2013年5月13日月曜日

滝口康彦『上意討ち心得』(1) 「血染川」、「その心を知らず」


 わたしが住んでいる近くの駅前に、小さなバラの公園が作られていて、今、そのバラが美しく咲いている。ロータリークラブだったか、ライオンズクラブだったか、その人たちが丹精を込めて造園されているのだが、日毎に楽しむことができるのでありがたい。冬枯れていくさまも好きだが、新緑の中で花々が咲く今の季節は美しい。花屋さんの店先には、もう紫陽花が並んでいた。

 上質の小説を読むと、どことなく嬉しくなるが、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)を静かに感動しながら読んだ。これも短編集で、本書には、「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」、「血染川」、「その心を知らず」、「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」の八篇の短編が収められているが、このうち最初の三篇である「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」は、講談社文庫として出されている『一命』(2011)にも収録されているので、ここでは触れないでおく。

 「血染川」は、佐賀藩の藩祖といわれる鍋島直茂の甥にあたり、分家として久間城主であった鍋島助右衛門茂治の壮絶な破滅の物語である。鍋島助右衛門茂治は、剛毅で義に厚い人物だったと言われ、領地の久間にも善政を敷いて領民から慕われたと言われている。

彼の破滅は、秀吉の朝鮮の役(慶長の役 丁酉倭乱)の蔚山城攻防(1598年)の時に端を発している。その時に、鍋島助右衛門茂治は、未完成の蔚山城に篭城して飢餓寸前にまで陥った加藤清正ら日本軍の救出に援軍として駆けつけた鍋島勢の中にあって、一説では、餓死寸前で救出された加藤清正が感激して、自分の老臣(重職)の息子と助右衛門茂治の娘を娶あわせて、末永く縁戚を結ぶことを願ったと言われる。

 朝鮮の役は秀吉の死をもって終わり、関ヶ原の合戦後、佐賀藩鍋島家は直茂の子の勝茂を藩主として家康から安堵されるが、鍋島勝茂は他国(他藩)との縁組を御法度(禁止)としたために、鍋島助右衛門と加藤清正との間でなされた婚儀の約定を行うことができなくなった。

 しかし、どこまでも武士の約束を守ることを貫徹させようと、近所の寺に説法を聞きに行くという口実で、娘を密かに肥後熊本に送り出すのである。助右衛門の娘が若党と駆け落ちしたという他説もあるが、助右衛門が「義」として約束を守ろうとしたというのが真相のようにも思われる。その時、藩主として権力を振るい始めた勝茂に対する反発もあり、「勝茂なにするものぞ」の気概も助右衛門にはあっただろう。鍋島家の本流からすれば、助右衛門が本家筋にあたり、直茂・勝茂は分家筋だったのである。

 娘は、行くへ不明となっていたが、実は、肥後熊本の老臣の一人であった正林隼人の息子の嫁となっていた(一説では清正の妾ともあるが、この問題が起こった時には、清正は既に死亡している)。それが鍋島勝茂の知るところとなり、自分が制定した法度が破られたことを激怒した勝茂が助右衛門の娘の引渡しを加藤家に申し入れるのである。

 使者として立てられたのは剛直で武名を誇る成冨兵庫之介茂安で、成冨兵庫之介茂安は、朝鮮の役の際に加藤清正が、助けられた礼はどのようなことでもすると言った約束を盾にして、娘の一命を約して娘を連れ帰り、使者としての役目を果たす。だが、佐賀に連れ帰られて監禁状態に置かれていた娘は自害し、勝茂は鍋島助右衛門とその息子の織部に切腹を命じるのである。

 助右衛門と息子の織部は、もちろんそのことは覚悟の上で、これらの一連のことが、助右衛門を目の上の瘤と思っていた勝茂によって助右衛門を排除するために行なわれたことも知っており、死の準備を整え、使者を待ったのである。使者が久間に到着したとき、助右衛門と織部は碁を打っており、その一局を済ませて腹を斬るのである。その時、助右衛門の家臣十八人が殉死を願い出て、織部は十八人の首を斬ってから腹を斬ったのである。

