冬晴れの寒い日々が続いている。このところ若干慌ただしい日々になっているが、気分はゆるやかである。ほとんどゆっくりと仕事に向かっているということもあるかもしれない。寒いこともあって机に向かっている時間が長い。
そんな中で、真野ひろみ『裏葉菊』(2001年 講談社)を、ある種の感動を持って読み終えた。この作者の作品は初めてで、奥付によれば、1971年に愛知で生まれて、名古屋大学を卒業後、会社勤務の傍らに小説を書き始められて、講談社が設けていた時代小説大賞の最後の年(1999年)の最終候補となるも、2000年に『雨に紛う』(講談社)で作家デビューされた方らしい。文章は読みやすくて洗練されている。
『雨に紛う』は、幕末の頃に箱根で散った伊庭八郎の姿を描いたものであるが、『裏葉菊』は、美濃(岐阜県)の郡上藩の「凌霜隊(りょうそうたい)」の姿を背景にして、ひとりの人間の姿を描いたものである。
「凌霜隊」は、長い間、歴史にその名すら記されることがなかったか、あるいは消されたかしてきた人々で、大正11年(1922年)に発行されている『郡上郡史』には、ただ「佐幕に与する士卒は遂に藩を脱走して他藩の叛徒に党するに至る」とだけしか記されておらず、明治維新の際の反朝廷行動をとった一派としてしか位置づけられていなかった。彼らが転戦した塩原や会津にもその名は記されることがなかったのである。しかし、徐々にその実相が明らかになって、そこには幕末期に置かれた郡上藩四万八千石という小藩の悲劇があったことがわかってきたのである。
郡上藩(八幡藩ともいう)の最後の藩主青山幸宣(1854-1930年)が父の幸哉の死去に伴って家督を継いだのは9歳の時で、藩政は国家老の鈴木平左衛門や江戸家老の朝比奈藤兵衛によって行われていた。青山家はもともと徳川幕府の譜代大名で、藩も最初は徳川幕府を支持する佐幕派であったが、大政奉還(1867年 慶応3年)、北辰戦争(1868年)と続く政治の激変の中で、藩内は佐幕か勤王かで二分され、地理的にも京都に近いことから国元では尊王派に傾き、2月には新政府への恭順を示した。藩主の幸宣はまだ14歳に過ぎなかった。しかし、江戸藩邸では徳川家への恩顧を唱える勢力が圧倒的に強かった。ちなみに、現在の東京の青山は、この青山家の上屋敷があったことからこの地名になったのである。
鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州連合軍に錦の御旗が下されたとはいえ、情勢は不鮮明で、小藩に過ぎなかった郡上藩青山家は、生き残りをかけて、表向きは新政府軍への忠誠を示しながらも、幕府が復興したときのために、江戸詰めの藩士たちを脱藩という形で密かに会津へと送って、いわば二股政策を行ったのである。脱藩と会津支援は、いわば藩命であったのであり、この時に会津に向かったのは四十数名で、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子の朝比奈茂吉を隊長にして、青山家の家紋が葉菊であることから、葉菊が霜を凌いで花を咲かせるという意味で、隊名を「凌霜隊」としたのである。これは、言うまでもなく苦境の中を忍耐していくという彼らの強い意志を示す隊名である。この時、隊長となった朝比奈茂吉は若干17歳の少年であった。
本書の表題が「裏葉菊」とされているのは、郡上藩の藩命でありながらも表に出すことができないという「凌霜隊」の存在そのものを適切に表すものだと思われる。
「凌霜隊」一行は江戸湾から船で海路を北上しようとするが嵐のために千葉の行徳に上陸し、前橋に行き、そこから陸路を辿って会津に向かった。途中、小山で戦い、宇都宮では元幕府歩兵隊長であった大鳥圭介の下で激戦を繰り広げた。大鳥圭介のまずい指揮もあり、苦境に陥ることもしばしばあったが、激戦を繰り返して日光街道から塩原に向かう。そこで会津軍と合流し、塩原温泉守備を行うが、次第に新政府軍に押されて、横川、田島、大内峠で新政府軍と激戦を展開した。
