、文化や芸術に弾圧をかけた。それらは精神と生活の弾圧として機能したに過ぎなかった。そのために、松平定信の「寛政の改革」は、寛政5年(1793年)に松平定信の失脚によって失敗に終わり、徳川家斉自身は側近政治を行い、再び奢侈な生活を送ったり、賄賂を推奨したりしたし、幕府財政はますます逼迫するようになっていった。加えて、近代化を進めていた西洋諸国からの外国船の渡来などがあり、社会状況は極めて不安定だったのである。幕府の幕藩体制は崩壊し始めている。

 この寛政の文化弾圧の時代と社会危機が増大した時代に、しかし、先に挙げた人々が天才的ともいえる活躍をしていくのである。これらの人々は、ある意味では時代が生んだ寵児でもあるが、熟覧した江戸の文化を最も優れて表した人々と言えるであろう。あるいは、江戸という独特の暮らしが成り立つ社会の中で、貧乏長屋に住みながらも誇りだけは失わなかった町人文化が生み出したものであるとも言えるだろう。

 これらの人々の要として文化の一時代を築いたのが出版元であった蔦屋重三郎(17501797年)である。蔦屋重三郎は1750年(寛延3年)に江戸の遊郭であった吉原に生まれ、引手茶屋(遊女との待ち合わせに用いられた)である喜多川家に養子として引き取られて、やがて吉原大門の前に吉原の案内書である吉原細見を販売し、「耕書堂」と称して出版業に関わっていくようになったのである。黄表紙本、洒落本、狂歌集などを次々と出版し、1783年(天明3年)に日本橋に出店するほどになった。

 絵師である歌麿を見出して、大々的に世に送り出し、「喜多川」という自分の養家の名前を与えるほど大事にしていたが、やがて関係がうまくいかなくなり、歌麿は蔦屋を出てしまう。加えて、寛政の改革によって1791年(寛政3年)に山東京伝の黄表紙本と洒落本が摘発されて、蔦屋重三郎は財産の半分を没取され、山東京伝は手鎖50日という罰を受ける。

 本書は、その処罰の後で、起死回生を願って1794年(寛政6年)に写楽の役者絵を出版する状況が展開されて、写楽を、一応の定説通りの能役者であった斎藤十郎兵衛として、写楽の最初の大判絵に蔦屋の願いを入れて山東京伝や葛飾北斎、後の十返舎一九などが関わり、写楽の画質が低下していったことをこれらの人たちが手を引いていったとして描きだしていく。そこに自分のもとを去った歌麿に対する蔦屋重三郎の意地があったと見るのである。写楽の絵はあまり売れずに蔦屋は困窮に陥っていくが、写楽が10ヶ月あまりで忽然と浮世絵の世界から身を消したことを、作者はそう見ているのである。

 やがて、葛飾北斎が自分の画風を見出し、曲亭馬琴が読本の道を見出し、十返舎一九が独特の洒落の効いた読本を書いていくようになる姿もよく描かれている。そして、改めて、写楽が描いた作品を見ていると、なるほど「寂しい」という思いがしてくるし、後の葛飾北斎が冨嶽三十六景で見せたような大胆な構図の摂り方と写楽の大首絵(上半身や胸像を描いたもの)の大胆な構図、デフォルメなどいくつかの共通点もあるような気がする。絵としては葛飾北斎の方が格段にうまいし、同じ役者絵でも喜多川歌麿の方が繊細で感性が豊かである。だが、写楽には独特の味があるのも事実で、それを「生きることの寂しさ」に求めたところに作者の感性が光っていると思ったりする。本書は、そういう意味では玄人好みの作品だろうとは思う。

 写楽は「寂しい」。そして、人とは寂しい生き物である。ホントにそう思う。そして、その「寂しさ」を知る者だけが何事かを生み出していく。

2012年5月28日月曜日

童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』


 ようやく初夏らしい日々になってきたが、一日の寒暖の差が大きく、夜にぶらぶら歩いていると思わずくしゃみが出たりする。この数日は日本の女子バレーの試合をずっとテレビで見ていた。いつ見ても、女子バレーの試合には感動がある。ロンドンオリンピックに行けるようになって本当によかった。