 その時に流れ出た血が近くの川を赤く染めたので、その川は血川とか血染川とか呼ばれたという。

 この話は『葉隠』の巻六に記載されており、『葉隠』は、「人物をもたない者の悲劇」として描いているのだが、滝口安彦は、これを藩主の勢力欲に対して壮絶に一徹さを貫き通した武士の物語としているのである。それは、滅びの美学と言えるかもしれないとも思う。

 「その心を知らず」も、『葉隠』巻九から題材が取られたもので、男女の不義密通事件を取り扱ったものである。

 ある武士が家に帰った時に、女房と家来とが寝間で密通を働いている現場に出くわし、女房を斬り殺して、子どもの恥になることだからと病死として処理し、不義密通を働いた家来は後日に暇を出して(解雇追放)、家名を守ったという話である。『葉隠』は、この出来事が江戸で起こったこととしているが、本書は佐賀藩の城下で、しかも不義を働いた女房の妹を主人公にして、対面を保つことのつまらさなを描いたものである。

 「みな」は、姉の突然の死を知らされる。姉は四つになる子を残したままで、姉の夫の夏目陣内は二十五歳、姉は二十二歳だった。夫の評判も良く、家内は安定しているように見えた。「みな」の兄の小弥太と陣内が親しく、姉の婚儀もごく自然な成り行きだった。

 姉の死後、陣内は後添いをもらうこともなく、姉のために立派な墓も建て、小弥太との交わりも欠かすことがなかった。だが、「みな」はそのどこかに違和感を覚えていたのである。そして、やがて姉の一周忌が過ぎ、夏目陣内は、子どもがなついている「みな」との結婚を申し出る。だが、陣内には隠していたことがあった。

 それは、「みな」の姉が死んだのは、実は病死ではなく、家来と不義密通を行っていた現場に陣内が出会い、姉を斬り殺したことによるものだった。その際、陣内は、冷静に血飛沫が飛ばないように処理し、不義を働いた家来には当分今のままで過ごすように命じ、女中に医者を呼びに行かせ、その医者が来る途中で、姉がもう死んだと告げることで、病死を繕ったのである。

 ことが明るみに出れば、それは夏目陣内にとっても恥となり、姉の兄である小弥太にとっても恥となるし、息子もつらくなるだろうから、すべてを内分にして病死としたのである。対面を取り繕うことが行われたのである。夏目陣内が「みな」に結婚を申し出たのも、万一にも秘密がもれても、不貞な妻の妹を嫁に迎えたりはしないはずだと、その秘密をだれも信じないだろうという計算が働いていた。

 「みな」はその事実を知る。そして、兄の小弥太が、家名と人間の真実のどちらを取るか、で悩んできていたことを知るのである。「みな」は、それを知りながら、一応は陣内との婚儀を承諾するが、直接、陣内にあって、その気持ちを確かめようとする。

 「みな」は陣内に、姉を殺した時に憐れむ心はなかったのかと問う。陣内は、不義を働き侍の顔に泥を塗ったのだから、一瞬の迷いも憐れむ心もなかったと言い張る。陣内は冷静に事を処理した。そこに「みな」は陣内の姉に対する一片の愛情もなかったことを知るのである。しかし、陣内の心は揺れた。だが、それも一瞬で、彼は再び家名を守るために、厳然と振舞おうとするのである。

 だが、それから三日後、夏目陣内は佐賀の城下から姿を消す。そして、「みな」は姉の墓参りの時に、姉と密通した男と出会う。男は姉との不義が本気だったといい、それでも陣内のために死ぬわけにはいかなかったと言う。「みな」は、本心を隠して生きなければならない侍の哀しさを思うのである。

