2013年1月14日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(1) 島津騒動(1)


 今朝9時過ぎぐらいから冷たい雨が雪に変わり、それからどんどん降り積もってきて、あたりは雪が舞い落ちる雪景色となった。このあたりでは今年初めての初雪である。しかも、風も強いので、小さな吹雪のようである。今日は、出かけるのをやめにして書斎で一日仕事に励もう。

週末から、「江戸時代の大名の家は、早晩貧乏に陥らなければならない仕組みになっていた」という名文で始まる海音寺潮五郎『新装版 列藩騒動録 上下』(2007年 講談社文庫)を読み始めた。これは、1965‐1966年に新潮社で出版されたものの新装版で、フィクションの要素を極力廃して、歴史を詳細な資料にそって再構築しようとする海音寺潮五郎が確立していった史伝文学の一つで、江戸時代の各諸藩の、いわゆる「お家騒動」と呼ばれるものをほとんど網羅したものである。

 藩の「お家騒動」というのは、単に藩主や重臣の交代といったものではなく、いわば大きな政変であり、政治改革であった。それによって藩内の暮らしも大きく変わる出来事であり、しかも江戸時代の各大名は非成長的状態に置かれていたから、いわば限界内での改革で、これを今読むのは、限界内でなんとか生き延びるためにどのような知恵を用い、また失敗してきたのかを見てみたいと思ったからである。だいたい江戸時代の諸藩の騒動事件は、これを読めばわかる。そして、そこにはもちろん、政治的なことや経済的なことだけでなく、人間性も大きく作用し、このあたりはさすがにきちんと押さえられているので、記録にとどめたいと思っているからである。

 この作品について長くかかるかもしれないが、20世紀になって人間は自己の存在の限界を痛感せざるを得なくなり、今、その模索の過程の中にあり、「歴史に学ぶ」上では、この作品は意味を持つものだろうと思っている。

 『列藩騒動録』の最初は、幕末の頃に起こった薩摩島津家のお家騒動である。これが最初に収録されているのは、海音寺潮五郎の出身が鹿児島であり、彼が西郷隆盛の姿に肉薄してきたこともあるかもしれない。薩摩の「島津騒動」というのは、江戸末期の当代一の名君と言われた島津斉彬とその後を継いで明治政府を困惑させた島津久光が絡んだ後継者争いで、両者ともに明治維新に深く関わり、江戸末期の薩摩と明治以降の薩摩を二分する人物である。島津斉彬は明治維新を成し遂げた西郷隆盛や大久保利通らが最も尊敬し、師と仰いだ人物でもあった。

 「島津騒動」は、別名「お由羅騒動」とも言われるが、この騒動に「お由羅」の名前を冠するのは一方的な見方過ぎる気がするし、「お由羅」はなかなかの女性ではなかったのかとも思えるので、わたしはこれを「島津騒動」とだけしたいと思っている。

 海音寺潮五郎は、お家騒動が、ただその時の現象として起こったのではなく、長い歴史的な過程を経て起こったことを認識し、島津騒動を斉彬の祖父に当たる島津重豪以前から書き始める。彼は、「薩摩の島津家のお家騒動も、その大本にさかのぼれば、貧乏から始まった」(本書11ページ)と明解に書き記す。

 元々、江戸幕府は国内統治に当たって各諸藩が勢力を持たないように、つまり貧乏になるように仕組みを作ってきた。江戸に藩主の妻子を住まわせ(人質として)、国元と江戸都との二重生活を要求し、参勤交代制度によって往復の莫大な費用がかかるようにし、加えて江戸城や御三家の城などの普請を「お手伝い」と称して各藩に命じた。経済の根幹を米に置いたが、限られた領地に中での米の収穫も限度があるのである。こうして、各藩の経済は疲弊した。もっともそれによって幕府の経済は疲弊したが、権威を守る知恵はあっても、幕閣にそこまでの経済学の知恵はまだなかった。そこで、ときおり優れた人物が出てきて、経済の立て直しのための経済改革を行ったが、それが「お家騒動」に繋がったのである。

 関ヶ原の合戦に敗れて外様大名となった薩摩の島津家も、8代将軍徳川吉宗の頃に既に七十万両にも及ぶ借金を抱えていたが、9代将軍徳川家重の時代に、木曽川の治水工事を命じられ、工事の難行もあって、さらに莫大な借金を作ってしまった。この時の藩主は島津重年で、彼は借金を苦にして若くして亡くなったりしている。

 しかも、その重年の子である重豪(しげひで)の時、その借金はさらに増えて、五百万両にもなっている。島津重豪は英雄的な気質を持った豪気な人で、金を湯水のように使った。彼は、今から思えばなかなかの人物で、藩校「造士館」を建て、天文学者を集めて「天文館」を建て、博物全書である「成形図説」を出版したり、中国語辞典の「南山俗語考」を出したり、シーボルトと交わりを結んで西洋物品を買い込んだりした。教育・文化に大金を注いでこれを育成し、鎖国策をやめて海外貿易にも乗り出したが、他方では贅沢や遊びを奨励した。

 彼は娘を第11代将軍となる徳川家斉に嫁がせ(茂姫-広大院)、将軍家の岳父となったが、歴代の徳川将軍の中でも一番贅沢をしたと言われる家斉にして、「薩摩の姑殿のようにしたい」と羨ましがられるほどの豪奢な生活をしたのである。豪快な贅沢ぶりを発揮したのである。そして、これによって借金は膨大に膨れ上がったのである。

 やがて藩主の座を子の斉宣(なりのぶ)に譲って隠居したが、藩政に対する影響力は甚大なものがあった。斉宣は父のあまりの乱費ぶりに批判的で、秩父太郎秀保という剛毅で優れた人物を登用して、家老にし、緊縮政策を取り、質実剛健の気風を取り戻そうとした。この秩父秀保についての逸話も本書で詳しく述べられている。

