初冬のよく晴れた日になっている。今日で霜月も終わり、明日から師走に入る。師走はやはりなにかと気ぜわしいし、半ばにはキルケゴールについての話もすることになっているので少し籠もる日々になるのではないかと思い、今日は特に何もせずにのんびりすることにした。とはいえ、だいたいがいつものんびり過ごしているのだから、まあ、いつもと同じというところだろう。今日も変わらず「リンゴの木を植える」わけである。
二日ほどかけて、葉室麟『花や散るらん』(2009年 文藝春秋社)を深い感銘をもって読み終えた。読み始めてすぐに、これが、以前に大きな感動をもって読み終えた『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社)の続編に当たることを知って、もうそれだけで嬉しくなったのだが、読み進める中で同じようにぐいぐいと引き込まれて描き出された人物に魅了されてしまった。
前作『いのちなりけり』で、ただひたすら「いのちなりけり」と呼ぶほど愛する者に会うために死闘を繰り返し、16年の歳月をかけてようやく本当の夫婦となった雨宮蔵人と咲弥は、京都の鞍馬の田舎での落ち着いた生活をはじめるようになっていた。蔵人は茅葺き屋根の家の庭先に掘っ立て小屋を建てて柔術指南の道場を作ったが、まだ、ひとりも門弟はいずに家の廻りのわずかな土地を耕して畑を作ったり、自己鍛錬の日々を送ったりし、咲弥は、ときおり京都に出て和歌を教えたりしながら静かに暮らしていた。
冒頭の部分に、「女房(農家の主婦で蔵人夫妻を敬愛し、咲弥の京都行きについて行っている)が包みの中から取り出したのは手鞠だった。女の子(蔵人夫妻の子どもだが、実はわけありの子ども)は手鞠を受け取ると嬉しそうにポーンと宙に放り投げた。放たれた手鞠は女の子の手には戻らず、地面に落ちそうになった。女(咲弥)があっと思った時、落ちてきた手鞠を武士(蔵人)が片手で受け取っていた。
武士と女は顔を見合わせて笑った。二人はゆっくりと鞍馬街道を北へ歩き出した。荷を抱えた女房が後からついていく。
陽炎がたち、道沿いの白いハコベの花が揺れている。女の子の笑い声が遠く野にまで聞こえた」(6ページ)
という夫婦と小さな女の子の平穏で平和な姿が、実に見事な光景として描かれている。これが蔵人夫妻と娘の「香也」の鞍馬での姿である。そして、冒頭にこうした平和で温かい姿が描かれるということは、この平穏がやがては壊されていくことも暗示している。鞍馬の村人たちは、大柄で武骨で、決して美男子とは言えない蔵人と気品があって美しい咲弥が夫婦であるとは信じられず、特に咲弥が、公家や富商の妻や娘たちに和歌の指導をし、かつては水戸家の奥女中取締りをしていたと聞いて、まことに不釣り合いの夫婦として咲弥を憐れむほどであったが、次第に蔵人の人柄と力量に触れ、蔵人を尊敬するようになっていくのである。
蔵人夫妻と娘の世話をなにかとしてくれて、咲弥が京都に行くときには同行していた農家の女房は、牢人者たちが村に押し入って彼女の娘を人質に取った事件で、蔵人から娘を助け出されたことで、親身になって彼らの世話を買って出ているような女性で、蔵人の家族が鞍馬の村人から慕われるようになった象徴でもある。
しかし、こうした平穏な日々は、江戸と京都、幕府と朝廷の争いや、幕閣内での老中柳沢保明や吉良上野介の野望、江戸城大奥内での勢力争いという人間の欲によって打ち壊されていくのである。時は、ちょうど将軍徳川綱吉の母である桂昌院に従一位という身分を与えるかどうかで幕府と朝廷との間で隠れた争いが起こっていた時で、将軍徳川綱吉におもねるために柳沢保明は高家(礼儀作法を取り仕切る家柄)の吉良上野介を使って朝廷側に桂昌院の従一位を授けるように働きかけていた。吉良上野介は幕府の朝廷対策を担っていたのである。ここで吉良上野介の役割が大きくなったということは、この物語がやがては「忠臣蔵」に続く複線でもある。こういう構成も実にうまいと感心する。
吉良上野介はまた、それを自分の勲功としてさらなる地位の安泰を狙い、柳沢保明とはまた異なった思惑をもっていた。吉良上野介は高家であることを誇り、柳沢保明の素養を軽蔑しているところがあり、柳沢保明もそのことを快く思っていなかった。吉良上野介は自分の家臣であった神尾与右衛門を使って公家に金を貸し、その金で縛って公家の意見をまとめて思い通りに動かし、桂昌院に叙一位が降りるように画策していたのである。神尾与右衛門は剣の腕も相当にたつ。
幕府に対して快く思っていなかった朝廷側の指導的立場におり、雨宮蔵人夫妻の面倒もみてきていた中院通茂は、吉良上野介の陰謀を砕くために雨宮蔵人に神尾与右衛門を斬るように咲弥を通して依頼するが、咲弥は、恩義のある通茂の頼みでも、「蔵人殿は自分たちの都合などによって人を斬ったりしない」ときっぱりと断るのである。咲弥は蔵人を信頼し、その人柄をよく知っていて、そこに彼女の深い愛情がにじみ出ているのである。だが、事柄はそれで済まなくなっていく。
公家の借金については、雁金屋(天皇家の呉服御用達として財をなした呉服商)の息子であった絵師の尾形光琳が動いて、借金を返すことにしたが、今度は尾形光琳が狙われることになり、尾形光琳は雨宮蔵人のことを聞いて警護を依頼するのである。尾形光琳は鞍馬の雨宮家に身を隠す。そこを神尾与右衛門によって襲われたりするが、雨宮蔵人に守られる。そしてその時、娘の「香也」が拐かされそうになったりする。そして、、公家の借金返済の金を出す者が脅され、再び、桂昌院への従一位叙位への画策が始まっていく。蔵人と咲弥、娘の香也の廻りで、こうした事件が起こっていくのである。
他方、江戸では、桂昌院の従一位叙位の問題には、江戸城大奥内での勢力争いが絡んでおり、庶民育ちの桂昌院に女子で最高位の従一位などもってのほかだと思う公家方の出である綱吉の正室一派と、桂昌院や綱吉の愛妾であった「お伝の方」などの一派による争いがあったのである。特に、公家のであり大奥総支配であった右衛門佐(うえもんのすけ)は、正室「信子」と義母である桂昌院との長年の確執の中で桂昌院への叙位に強く反対していた。
そこには、将軍となった徳川綱吉がもっていた愛妾や、綱吉が自分の家臣であった牧野成貞の妻や娘をわが物としたり、柳沢保明の側室とも柳沢家で関係を持ったりした乱行があり、正室側としては不快感極まりないことがあって、それらが綱吉の母である桂昌院の身分が低かったことと関連して唾棄すべきことに思われたことが関連していたのである。徳川綱吉という人物は、「生類憐れみの令」もあるが、どこか欠如したところが多かった人物である。
桂昌院の従一位叙位に反対する右衛門佐は、朝廷を重んじる山鹿流軍学を学んだ赤穂浅野家の浅野内匠頭を使って、剣豪として著名になっていた浅野家の家臣堀部安兵衛によって吉良家の家臣であり公家の工作をしていた神尾与右衛門を討とうと画策するのである。そして、吉良家に近づくために浅野内匠頭を吉良上野介が指導する勅使饗応役に任じるように柳沢保明に命じるのである。大奥の意向は幕府の中で絶対的ともいえるものがあった。こうしたどろどろとした画策が、大奥、柳沢と吉良、朝廷内で繰り広げられていくのである。
だが、吉良上野介の陰謀で桂昌院への従一位の叙位は決められ、事柄が大事になる前に大奥での反対を抑えようとした中院通茂は、大奥の女性たちを鎮めるのには男子禁制である大奥に入ることのできる優れた人物が必要だと考え、蔵人の妻で才色兼備、水戸光圀にも仕えたことがある咲弥に大奥に行ってくれるように依頼するのである。そして、浅野家の取り潰しを防ぐためにも、咲弥は不承不承ではあるが、それを引き受け、蔵人と香也を残して江戸へ行く。
大奥に入った咲弥は、彼女の持つ技量を発揮して、正室の信子や右衛門佐を説得しようとするが、その時に、浅野内匠頭による殿中での刃傷事件が起こってしまうのである。そして、事柄は、いわゆる「忠臣蔵」へ向かって進んで行く。
浅野内匠頭がなぜそれまで経験のなかった勅使饗応役に任ぜられたのか、あるいは「忠臣蔵」の最も大きな謎とされている江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかるという刃傷沙汰をなぜ起こしたのか、小さ刀は突く以外に相手を討つことはできないのだが、彼が切腹覚悟でそこまでしておきながら吉良上野介の額を少し斬りつけたぐらいだったのはなぜか、そういうことが、朝廷と幕府、あるいは大奥内での勢力争いの確執を背景としていたということが本書では述べられていく。
また、京都で公家を操ろうとした吉良上野の家臣である神尾与右衛門の殺害を浅野家家臣で剣豪であった堀部安兵衛を使って行うことを大奥から命じらるが、堀部安兵衛から「武の義」を説かれて断られたことで窮地に追いやられて自らの犯行に及んだというように語られる。もちろん、これらは作者の「忠臣蔵」についての解釈である。そして、この解釈は大変興味深く、面白いと思う。
浅野内匠頭の刃傷事件によって吉良上野介が失脚し、それまでの権勢のすべてを失っていったことは事実で、それによって桂昌院への従一位の叙任が決定され、その勲功として柳沢保明に加増が認められてますます柳沢保明の権勢が強くなったのも事実である。こうした権力者たちのどろどろした姿が描かれるのには理由があり、それが後に明確にされていくのである。
この書物についてはまだ書き記したいことがたくさんあり、少し長くなってしまうので続きはまた次に記すことにする。
2011年11月30日水曜日
2011年11月28日月曜日
諸田玲子『きりきり舞い』
今にも雨が落ちてきそうな空模様になってきた。昨日からキリスト教の暦で「アドベント」と呼ばれる季節になり、アメリカの絵本作家で園芸家でもあったターシャ・テューダーの平凡な生活の中で嬉しいことをたくさん見出すという靜かで満ち足りた自給自足の生活を思い起こしたりした。普段以上にゆっくりと日々を過ごすこと、それがこの季節の日々かも知れない。
ここ数日、明治維新前後の作品を読んでいたが、昨日は、江戸中後期の戯作者十返舎一九を取り扱った諸田玲子『きりきり舞い』(2009年 光文社)を読んだ。
作者には比較的軽妙な文体で描かれた作品とシリアスな人間模様を描いた作品があるが、これは表題からも推測されるような軽妙な文体で綴られた作品の部類に入るだろう。『東海道中膝栗毛』で著名な十返舎一九の娘「舞」を主人公にし、破天荒だった父親や彼以上に破天荒だった葛飾北斎とその娘「お栄」などを登場させて、その絡みの中で十返舎一九の娘としての、その父親や彼女の恋などを描き出し、健気で明るく生きる姿を描いたものである。題材からして文体が軽妙になるのは理に適っていることだろう。