 江戸時代も中期以降になるとサムライというよりも武家は対面や格式で生きるようになるが、対面を保とうとするときには人間性というものが押しつぶされていく。作者は、その押しつぶされる人間性が、押しつぶされてもな吹き出るところに真実があり、その真実の前では、対面や格式などは意味を持たなくなることを暗示する。「みな」というひとりの女性が、その真実を大切にしたいと願う姿を描き出すことで、『葉隠』が記していることとは違う視点で人間を見ることを物語るのである。

2013年5月10日金曜日

乙川優三郎『男の縁 乙川優三郎自撰短編集 武家編』


 西から低気圧が近づき天気が崩れていくそうだが、今日はまだよく晴れて少し暑いくらいの初夏の陽射しがさしている。このところ、怠惰な自分にさらに拍車をかけて怠惰に過ごしたいと思っていたが、そうもいかない状況が続いて、夏までもつだろうかと思ったりもする。

 そういう中で、乙川優三郎『男の縁 乙川優三郎自撰短編集 武家編』(2006年 講談社)を再び感じ入りながら読んだ。これまで読んだこの作者の短編は非常に優れていて、短編時代小説の名手かもしれないと思ったりもするほど良質の作品が多い。作品の文学性は高いものがある。

この「自撰短編集」は、「武家編」と「市井編」があり、「武家編」には、「悪名」、「男の縁」、「旅の陽射し」、「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」、「柴の家」の八篇が収められている。このうちの「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」は、前に読んだ『武家用心集』(2003年 集英社)にも収録されており、ここでは割愛する。

 「悪名」は、藩政改革のために藩主の密かな命を受けて、わざと不行績のためにお役御免となり、領内で収賄によって私腹を肥やしていた藩の重鎮や商人たちから金銭を脅し取るということをして悪名を轟かせている武士の話で、彼と相愛ながらも他家に嫁ぎ、子がなくて離縁され、茶屋勤めをしている女性の目を通して、それが描かれていく。

 下級藩士の家で育った「多野」は、密かに隣家の次男である山野辺重四郎への想いを持ちながらも、十七歳で他家に嫁いだ。病気の舅の世話をさせられたが、その舅が亡くなると、用なしとばかりに子ができないことを理由に離縁され、貧しい実家に戻ったが、そこで厄介をかけることもできずに茶屋の女中奉公に出た。

 重四郎は、次男であり、末期養子の縁組が決まって、山野辺家を出て、やがて養家の家格もあって、勘定方から勘定奉行のひとりになっていき、財政難に陥っていた藩政をなんとかしようとしたが、彼の提案は賛同を得ずに諦めざるを得ない状態となり、そのうちに不埒を働いたということでお役御免になったのである。

 二人は偶然に再会したが、重四郎は昔の溌剌とした面影もなく、自堕落で、辛辣な皮肉を「多野」に言うばかりだし、侍としての品位もなくし、女にもだらしがなく、市中のよからぬ噂も聞こえていたが、「多野」は、心のどこかで重四郎をまだ信じている自分を感じていた。

 だが、そうした「悪名」を流したのは、私腹を肥やした藩の執政や豪商たちから金を脅し取り、それで逼迫した藩庫を補うためで、不正の手口と裏金の流れを掴んで、そのような不正が二度と起きないようにするという藩主の密かな命令を受けてのことであった。

 そして、重四郎は、不幸な境遇に身を置き、茶屋の女中奉公をしている「多野」に妻となるように申し出るのである。

 文章に独特の「情」というものがあって、ひとつの光景がひとつの心情を表すような描き方で、ここでは臘梅と風花が全体を醸し出すものになっていて、その光景を眺め見る時の心情が巧みに描かれている。

 表題作にもなっている「男の縁」は、藩の家臣譜(家臣の歴史)の執筆を依頼され、二十年もの長きに渡ってその仕事を続けてきた宇津木丈太夫という人物を通して、一人の早見伝兵衛という老家臣の生涯とその姿に触れていくというもので、あるい意味では、武士として壮絶でもあるその姿が描き出されていく。