その試合を見ながら、昔、開高健がサントリーウイスキーのキャッチコピーとして作った「何もたさない。何もひかない」という言葉をふと思い出したりした。「人間、あるがかま、かくあるべし」と自覚しているわけで、調子が出ないときは調子が出ないままに過ごそうとゆっくり思ったりしている。

 二~三日かけて、童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』(2001年 実業之日本社)を読んだ。これは戦国時代から江戸期にかけて優れた武将として生き抜き、佐賀鍋島藩の藩祖となった鍋島直茂(15381618年)を描いた歴史小説である。

 巻末の著者紹介によれば、作者の童門冬二という人は、本名は太田久行、1927年に東京で生まれ、旧制中学を卒業後に東京都で公務員として働き、やがて、要職を歴任されて美濃部都政の重要な首脳として活躍される中で歴史・時代小説の執筆を続けられていたが、定年退職後に本格的な作家活動に入られたらしい。著作は多数で、主として伝記的な歴史小説が中心だが、有能な官吏としての歴史の見方が随所に現れる独特の作風がある。本書にも、こうした観点で、例えば「葉隠」を有効なビジネス教本として見るといった観点が語られたりしている。

 鍋島直茂は、肥前佐嘉(佐賀は昔はこの文字で表されていた)本庄村の地方豪族であった鍋島清房の次男として生まれ、肥前の城主であった龍造寺家に仕え、武将としての頭角を現していった人で、特に、龍造寺隆信の信任が厚く、豊後の大友宗麟の肥前侵攻や肥前南部の有馬・大村氏などとの争いに勝利を収め、龍造寺家の安定のために躍如した。豊臣秀吉が九州を平定する以前は、九州は肥前の龍造寺家、豊後の大友家、薩摩の島津家に三分されて、各地で争いが絶えなかった。龍造寺隆信が家督を嫡男の政家に譲った時に、鍋島直茂はその後見とされ、薩摩との争いで死去した後は肥前の国政を担う者となっていった。

 鍋島直茂は早くから豊臣秀吉に高く評価されて、秀吉の九州侵攻を促し、秀吉から正式に肥前の国政を政家に代わって担うよう命じられ、実権を掌握していくが、主家である龍造寺家との確執は続いていった。1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦の際には、息子の勝茂が西軍側についてしまうが、直茂は徳川家の勝利を予測し、本戦が開始される以前に勝茂を戦線から離脱させ、尾張方面の穀物を買い占めて家康に献上するなどの方針をとっている。そして、戦後は家康への恭順をさらに示すために、西軍側についていた小早川秀包(毛利元就の九男)の居城であった久留米城と立花宗茂の居城であった柳川城を降伏させた。

 これによって家康は肥前佐嘉357000石を安堵させ、佐賀藩は九州の大国のまま鍋島直茂が統括することになったのである。主家である龍造寺政家が隠居した時、その子であった龍造寺高房が佐賀藩における実権の回復を幕府に訴えたが、幕府は鍋島直茂・勝茂に龍造寺家からの佐賀藩の禅譲の形をとり、ほかの龍蔵寺家の家臣団もこれを認めたために、佐賀藩は正式に鍋島家を主家とすることになったのである。なお、龍蔵寺高房はこのことを恨んで憤死(一説では家族を皆殺しにして狂死)した。また、鍋島直茂は龍造寺一門への敬意を表して、自ら藩主の座につくことはなく、佐賀藩の初代藩主はその息子の鍋島勝茂である。

 鍋島家と龍造寺家との確執は、憤死した龍造寺高房が亡霊となって引き起こしたといわれる「鍋島家化け猫騒動」などに表されたりしている。鍋島直茂は、鍋島家を安定させ、1618年(元和4年)に81歳で死去した。後年、この鍋島直茂を念頭に置きながら山本常朝が口述したのが『葉隠』である。