 秩父秀保は下級藩士で郡目付けであったとき、百姓たちの途端を舐める貧苦ぶりに憤慨し、上司の郡奉行や大目付にずけずけと物を言い、それが秩序を乱したということで蟄居を命じられていた人で、蟄居中も朱子学の真髄と言われる「近思録」の研究をするなどして学問を研鑽し、次第に尊敬を集めるようになっていた人であった。

 彼は、登用されると学問仲間を要職につけて、諸経費の節減、減税、造士館の改革、諸役方の綱紀粛正、質実剛健な気風の回復、門閥の権限制限などの改革を次々と行っていった。そして、江戸で隠居していた島津重豪にも緊縮を望み、幕府に参勤交代を休むことができるように画策する。しかし、自分がしてきたことをことごとく否定された島津重豪の悋気に触れ、重豪は斉宣の政治改革を一気に叩き潰したのである。重豪は斉宣を隠居させ、秩父秀保らを切腹、もしくは遠島処分にした。そして、新藩主に斉宣の子の斉興(なりおき)を据え、自らをその後見とした。これを「近思録くずれ」と呼ぶ。そして、これが島津騒動の端緒となったのである。

 重豪は息子の斉宣が行おうとした政治改革を全て元に戻し、金がかかる豪気な政策を行ったが、さずがに借金が膨らんでどうにもならなくなってしまう。ついに薩摩は貧に窮し、藩士らの手当も遅配に次ぐ遅配が起こりだし、建物が破損しても修理もできず、生活もどうにも成り立たなくなってしまうのである。薩摩は77万石であったが、その内47万石は家来の地行地で、残りは30万石、金にして14万両ほどであるが、藩の費用は毎年19万両にも上り、初めから赤字の上に借金の利息だけで毎年50万両あったという。首が廻らないどころか、首が折れてしまったような状態だったのである。これ以上の借金は無理で、薩摩に金を貸すものは誰もいなくなった。

 そこでさすがの島津重豪も考えあぐねて、調所笑左衛門廣郷(ずしょ しょうざえもんひろさと)という人物を財政改革のために登用した。この調所廣郷という人について、前に安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2004年 小学館)が描き出したのを感銘を受けながら読んでいたが、大まかな人物像は海音寺潮五郎が描き出したのではないかと思う。

 調所廣郷(笑左衛門)も人間味が溢れたなかなかの人物で、この人が薩摩の財政を一気に転換させたのである。薩摩は、歴代こういう優れた人物を登用し重んじる風潮があり、幕末に薩摩が勇躍したのはこういう人物登用を行ったからでもあるだろう。彼は、まず金策に走り、大阪に行って、恥を忍んで、まさに「忍」の一字で商人たちに頭を下げて、なんとか当座の金を工面する。そして、当代随一の経済学者であった佐藤信淵に相談して、薩摩の財政建て直し策を作成するのである。

 佐藤信淵が示した案は、1)500万両という途方もない借金の返済について、一切の利子を捨てて元金だけを年2万両の250年返済という、これまた途方もない返済計画で商人に納得させること。2)倹約を旨として予算を立て、予算の枠内で収まるようにすること。3)物産のロスを改めて、品種改良と多収穫を図り、藩の一手販売として収入を増やすこと。4)ご隠居の小遣い稼ぎという名目で幕府に唐貿易を願い出て海外貿易をすること(重豪は将軍家の岳父であり、幕府もその名目なら承認するだろう)、というものであった。

 調所廣郷は、このうちのできることから10年計画で着手する。このあたりが彼の優れたところだったのである。この調所廣郷の計画は見事に成功し、大阪商人も、その粘り強さで根負けしてついに250年返済という途方もないことで渋々承認するのである。こうして、借金の方をつけ、密貿易を開始したこともあり、藩の財政は一気に好転していくのである。密貿易の収益はかなりのものになった。天保15年には150万両(一説では300万両近く)もの蓄えができたと言われる。天保4年に島津重豪は病没して、斉興が藩政をとったが、斉興も調所を全面的に信頼して彼を支持したのである。

 これまでが、いわゆる「島津騒動」の前史なのである。こうしたことを実に明解に記してあるので、非常にわかりやすい。長くなるので、「島津騒動」そのものについては次回に記すことにする。

2013年1月11日金曜日

坂岡真『乱心 鬼役三』


 「寒」の季節に入って、暦通りずっと寒い日々が続いている。この季節には物事を鋭く感じてしまうところがあるのか、どこか物事に批判的になったりする。昔、旧約聖書の専門家である木田献一先生が、一緒に食事をするたびに、「怒ってください。怒って、それを情熱に変えて仕事をしてください」と言われていたことを、ふと思い出した。その時、先生は徹夜で原稿を書かれたとかで目が真っ赤になっていたが、体全体から発するエネルギーには相当なものがあったことを記憶している。批判を創造へ、それが、木田先生が語られたことだろう。

 そんなことを思い出しながら、坂岡真『乱心 鬼役三』(2012年 光文社文庫)を面白く読んだ。坂岡真の作品は、これまで『うぽっぽ同心シリーズ』とか『照れ降れ長屋風聞帖シリーズ』とかを読んで、シリアスな状況の中でもどこかのんびり構え、鷹揚に生きている主人公が描かれてきたのだが、この作品は、江戸中期の徳川家斉の時代(天保年間)での江戸幕府と朝廷の確執を背景に、表では将軍の毒見役(これが「鬼役」と呼ばれるらしい)をしながら、その一方で田宮流抜刀術の達人として不正を正し、将軍の護衛をする暗殺者として活躍する矢背蔵人介(やせ くらんどのすけ)という人物を主人公にして、いわば剣劇小説を兼ねるシリアスな作品になっている。