「凌霜隊」は、弱冠17歳の朝比奈茂吉の下でよく統率され、乱暴や略奪を働くこともなく、特に塩原温泉守備の時は、土地の人たちにも慕われて、祭りの時などは郡上八幡の盆踊りなども披露したりして、町の多くの人々から尊敬もされていたという。しかし、新政府軍は迫り、その塩原温泉も引き払わなければなくなり、会津藩は塩原温泉の家々が新政府軍に使われないために全ての家の焼き討ちをして撤退することを命じるのである。
しかし、朝比奈茂吉以下の「凌霜隊」は、世話になった塩原温泉の家屋を焼き払うにしのびなく、せめて彼らが滞在した和泉屋と丸屋だけは残したいと、後に再建できるように丁寧に解体し、また妙雲寺は塩原の人々が雨露を凌ぐ場所として、この妙雲寺にあった天井板の菊の紋章に×印をつけただけで、近くの畑に薪を積んで焼いて会津藩の目を盗んで残した。この和泉屋と丸屋は後に再建され旅館として現存しているし、この時に妙雲寺を焼かなかったことが、後に彼らの命を救うことにつながっている。
「凌霜隊」は、その後、激戦を繰り返しながら会津に撤退し、篭城戦に入っていた会津若松鶴ヶ城に入り、白虎隊とともに防戦したが、ついに会津降伏となり、彼らは捕縛されて江戸に送られ、罪人として旧郡上藩に預けられ投獄され、郡上八幡に罪人として護送される。その時、隊長であった17歳の朝比奈茂吉が入れられた唐丸篭には「朝敵之首謀者・朝比奈茂吉」と大書された札がつけられていたという。その時は既に二十数名になっていた。
郡上八幡に送られた彼らは、罪人同様の厳しい環境の「揚げ屋(牢獄)」に入れられ、やがて全員に死罪の判決が出る。元々、密かにではあったが藩命として会津に転戦したのだが、元国家老で新政府の大参事となっていた鈴木平左衛門は、新政府におもねるために「凌霜隊」が藩意であったのをひた隠して、その罪を江戸家老の朝比奈藤兵衛に負わせ、「凌霜隊」の抹殺を図ったのである。江戸を出て2年に渡る厳しい牢獄での生活が続いた。
その頃、塩原妙雲寺の住職の塩渓が「凌霜隊」が寺を焼失から守ってくれたことを京都の本山である妙心寺に伝え、妙心寺は隊士たちに礼を言うように郡上八幡の末寺である慈恩寺に伝えた、慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)は、「凌霜隊」の隊士たちが罪人として禁錮されていることを知り、本山の妙心寺に後押しを受けて、郡上内の寺に呼びかけ助命嘆願の動きを始め、宗派を越えた支援の輪が広がっていった。藩庁に出向いた淅炊は、鈴木平左衛門の処置を東京の政府にまで言いに行くとまで言う。こうして、明治2年秋に「凌霜隊」の禁錮が解けて自宅謹慎となり、翌明治3年春に彼らは赦免となったのである。
「凌霜隊」は、郡上藩存続のための犠牲部隊であり、本書ではそれを「人柱」として展開していくが、作者は、この「凌霜隊」の歴史を見事に掘り起こし、それぞれの場での「人柱」となった人間の姿を展開する。作中の主人公森嶋胖之助(もりしま はんのすけ)と彼が手を着けてしまって孕ませた女中の「おつる」以外はすべて実名で登場する。
物語は、森嶋家の次男としての少年胖之助の中途半端に置かれたやりきれなさから始まる。家督を継いだ兄は、大政奉還後の揺れ動く藩内で勤王派としての活動を始めていたが、胖之助は、徳川家の譜代大名としての郡上藩青山家の「忠」を心に抱いていた。勤王派と佐幕派の幕末を揺るがした対立は、森嶋家の兄と弟の対立でもあった。