十返舎一九(1765-1831年)は、駿府(静岡県)の府中で駿府奉行所の同心の子として生まれ、本名を重田貞一(さだかつ)といい、武家育ちで、やがて駿府の町奉行であった小田切土佐守直年に仕え、小田切土佐守の江戸や大阪への移動に従って江戸や大阪に赴いたが、大阪で理由が不明のままに侍を捨てて材木商の入り婿となり、浄瑠璃作者の道を歩み始めている。近松門左衛門に影響を受けて近松余七の名で浄瑠璃を書いたりしていた。この辺りの十返舎一九を描いた松井今朝子『そろそろ旅に』(2008年 講談社)を前に面白く読んだことがある。『そろそろ旅に』では、十返舎一九はなかなかの人物として描かれている。
だが、そのころから破天荒で、やがて、放蕩が過ぎたのか、婿先の材木商から離縁され、江戸へ出てきて黄表紙や洒落本で有名な版元でもあった蔦屋重三郎の食客となり、そこで挿絵や浮世絵、版下、黄表紙を書き、また新たに入り婿に入って暮らしながら数々の作品を書いている。しかし、吉原での放蕩がたたり、ここでも入り婿先から離縁され、旅に出たりした。その後、滑稽本や洒落本を書きまくり、三度目の妻「お民」と結婚して、亀戸、橘町、深川佐賀町を転居しながら著作に専念し、通油町にあった地本問屋の会所(出版元が寄り合って出版のための寄り合い場所を作った)で暮らし、晩年もそこで過ごしている。46歳で眼病を病み、58歳の時に中風を病んだが、貧苦にあえぎながらも破天荒の生活は変わらず、日本で最初に文筆のみで生活し、年間の執筆量も20部以上という相当なものであった。三番目の妻「お民」との間に一女をもうけている。
本書では、その一九の娘の名前が「舞」とされる美女で、離縁された前妻の子となっており、その子を抱えて一九が「お民」のところに転がり込んで、「舞」は「お民」に育てられたことになっている。また、一九が、実は、武家として仕えた小田切土佐守の妾腹の子で、奉行職であった父親を助けるために、侍を捨てる格好で諸国を旅したりしてきたとされている。この辺りの詳細は、実はよくわからないところがあって、作者の想像も捨てたものではないのである。
物語は、その一九の娘「舞」が、小町娘と評判を取ってきたが、なかなか縁遠く、玉の輿に乗ることを夢見ている女性として登場するのである。そして、父親の一九がことごとく「舞」の縁談をぶちこわすところから始まり、地本問屋の会所で破天荒な生活を送りながらも娘の本当の幸せを願う父親としての一九と、ちゃきちゃきの江戸っ子娘である「舞」の姿が描かれていくのである。そして、謎の多い一九の生涯の秘密が、一九のかつての朋友の息子の仇討ちと関係して描かれていく仕掛けになっている。
一九の朋友の息子は、一九を訪ねて来て、そのまま居候としていつき、加えて北斎の娘の「お栄」が居候となり、それぞれが奇人変人で、自分勝手な暮らし方をしているので、同じ地本問屋の会所で暮らす「舞」はてんてこ舞いになるのである。
こういう中で、商家の若旦那や旗本の子息から縁談が持ち込まれ、「舞」も結婚を焦ったりするが、一九はことごとくぶちこわしてしまうのである。そして、それが実は、娘を真実に思う親心であることが次第にわかっていくし、女絵師として生きようとする北斎の娘「お栄」も、北斎がめちゃくちゃなことをしながらも自分の娘のことを大事にしていることがわかっていくというものである。
もちろん、洒落本を多作した一九を取り扱うのだから、先にも記したように、その破天荒ぶりを描く文体は、当然軽妙になるのだが、この作品では、それを醸し出そうとする無理が若干感じられるような気がした。「おかしさ」を文章や物語ですることは、もともと難しいことだが、仇討ちや一九の生涯の謎に迫るというシリアスな面をもつ内容なだけに、軽妙さがすこし浮いた感じがしたのである。
だが、作者の作品は、大体において好きな作品で、面白いことには変わりない。楽天的に生きることは江戸庶民の知恵でもあり、その知恵が発揮されて、物事を受け入れ、また受け流していくという姿勢は見上げたものだと思っているから、こうした作品でそれが描かれるのはわたしの好みでもある。「たくましく、したたかに、そして楽天的に」これが庶民の知恵というものだろう。
ここ数日、明治維新前後の作品を読んでいたが、昨日は、江戸中後期の戯作者十返舎一九を取り扱った諸田玲子『きりきり舞い』(2009年 光文社)を読んだ。
作者には比較的軽妙な文体で描かれた作品とシリアスな人間模様を描いた作品があるが、これは表題からも推測されるような軽妙な文体で綴られた作品の部類に入るだろう。『東海道中膝栗毛』で著名な十返舎一九の娘「舞」を主人公にし、破天荒だった父親や彼以上に破天荒だった葛飾北斎とその娘「お栄」などを登場させて、その絡みの中で十返舎一九の娘としての、その父親や彼女の恋などを描き出し、健気で明るく生きる姿を描いたものである。題材からして文体が軽妙になるのは理に適っていることだろう。
十返舎一九(1765-1831年)は、駿府(静岡県)の府中で駿府奉行所の同心の子として生まれ、本名を重田貞一(さだかつ)といい、武家育ちで、やがて駿府の町奉行であった小田切土佐守直年に仕え、小田切土佐守の江戸や大阪への移動に従って江戸や大阪に赴いたが、大阪で理由が不明のままに侍を捨てて材木商の入り婿となり、浄瑠璃作者の道を歩み始めている。近松門左衛門に影響を受けて近松余七の名で浄瑠璃を書いたりしていた。この辺りの十返舎一九を描いた松井今朝子『そろそろ旅に』(2008年 講談社)を前に面白く読んだことがある。『そろそろ旅に』では、十返舎一九はなかなかの人物として描かれている。
だが、そのころから破天荒で、やがて、放蕩が過ぎたのか、婿先の材木商から離縁され、江戸へ出てきて黄表紙や洒落本で有名な版元でもあった蔦屋重三郎の食客となり、そこで挿絵や浮世絵、版下、黄表紙を書き、また新たに入り婿に入って暮らしながら数々の作品を書いている。しかし、吉原での放蕩がたたり、ここでも入り婿先から離縁され、旅に出たりした。その後、滑稽本や洒落本を書きまくり、三度目の妻「お民」と結婚して、亀戸、橘町、深川佐賀町を転居しながら著作に専念し、通油町にあった地本問屋の会所(出版元が寄り合って出版のための寄り合い場所を作った)で暮らし、晩年もそこで過ごしている。46歳で眼病を病み、58歳の時に中風を病んだが、貧苦にあえぎながらも破天荒の生活は変わらず、日本で最初に文筆のみで生活し、年間の執筆量も20部以上という相当なものであった。三番目の妻「お民」との間に一女をもうけている。
本書では、その一九の娘の名前が「舞」とされる美女で、離縁された前妻の子となっており、その子を抱えて一九が「お民」のところに転がり込んで、「舞」は「お民」に育てられたことになっている。また、一九が、実は、武家として仕えた小田切土佐守の妾腹の子で、奉行職であった父親を助けるために、侍を捨てる格好で諸国を旅したりしてきたとされている。この辺りの詳細は、実はよくわからないところがあって、作者の想像も捨てたものではないのである。
物語は、その一九の娘「舞」が、小町娘と評判を取ってきたが、なかなか縁遠く、玉の輿に乗ることを夢見ている女性として登場するのである。そして、父親の一九がことごとく「舞」の縁談をぶちこわすところから始まり、地本問屋の会所で破天荒な生活を送りながらも娘の本当の幸せを願う父親としての一九と、ちゃきちゃきの江戸っ子娘である「舞」の姿が描かれていくのである。そして、謎の多い一九の生涯の秘密が、一九のかつての朋友の息子の仇討ちと関係して描かれていく仕掛けになっている。
一九の朋友の息子は、一九を訪ねて来て、そのまま居候としていつき、加えて北斎の娘の「お栄」が居候となり、それぞれが奇人変人で、自分勝手な暮らし方をしているので、同じ地本問屋の会所で暮らす「舞」はてんてこ舞いになるのである。
こういう中で、商家の若旦那や旗本の子息から縁談が持ち込まれ、「舞」も結婚を焦ったりするが、一九はことごとくぶちこわしてしまうのである。そして、それが実は、娘を真実に思う親心であることが次第にわかっていくし、女絵師として生きようとする北斎の娘「お栄」も、北斎がめちゃくちゃなことをしながらも自分の娘のことを大事にしていることがわかっていくというものである。
もちろん、洒落本を多作した一九を取り扱うのだから、先にも記したように、その破天荒ぶりを描く文体は、当然軽妙になるのだが、この作品では、それを醸し出そうとする無理が若干感じられるような気がした。「おかしさ」を文章や物語ですることは、もともと難しいことだが、仇討ちや一九の生涯の謎に迫るというシリアスな面をもつ内容なだけに、軽妙さがすこし浮いた感じがしたのである。
だが、作者の作品は、大体において好きな作品で、面白いことには変わりない。楽天的に生きることは江戸庶民の知恵でもあり、その知恵が発揮されて、物事を受け入れ、また受け流していくという姿勢は見上げたものだと思っているから、こうした作品でそれが描かれるのはわたしの好みでもある。「たくましく、したたかに、そして楽天的に」これが庶民の知恵というものだろう。
2011年11月25日金曜日
火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』
霜月も押し詰まってくると、めっきり冬らしくなり、朝晩の冷え込みも激しくなる。都内の会議などで遅く帰宅すると部屋が冷え切り「おお、寒!」と思わず口走ったりする。この2~3日は冬型の気圧配置で晴れてはいるが気温は低い。数日前に、霙か雹がバラバラと降り驚いたりした。
このところ明治初期を取り扱った作品を続けて読んでいるが、明治維新はすべての価値観の大転換をもたらし、あまり優れてもいない薩長の人たちが現代日本の中途半端な構造をほぼ作ってしまった功罪があるので、これが大きな問題だったと思っているが、それでもまだ、混乱と貧苦にあえぎながらも「志」や「矜持」というのを人が大切にした時代ではあっただろう。日本の社会ということを考えるときには、あのあたりから問い直す必要があるとは思っている。
そういう中で、同じく明治初期の頃の京都を舞台にした火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』(2004年 実業之日本社)を面白く読んだ。前作の『骨董屋征次郎手控』(2001年 実業之日本社)は、幕末のころの京都を背景にしていた。前作を読んだのはいつだろうかと思って調べてみたら、昨年の10月5日で、一年ぶりに続編を読んだことになる。
「骨董屋征次郎」は、幕末のころ、京都の八坂塔下の夢見坂に骨董屋「遊壷堂」を開いている主人公の柚木征次郎が、骨董の売買に絡むいくつかの事件に関わっていく話で、短編連作の形式が採られながらも、物語が続いていく構成になっている。
主人公の征次郎は、金沢前田家の武家の息子であったが、父親が藩主の骨董の売買に絡む詐欺事件で自死した後、骨董品の目利きの修行をして、優れた真贋を見抜く力を発揮し、骨董の売買に絡む裏事情を明らかにしていくというものである。骨董は高価なだけに、そこには様々な歴史と事情が渦巻いている。そういう中で、真贋を見抜く目だけが頼りであり、勢い、本物と偽物という問題が浮上してくるのである。征次郎には芸妓の「小染」という恋人がいるが、彼女との結婚に悩みながらも、骨董商売を通して「本物」を目指していくのである。