 江戸幕府と京都の朝廷とのあいだの確執は、家康が江戸幕府を開いて以来続き、特に江戸幕府が公家諸法度を制定して朝廷の力を抑え、三代将軍徳川家光が祖父家康を「東照宮」という「神」に祭り上げたころに、それまで「神儀」を司ってきた朝廷の怒りが頂点に達したとも言われているが、以後も度々争いごとが暗裏に起こってきていた。

 本書では、徳川家斉が正倉院宝物殿に収められている「蘭奢待(麝香の木)」を欲したために、代々朝廷側が守り続けてきて、国治めの象徴でもあった正倉院宝物を権力で奪い取ろうとしたことに怒った朝廷側が、次々と暗殺者を送りこんでくるという設定になっている。

正倉院宝物殿の「蘭奢待」は、織田信長が無理やりこれを切り取って寵愛したことなどから権力者の象徴のように考えられてきていた。「蘭奢待」は、朝廷をものともしなかった織田信長が切り取り、いわば朝廷侮辱の象徴のようなものだったのである。

 加えて、老いてなお精力絶倫だった家斉が将軍職に固執したために、次期将軍徳川家慶とその側近たちはジリジリとした日々を過ごし、暗に早期の家斉の死を望んでいたし、そのまた後継者の問題も浮かび上がっていた。加えて、家斉が寵愛したお美代の方と彼女の養父として中野碩翁(清茂)が権力を掌握して私化したための権力闘争や大奥でのお美代の方と正室の茂姫(広大院)との間の争いなどが繰り広げられていた。

 こうしたことを背景にしているので、事柄は政治権力の争いであったり、権力欲の争いであったり、金欲の争いであったりするから、勢い、問題がドロドロとしたものになるし、毒殺という手段がもちいられることもあるので、毒見役は命懸けのこととなる。

 そういう中で、主人公自体も暗殺者としての自分の在り方を悩んでおり、権力争いに巻き込まれることにうんざりしていることもあるし、剣技の争いが展開されるので、物語全体が極めてシリアスなのである。朝廷から送られてくる暗殺者たちは、呪術を使ったり幻惑術を使ったりするし、剣技も一筋縄ではいかないのである。そして、主人公が婿養子となっている矢背家も、代々は天皇を影で守る八瀬童士の流れを組むものであったりするので置かれている立場も複雑なのである。

 しかし、作者らしい明るさもふんだんにあり、茶道の名人で薙刀の名手でもある義母のは、たえず凛とした雰囲気を漂わせ、主人公が苦手とする人物であったり、妻もその娘として矢の名手で毅然として物事に対応する女性であったりして、この二人の強い女性の中で、主人公がおろおろする姿も描かれる。矢背家には、もうひと隣家から預かった次期将軍徳川家慶の落胤があり(その顛末のくだりは、シリーズの1-2作で語られているのだろう)、彼がまた吉原の花魁に惚れて入り浸りの生活をするというぐうたら者で、主人公の心配の種でもある。そういう人間味のある人物として主人公が描かれ、しかも対峙している問題が幕府内の不正や幕府と朝廷の確執という展開になっているのである。また、家慶の落胤が登場することで、家慶の後継者問題も絡んでくる。

 主人公は、朝廷側から送られてくる刺客と次々に対応し、しかも独自の観点を持って幕府要人たちや将軍を見ており、家斉が守るに値しない人物であるとは思いつつも、宮仕えの厳しさを感じながらもなんとか刺客の手から家斉を護るのである。

 作者としては意図的に硬派的な筆の運びをしながらも、人間味を溢れさせようとしているところがあるように思われて、作者の新しい境地の展開かもしれないと思いながら、面白く読めた作品だった。どちらかといえば上田秀人の作風を思わせる展開になっているが、坂岡真らしい人物の描き方が随所にあって楽しめる作品である。

2013年1月9日水曜日

吉川英治『一領具足組』


冬晴れの寒い日が続く。家事をする時に孤独を感じて、「辛抱」という言葉が、ふと頭を過るが、雨風を凌ぐ場所と少しの食べ物、そして着るものがあるのだから、まあ、これほどの贅沢もあるまいと思ったりする。

そして、人の精神の営為というものは、やはり、贅沢な文化かもしれないと思いつつ、吉川英治『一領具足組』(1969年 吉川英治全集8 講談社)を読み終えた。表題で使われている「一領具足」というのは、戦国時代、土佐を中心に四国に勢力を持っていた長宗我部氏が用いた半農半兵の兵士による軍事組織で、平時には農民として田畑を耕して生活しているが、領主の召集に応えて直ちにひとそろい(一領)の具足(武器)をもって馳せ参じるというもので、1708年に長宗我部氏の歴史を描いた吉田孝世の『土佐物語』には、「生死知らずの野武士」と書かれている。

「一領具足」を考えたのは、長宗我部国親(15041560年)と言われているが、これを積極的に用いたのは国親の子の長宗我部元親(15391599年)で、彼はそれによって四国を統一するなどの目覚しい働きをした。しかし、豊臣秀吉の四国征伐で土佐一国まで所領を減らされ、さらに家督を相続していた四男の長宗我部盛親が関ヶ原の合戦で西軍についたために、合戦後、家康は所領を没収し、長宗我部家は改易された。

家康から土佐を与えられたのは山内一豊であったが、長宗我部家の遺臣たちはこれを拒否し、一領具足であった竹内惣右衛門を中心にした者たちが、長宗我部元親が居城としていた浦戸城の引渡しを拒絶し、長宗我部盛親に所領の一部を与えるように要求して篭城し、抵抗した。しかし、内部の裏切りにあって、ついに降伏に追い込まれ、約273人が斬首されたと言われる。山内家に対して一領具足はその後も度々反乱を起こした。山内家は、後にこれを「土佐郷士」として厳密に藩士と区別し、その上下の差に厳しいものを設けたのである。