 鍋島直茂と柳川の立花宗茂は、ともに優れた武将であり、両雄相知るの関係であったと思われるが、先に、この立花宗茂を感動的に描いた葉室麟『無双の花』を読んでいたし、隆慶一郎が『葉隠』を題材にして抜群のエンターテイメント性を発揮した『死ぬことと見つけたり』などを読んでいたので、この鍋島直茂を描いた童門冬二の作品をある種の期待感を持って読み始めた次第である。

 しかし、歴史小説として描かれていることもあるのか、物語性よりも史実性が重要視され、この時代は社会全体が激変して、それを記すだけでも大変なこともあるのか、どうも鍋島直茂の人物が生き生きと浮かび上がってこない気がしてならなかったし、歴史解釈の皮層性や人間理解の浅さが感じられるところが随所にあると同時に官僚的な発想が随所にあって、少し残念な気がした。もちろん、面白いのは面白い。

 たとえば、「秀吉の人心掌握術」と題された一文で、大臣が職員の奥さんの誕生日を覚えていることがこの大臣のために懸命に仕事をしようという職員のやる気に繋がっていくというくだりがあり、秀吉の人心掌握がそういうものであったと述べられているが、仕事への情熱や信頼というものはこんなものでは生まれないだろうと思ってしまうのである。

 あるいはまた、石田三成を嫌っていた加藤清正や福島正則が石田三成を誅しようとした時に、石田三成は徳川家康に庇護を求めるが、それを石田三成が徳川家康を襲撃する噂が流れて、加藤清正や福島正則が家康を守ろうとしたと記されている(137ページ)。しかし、この事情はもっと複雑で、加藤清正が家康を守ろうと思っていたのではないだろうと思っている。

 あるいは、関ヶ原の合戦に遅れた徳川秀忠に対して、家康が表面はこれを叱責したが、腹では三河以来の家臣を損失しなかったので喜んでいたという解釈が述べられている(163ページ)が、家康と秀忠の親子関係は複雑で、秀忠が遅れをとったのは、関ヶ原に向かう途中の真田家との上田の争いで、秀忠が思わぬ手間を取り、しかも手痛い失敗を繰り返したからで、ここで述べられているような深い思惑があったとは思えない。こうした解釈は穿すぎではないかと思われる。

 しかし、鍋島直茂が家訓として残した「御壁書二十一ヶ条」と後に記された『葉隠』を対応させていくところなどは、なかなか味があり、瞠目に値する気がする。鍋島直茂の「御壁書二十一ヶ条」は、戦国武将としての鍋島直茂がいかに家中を整えていくかを記したもので、下のものの意見をよく聞き、厚情を持って接することを説いたものだが、その中で、ちょっと面白いと思ったものを抜書きしておく。

 四 憲法は下輩の批判、道理のほかに理(ことわり)有り。作者の解説によれば、これは、「たてまえばかりにこだわるのは、下々の議論だと思え。世の中には、道理のほかの道理ということが必ずある」ということになる。ただし、五で「下輩の言葉は助けて聞け。金は土中にある事分明」とされている。あるいは、十一「理非を糺(ただ)す者は、人罰に落ちるなり」とある。これも作者の解説によれば「人の善悪をとりあげてきびしく攻めると、他人のうらみという人間による罰を受けるだろう」となる。また、二十「上下によらず、一度身命を捨てざる者には恥ぢず候」とあり、「身分の上下にかかわらず、一度もわが身命を捨てた経験を持たない者には、敬意を払えない」と説かれている。

 こういう鍋島直茂の生涯訓のようなものは、やはりそれだけで味のあるものである。ただ、小説としてはこれを物語で表す手法もあるだろうとは思う。

 もうひとつ面白いと思ったのは、鍋島直茂が息子の勝茂に城の櫓の上に登って、唐津城を築き、防砂林としての虹の松原を築いたことに触れて、佐賀の城下の人々が胸を張って上を向くような気概をもった人々となるように訓示する場面で、「律儀正直」ばかり求めないで自由闊達であることを望むことが記されていることで、作者はこれを創業者と二代目の気質の差だと分析し、家康と秀忠の関係を直茂と勝茂の関係として並行に描いていくことである。こういう視点は通常の歴史家にはない視点だろうと思う。