 早見伝兵衛は宇津木丈太夫が記している家臣譜に加筆して欲しいことがあると言って、これまで秘してきていた自分の生涯を語り始める。彼は、元は大和国柳生の庄で柳生新陰流の門人で、免許をもつほどの使い手だったが、兄弟子とふたりで新しい主君と扶持を求めて諸国を歩いた。しかし、彼らの仕官先はなかなかなかった。

 そして、ある時、伝兵衛の伯父で武芸はうまくなかったが世辞に長けた人物の話になり、兄弟子は彼の伯父のことをひどくなじり、罵倒したために、伝兵衛が伯父をかばうと、愚かにも立会をするまで発展してしまった。伝兵衛はその立会に勝ち、兄弟子を殺してしまった。そこで、名前を変え、柳生新陰流の使い手であることを秘して、弓術で藩に仕えるようになり、今日を迎えたと言う。そのことを自分は秘してきたが、家臣譜に付け加えて欲しいと言うのである。それは、早見老人が自分の死を前にして過去を清算する姿でもあった。

 他方、宇津木丈太夫は、病身の母親と自分の世話のために嫁き遅れている一人娘の縁談のことで悩んでいた。娘は、もうしばらく父母と暮らしたいと言い、結婚する気配もなく、宇津木丈太夫はそれを案じたりしていたが、二度も妻を離縁し、三度目の妻を迎えるために家臣譜を見せて欲しいと訪ねてきた犬井荘八という男が気のある素振りを見せたりしていた。宇津木丈太夫の目には、犬井荘八は軽薄な男にしか見えなかった。

 そんな中で、早見伝兵衛は、十年ほど前に複数の藩の重職たちが結託して空米相場に手を出して私腹を肥やした事件の告発状を江戸藩邸に送り、藩の大目付が調べ始める動きが起こった。早見伝兵衛は自分が死病にかかり、余命幾ばくもなくなっているという。そして、早見伝兵衛は、その時不正を働いた藩の重職たちがいる御用部屋に乱入して立てこもるという事件を引き起こしてしまう。伝兵衛は柳生新陰流の使い手であり、藩の中老なども斬られ、役人も手が出せない状態になった。

 その時、軽薄としか見えなかった犬井荘八が名乗り出て、伝兵衛が立てこもる屋敷に入っていくのである。そして、彼は伝兵衛との激闘の末に、伝兵衛を斬って出てくるが、この事件が藩の重職の方から仕掛けた斬り合いで、早見伝兵衛は乱心したのではなく、覚悟の討ち死にをしたと語るのである。

 早見伝兵衛は、こうして自分の最後をきちんと清算し、潔く死を迎えたのである。犬井荘八には、そのことがよくわかっていた。宇津木丈太夫は、人を見直す目をもって犬井荘八は見るのである。直接には記されないが、犬井荘八と宇津木丈太夫の娘とは、このあと結ばれてくだろうことが余韻として残る。

 「旅の陽射し」は、死を目前にした老夫婦が、再び愛情を取り戻していく話である。長い間医者としての研鑽を積み、藩医にまでなった意伯は、半年ほど前、自分が死病を患ったことを悟った。医者として多くの死を看取ってきてはいたが、自分の死に直面して、彼はうろたえ臘梅した。我儘になり、癇癪を起こしては、妻の「万」につらく当たった。

 妻の「万」は、夫の我儘に耐え、癇癪に耐えたが、これが長年連れ添ってきた夫婦の終わり方だろうかと冷たく感じていた。そういう中で日々が過ぎていったある日、夫が銚子に行こうと言い出す。間に合せの覚悟ではどうにもならない人生の終わり方を「万」は考えざるを得なくなる。そうして二人は銚子につき、銚子の海を眺めるのである。