本書は、関ヶ原合戦後に所領の没収となった長宗我部盛親の姿を描いたもので、なんとか彼を盛り立てて再興を図る一領具足組の家臣団や裏切り者とされていた家老、その娘と息子などを中心にしながら、盛親がやがて大阪冬の陣で大阪城に一領具足組を率いて入っていくまでの姿を描いたものである。特に、国を追われ京都で逼塞していた盛親の深謀遠慮を家老の娘の恋などとともに描き、うつけ者や呆け者として江戸幕府や世間の目を欺きながらも、事あることへと向かっていく姿が描かれている。

物語は、関ヶ原の合戦後、土佐領土没収と居城であった浦戸城の引渡しのために家康から派遣された藤堂家の井出志摩守(歴史上で井出志摩守を名乗ったのは、後に駿河の代官となった井出正次だが、彼を藤堂家の家臣とするのは疑わしく、作者の創作であろう)が浦戸城に向かい、引渡しを要求する場面から始まる。

浦戸城内の評議は二分し、潔く城地を引渡し、領地の半分でも長宗我部家に与えられるように家康に懇願しようとする穏健派と、そんなことを家康が許すはずもなく、命脈尽きるまで城を守って戦おうとする少壮派に分かれていたのである。その穏健派を代表するのが重臣の桑名与次兵衛であり、少壮派は「一領具足組」を結成してこれに対抗しようとした。

「一領具足組」は、城の引取りに来た井出志摩守に夜襲をかけようと画策するが、それを察した桑名与次兵衛は、自分の娘の「科江(しなえ)」を送って襲撃計画を知らせ、それを未然に防ごうとする。しかし、与次兵衛の息子は「一領具足組」に入り、父とは反対の方向へ進んでいくのである。「科江」は、藩主盛親の愛人であり、盛親はそうした城下のことなど気に求めずに「科江」のもとに通っていた。

「一領具足組」の襲撃は、計画が事前にもらた事があって失敗する。多くは捕らえられ、他の者たちは国外に逃げ去る。だが、彼らは藩主盛親の身を徳川側から守り、檳榔島(びんろうじま 日向灘に位置する枇榔島というのがあるが、この島は無人島で、「檳榔島」は作者の創作だろう)に匿う。

ところが、盛親にはまったく気概というものが伺えずに、その島の船元の娘である「玉虫」と恋仲となり、酒と遊びに興じた生活を繰り返すだけであった。そして、ついに藤堂家の家臣に捕縛され、京都所司代板倉勝重(伊賀守 15451624年)の監視下に置かれることになる。

盛親は、武将としては浅ましい限りに一命が助かったことを喜び、剃髪して、名前を祐夢と改め、彼を追ってきた「科江」の世話になりながら扇絵を描いたりしながら町家で暮らすのである。「科江」とは夫婦として生活し、武士の気概は一切失ったような暮らしぶりをして、町人からは腰抜け者、痴呆者と嘲笑われていた。桑名与次兵衛は、浦戸城明け渡しの際の振る舞いの見事さで、井出志摩守の推挙もあり、藤堂家が彼を雇い、藤堂家で重きをなすようになっていた。京都に逃げ延びていた「一領具足組」の残党たちは、奸臣として彼を襲撃する計画をする。

しかし、彼が危険人物であることを知っていた板倉重勝は、彼に監視の目をつけて動静をうかがっていた。そこに檳榔島から「玉虫」が盛親を訪ねてくる。「科江」と「玉虫」の二人の女性に挟まれて痴話喧嘩となり、盛親はオロオロするだけで、「色事師」とまで蔑まれるようになる。盛親は世話になった「科江」を平然と捨て、「玉虫」と暮らすようになる。板倉重勝もそういう盛親を見て、ついに呆れ返っていく。

だが、慶長19年の9月、方広寺大仏社殿鐘銘で豊臣家に難癖をつけた徳川家は、ついに豊臣家との戦端を発し、家康が軍を西に向けたとき、盛親はそれまでの痴呆者の姿を一変させ、「一領具足組」を率いて大阪城へ入っていくのである。これまでの痴呆ぶりは、全てこの日のための敵を欺く謀であったのである。

かくして大阪冬の陣の戦火は切られた。長宗我部盛親の武者ぶりは目を見張るものがあった。そして、難攻不落の大阪城に手を焼いた家康は大阪方に和睦を申し入れ、それが成立する。だが、巧妙な徳川側の計略で大阪城の堀は埋められ、再び大阪夏の陣が始まる。真田幸村らの名だたる優れた武将たちは敗北を覚悟の上で戦い、長宗我部盛親もその覚悟で戦陣に立つ。玉串川の混戦の中で、藤堂家の家臣となった桑名与次兵衛は、崩れる藤堂軍の中でただひとり立ち止まり、長宗我部盛親の軍と対峙して、討ち取られるのである。もとよりそれは与次兵衛が覚悟して望んだことであった。与次兵衛は、娘の「科江」と共に長宗我部家の再興を願って今日あるを画策していたのであった。

大阪城は落城した。長宗我部盛親は捕らえられ、京都の六条河原で斬首となるが、死に臨んでの盛親の態度は実に堂々としていた。江戸方はその盛親の凄まじいまでの姿に怯えたと言われる。そして、与次兵衛の息子は自分の不覚を恥じて自害するが、「科江」と「玉虫」は、盛親ら一党の姿に感服した井伊直孝(掃部守)の手によって引き取られ尼僧院で暮らしたとされる。