本作には「敦盛」、「わくら葉」、「海の音」、「五条坂」、「鴨川」、「仇討ち」、「冴ゆる月」、「夢見坂」の8編が記され、一応の完結編となっている。
「敦盛」は、征次郎の友人であり、店を持たずに骨董の売買をして稼いでいる兼吉が一人の武士を骨董商売の見習いとして連れてくるところから始まり、武士は佐伯逸馬と名乗り、武士を辞め、両刀をすてて骨董屋になりたいという。彼の骨董品を見る目もかなりなものがあり、征次郎は逸馬を引き受けて骨董商売のあれこれを教えていく。
だが、佐伯逸馬は、かつて勤王攘夷の志士として、能楽の「敦盛」の面をつけて京都で人を斬りまくった経験を持つ。しかし、志士として活躍したが、新政府になっても報われずに、官吏につくことを餌に新政府に謀反を企てた者の暗殺を引き受けるのである。
「それで、あんたに夜明けは来たのかい」と問う征次郎に、「いや、、まだ真っ暗闇のなかだ」と答えるくだりが、この時代に置かれた薩長以外の志士たちの現状をよく伝える会話になっている(23ページ)。
物語は、佐伯逸馬が暗殺者として利用されていることを知った征次郎が、暗殺実行の直前に「変わっていく時世のなかで、苦労しているのはあんただけじゃない」(43ページ)と語って彼を止め、逸馬がその後姿を消したところで終わる。多くの武士が職を失い、世の中が全部ひっくり返った状況の中で、一人の武士の哀れな姿が描き出されて、「確かに、こういう人物も多くいただろう」と思わせられるし、一方で、世の中が変わっても変わらない「本物」を求めていく征次郎の諦念にも似た生き方が光る展開でもある。
第二話「わくら葉」は、日本の名品の多くが海外に流出し初め、それを扱う「鳥羽ノ市」と称される闇市場が鳥羽にできて、財政難に陥った大名が手放した家宝を「鳥羽ノ市」で取り戻すために征次郎が「鳥羽ノ市」に潜り込み、手放された家宝を買い戻していく話である。「鳥羽ノ市」で競りが行われるが、大名家の家宝は高額で落札され人手に渡ってしまう。落札したのは、生糸で大もうけをした新興の成金で、征次郎は大名家のさらなる依頼でその成金のところに家宝を買い戻しに行く。そして、そこで成金の後妻になっているかつての恋人「美夜」と偶然に出会うのである。
「美夜」は、征次郎が夢見坂の骨董屋「遊壷堂」の店を出したばかりの時に、夫婦約束までした恋人であった。だが、彼を裏切り、役者修業の若者と駆け落ちした女性だった。彼女は駆け落ちした男ととはすぐに別れ、神戸の異人館に働きに出たところを成金に見そめられて後妻となったのである。
「美夜」は、「許して、征次郎さん」、「あのときは、私が悪かった。じつのない男のうわべだけの言葉にだまされて・・・。いま、私がこんな辛い思いをしているのは、あなたを裏切った報いです」と言って征次郎にすがりつくのである(72ページ)。そして、彼女の夫が留守をしているときに有馬温泉に誘い、征次郎も思わず彼女と一緒に有馬温泉に行ってしまう。
だが、すんでの所で、温泉宿の庭にさいていた白萩を見て、恋人の「小染」と萩を見に行く約束を思い起こして征次郎は帰っていく。「小染」は征次郎の帰りを赤だしの味噌汁などを作って待ち続けていた。「美夜」は、その後、成金の屋敷に仕えていた若い男と駆け落ちしたという。征次郎は「小染」への想いを改めて心に刻んでいくのである。
男を、あたかも誠実を装いながら自分の道具として手玉に取る魔性のような女性、女を平然と利用して裏切るうわべだけの男性、そんな男女の薄幸を感じる物語である。「美夜」のような女性は、どんな男と一緒になっても充実感とは無縁のところで生きるのだろうと思ったりもする。すんでの所で引き返した征次郎は、「小染」との深く満たされた愛情の中を生きていくことになる。
第三話「海の音」は、没落した越前三国の豪商の骨董品を買いつけに、征次郎と兼吉が三国まで出かけて行き、そこで高価な骨董品を手放して金に換えたいという芸妓の「夕霧太夫」に出会う話である。「夕霧」は、芸妓ではあるが美貌と教養を兼ね備え、特に優れた俳句を詠んだ。かつては越後長岡藩の家老の娘だったという。
越後長岡藩は、戊辰戦争の時に、独立を志した極めて優れた家老の河井継之助に率いられて西洋化を行い、薩長軍と戦ったが、敗れ、そのために長岡城下は焼け野原となった。その時の家老の一人であった「夕霧」の父親は人々から憎まれ、残された家族は長岡にいづらくなって、「夕霧」は病の母親の薬を買うために身を売ったのである。
彼女には旧長岡藩士の惚れた男がいて、客が貢いだ高価な骨董品を売って金を作り、その男に貢いでいたのである。男は、蝦夷地(北海道)で立ち上げることになっている鉄道馬車会社の代表にしてやると騙されて夕霧が作った金を使っていたのである。
そのことを知った征次郎は、「夕霧」と夕霧が惚れた男、そして彼を騙した男たちが繰り広げていた愁嘆場に駆けつけて「夕霧」と彼女の惚れている男を助けていくのである。
これも第一話「敦盛」と同じように、変動した社会に取り残された男の焦りのようなものを描いた作品で、特に、生き残った旧長岡藩士たちは内外共に辛苦を抱えなければならなかったから、新しい社会の中で焦る男の心情は哀れで、その男に心底惚れ込んでいる「夕霧」の心だけが光る物語であり、「変わらない本物」をもとうとする征次郎の姿が刻まれるような物語である。
第四話「五条坂」は、贋作を作る男の哀れを描いた物語である。優れた陶芸の技量を持ちながらも、贋作作りに利用され、「贋作も本物だ」と言い張り、家族を捨ててそれに邁進した男が、やがて自分の娘のために再び贋作作りに利用されるが、娘は健気に生きており、そんな金で幸せは買えないと言い切る話で、物語の結末で、贋作作りの娘の貧しくても真実を求める姿に触れながら、「真物は、たとえ技がつたなくとも、必ず人の心に響く物だ」(163ページ)という言葉が光っている。
人にしろ、物にしろ、真偽の判断というのは、実は本当に難しいと、わたしもつくづく思う。ただ、人の心に響く物が本物というのは、真実だと思う。どんな華美な装いも、どんなに由緒があろうとも、あるいはどんなに優れて見えようとも、偽物は心に響かない。そして、どんなに外見がみすぼらしくて、知識も教養もなく、誇るべきものが何もないように見えようとも、本物は本物だけがもつ響きをもつ。わたしもそう思う。だが、虚偽に満ちた現代社会の中で本物に出会うことは難しくなった。
第五話「鴨川」は、明治5年(1872年)に京都で開かれた日本最初の博覧会であった京都博覧会を題材に、その裏で国宝である正倉院御物の外国人相手の不正取引が行われているのではないかと、京都でかつて岡っ引きをしていた文太親分が調べに来たのを機に、日本の歴史と美の集約でもあるような正倉院宝物殿の宝を安易に金儲けのために流出させるようなことがあってはならないと思い、征次郎がその裏取引を暴いて阻止しようとする話である。
しかし、そこには明治政府の財政難を打開するための政府高官が絡んでおり、その裏取引が新政府そのものの謀略であることがわかり、岡っ引きの文太は殺されて遺体が鴨川に浮かべられた。だが、文太は岡っ引きの意地を見せて、売り渡されそうになった正倉院の宝物を取り戻して、征次郎に託していたことがわかるのである。そして、その年の夏、明治政府は正倉院を調査し、目録を作成し、以後はその流出が止まった、というものである。
第六話「仇討ち」は、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて旧藩がなくなったにも関わらず、殺された父親の仇を討つために諸国を巡っていた兄妹が、生活費のために家宝の陣羽織を征次郎の骨董屋「遊壷堂」に売りに来たところから始まり、征次郎がこの兄妹の仇討ち事件に関わっていく話である。
兄妹が仇と狙う相手は、「小染」も世話になったことがある腕利きの医者で、5~6歳の男の子がおり、彼が兄妹の父親を殺したのは、維新前に藩の御典医として力を持っていた彼を彼らの父親が闇討ちしようとしたのを防いだためだった。だが、兄妹は、意地で仇討ちをするという。そして、いよいよ果たし合いとなり、医者はもう自分が殺されてもいいと思っていたが、彼の息子がそこに飛び込んでくるのである。征次郎はその場に駆けつけ、父親を庇おうとする子どもを前に、仇討ちが無限に続く愚かなことだと兄妹にさとすのである。仇討ちをしても、帰るべき藩はもうない。明治政府が仇討ち禁止令を出す明治6年(1873年)の前の出来事である。
第七話「冴ゆる月」は、国宝である正倉院の宝物の流出事件で流出したといわれる「三十六歌仙絵」に絡む儲け話で一儲けした兼吉が、警固方(警察)に捕縛された事件の顛末を描いたものである。兼吉の儲け話と捕縛には裏があり、兼吉を救い出そうと征次郎は奔走する。そこに征次郎の父親を自決に追い込んだかつての江戸幕府の密偵であった猪熊玉堂が絡んでおり、京都の香具師を束ねる元締めなども絡んでくる。この第七話では、兼吉を直接罠に嵌めた香具師の元締めの片腕とも呼ばれる男を征次郎が見つけ出して捕らえ、警固方につきだしたことで兼吉の疑いが晴れて、兼吉が釈放されるところで終わるが、この事件は次の第八話「夢見坂」に繋がっていく。
従って、第八話「夢見坂」は、第七話で語られた事件が尾を引いていく展開で、その事件に、実は京都府参事(次官クラス)と猪熊玉堂、そして香具師の元締めが京都府振興策の推進のための賄賂の捻出が絡んでいることが明らかにされるのである。事件の核心に近づいていた征次郎を葬り去ろうと、恋人の「小染」が人質として誘拐される。そして、征次郎は「小染」を助けるために単身でその罠の中に飛び込んみ、命をかけて「小染」を守ろうとするのである。
だが、あわやこれまでというところで、濡れ手で粟を企み傲慢な京都府参事に比べ、愛する者のために命を張る征次郎の男気に打たれた香具師の元締めが思いを返して、征次郎と「小染」は助かるのである。そして、長い間、自分と夫婦になれば「小染」は苦労するのではないかと結婚を逡巡していた征次郎は、「何があっても、おれはこの夢見坂で生きていくよ」と語り、「征さんの行く道なら、私もついていきます」と「小染」が答えて、二人は夫婦になって行くところで完結するのである。
激動し、猫の目のようにくるくると変わっていく社会の中で、変わろうとしても変わることができずに旧態に生きる者や時代に翻弄されていく者、巧妙に立ち回ろうとする者、そうした人間模様の中で、「真物」を見つけようとし、本物を目利きしていく骨董屋の姿を通して、「本物であること」を目指す人間の姿がこの作品で描かれているのである。