 旅先で、意伯も万も、解放された景色を眺め、珍しい美味しいものを食べ、それまでの死の気鬱が吹き払われていくようになっていく。旅先の銚子では、子どもの頃から病弱で何度も死の危険にさらされながらも、医者であった意伯によって生きのび、今では丈夫になっている中川奥右衛門という郡奉行にも会い、彼によって道案内のための娘の世話を受けたりする。

 娘は、いつも死と隣り合わせに生きている漁師の娘で、貧しくはあったが清楚で溌剌としていた。そうしていくうちに、意伯はだんだんと素直さを取り戻し、冷え切った夫婦の間が溶かされて温められていくのである。磯巡りで、意伯は死にかけていた子どもの病状を診たりするし、そのために岩場を登ったりしていくが、夫婦が夫婦として穏やかに終わりを迎えていく道を見つけていくのである。

 最後の「柴の家」は、十七歳で旗本家の婿養子に入り、夫婦仲も冷えたままで、ただお家大事、跡取り大事で存在するだけのつまらない日々を送っていた武士が、ふとしたことで陶芸に魅入られ、そこに弟子入りし、陶芸師の孫娘で、陶芸に命を燃やす女性と生きていく決心をしていく物語である。彼は、分別のある中年になっているが、家を捨て安泰な生活を捨て、命の炎を燃やしていく人生を選び取っていく。そうした姿が、作陶に向けられる二人の思いとともに描き出されていくのである。

 これらのいずれの短編も、情緒あふれる文章で描かれており、物語の展開というよりも、文章の余韻で物語が綴られるようなところがあって、じんわりと読める作品になっている。いずれの作品も美しい。

2013年5月8日水曜日

風野真知雄『両国大相撲殺人事件 耳袋秘帖』


 昨夜から朝にかけて少し冷え込んだのだが、徐々に気温が上がって初夏らしい天気になった。昨日、吉祥寺まで出かけて、井の頭線の沿線に広がる武蔵野の面影をぼんやり眺めながら、風は強く吹いていたが、今の季節はほんとうにいいと思っていた。小さな池の中で蓮の花が開き始めていた。

 電車の中で座ることができたので、風野真知雄の「耳袋秘帖」シリーズの一冊である『両国大相撲殺人事件 耳袋秘帖』(2012年 文春文庫)を一気に読んだ。今、この作者の『妻は、くノ一』がNHKでテレビドラマ化されて放映されているのを時折見ている。

 『両国大相撲殺人事件』(2012年 文春文庫)は、2007年に「だいわ文庫」として出されてもののリニューアル版として出されたもので、このシリーズの6作品目の作品だが、他の作品同様、江戸中期の名奉行と言われた根岸肥前守鎮衛の「耳袋(耳嚢)」から題材が取られたものである。本作では、相撲史上最強の力士と言われた雷電為右衛門が絡んだ事件が取り扱われ、彼のあまりの強さと人気を妬んで、彼に殺人犯の濡れ衣を着せて彼の評判を落とそうと企んだ事件が描かれていく。

 江戸時代の相撲力士の多くは、たいていがどこかの大名がお抱えとしていたが、雷電為右衛門(17671825年)は信濃国小県郡大石村(現:長野県東御市)出身で、松江藩松平家のお抱え力士であった。彼は無類の強さを誇ったし、当時の力士としては珍しく読み書きそろばんもできたと言われている。

 諸大名が力士を抱えたのは、自分の藩の強さを誇る「見栄」のためで、参勤交代の時など強い力士を歩かせることによって武勇を誇ろうとしたのであるが、諸大名は互いに「雄」を競うようなところがあって、本書では松江藩松平家と雄を競った肥後熊本藩の細川家が登場する。