本書の末尾に、井伊家の老職であった砂田五左衛門による『武門夜話』の挿話にそれがあると記されて、この物語が終わる。

史実的に見れば、関ヶ原の合戦後(この時は両雄相睨みの形で、長宗我部軍は動かずに実際の戦闘には加わっていない。もともと盛親は、彼の家督相続の問題などから豊臣秀吉には認められていなかったので、家康の東軍に組みしようとしていたのだが、近江の水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に組みした。しかし、このあたりに盛親の弱さがあったと思われる)、土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、懇意であった井伊直孝を通じて家康に詫びを入れようとしたが、家臣の嘘で兄を殺してしまい、家康の怒りを買って改易されたのである。従って、本書の桑名与次兵衛の態度は盛親の意を受けた態度でもある。

牢人となった盛親は京都で家臣の仕送りや寺子屋の師匠をして身を立てていたと言われるが(本書ではこのあたりが作者の創造力の産物になっている)、京都所司代(当時は京都町奉行)の板倉重勝の厳しい監視下に置かれていた。

やがて彼は豊臣秀頼の召しに応え、京都を脱出して大阪城に入るが、結集した牢人衆の中では最大の手勢を持ち、「五人衆」と言われる主力部隊となったのである。大阪夏の陣では長宗我部盛親軍は八尾で藤堂軍と戦い奮戦するが、藤堂軍の援軍に井伊直孝の軍が駆けつけたことで、やむなく大阪城へ撤退する。そして、大阪城落城の際には「運さえよければ天下は大阪」と言い放って再起を図るために城を抜けるのである。だが、逃亡中に発見され、捕縛されて、斬首される。その際、彼の子女も6名が共に斬首されている。

史実はそうであっても、再起を図って痴呆者と呼ばれるほどの痴態を見せた姿として作者は盛親を描き、人の心にある思いが、決して表面的なあれこれで推し量ることができないことを語る。真実に人を見抜くというのは、その隠された真実の思いを知ることである。人は為したことより考えていることでその値が決まる。

そして、作者もまた、この作品を史実ものとしてではなく娯楽作品として提供する。そのあたりに吉川英治の真骨頂があるような気がする。

2013年1月7日月曜日

吉川英治『春秋編笠ぶし』


 薄ら寒い冬空が広がっている。昨日からNHKの大河ドラマで、幕末から明治にかけての、激動し、激変した社会の中で、敗者となりながらも矜持を高く持って生き抜いた新島八重の生涯を描いた『八重の桜』が始まり、脚本や構成に若干の難点を感じながらも、子役や主演女優の綾瀬はるかさんの滲み出る人柄や演技のうまさに感じ入って見ていた。

 キャスティングが真に最適で、会津魂と個性を強く持ち続けた新島八重を演じることができるのは、彼女が最も適しているとわたしは思う。夫となる新島襄は、八重を尊敬し、「八重は生き方がハンサムなのです。そしてわたしにはそれで十分です」という言葉を残しているが、女優の綾瀬はるかさんは、まさに「ハンサム」である。これからの展開を楽しみにしている。江戸中期は別にして、「幕末の会津」と聞いただけで、わたしは感動する。特に会津の子どもたちには敬意を表したい。

 閑話休題。吉川英治『春秋編笠ぶし』(1969年 吉川英治全集8 講談社)を読み終えたので記しておく。この作品もまた、武士の一分を縦糸にし、悲恋物語を横糸にして編まれた物語である。

 主人公の松山新助は九州宇土に移封されたキリシタン大名の小西行長の下級家臣であった。彼は美貌、美声の持ち主であったが、蒲柳の質で、戦国の世にあっては軟弱者とみられてなかなか初陣にも出られないような有様だった。彼は老いた母と二人で貧しく暮らしていたが、母親は彼が密かに武芸を磨いていることを知っていたので、なんとか初陣に出ることができて、人から認められるようにと奔走し、他の人からははるかに遅れてではあるが、秀吉の朝鮮出兵の軍に加えられることになる。

 秀吉は肥後熊本の加藤清正と宇土の小西行長に出兵の準備をさせていたが、熊本と宇土の間を流れる緑川流域では、その準備の早さを競って、小競り合いが起こっていた。そして、ついに双方が刀を抜いて斬り合うという事態にまでなり、宇土側の劣勢を知った松山新助がそこに駆けつけるのである。病弱で弱々しいと見られていた松山新助だが、手槍を振るい、人々を驚愕させ、ついには加藤家熊本十人衆と呼ばれる猛者のひとりである荻生安太郎さえ討ち取ってしまうのである。この時、新助の恋敵である柘植半之丞も新助に助けられる。

 松山新助には、想いを寄せる「お夏」という浜郷士の娘がいた。彼女の父親は、小西家の納屋や造船、浜の見張り、船大工の棟梁を束ねる勢力者であり、柘植半之丞も「お夏」を狙って婚儀を申し入れていたのである。

 緑川河川敷の争いで人々を瞠目させた松山新助は朝鮮出兵の小西家一番組に編入され、彼がいよいよ朝鮮に向けて出陣するとき、新助の想いを見るに見かねた母親が「お夏」の家に行き、結婚を申し入れる。そして、柘植半之丞と松山新助のどちらか、朝鮮で手柄を立てた方と結婚するという話になるのである。

「お夏」も松山新助に想いを寄せて、新助が必ず手柄を立てると思っていた。そして、新助が出兵している間、新助の妻になるものと決めて、老いた母の世話などを甲斐々々しくしていた。

朝鮮で、新助は目覚しい働きをし、初めは勝利を収めていた小西軍も、やがて激戦を重ねるようになり、ついには平壌を退くことになる。その時、見張りに立っていた松山新助の側に来た柘植半之丞は、新助の背中を押して城壁から敵の中に落とすのである。半之丞は、新助を亡き者にして「お夏」と結婚し、その父親の財力を得ようとしたのである。