作者には戦国武将たちを取り扱った作品が多くあるが、いずれも「本物をめざす」という視点は共通しているのかも知れない。個人的に骨董の世界とは無縁であるが、いいものを見極めるような目はもちたい。眼力や聞き分ける力、感じ取る力を養うためには、可能な限り本物に接していくことが肝心で、「いいものを見、いいことを聞き、よい香りをかいで、本物の人と交わり、美しい言葉を語り、感性を養っていく」そういうことに人生を使いたいと改めて思ったりした。
このところ明治初期を取り扱った作品を続けて読んでいるが、明治維新はすべての価値観の大転換をもたらし、あまり優れてもいない薩長の人たちが現代日本の中途半端な構造をほぼ作ってしまった功罪があるので、これが大きな問題だったと思っているが、それでもまだ、混乱と貧苦にあえぎながらも「志」や「矜持」というのを人が大切にした時代ではあっただろう。日本の社会ということを考えるときには、あのあたりから問い直す必要があるとは思っている。
そういう中で、同じく明治初期の頃の京都を舞台にした火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』(2004年 実業之日本社)を面白く読んだ。前作の『骨董屋征次郎手控』(2001年 実業之日本社)は、幕末のころの京都を背景にしていた。前作を読んだのはいつだろうかと思って調べてみたら、昨年の10月5日で、一年ぶりに続編を読んだことになる。
「骨董屋征次郎」は、幕末のころ、京都の八坂塔下の夢見坂に骨董屋「遊壷堂」を開いている主人公の柚木征次郎が、骨董の売買に絡むいくつかの事件に関わっていく話で、短編連作の形式が採られながらも、物語が続いていく構成になっている。
主人公の征次郎は、金沢前田家の武家の息子であったが、父親が藩主の骨董の売買に絡む詐欺事件で自死した後、骨董品の目利きの修行をして、優れた真贋を見抜く力を発揮し、骨董の売買に絡む裏事情を明らかにしていくというものである。骨董は高価なだけに、そこには様々な歴史と事情が渦巻いている。そういう中で、真贋を見抜く目だけが頼りであり、勢い、本物と偽物という問題が浮上してくるのである。征次郎には芸妓の「小染」という恋人がいるが、彼女との結婚に悩みながらも、骨董商売を通して「本物」を目指していくのである。
本作には「敦盛」、「わくら葉」、「海の音」、「五条坂」、「鴨川」、「仇討ち」、「冴ゆる月」、「夢見坂」の8編が記され、一応の完結編となっている。
「敦盛」は、征次郎の友人であり、店を持たずに骨董の売買をして稼いでいる兼吉が一人の武士を骨董商売の見習いとして連れてくるところから始まり、武士は佐伯逸馬と名乗り、武士を辞め、両刀をすてて骨董屋になりたいという。彼の骨董品を見る目もかなりなものがあり、征次郎は逸馬を引き受けて骨董商売のあれこれを教えていく。
だが、佐伯逸馬は、かつて勤王攘夷の志士として、能楽の「敦盛」の面をつけて京都で人を斬りまくった経験を持つ。しかし、志士として活躍したが、新政府になっても報われずに、官吏につくことを餌に新政府に謀反を企てた者の暗殺を引き受けるのである。
「それで、あんたに夜明けは来たのかい」と問う征次郎に、「いや、、まだ真っ暗闇のなかだ」と答えるくだりが、この時代に置かれた薩長以外の志士たちの現状をよく伝える会話になっている(23ページ)。
物語は、佐伯逸馬が暗殺者として利用されていることを知った征次郎が、暗殺実行の直前に「変わっていく時世のなかで、苦労しているのはあんただけじゃない」(43ページ)と語って彼を止め、逸馬がその後姿を消したところで終わる。多くの武士が職を失い、世の中が全部ひっくり返った状況の中で、一人の武士の哀れな姿が描き出されて、「確かに、こういう人物も多くいただろう」と思わせられるし、一方で、世の中が変わっても変わらない「本物」を求めていく征次郎の諦念にも似た生き方が光る展開でもある。
第二話「わくら葉」は、日本の名品の多くが海外に流出し初め、それを扱う「鳥羽ノ市」と称される闇市場が鳥羽にできて、財政難に陥った大名が手放した家宝を「鳥羽ノ市」で取り戻すために征次郎が「鳥羽ノ市」に潜り込み、手放された家宝を買い戻していく話である。「鳥羽ノ市」で競りが行われるが、大名家の家宝は高額で落札され人手に渡ってしまう。落札したのは、生糸で大もうけをした新興の成金で、征次郎は大名家のさらなる依頼でその成金のところに家宝を買い戻しに行く。そして、そこで成金の後妻になっているかつての恋人「美夜」と偶然に出会うのである。
「美夜」は、征次郎が夢見坂の骨董屋「遊壷堂」の店を出したばかりの時に、夫婦約束までした恋人であった。だが、彼を裏切り、役者修業の若者と駆け落ちした女性だった。彼女は駆け落ちした男ととはすぐに別れ、神戸の異人館に働きに出たところを成金に見そめられて後妻となったのである。
「美夜」は、「許して、征次郎さん」、「あのときは、私が悪かった。じつのない男のうわべだけの言葉にだまされて・・・。いま、私がこんな辛い思いをしているのは、あなたを裏切った報いです」と言って征次郎にすがりつくのである(72ページ)。そして、彼女の夫が留守をしているときに有馬温泉に誘い、征次郎も思わず彼女と一緒に有馬温泉に行ってしまう。
だが、すんでの所で、温泉宿の庭にさいていた白萩を見て、恋人の「小染」と萩を見に行く約束を思い起こして征次郎は帰っていく。「小染」は征次郎の帰りを赤だしの味噌汁などを作って待ち続けていた。「美夜」は、その後、成金の屋敷に仕えていた若い男と駆け落ちしたという。征次郎は「小染」への想いを改めて心に刻んでいくのである。
男を、あたかも誠実を装いながら自分の道具として手玉に取る魔性のような女性、女を平然と利用して裏切るうわべだけの男性、そんな男女の薄幸を感じる物語である。「美夜」のような女性は、どんな男と一緒になっても充実感とは無縁のところで生きるのだろうと思ったりもする。すんでの所で引き返した征次郎は、「小染」との深く満たされた愛情の中を生きていくことになる。
第三話「海の音」は、没落した越前三国の豪商の骨董品を買いつけに、征次郎と兼吉が三国まで出かけて行き、そこで高価な骨董品を手放して金に換えたいという芸妓の「夕霧太夫」に出会う話である。「夕霧」は、芸妓ではあるが美貌と教養を兼ね備え、特に優れた俳句を詠んだ。かつては越後長岡藩の家老の娘だったという。
越後長岡藩は、戊辰戦争の時に、独立を志した極めて優れた家老の河井継之助に率いられて西洋化を行い、薩長軍と戦ったが、敗れ、そのために長岡城下は焼け野原となった。その時の家老の一人であった「夕霧」の父親は人々から憎まれ、残された家族は長岡にいづらくなって、「夕霧」は病の母親の薬を買うために身を売ったのである。
彼女には旧長岡藩士の惚れた男がいて、客が貢いだ高価な骨董品を売って金を作り、その男に貢いでいたのである。男は、蝦夷地(北海道)で立ち上げることになっている鉄道馬車会社の代表にしてやると騙されて夕霧が作った金を使っていたのである。
そのことを知った征次郎は、「夕霧」と夕霧が惚れた男、そして彼を騙した男たちが繰り広げていた愁嘆場に駆けつけて「夕霧」と彼女の惚れている男を助けていくのである。
これも第一話「敦盛」と同じように、変動した社会に取り残された男の焦りのようなものを描いた作品で、特に、生き残った旧長岡藩士たちは内外共に辛苦を抱えなければならなかったから、新しい社会の中で焦る男の心情は哀れで、その男に心底惚れ込んでいる「夕霧」の心だけが光る物語であり、「変わらない本物」をもとうとする征次郎の姿が刻まれるような物語である。
第四話「五条坂」は、贋作を作る男の哀れを描いた物語である。優れた陶芸の技量を持ちながらも、贋作作りに利用され、「贋作も本物だ」と言い張り、家族を捨ててそれに邁進した男が、やがて自分の娘のために再び贋作作りに利用されるが、娘は健気に生きており、そんな金で幸せは買えないと言い切る話で、物語の結末で、贋作作りの娘の貧しくても真実を求める姿に触れながら、「真物は、たとえ技がつたなくとも、必ず人の心に響く物だ」(163ページ)という言葉が光っている。
人にしろ、物にしろ、真偽の判断というのは、実は本当に難しいと、わたしもつくづく思う。ただ、人の心に響く物が本物というのは、真実だと思う。どんな華美な装いも、どんなに由緒があろうとも、あるいはどんなに優れて見えようとも、偽物は心に響かない。そして、どんなに外見がみすぼらしくて、知識も教養もなく、誇るべきものが何もないように見えようとも、本物は本物だけがもつ響きをもつ。わたしもそう思う。だが、虚偽に満ちた現代社会の中で本物に出会うことは難しくなった。
第五話「鴨川」は、明治5年(1872年)に京都で開かれた日本最初の博覧会であった京都博覧会を題材に、その裏で国宝である正倉院御物の外国人相手の不正取引が行われているのではないかと、京都でかつて岡っ引きをしていた文太親分が調べに来たのを機に、日本の歴史と美の集約でもあるような正倉院宝物殿の宝を安易に金儲けのために流出させるようなことがあってはならないと思い、征次郎がその裏取引を暴いて阻止しようとする話である。
しかし、そこには明治政府の財政難を打開するための政府高官が絡んでおり、その裏取引が新政府そのものの謀略であることがわかり、岡っ引きの文太は殺されて遺体が鴨川に浮かべられた。だが、文太は岡っ引きの意地を見せて、売り渡されそうになった正倉院の宝物を取り戻して、征次郎に託していたことがわかるのである。そして、その年の夏、明治政府は正倉院を調査し、目録を作成し、以後はその流出が止まった、というものである。
第六話「仇討ち」は、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて旧藩がなくなったにも関わらず、殺された父親の仇を討つために諸国を巡っていた兄妹が、生活費のために家宝の陣羽織を征次郎の骨董屋「遊壷堂」に売りに来たところから始まり、征次郎がこの兄妹の仇討ち事件に関わっていく話である。
兄妹が仇と狙う相手は、「小染」も世話になったことがある腕利きの医者で、5~6歳の男の子がおり、彼が兄妹の父親を殺したのは、維新前に藩の御典医として力を持っていた彼を彼らの父親が闇討ちしようとしたのを防いだためだった。だが、兄妹は、意地で仇討ちをするという。そして、いよいよ果たし合いとなり、医者はもう自分が殺されてもいいと思っていたが、彼の息子がそこに飛び込んでくるのである。征次郎はその場に駆けつけ、父親を庇おうとする子どもを前に、仇討ちが無限に続く愚かなことだと兄妹にさとすのである。仇討ちをしても、帰るべき藩はもうない。明治政府が仇討ち禁止令を出す明治6年(1873年)の前の出来事である。