 本書には、直茂の家臣であり、「葉隠精神」そのものとも思えるような斎藤用之助や勝茂の長男であったが鍋島藩主とならずに支藩の小城藩主となった鍋島元茂についても触れられている。

 この鍋島元茂という人は、なかなか優れた人で、四歳の時に江戸に人質として送られ、父親の婚姻関係の都合で廃嫡されたが、江戸で柳生宗矩に柳生新陰流を学び、宗矩から最初に免許皆伝を与えられるほどの剣の腕をもつ遣い手となり、三大将軍の徳川家光から尊重された人物で、祖父である直茂の死後に、その隠居領を譲り受けて、小城藩主となったのである。人格的にも優れたところがあり、徳川家光が「兵法の心得」を尋ねた時に「善と思う悪し、悪と思う悪し、善悪とも悪し、思わざるところ善し」と答えたりしている(335ページにその記述がある)。おそらく祖父の直茂の真っ直ぐな性質を受け継いでいたのだろうと思われる。

 なお、鍋島家は勝茂の後、徳川家康の養女となっていた菊姫との間にできた四男の忠直が後を継ぐことになっていたが、忠直が23歳の若さで疱瘡にかかって死去したために、その子である光茂が二代目藩主となっている。この鍋島光茂という人は、なかなか権力欲の強い人であった。

 ともあれ、本書は鍋島直茂という人物を多様な角度から描いたものであるということができるような気がする。文学作品としての出来不出来は別にして、歴史小説としては面白く読めた一冊だった。

2012年5月25日金曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』


 先日、ブログのコメントに葉室麟『蜩ノ記』がNHKでラジオドラマ化されてFMで6月18日から全十話で放送されるという知らせを寄せてくださった方がおられ、知らなかったので大変嬉しく思っている。『いのちなりけり』と『花や散るらん』をテレビドラマ用に脚本化することを友人に勧めているが、彼の作品はどれをとっても素晴らしい。先日、時代小説の中で誰がいいですか、と聞かれた時、私は一番にこの人の作品を上げた。宮部みゆきの『孤宿の人』も素晴らしいが、葉室麟には作家として一本の強い線が貫かれていると思っている。

 閑話休題。先に風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2008年新装版 祥伝社文庫)を読んで、大変感動したが、再び江戸時代の名奉行と言われた根岸肥前守を主人公にした『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』(2011年 文春文庫)を気楽に読んだ。これは出版社が変わったために新しく「殺人事件シリーズ」と銘打って出されているものの二作目の作品で、前作『赤鬼奉行根岸肥前守』(2011年 文春文庫)で、根岸肥前守が62歳の高齢で南町奉行となったいきさつ等が触れられていたが、今回は、八丁堀の江戸町奉行所の同心たちが立て続けに何者かに襲われて殺されるという奉行所にとっては威信のかかる事件を中心に、彼が記していた『耳袋(嚢)』を題材にして、「緑の狐」、「河童殺し」、「人面の木」、「へっついの幽霊」、「鬼の書」、「河童の銭』の六章からなる筋立てになっている。このうちの最後の「河童の銭」は余話となっている。

 根岸肥前守という人自身は極めて優れた官吏であったが、その鷹揚な性格や人格の豊かさもあり、どちらかと言えば非政治的な人間だったと思う。しかし、町奉行という職責もあって、当時の松平定信や旧田沼派の画策、あるいは十一代将軍の徳川家斉の思惑、定信が行なった寛政の改革の失敗と失脚など、大きな政治的要因がかれの周りに引き起こされ、否応なくその中を生きざるを得なかったところがあった。本書は、この辺の背景も巧みに取り入れながら、自らの姿勢を曲げることなく、しかもそれを柔らかく貫いていく姿も描き出していて、単なる江戸市中に起こった事件の解決だけではなく、様々な狭間の中で「柔中剛」のあり方を示すという味が付けられている。もともと、本当に芯を持つ者は、外は柔らかい。強がる人間ほど中身はない。