他方、緑川の河川敷の争いで松山新助に斬られた加藤家の荻生安太郎の実弟である荻生式之助が親類とともに兄の仇を討つために松山家を見張っていた。彼らは新助の縁者も殺して仇を討とうとしたが、老いた新助の母や彼女を介護する「お夏」の姿を見て思いとどまっていたのである。

そういう中で、朝鮮の小西軍の敗退が伝えられ、新助も討ち死にしたとの報が伝えられる。そして、老いた母は、もはやこれまでと自害してしまうのである。「お夏」も後を追おうとするが、見張っていた荻生式之助に止められる。

やがて、突然、堺から新助の手紙を持った男が「お夏」を訪ねてきて、堺に来るように誘う。「お夏」は新助が生きていたと思って、堺に向かう。新助を仇と狙う荻生式之助らもその後を追う。しかし、それは新助ではなく、柘植半之丞が出した偽手紙で、「お夏」は半之丞のものとなってしまうのである。半之丞は「お夏」と結婚し、「お夏」の実家の財力で成功者になっていく。

そのころ、戦のために活気づいた名古屋で、編笠をかぶり、即興唄で糊口を凌ぐ痩身の武士が現れていた。この武士が朝鮮の平壌で城壁から落とされて死んだはずの松山新助であった。新助は失明していた。新助は裁縫を職とする「お通」という女性の世話を受けながら、美声を生かした即興唄を角々で歌うことで生活しながら、柘植半之丞の行くへを探していたのであった。その新助に荻生式之助らが出会い、新助は、自分にも晴らさなければならない恨みがあるから、仇討ちはしばらく待ってくるように頼む。新助の頼みを聞かなかった式之助の従兄弟は新助に斬られてしまうが、事情を聞いた式之助は待つことにする。荻生式之助はその後もずっと松山新助と「お通」の姿を見張り続ける。

こうして年月が経ったとき、ついに柘植半之丞の行くへが知れ、「お夏」と贅を尽くした生活をしているということを聞く。松山新助はそこに向かう。盲目の彼を引いて「お通」もその近くまで行き、そこで見送る。そして、ついに松山新助は柘植半之丞をしとめ、彼に向かってきた「お夏」も新助の刀で斬られてしまう。「お夏」は半之丞の妻になったが、心はまだ新助を想っていた。だがその想いも知られることなく死んでしまうのである。

そして、松山新助の復讐は終わり、彼は荻生式之助に斬られようとする。だが、新助の人柄に触れて、尊敬さえ始めていた荻生式之助は新助を斬らないばかりか、彼の音曲の弟子にしてくれと行って、戦いで傷ついた彼を背中に負っていくのである。「お通」がどうなったのかは触れられないが、松山新助はかなり長生きをし、彼の弟子となった荻生式之助が、やがて、江戸唄の根源になった「隆立ぶし」の創始者荻生隆達となったことが、末尾に記される。

 この物語も、大筋は特別なことはないのだが、時代に翻弄されながらも生き、自らの武士の一分を立たせるために過ごし、失った愛や与えられる愛を描きつつ、人間の微妙さを巧みに描き出した作品である。これも、物語の展開には絶妙なものがあって、「飽きさせない」という趣向が凝らされている作品である。こういう娯楽作品の物語性という点で優れているのが吉川英治の作品だろうと改めて思った。

今日は、なんだか少し疲れを覚えて、あまり意欲もわかないでいるのだが、「ブルー・マンディー」かもしれないと、自分で言い訳しておこう。

2013年1月4日金曜日

吉川英治『隠密七生記』


 比較的穏やかだったお正月の日々が過ぎ去って、そろそろ「ネジまき鳥」に動き出してもらわないと、と思いつつ、「まだ幕の内」と暢気に構えている。こういう変わらない日常がたぶん続いていくのだろう。晴れてはいるが気温が低い。週末から日曜日にかけて雪の予報もある。

 吉川英治『隠密七生記』(1969年 吉川英治全集8 講談社)を気楽に読んだ。これも、東映、華やかなりし頃に何度か映画化されているが、ロマンの香りが漂う娯楽時代小説の典型である。

 物語の背景は、徳川6代将軍の家宣が死去する際に、新井白石などを呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ」とか、「家継を次期将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行させよ」とか、「家継が育たなかった場合には、吉通の子の五郎太か吉宗の嫡男の長福丸を養子として、吉通か吉宗を後見にせよ」とか、諸説のある遺言を残した。結局、新井白石の提言によって、家宣の四男である家継(家宣の子たちは早世して家宣だけが残っていた)が第7代将軍となるが、この時、家継はまだ4歳であり、その家継も8歳で病死し、その後を紀州の徳川吉宗が継ぐ。

 この時に将軍位を巡る争いが尾張と紀州の間で起こるのだが、家宣の遺言にもあった尾張の4代藩主徳川吉通も25歳の若さで死去し、後を継いだ子の五郎太も数え年の3歳で死去し、尾張藩6代藩主となったのは、吉通の弟の継友であった。7代将軍家継が危篤状態に陥ったとき、次期将軍候補として、尾張の徳川継友と紀州の徳川吉宗の二人が絞られて将軍位を巡る駆け引きが行われたが、結局、家宣の正室であった天英院(近衛 熈子)の一声で吉宗が将軍となったのである。そして、尾張の徳川継友が後継のないままに39歳で死去したために、尾張藩代7代藩主はその弟の徳川宗春が継いだのである。

 徳川宗春は将軍吉宗に気に入られた一人であったが、江戸幕府と尾張との確執は深く、幕府の倹約政策とは逆に規制を緩和し自由経済政策を取った。宗春の華美な生活を吉宗が叱責するということもあったりして、朝廷との対立も深めていた江戸幕府の重臣たちは、朝廷を支持してきた尾張藩と宗春の失脚を画策するなど、吉宗個人ではなく江戸幕府との対立を深めていったのである。