第七話「冴ゆる月」は、国宝である正倉院の宝物の流出事件で流出したといわれる「三十六歌仙絵」に絡む儲け話で一儲けした兼吉が、警固方(警察)に捕縛された事件の顛末を描いたものである。兼吉の儲け話と捕縛には裏があり、兼吉を救い出そうと征次郎は奔走する。そこに征次郎の父親を自決に追い込んだかつての江戸幕府の密偵であった猪熊玉堂が絡んでおり、京都の香具師を束ねる元締めなども絡んでくる。この第七話では、兼吉を直接罠に嵌めた香具師の元締めの片腕とも呼ばれる男を征次郎が見つけ出して捕らえ、警固方につきだしたことで兼吉の疑いが晴れて、兼吉が釈放されるところで終わるが、この事件は次の第八話「夢見坂」に繋がっていく。
従って、第八話「夢見坂」は、第七話で語られた事件が尾を引いていく展開で、その事件に、実は京都府参事(次官クラス)と猪熊玉堂、そして香具師の元締めが京都府振興策の推進のための賄賂の捻出が絡んでいることが明らかにされるのである。事件の核心に近づいていた征次郎を葬り去ろうと、恋人の「小染」が人質として誘拐される。そして、征次郎は「小染」を助けるために単身でその罠の中に飛び込んみ、命をかけて「小染」を守ろうとするのである。
だが、あわやこれまでというところで、濡れ手で粟を企み傲慢な京都府参事に比べ、愛する者のために命を張る征次郎の男気に打たれた香具師の元締めが思いを返して、征次郎と「小染」は助かるのである。そして、長い間、自分と夫婦になれば「小染」は苦労するのではないかと結婚を逡巡していた征次郎は、「何があっても、おれはこの夢見坂で生きていくよ」と語り、「征さんの行く道なら、私もついていきます」と「小染」が答えて、二人は夫婦になって行くところで完結するのである。
激動し、猫の目のようにくるくると変わっていく社会の中で、変わろうとしても変わることができずに旧態に生きる者や時代に翻弄されていく者、巧妙に立ち回ろうとする者、そうした人間模様の中で、「真物」を見つけようとし、本物を目利きしていく骨董屋の姿を通して、「本物であること」を目指す人間の姿がこの作品で描かれているのである。
作者には戦国武将たちを取り扱った作品が多くあるが、いずれも「本物をめざす」という視点は共通しているのかも知れない。個人的に骨董の世界とは無縁であるが、いいものを見極めるような目はもちたい。眼力や聞き分ける力、感じ取る力を養うためには、可能な限り本物に接していくことが肝心で、「いいものを見、いいことを聞き、よい香りをかいで、本物の人と交わり、美しい言葉を語り、感性を養っていく」そういうことに人生を使いたいと改めて思ったりした。
2011年11月23日水曜日
高橋義夫『メリケンざむらい』
今日はよく晴れていて、澄みきった碧空が広がっている。日毎に寒さが強く感じられるようになってきてはいるが、今日のような素敵な天気の休日にはぶらぶらと近所を歩くのも悪くはない。花屋の店先では、シクラメンやポインセチアが色鮮やかに並べられ、苦労の多かったこの一年にも慰めを与えてくれている。
前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。
米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。
米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。
安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。
1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。
養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。
帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。
慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。
米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。
失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。
米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。
「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。
本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。
歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。
前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。
米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。
米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。
安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。
1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。
養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。
帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。
慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。
米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。
失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。
米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。
「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。
本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。
歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。
2011年11月21日月曜日
出久根達郎『萩のしずく』
朝晩の冷え込みが次第に厳しくなって、雲間から時おり弱い初冬の光が差し、冬枯れた光景が広がるようになってきた。朝から寝具のシーツなどを洗濯し、掃除をしていたら、なんだか昨日の疲れが残っているのか、若干の怠さを覚えてしまった。「こんなことではいけないなあ」と思うし、すべきことはたくさんあるのだが、なかなか気分が乗らない。
それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。
樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。
則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。
この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。
父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。
しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。
そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。
半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。
今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。
『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。
本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。
直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。
しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。
それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。
樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。
則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。
この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。
父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。
しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。
そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。
半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。
今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。
『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。
本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。
直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。
しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。
2011年11月18日金曜日
風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』
今にも雨を落としそうな雲が垂れ込めて気温が低く寒い。本格的な冬の寒さが訪れているわけではないが、寒さに気持ちが沈んでいくような天候ではある。コートやダウンジャケットの人が多くなっている。最近、ヨーロッパとアメリカの経済の疲弊から、この国では環太平洋経済連携協定(TTP)とかアジア経済圏構想とかいうことが取り沙汰されるようになったが、ふと、第二次世界大戦の前に北一輝が提唱した「大東亜共栄圏」という思想のことを思い起こした。