 様々な怪異な事件や噂などに対して、本書で描かれる根岸肥前守は極めて合理的な精神と現実的な人間観で対応する人物になっており、「緑の狐が出たとか河童の話とか、あるいは幽霊が出たということに何らかの人間の思惑が隠されていることを見抜いていくのである。彼が高齢で南町奉行となったということも「人間通」である彼の面目躍如を示すものである。「人間通」というものは、酸いも甘いも知りながら、表面の善悪にこだわることなく、しかも善であるような人間を言う。作者は肥前守をそういう人間として平易に描き出すのである。

 本筋の同心殺しという出来事の裏には、同心たちの振る舞いやそれに対する「恨み」が隠されているのであり、欲が絡んでいるわけで、それに対して根岸肥前守と彼が自分の手足として使っている若い坂巻弥三郎や栗田次郎左衛門などの爽やかさが光るのである。「欲」に対抗するのに「欲」をもってするという状況が普通に行われる人間の行為であるが、本書は「欲」に対抗するのが「無欲」であることをよく表している。

 ここでは、本書で展開されている内容にはいちいち触れないが、物語の展開や構成は平易で、実に気楽に安心して読める読み物である。ただ、「河童」をめぐる話はどは、どこかで聞いたような話で、このシリーズの他の作品と重なっているところがあるような気がして、斬新なものではない思いが残る。しかし、黄表紙的読本としては面白いと思っている。

2012年5月24日木曜日

藤原緋沙子『坂ものがたり』


 2223日と仙台に出かけていたが、22日(火)は雨で格別寒く、翌23日(水)は10度も気温が上昇する夏日になるという、まるで気温のエレベーターに乗っているようで、今年はこうした気温の激変が続いている。それでも雨に煙る仙台のけやき通りの新緑が美しく、それはそれで風情のある光景だった。片倉小十郎の白石城が復元されていることを知り、機会があれば行ってみたいと思っている。

 それはともかく、江戸の話になるが、江戸は坂の多い町で、それぞれの坂にはそれぞれの曰くのある名前がつけられていて、わたしが時折会議で出かける市ヶ谷には「浄瑠璃坂」と呼ばれる坂があり、その曰くを記す牌がある。この坂の名の由来には諸説があるらしい。諸説といっても単純なもので、昔はこの坂は六段に波打っていて、その六段を浄瑠璃の六段(六話で完結)とかけて「浄瑠璃坂」と呼ぶようになったとか、あるいは坂の西側に紀伊の新宮藩主であった水野大炊頭の上屋敷があり、その屋敷の長屋が坂に沿って六段になっており、浄瑠璃の六段にかけて呼んだとか、あるいはまた坂の上に人形浄瑠璃の芝居小屋があったとか、などである。

 しかし、この坂は別名「仇討坂」とも呼ばれ、それは、寛文12年(1672年)にこの坂で起きた仇討事件(浄瑠璃坂の仇討)に由来する。寛文8年(1668年)に宇都宮藩の藩主の法要(葬儀)の際に、当時の宇都宮藩の譜代の家老の家柄に属する奥平内蔵允と主君の傍流の家柄に属する奥平隼人が些細なことで口論し、憤慨した内蔵允が隼人に向かって抜刀したが、返り討ちにあって刀傷を受けた。内蔵允はその夜に切腹してしまったのである。坂の由来となった事件は、この出来事に発するものである。

藩の処分はこの事件から半年後にようやく下されたが、喧嘩両成敗の形ではなく、内蔵允の嫡男である源八(当時12歳)は家禄没収の上に追放、隼人の方には改易が申し渡すものであった。内蔵允が切腹しているので両成敗ならば隼人も切腹となるはずであるが、隼人とその父親には藩から物々しい警護がつけられて送り出されるなどの温情が示されたのである。そして、この処分に不服を持った源八とその一党42名が三年の雌伏の後、この市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠戸田七之助の屋敷に身を寄せていた隼人に夜襲をかけたのである。