 こうした歴史を背景として、物語は、6代将軍家宣の「次期将軍は尾張にせよ」との遺言状を宗春が所有し、それを名古屋城の金の鯱の目玉に秘匿して、江戸幕府からの圧力に備えていたところを幕府から送り込まれる隠密が探し出して奪い取るという設定で始まる。

 相楽三平は江戸幕府から尾張に送り込まれていた隠密だが、尾張藩士として潜り込んで苦節の日々を過ごし、ようやくにして、目的の遺言状が名古屋城の金の鯱の目玉に秘匿してあることを突き止める。彼は、城下の野焼きの延焼を見張るために、友人の椿源太郎とともに天守閣からの見張りの役につくのである。椿源太郎は、尾張藩の下級藩士として妹の信乃との二人暮らしをしているが、妹の信乃は相楽三平に想いを寄せ、天守閣での見張りにつきながら相楽三平に妹を嫁としてもらってくれと話したりする。

 そして、三平も信乃を嫁にすることを約束するが、彼の目的は隠密として金の鯱の目玉に隠されている遺言状の取得にあった。そして、まんまとそれを成功させて、一路江戸に向けて出奔するのである。

 事態を知った尾張藩は同役であった椿源太郎を捕らえ、その事態に陥ったことを知った信乃は自害してしまうのである。悲憤に駆られた源太郎は、自害した信乃の首を抱いて、捕縛を逃れ、遺言状を取り返してくると約して、事態を引き起こした相楽三平の後を追う。

 だが、相楽三平も一流の隠密であり、椿源太郎と腕の差は歴然としており、源太郎は三平に斬られてしまう。しかし、止めを刺されようとしたとき、その場に行き合わせた百草売りの女性「お駒」に助けられるのである。「お駒」は、この時、源太郎に一目惚れしてしまうのである。

 また、尾張藩の大番組頭の娘「墨江」も、以前に火事の折に源太郎に助けられたことがあり、源太郎に想いを寄せて、見事に遺言状を取り返してくるようにとの父親の言葉を伝えにその場に駆けつけてきた。

 こうして、一命を取り留めた源太郎は、相良三平を追って江戸へと向かうことになるが、源太郎を巡る「お駒」と「墨江」の女の争いも物語に色を添える形で描かれていく。「お駒」には彼女に惚れている道中師(盗人)の辰蔵という男が旅仲間としており、辰蔵は惚れた弱みで「お駒」の頼みはなんでも引き受けていた。「お駒」は、椿源太郎の傷が癒えるまで相良三平の足止めをするように辰蔵に頼み、そこから辰蔵と相楽三平の駆け引きが展開されていく。

 傷が癒えた椿源太郎は、一度は相楽三平に追いつくが、三平には江戸から迎えに来た隠密仲間があったりして、ついに、相楽三平は江戸に入ってしまう。江戸では彼の成功を祝した宴が繰り広げられる。だが、その隙をついて「お駒」が見事に三平から遺言状を取り返すのである。こうして舞台は再び名古屋へと向かう。

 遺言状を取り返した椿源太郎は尾張藩で歓待を受け、加増されて目付け役となり、大番組頭の娘「墨江」との婚儀の話もでるが、その婚儀を受けようとはしない。「お駒」は源太郎と離されてしまうが、惚れた源太郎の後を追って名古屋で時を過ごしている。「お駒」と「墨江」の恋の鞘当も激しくなる。

 しかし、再び遺言状を追ってきた相楽三平は、遺言状の在処を探し出して、また、これを奪い返す。藩主の徳川宗春は激昂し、椿源太郎がその仲間であると断罪して彼を捕縛させようとする。源太郎は、その時にもはや武家であることが嫌になり、捕縛の手を斬り抜けて、山中へ逃れる。

 他方、再び遺言状を手に入れた相楽三平は、慢心して揚屋で遊んでいる時に、「お駒」に見つけられ、再び「お駒」から遺言状を奪われてしまうのである。この時、「お駒」の手足として働いてきた辰蔵は三平の手によって斬り殺されてしまうが、「お駒」は逃げのびる。

 そして、知多の海の岸壁で、偶然にも捕縛の手を逃れた椿源太郎と相楽三平に追われる「お駒」が合うのである。二組の追っ手が迫る中で、「お駒」は遺言状を源太郎に渡し、源太郎は「お駒」への自分の想いを告げる。だが、二人は追っ手に囲まれてしまい、源太郎は、こんなものがあるから殺し合いが起きるのだ、と言って遺言状を海に投げ捨て、二人も海へと断崖を飛び降りるのである。

 「お駒」は、実は江戸の旗本の娘で、父親を何者かに殺されてその仇を探していたのだが、源太郎との最後の話で、その父を殺したのが源太郎であったこと、源太郎がずっと仇を討たれても良いとお思っていたことを告げられていた。しかし、心底愛する者を殺すことはできない、と二人で海へと飛び込んだのである。

 物語は、二人の命を救うために尾張藩の追っ手と相楽三平が、皮肉にも協力して探すという場面で終わる。適わない悲恋物語でもある。

 この物語は、家を守るためやつまらない秘密のために命が失われていくことの無意味さと恋の一徹さが同時進行的に波乱万丈の展開の中で描かれている作品である。秘密が行ったり来たりするという展開でそうした無益さがよく描かれているのだが、緊迫感をもつ展開のうまさは絶妙である。

 ちなみに、第7代尾張藩主の徳川宗春は、徳川家の中でも卓越した名君でもあったが、本書ではあまり良く描かれていない。彼は、後に、附家老(徳川家からの見張りの家老)の竹腰家の画策などもあって参勤交代中に藩政の実権を奪われて、そのまま蟄居謹慎を受け、67歳(享年69)で没している。尾張の人々が宗春を慕う思いはひとしおではなかったと言われる。