今の世界で無謀な侵略という発想はないだろうが、経済繁栄ということを第一義的に考えていくとどうしてもそういう発想になるのだろうと思う。国民の幸福感を第一義に志向するブータンの国王が来日しているが、どういう幸福感をもつかが根本的に問われている時代に突入しているのだろうと思う。人の幸いは愛以外には満たされない。そして、愛はささやかなものである。そのささやかさの中に無限の充実感があるとき、人は生きている喜びを最も感じることができるのだろう。
閑話休題。過日に仙台に行った折りに駅の本屋で買ってきていた風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』(2011年 幻冬舎文庫)を一息に読んだので記しておこう。文庫本の裏表紙の宣伝文句によれば、これはこれから始まるシリーズの第一作目という作品で、毎月の発行予定らしく、たぶん、もう既にいくつかの作品が発行されている。
風野真知雄の作品は友人が『耳袋秘帖』という根岸肥前守を取り扱ったシリーズ作品を紹介してくれたことで読み始めたのだが、文庫本の帯に100冊刊行記念とあるから、相当な量の作品を書かれているようで、こういう仕事量の多い作家は、内容はともかく、書くためには根を詰めねばならず、それだけでも敬服に値する。わたしのような怠け者にはとうていできないことである。
『女だてら 麻生わけあり酒場』は、麻布の高台にある居酒屋の、料理上手で聞き上手で、人柄も美貌ももつ女将の「おこう」を慕って、隠居した元同心の星川勢七郎や瓦版屋の源蔵、元は大店の若旦那でどこか曰くありげな日之助が、それぞれに「おこう」への想いを抱いて集まってきていたが、その「おこう」の店が火事に遭い、「おこう」が死んでしまうところから始まる。
この始まりは、ちょっと意表を突く始まりで、「おこう」を特別に慕う三人には、それぞれの事情があるから、これから「おこう」の店で「おこう」を中心にしてそれぞれの生活が描かれるのかと思ったら、中心になるべき「おこう」が早々に死んでしまうのであるから、その後どういう展開になるのだろうかと興味をかき立てる設定になっていた。
隠居した元同心の星川勢七郎は、家督を息子に譲り、妻も亡くし、役宅を出て、五十も半ばを過ぎて麻布坂下町の長屋に気楽な独り暮らしをしている。自分ではまだまだと思って、暇な年寄りや隠居爺にはなりたくないし、苦手な息子の嫁の機嫌を取って暮らすつもりは毛頭なく、身の廻りのことは自分でして、「おこう」に惚れながら「おこう」の店に通っている。剣の腕は相当に立つ。
瓦版屋の源蔵は、面白おかしく記事を書いて瓦版を発行していたが、その瓦版に書いた記事が原因で脅しをかけられている。どうやら相当の大物がその背後にいるらしく、しばらくは瓦版も発行することができない状態に陥っている。「おこう」の店で知り合った元同心の星川勢七郎に相談したりしている。源蔵は時々川柳も作ったりする。
元大店の若旦那である日之助は、相場で損をさせて丸ごと乗っ取るというような札差である父親の商売のやり方に楯突いて勘当されている。日之助は父親が見つけてきた二人の嫁とともうまくいかずに、二度離婚しているし、父親は腹違いの弟に店を継がせたいと思っていた。そして、商売上のことで楯を突いた日之助を300両の金をつけて勘当したのである。住んでいた店の別宅も出て行かなければならず、さて、これから何をしようかと思い悩むが、とりわけて才能もない。ただ、贅沢な暮らしをしてきただけに味覚が鋭く、味の微妙な違いがわかって、「おこう」の作る料理が並外れていることを知っている。だが、金目のものは盗まずに変なものばかりを盗むような忍び込むことが目的の「紅蜘蛛小僧」という異名をもつ盗癖がある。
、この三人が、火事になった「おこう」の店に駆けつけるが、「おこう」は飼い猫の「みかん」を助けようとして逃げ遅れ、炎に包まれていくのである。「おこう」には「おこう」の人生があり、その人生は誰にも知られてはいなかったが、自分の子どもを捨てなければならなくなり、後で探したが行くへ不明のままになっている娘がいたのである。
「おこう」が火事で焼け死んだ後、火事の火元がどうやら「おこう」の店の中らしく、火の始末をきちんとしていた「おこう」が火事を出すはずはないと出火に疑念をもちながらも、三人は焼け跡で「おこう」の骨を拾い集め、「おこう」の遺骨を回り持ちで保管することにし、「おこう」が可愛がっていた犬と猫もそれぞれで引き取ることにする。それぞれが無念でならずに、「おこう」がいた有り難みをしみじみ感じながら日々を過ごしていくが、喪失感は埋めようがなく、「おこう」の初七日に再び焼け跡に集まってきて「おこう」の思い出を語り出したりする。
そして、やって来た土地の岡っ引きから火事の夜に若い男が「おこう」の店にやって来ていたことをきき、これが付け火(放火)で、火のつき具合から見て「おこう」に脅しをかけるために火を放ったのではないかと推測したりしながら、「おこう」の弔いのために「おこう」が続けたがっていた居酒屋を三人で金を出し合って再建しようという話になる。星川は、店の奥に火をつけたのは火事騒ぎで「おこう」が大事なものを持ち出すことを狙っていたのではないかと推理を働かせるが、真相は藪の中である。
こうして、「おこう」の店が再建されていく中で火事の真相も探られていくことになる。三人は店の女将を雇うために苦労をしていく一方で、星川勢七郎はむかし一緒に働いていた岡っ引きの清八を訪ね、真相の探索のために手を貸して欲しいと依頼する。土地の岡っ引きの茂平は失火として事件に手をつけようともしない。清八は、酒で肝臓を病んでいたがその他のみを引き受け、土地の岡っ引きの茂平が役人の誰かと手を結んでいることを星川勢七郎に語ったりしていく。そして、実はその岡っ引きの茂平と、彼と繋がっている役人が事件の重要な鍵を握っていくことになっていくのである。
「おこう」の店が三人の手によって前と同じように再建され、最初に女将として雇われたのは、背は高いがどきりとするようなお釜の釜三郎である。釜三郎は女将を募集する張り紙を見てやってきたのだが、料理の手際もよいし、作る料理も美味しく、三人は釜三郎を雇うことにして開店の準備をするが、これがとんでもない食わせ物で、釜三郎は三人を騙して取り込み詐欺を働き行くへをくらますのである。
騙された三人は、騙された自分たちが悪いと諦めるが、釜三郎が落としていた煙草の包み紙から日之助が釜三郎の行くへを探り出し、「紅蜘蛛小僧」の異名を取る業を使って釜三郎が隠れている長屋に忍び込み、だまし取られた金子を奪い返す。こうして店の開店の準備が再び整えられ、次ぎに女将として雇ったのは、丸々と太った女相撲もしたこともある女性で、身体に合わせて豪快できっぷがよい。ただ、高台にある店に来るまでひとりでは登ってこられないほど太っている。三人は彼女を女将にして店を開ける。
その間に、生前の「おこう」から頼まれていたという今戸焼きの招き猫が届けられ、この招き猫をどういう理由で「おこう」が作ったのかはわからないままだし、相変わらず「おこう」の過去も火事の真相も藪の中である。どうやらこの招き猫に曰くがあるらしい。
元女相撲取りの女将を迎えて店が開かれると、前からの常連客もやって来て、その中に十八歳ぐらいだが金持ちの妾をしていたという「ちあき」という娘や、二十五歳くらいの美貌の湯屋の娘もいた。湯屋の娘は請われて大店に嫁に行ったが、出戻っていた。その理由を「おこう」は聞いていたようだが、誰も知らなかった。この二人の娘が、「おこう」が作っていた招き猫の謎を解くピントを与えていく。だがそれは、「ちあき」の旦那である易者が企んだ詐欺事件で、直接「おこう」とは関係のないことだった。だが、そうしているうちに、星川勢七郎が火事の真相の探索を依頼していた清八の探索が進み、地元の岡っ引きである茂平が絡んで「おこう」の店が火事になったときにそれを見張っていた男がいたことを探り出してくる。
丸々と太った女将で店は繁盛していくが、酔った勢いで店の外で客と相撲を取り、そのままの勢いで坂道を転がり落ちて怪我をし、店を辞めることになってしまう。女将がいなくなって困ったことになったが、そこに「おこう」の娘という「小鈴」という女性が訪ねてくる。「小鈴」は、十四の時に母親の「おこう」に祖父母に預けられ、十七歳の時の祖父母の家を出てそのままで、知り合いに聞いて「おこう」を訪ねて来たという。だが、「おこう」は既になくなっていた。そして、生前に「おこう」が作っていた謎の招き猫の首の鈴が小さいことに気づいて、「おこう」が娘との再会を願っていたことを知る。だが、「小鈴」は、こんなことをするくらいなら自分を置いていかねければよかっただけだと言い切ってしまう。「小鈴」が十四の時、その一年前に父親が失踪し、続いて「小鈴」を置いて「おこう」も失踪し、祖父母がその母親の悪口ばかり言うので嫌になって家を飛び出していたのだという。
三人は、女将のいなくなった店を手伝ってくれるように「小鈴」に頼む。「小鈴」はうんとは言わないが、しばらく店にいることになる。「小鈴」は言葉つなぎの遊びで、相手の心を読み取ることができるという特技をもち、「おこう」仕立てで料理もうまい。気立てもよいし、常連客たちにも好かれていく。「おこう」が飼っていた「みかん」という猫は、実は「小鈴」が小さいころに飼っていた猫と同じなで、「おこう」はこの「みかん」を助けようとして焼け死んだのである。「小鈴」は猫の名が「みかん」であることを知って母の思いを感じていく。「小鈴」の父は医者で、「おこう」は武家の出であった。彼らの失踪は謎のままである。
その間に、地元の岡っ引きの茂平が何者かに殺されるという事件が起こっていた。星川勢七郎と清八はその事件の現場に行き、彼と一緒に殺された男が「おこう」の店を見張っていた男であると察して、二人がなにかの口封じのために殺されたのではないかと思う。茂平はどうやら目付の鳥居耀蔵とつながっていたらしい。
そして、「おこう」を訪ねて一人の武家らしい男がやって来て、「おこう」が死んだことを聞いてがっかりして帰るが、その後を二人の武家がつけていくのに気づいた星川勢七郎が、その後をつけてみると、斬り合いが行われており、勢七郎が加勢をするうちにつけられていた男は逃げ、それを負って二人の武士も去っていった。身体がなまって太刀打ちできないことを実感させられるところで物語が終わる。
その後の展開は次作から語られていくのだろう。「おこう」がなぜ娘の「小鈴」を祖父母に預けて出て行ったのか、父親がなぜ失踪したのか、火事の真相はなんだったのかなど、謎のままであり、鳥居耀蔵がそれに関連していることは匂わせられているし、これから「小鈴」を中心にして、三人がそれぞれの特技を生かしながら事柄の真相を突きとめていくのだろう。