加えて、森嶋家の中で唯一自分を認めてくれていた兄嫁が長女の出産と共に死に、兄は生まれた長女を抱く事もなく冷たい仕打ちをしているように思われた。胖之助はやり場のない憤りを感じて自暴自棄となり、学問所も剣術の修行も途中でやめ、誰にも認められない「鼻つまみ者」としての日々を過ごし、その鬱憤を、女中の「おつる」を無理やり犯すことで晴らしていた。
時代は大きく揺れ動き、藩内における国元の勤王派と江戸藩邸の佐幕派の対立も激化していく。そして、彼の友人で江戸詰めをしていた山脇鍬橘(くわきち)が国元に帰ってきた。大阪城にいた前将軍の徳川慶喜からの郡上藩青山家への援軍要請に応えるために江戸詰めの藩士と国元の人数を加えて大阪城に向かうためであった。ところが、大阪城の徳川慶喜自身が大阪城から逃げのびたので、彼らは出陣することなく、勤王派の多い国元に宙に浮いた形で留まらざるを得なくなるのである。江戸詰めであった藩士たちは、徳川家への恩顧の「忠義」を唱える熱烈な佐幕派だったのである。
彼らは国家老の鈴木平左衛門から密かに呼び出されて、脱藩し、江戸に向かう。その時、主人公の森嶋胖之助は、鬱憤晴らしに手篭めにしていた女中の「おつる」から妊娠を告げられ、堕ろしてしまえと言い捨てていた。そして、脱藩組と共に彼も脱藩し、江戸で「凌霜隊」の一員となっていくのである。彼だけが脱藩と「凌霜隊」の結成が藩命によるものとは知らずにいた。こうして、「凌霜隊」での各地ので激戦を経験していくのである。
そして、この経験によって、森嶋胖之助は自分がいかに「おつる」に対してひどいことをしたのかに気づき、死地の中で「凌霜隊」の仲間たちを失いながら人間としての成長をしていくのである。彼は人間としての柔らかみを取り戻していく。「凌霜隊」の各地での転戦が丁寧に語られ、そして敗れ、彼らは罪人として国元に返されて、過酷な「揚屋(牢獄)」での日々が続く。藩の手のひらを返したような仕打ちの中で、森崎胖之助は、これが判明に由ったことを知らされ、自分たちが「人柱」であったことを知らされていくのである。彼らは獄中死をするように仕向けられていた。
作品では、森嶋家が胖之助の脱藩と朝敵となったことで減俸され、実家に返されていた「おつる」が野菜売となって彼らが入れられている「揚屋」に来ていることが分かり、事実を記した書面を「おつる」の手を経て密かに慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)に届け、そこから彼らの赦免につながっていったことになっている。「おつる」は自分をひどい目に合わせた胖之助のために郡上内の寺々を回り、彼らの赦免のために懸命に動いたのである。
こうして、彼らは赦免され、胖之助は「おつる」に詫びを入れて、夫婦になろうと言い出すが、「おつる」は一人で生きていく決心をするのである。「おつる」が身篭った子は、胖之助の母親の機転で無事に生まれていた。物語は、自由になった朝比奈茂吉が椋原義彦と名を変えて彦根に向かうところで終わる。
物語の中で、郡上八幡の日本一美しい山城と言われる八幡城の築城の際に「人柱」が建てられたことが触れられ、森嶋胖之助の「人柱」になった「おつる」、郡上藩の「人柱」になった「凌霜隊」が重ねられていく。しかし、「おつる」も「凌霜隊」も「ただ一筋の道」を歩んでいくのである。
物語の中で、「凌霜隊」の一員であった岡本文造が自分たちを助けてくれた「おつる」に贈った誌が記され、「梅は白雪を凌ぎて 十分に香し」の言葉が記されている。この言葉が全てを物語っていると思う。
ちなみに、この言葉で北宋の詩人であった王安石の梅を歌った「寒を凌ぎて独り自ら開く」を思い起こした。この歌は、長く心に留めていたいと思っている。『裏葉菊』は、その文学性以上に優れた作品だと思う。
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