 この頃になるとどこの藩でも財政逼迫が大きな問題となり、本書は、肥後熊本藩細川家でも、財政改革のために人員整理が行われたという設定で、その人員整理によって三名の下級武士が解雇され、彼らが元の藩に復することを悲願としているところから始まっていく。その悲願を利用されて、彼らは細川家江戸屋敷の用人に操られて、藩主が雄を競っている松江藩松平家と対抗するために、そのお抱え力士である雷電為右衛門を殺人犯に仕立て上げて評判を落とそうとするのである。いわば、藩主のご機嫌をとって、それによって復職しようとするのである。利用する者も姑息であれば、利用される者も姑息である。物事の企みには、そういう姑息さがつきまとうのは世の常で、そうした人間を登場させることができるところに娯楽時代小説の面白さがあるのかもしれないとも思ったりする。

 彼らは、雷電為右衛門が得意技としている技を巧妙にまねて、また雷電為右衛門の衣装に似た衣装を使ったり、彼の下駄を現場に残したりして、一人の有望な若い力士を殺し、雷電為右衛門が殺人をしたという噂を流すのである。人は噂によって動きやすいから、濡れ衣を着せられた雷電為右衛門は窮地に立つことになる。

 本書は、この事件に、雷電為右衛門を密かに贔屓にして応援などもしていた根岸肥前守が乗り出して、事件の真相を暴いていくという筋立てになっているが、再仕官(復職)を願う武士の悲哀などが描かれたりしている。姑息であるということは哀しいことでもある。作者はその哀しさを描こうとする。彼らは藩主のご機嫌取りのために使い捨てカイロにように使われる。それは、企業の業績が悪化している中で人員整理が盛んに行われている現代の状況を反映したものでもあるだろう。こういうところが、この作者のいいところだと思っている。

 物語そのものは、根岸肥前守の日常や人柄、また、本書では雷電為右衛門の人柄などが織りなされて全体的に温かい雰囲気の中で綴られていくし、取り扱われている事件も複雑なものではなく、娯楽時代小説として面白く読めるものになっている。

 また、巻末に本書のオリジナル書下ろしとして「余話 ろくろくろっ首」という作品が掲載され、まだ街の無頼漢であった若い頃の根岸肥前守と友人の五郎蔵が「ろくろ首」の見世物小屋を開いてひと稼ぎ企む話が展開されている。

 暑い夏の日に、身体を酷使して銭を稼ぐよりも楽して儲けようと銕蔵(根岸肥前守)と五郎蔵は、知り合いの可愛らしい町娘を使って「ろくろ首」の見世物小屋を作り、これが成功してうまくいくが、両国の香具師の親分の巧妙な企みによって、その商売そのものが乗っ取られてしまうという憂き目を見ることになったという話である。

 彼らは両国の香具師の親分に、いわば負けてしまうのである。この時に銕蔵(根岸肥前守)が言うセリフに味がある。彼は、乗っ取られて悔しがる五郎蔵に、「おれたちはいっぱい負けようぜ」と言うのである。「負けることなんかなんにも恥ずかしくねえ。おれたちはいっぱい負けて、いっぱい学ぼうぜ」と言う(本書299ページ)。こういうところが本書の「味」で、おそらくそれは作者の人生哲学でもあるだろう。

2013年5月6日月曜日

火坂雅志『心中忠臣蔵』


 3日の憲法記念日から、気温は高くはないが五月晴れの日々が続いていた。あまり気乗りのしない行事に駆り出されたりして、気分的には爽やかとは言い難かったのだが、それでも立夏の頃は過ごしやすくていいものである。

 この連休中に火坂雅志『忠臣蔵心中』(1999年 講談社)を読んでいた。個人的に、元禄151214日(現歴:1703年1月30日)に起こった赤穂浪士による吉良上野介(義央)の斬殺(討ち入り)事件である「忠臣蔵」には、あまり関心はないのだが、本書はそれに近代江戸文学の華といわれ、今なお、歌舞伎や浄瑠璃だけではなく、多くの影響を残している近松門左衛門(16531725年)を絡ませて、近松門左衛門から見た忠臣蔵という構成をとっており、面白く読めた。