少し長く物語の展開の筋を記したのは、これが第一作目で、これから展開されるであろう事柄の設定のすべてがここに書かれているからで、筆力やちょっとした展開のうまさは言うまでもなく、枝葉の挿話も小道具も十分で、これからおもしろい展開になるだろうと思っている。
「おこう」が亡くなった後で、日之助が馴染みの吉原の女性のところに上がるが、日之助が何か鬱屈した気分をもっていることに気づいた女性が「今は駄目でも、女も男も周囲もいろんなことが変わってくるよ。そこで変わらずにいたものが、どこかで機会をつかむときがある。すれ違っていても、また出会う」(53ページ)という台詞などは、ちょっと気の利いた台詞になっている。
今の世界で無謀な侵略という発想はないだろうが、経済繁栄ということを第一義的に考えていくとどうしてもそういう発想になるのだろうと思う。国民の幸福感を第一義に志向するブータンの国王が来日しているが、どういう幸福感をもつかが根本的に問われている時代に突入しているのだろうと思う。人の幸いは愛以外には満たされない。そして、愛はささやかなものである。そのささやかさの中に無限の充実感があるとき、人は生きている喜びを最も感じることができるのだろう。
閑話休題。過日に仙台に行った折りに駅の本屋で買ってきていた風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』(2011年 幻冬舎文庫)を一息に読んだので記しておこう。文庫本の裏表紙の宣伝文句によれば、これはこれから始まるシリーズの第一作目という作品で、毎月の発行予定らしく、たぶん、もう既にいくつかの作品が発行されている。
風野真知雄の作品は友人が『耳袋秘帖』という根岸肥前守を取り扱ったシリーズ作品を紹介してくれたことで読み始めたのだが、文庫本の帯に100冊刊行記念とあるから、相当な量の作品を書かれているようで、こういう仕事量の多い作家は、内容はともかく、書くためには根を詰めねばならず、それだけでも敬服に値する。わたしのような怠け者にはとうていできないことである。
『女だてら 麻生わけあり酒場』は、麻布の高台にある居酒屋の、料理上手で聞き上手で、人柄も美貌ももつ女将の「おこう」を慕って、隠居した元同心の星川勢七郎や瓦版屋の源蔵、元は大店の若旦那でどこか曰くありげな日之助が、それぞれに「おこう」への想いを抱いて集まってきていたが、その「おこう」の店が火事に遭い、「おこう」が死んでしまうところから始まる。
この始まりは、ちょっと意表を突く始まりで、「おこう」を特別に慕う三人には、それぞれの事情があるから、これから「おこう」の店で「おこう」を中心にしてそれぞれの生活が描かれるのかと思ったら、中心になるべき「おこう」が早々に死んでしまうのであるから、その後どういう展開になるのだろうかと興味をかき立てる設定になっていた。
隠居した元同心の星川勢七郎は、家督を息子に譲り、妻も亡くし、役宅を出て、五十も半ばを過ぎて麻布坂下町の長屋に気楽な独り暮らしをしている。自分ではまだまだと思って、暇な年寄りや隠居爺にはなりたくないし、苦手な息子の嫁の機嫌を取って暮らすつもりは毛頭なく、身の廻りのことは自分でして、「おこう」に惚れながら「おこう」の店に通っている。剣の腕は相当に立つ。
瓦版屋の源蔵は、面白おかしく記事を書いて瓦版を発行していたが、その瓦版に書いた記事が原因で脅しをかけられている。どうやら相当の大物がその背後にいるらしく、しばらくは瓦版も発行することができない状態に陥っている。「おこう」の店で知り合った元同心の星川勢七郎に相談したりしている。源蔵は時々川柳も作ったりする。
元大店の若旦那である日之助は、相場で損をさせて丸ごと乗っ取るというような札差である父親の商売のやり方に楯突いて勘当されている。日之助は父親が見つけてきた二人の嫁とともうまくいかずに、二度離婚しているし、父親は腹違いの弟に店を継がせたいと思っていた。そして、商売上のことで楯を突いた日之助を300両の金をつけて勘当したのである。住んでいた店の別宅も出て行かなければならず、さて、これから何をしようかと思い悩むが、とりわけて才能もない。ただ、贅沢な暮らしをしてきただけに味覚が鋭く、味の微妙な違いがわかって、「おこう」の作る料理が並外れていることを知っている。だが、金目のものは盗まずに変なものばかりを盗むような忍び込むことが目的の「紅蜘蛛小僧」という異名をもつ盗癖がある。
、この三人が、火事になった「おこう」の店に駆けつけるが、「おこう」は飼い猫の「みかん」を助けようとして逃げ遅れ、炎に包まれていくのである。「おこう」には「おこう」の人生があり、その人生は誰にも知られてはいなかったが、自分の子どもを捨てなければならなくなり、後で探したが行くへ不明のままになっている娘がいたのである。
「おこう」が火事で焼け死んだ後、火事の火元がどうやら「おこう」の店の中らしく、火の始末をきちんとしていた「おこう」が火事を出すはずはないと出火に疑念をもちながらも、三人は焼け跡で「おこう」の骨を拾い集め、「おこう」の遺骨を回り持ちで保管することにし、「おこう」が可愛がっていた犬と猫もそれぞれで引き取ることにする。それぞれが無念でならずに、「おこう」がいた有り難みをしみじみ感じながら日々を過ごしていくが、喪失感は埋めようがなく、「おこう」の初七日に再び焼け跡に集まってきて「おこう」の思い出を語り出したりする。
そして、やって来た土地の岡っ引きから火事の夜に若い男が「おこう」の店にやって来ていたことをきき、これが付け火(放火)で、火のつき具合から見て「おこう」に脅しをかけるために火を放ったのではないかと推測したりしながら、「おこう」の弔いのために「おこう」が続けたがっていた居酒屋を三人で金を出し合って再建しようという話になる。星川は、店の奥に火をつけたのは火事騒ぎで「おこう」が大事なものを持ち出すことを狙っていたのではないかと推理を働かせるが、真相は藪の中である。
こうして、「おこう」の店が再建されていく中で火事の真相も探られていくことになる。三人は店の女将を雇うために苦労をしていく一方で、星川勢七郎はむかし一緒に働いていた岡っ引きの清八を訪ね、真相の探索のために手を貸して欲しいと依頼する。土地の岡っ引きの茂平は失火として事件に手をつけようともしない。清八は、酒で肝臓を病んでいたがその他のみを引き受け、土地の岡っ引きの茂平が役人の誰かと手を結んでいることを星川勢七郎に語ったりしていく。そして、実はその岡っ引きの茂平と、彼と繋がっている役人が事件の重要な鍵を握っていくことになっていくのである。
「おこう」の店が三人の手によって前と同じように再建され、最初に女将として雇われたのは、背は高いがどきりとするようなお釜の釜三郎である。釜三郎は女将を募集する張り紙を見てやってきたのだが、料理の手際もよいし、作る料理も美味しく、三人は釜三郎を雇うことにして開店の準備をするが、これがとんでもない食わせ物で、釜三郎は三人を騙して取り込み詐欺を働き行くへをくらますのである。
騙された三人は、騙された自分たちが悪いと諦めるが、釜三郎が落としていた煙草の包み紙から日之助が釜三郎の行くへを探り出し、「紅蜘蛛小僧」の異名を取る業を使って釜三郎が隠れている長屋に忍び込み、だまし取られた金子を奪い返す。こうして店の開店の準備が再び整えられ、次ぎに女将として雇ったのは、丸々と太った女相撲もしたこともある女性で、身体に合わせて豪快できっぷがよい。ただ、高台にある店に来るまでひとりでは登ってこられないほど太っている。三人は彼女を女将にして店を開ける。
その間に、生前の「おこう」から頼まれていたという今戸焼きの招き猫が届けられ、この招き猫をどういう理由で「おこう」が作ったのかはわからないままだし、相変わらず「おこう」の過去も火事の真相も藪の中である。どうやらこの招き猫に曰くがあるらしい。
元女相撲取りの女将を迎えて店が開かれると、前からの常連客もやって来て、その中に十八歳ぐらいだが金持ちの妾をしていたという「ちあき」という娘や、二十五歳くらいの美貌の湯屋の娘もいた。湯屋の娘は請われて大店に嫁に行ったが、出戻っていた。その理由を「おこう」は聞いていたようだが、誰も知らなかった。この二人の娘が、「おこう」が作っていた招き猫の謎を解くピントを与えていく。だがそれは、「ちあき」の旦那である易者が企んだ詐欺事件で、直接「おこう」とは関係のないことだった。だが、そうしているうちに、星川勢七郎が火事の真相の探索を依頼していた清八の探索が進み、地元の岡っ引きである茂平が絡んで「おこう」の店が火事になったときにそれを見張っていた男がいたことを探り出してくる。
丸々と太った女将で店は繁盛していくが、酔った勢いで店の外で客と相撲を取り、そのままの勢いで坂道を転がり落ちて怪我をし、店を辞めることになってしまう。女将がいなくなって困ったことになったが、そこに「おこう」の娘という「小鈴」という女性が訪ねてくる。「小鈴」は、十四の時に母親の「おこう」に祖父母に預けられ、十七歳の時の祖父母の家を出てそのままで、知り合いに聞いて「おこう」を訪ねて来たという。だが、「おこう」は既になくなっていた。そして、生前に「おこう」が作っていた謎の招き猫の首の鈴が小さいことに気づいて、「おこう」が娘との再会を願っていたことを知る。だが、「小鈴」は、こんなことをするくらいなら自分を置いていかねければよかっただけだと言い切ってしまう。「小鈴」が十四の時、その一年前に父親が失踪し、続いて「小鈴」を置いて「おこう」も失踪し、祖父母がその母親の悪口ばかり言うので嫌になって家を飛び出していたのだという。
三人は、女将のいなくなった店を手伝ってくれるように「小鈴」に頼む。「小鈴」はうんとは言わないが、しばらく店にいることになる。「小鈴」は言葉つなぎの遊びで、相手の心を読み取ることができるという特技をもち、「おこう」仕立てで料理もうまい。気立てもよいし、常連客たちにも好かれていく。「おこう」が飼っていた「みかん」という猫は、実は「小鈴」が小さいころに飼っていた猫と同じなで、「おこう」はこの「みかん」を助けようとして焼け死んだのである。「小鈴」は猫の名が「みかん」であることを知って母の思いを感じていく。「小鈴」の父は医者で、「おこう」は武家の出であった。彼らの失踪は謎のままである。
その間に、地元の岡っ引きの茂平が何者かに殺されるという事件が起こっていた。星川勢七郎と清八はその事件の現場に行き、彼と一緒に殺された男が「おこう」の店を見張っていた男であると察して、二人がなにかの口封じのために殺されたのではないかと思う。茂平はどうやら目付の鳥居耀蔵とつながっていたらしい。