2013年1月2日水曜日

吉川英治『牢獄の花嫁』


 日本海側は大荒れの天気だそうだが、太平洋沿岸に当たるここは穏やかな冬晴れで2013年が始まった。個人的に、今年は大学での講義を引き受けてしまったので、普段に倍する世話しなさに追い込まれそうで、なんとも先が思いやられるが、お正月は予定をキャンセルしたので何もせずにゆったりした。

 昨年から吉川英治を読み返していることもあり、改めてこの作者の構成力や物語展開のうまさに脱帽しているが、このお正月の間に、吉川英治『牢獄の花嫁』(吉川英治全集8 1969年 講談社)を面白く読んだ。この作品もこれまでに何度か映画化された作品だが、物語を面白くするための工夫が随所に溢れている。

 物語は、江戸の捕物名人として尊敬を集めた塙隼人(はなわ はやと)が、号を「江漢」と称して隠居し、長崎に医術の修行に行っている愛息の郁次郎と許嫁の花世のために療養所を建てたところから始まる。彼は郁次郎が長崎から帰ってくるのを日一日と待っているのである。花世は高潔な旗本富武五百之進のひとり娘で清楚な香りが漂う美貌の女性であった。

 ところが、殺された笛の師匠の近辺で花世とよく似た女性が出没し、しかも長崎から帰路にあるはずの郁次郎によく似た侍も出没して、謎が深まっていくのである。殺された笛の師匠の左手の人差し指も切り取られており、それもまた謎であった。

 探索に当たった奉行所の与力は、先輩である塙江漢を尊敬しつつも、事件に郁次郎と花世が関係していると狙いをつけ、上方一の捕物上手と言われた大阪の町方与力をしていた羅門塔十郎の助力を得て、郁次郎と花世を捕らえようとする。郁次郎と笛の師匠が交わしていた恋文が発見されたのである。そして、郁次郎は既に内密に江戸に帰ってきていた。

 上方随一の名与力と言われた羅門塔十郎は、その腕を亀山八万石の城主松平竜山公に認められて、その後継の行くへを探すために江戸に出てきていたという。松平竜山公は、世継ぎがないままに齢七十歳を数えるようになり、一応は家老の大村郷左衛門の息子を仮の養子として幕府に届けていたが、密かに愛妾に産ませた子があり、その子は間違いを犯して切腹したが、その子に四人の遺子があることが分かって、その遺子を探させていたのである。つまり、松平竜山公の四人の孫の行くへを探していたが、その期限の年月が過ぎ去ろうとしていた。

 実は、それが事件の大きな鍵となるのだが、それは伏せられたままで、事件は郁次郎と花世の顛末へと続いていく。奉行所与力と羅門塔十郎は、郁次郎が花世の住む屋敷に密かに匿われていることを突き止め、二人を襲って郁次郎を捕縛するが、まんまと逃げられてしまう。そこで花世の捕縛に向かい、花世の父である富武五百之進が謎めいた言葉を残して切腹したことによって花世にも逃げられてしまうのである。二人の行くへは洋として知れなかった。

 しかし、江ノ島で巫女の娘が殺され、その左手の中指が切り落とされていたこともあり、そこに郁次郎がいた証言もあって、郁次郎はついに捕縛される。他方、花世によく似た女の後を追っていた奉行所の同心は、京の郊外にあった松平竜山公の隠居所の近くで、その女を追い詰めるが、反対に隠居所の侍たちに捕らえられてしまう。花世に似た女は、実は「玉枝」といい、先に殺された笛の師匠の家で下働きをしていた女であったが、松平竜山公の家老大村郷左衛門から竜山公の四人の孫を探し出して、これを亡き者として、証拠の左指の黒染めの指を切り落とすように金で依頼をされていたのであった。

 江戸の笛の師匠殺しと江ノ島の巫女殺しの犯人として捕らえられた塙郁次郎は重罪人としての裁きを待つ身となっていた。だが、奉行所与力の下で働いていた塙江漢を慕う同心がついに事柄を江漢に告げ、塙江漢は息子の冤罪を晴らすために立ち上がることになるのである。

 老いた塙江漢の活躍と危機、また、彼の意を受けて動く同心たちの冒険譚、そして、犯行に重要な役割を果たしていると思われる「玉枝」の動きへと展開していき、次の犠牲者が、また、左手の小指を切り取られて出るなどの事件が持ち上がり、ついに、彼と真相究明を争っていた上方の捕物名人であった羅門塔十郎がすべての事件の黒幕であったという「どんでん返し」へと進んでいくのである。

 事件の真相そのものは単純で、亀山八万石の城主松平竜山公の孫娘たちには、なぜかその印として左手の指がそれぞれに黒くなっているのがわかり、城主の座を狙う家老の大村郷左衛門が羅門を使って密かに孫娘たちを見つけ出して処分し、代わりに「玉枝」を孫娘として息子と婚儀を結ばせようとしたものであった。羅門も玉枝も金と欲で動いていたのである。

 塙江漢は、この事件の真相を突き止めて、息子の郁次郎を救い出し、花世を助けて、事件が収まる。だが、江漢は羅門との戦いで傷つき、死のまぎわで二人の夫婦になる姿を見て息を引き取るのである。

 読んでいて、いくつか歴史考証が必要なところもあるような気がするのだが、物語の展開や構成、そして何より作者の創造力に感服する。江戸川乱歩的なミステリー性と怪奇性などが盛り込まれつつ、冒険譚やロマン小説の趣がたっぷりとある。娯楽時代小説の一つの形がこれで形成されたと言えるかもしれない。

 この全集の8巻に収められているのは、歴史小説ではなく、作者が創作した謂わば冒険ロマン小説で、次に『隠密七記』を読もうと思っている。