源八ら一党は奥平隼人の父親である奥平半齋は討ち取ったが目的の隼人を探し出せずに、仇討を断念して牛込御門前に来た時、あとから追いかけてきた隼人が手勢を引き連れて駆けつけ、源八は取って返して隼人を討ちとるのである。やがて、文治政治を目指していた徳川家綱の幕府は、奥平源八らを伊豆大島へ流罪とした。しかし、その6年後、恩赦によって源八らは赦免された。この事件は、当時の江戸で瓦版になるなどの大きな影響があり、江戸市民は見事に仇討をした奥平源八らに拍手喝采を送ったのである。そして、一説では、彼らが討ち入りに際して火事装束を身につけていたことなどから、これが忠臣蔵の赤穂浪士の仇討のモデルになったとも言う。赤穂浪士の大石内蔵助はこの奥平家と縁戚関係にあったのである。こうした事件が起こったので、この坂が「仇討坂」とも呼ばれている。

 江戸にはこうした由来をもつ坂がたくさんあるが、藤原緋沙子『坂ものがたり』(2010年 新潮社)は、「聖坂」、「鳶坂」、「逢坂」、「九段坂」の四つの坂をそれぞれ春夏秋冬の季節の中で、その坂を使う人々、特に男女の恋愛模様を中心にして四編の短編として描き出したものである。

「夜明けの雨-聖坂・春」は、行く末を誓っていた「佐七」と「おまつ」という男女の話で、中目黒の百姓の三男だった「佐七」は、呉服問屋に奉公に出て、懸命になって働き、手代になっていたが、ひとかどの商人になる野望をもっていたために、幼馴染の「おまつ」に待って欲しいと言う。だが、商人への道は遠い。だが「おまつ」はもう待てなくなり、「佐七」に呉服問屋をやめて、一緒になって荷売りから始めようと言い出す。そして、自分には他にも縁談があると言ってしまうのである。「佐七」は絶望して、さっさと嫁に行けと言い、二人は分かれてしまう。

だが、そのすぐ後で、奉公している呉服問屋の娘からの縁談話が「佐七」に持ち上がり、「佐七」はとんとん拍子にうまくいき、呉服屋の主人に収まる。しかし、その呉服屋は義母の支配下にあり、「佐七」は空回りして商売もうまくいかなくなる。

他方、「佐七」と別れた「おまつ」は、別の商家の嫁に行ったが、婚家とうまくいかずにそこを飛び出し、病身の母親の薬代のために身を売って岡場所で働くようになっていた。そのことを知った「佐七」は何とか「おまつ」を見受けして自由にさせたいと金の工面に走り回る。

だが、そんな「佐七」を嫁も姑もゆるすはずがない。「佐七」は焦って昔の友人のいかさまによる賭場で金儲けを企むが、そのいかさまがばれて、襲われ、金も全て奪い去られてしまう。「佐七」は、自分が執着していたことの全てを捨てて「おまつ」を連れ出して逃げる覚悟をしていく。そういう話である。

ほかの三話も、設定や人物はそれぞれ異なるが、男女のそれぞれに愛や人生が描かれていくのだが、読んでいる時も、あるいはこうして展開をまとめてみても、文章の柔らかさとは別に、たとえ不幸な結末が描かれていても、人物の捉え方や展開の甘さが感じられて、たとえばこの第一話にしても、「おまつ」という女性は、本心は「佐七」と別れる気がなくても「佐七」に「待てない」と迫り、「佐七」が人生に悩む中で他家に嫁に行き、そこで失敗し、さらに病身の母親のために身を売り、そのことの原因がまるで「佐七」にあるように恨むのである。これがどうしようもない女として描かれているならともかく、結局は「佐七」への想いを捨てられない純な女として描かれているし、「佐七」は「佐七」で、自分の仕事がうまくいかずに、金策のために博打に手を出す人間だが、「おまつ」を思う純な男として描かれているのである。この辺の人間の捉え方と描き方に、どこか綺麗な話をするという「甘さ」をかんじてしまうのである。

収められているほかの作品もだいたい同じようなものだが、この中では第四話の「月凍てる-九段坂・冬」が、まあよかった作品だろうと思っている。

これまでこの作者の著作をいくつか読んで、出来と不出来が比較的はっきりしている気がしていて、この作品もどちらかといえば人物の捉え方や展開があまりにあっさりし過ぎていて、少し不満が残る内容だった気がする。