そして、「おこう」を訪ねて一人の武家らしい男がやって来て、「おこう」が死んだことを聞いてがっかりして帰るが、その後を二人の武家がつけていくのに気づいた星川勢七郎が、その後をつけてみると、斬り合いが行われており、勢七郎が加勢をするうちにつけられていた男は逃げ、それを負って二人の武士も去っていった。身体がなまって太刀打ちできないことを実感させられるところで物語が終わる。
その後の展開は次作から語られていくのだろう。「おこう」がなぜ娘の「小鈴」を祖父母に預けて出て行ったのか、父親がなぜ失踪したのか、火事の真相はなんだったのかなど、謎のままであり、鳥居耀蔵がそれに関連していることは匂わせられているし、これから「小鈴」を中心にして、三人がそれぞれの特技を生かしながら事柄の真相を突きとめていくのだろう。
少し長く物語の展開の筋を記したのは、これが第一作目で、これから展開されるであろう事柄の設定のすべてがここに書かれているからで、筆力やちょっとした展開のうまさは言うまでもなく、枝葉の挿話も小道具も十分で、これからおもしろい展開になるだろうと思っている。
「おこう」が亡くなった後で、日之助が馴染みの吉原の女性のところに上がるが、日之助が何か鬱屈した気分をもっていることに気づいた女性が「今は駄目でも、女も男も周囲もいろんなことが変わってくるよ。そこで変わらずにいたものが、どこかで機会をつかむときがある。すれ違っていても、また出会う」(53ページ)という台詞などは、ちょっと気の利いた台詞になっている。
2011年11月16日水曜日
浅田次郎『五郎治殿御始末』
碧空という名にふさわしい空が広がっているが、気温が低くなって空気が冷たい。街路樹の紅葉が進み、駅の向こうにある欅やハナミズキ、そしてこの近くの銀杏も黄色い葉を盛んに散らしはじめた。この近くではまっ赤に燃えるモミジを見かけることがないのが残念な気もするが、木々のこうした変化をぼんやり眺めるのはとてもいい。一葉の葉がひらりと落ちるように、人の哀しみも落ちてくれないだろうかと思ったりする。
浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。
本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。
最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。
息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。
しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。
第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。
一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。
時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。
次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。
そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。
ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。
第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。
明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。
成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。
文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。
成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。
しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。
手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。
わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。
第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。
物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。
フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。
その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。
第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。
そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。
その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。
二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。
やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。
この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。
表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。
桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。
やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。
五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。
人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。
浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。
本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。
最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。
息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。
しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。
第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。
一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。
時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。
次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。
そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。
ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。
第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。
明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。
成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。
文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。
成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。
しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。
手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。
わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。
第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。
物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。
フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。
その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。
第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。
そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。
その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。
二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。
やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。
この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。
表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。
桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。
やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。
五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。
人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。
登録:
コメント (Atom)