 作者は、「あとがき」の中で、経済学者であった滝本誠一という人が、『乞食袋』(1929年 日本評論社)という書物の中で、赤穂浪士の中心的人物であった堀部安兵衛(武庸)が近松門左衛門と兄弟であったという説を述べているのに触発されて、兄である近松門左衛門と堀部安兵衛の関わりを通して、近松門左衛門から見た忠臣蔵を描いたという趣旨のことを記しているが、歴史的に信憑性のある話ではなく、まあ、その辺りは差し引いても、物語としては面白く読めるものになっている。

 近松門左衛門は日本のシェークスピアと言っても過言ではないだろう。確かに、彼の前半生は不明のままであり、その出生地にしてもいくつかの説があるが、だいたい、越前福井藩士であった杉森信義の子で、その後、越前福井藩の分家であった吉江藩(現:鯖江市)に移り、その後、1664年に父の信義が吉江藩を辞したため、父親と共に京都に移り住んだというのが、一応の定説になっている。

 他方、堀部安兵衛は、1670年に越後新発田藩の家臣中山弥次右衛門の長男として生まれ、彼には姉が三人いたが、男兄弟はいなかった。彼の母親は、安兵衛(武庸)を出産した直後になくなっている。従って、近松門左衛門とは藩も異なっているし、知られている母親も違い、血縁関係があったとは思われない。

 もちろん、そんなことは百も承知で、作者は元禄時代の大事件であった赤穂浪士討ち入り事件ろ、それを最初に芝居に仕立てたといわれる近松門左衛門を巧みに絡ませてみて、本書を仕立てたのだろう。

 それと、本所の吉良邸の近くで、吉良上野介の娘を娶った弘前藩津軽家の分家で四千石の黒石領を領していた釣り好きの津軽采女を絡ませて、元禄時代の五代目将軍徳川綱吉が発した「生類憐れみの令」などに対する批判的な空気を醸しだしたりしている。また、堀部安兵衛の吉良邸の下調べの協力者として女忍者を登場させたりして物語が盛り上げられている。さらに、近松門左衛門がふとしたことで、京都で遊蕩にふけるふりをしている大石蔵之介に出会うという場面を作り出して、大石内蔵助の人物像を描いたり、赤穂浪人で仇討ち派の一人であった橋本平左衛門が大阪の遊女と心中事件を起こして、仇討ちの計画から脱落していく姿なども盛り込まれたりしている。

 圧巻は、討ち入りの夜に近松門左衛門が吉良邸の屋根の上から討ち入りの様子を眺めて、それを書き取っていくという結末であろう。もちろん、それは作者の創作であるが、書くことによって己の志を遂げようとする近松門左衛門をそういうふうに描き、それが鬼気迫る姿となっている。

 本書の基本的な線は、武士の一分を果たすために仇討ちに向かう堀部安兵衛と、そんなものは何の意味もないと武士を捨てた近松門左衛門の二人の生き方を描き出すというもので、それを兄弟として赤穂浪士の事件で描くというものである。

 赤穂浪士の討ち入りの展開そのものに何か新しい視点があるわけではないが、そうした基本線で織り成される物語として、本書は面白く読めた。「忠臣蔵心中」という表題は、そう言う意味でつけられているのだろうし、その後、近松門左衛門が心中物を描いていく根底に、死を賭して意思を貫徹するという忠臣蔵と心中事件の似たような構造を見出して、筆によって無念を晴らすという意思があると作者は見ているのではないかと思う。わたし自身は、「無念など晴らさなくても良いと」思うが、ともあれ、忠臣蔵は武士のあり方を変えた大事件であったとは思っている。

2013年5月1日水曜日

上田秀人『継承 奥祐筆秘帳』


 「目に青葉」と歌われた皐月を迎えた。五月晴れとはいかず、どこか肌寒い日になっている。今年は暖かい日がなかなか少ないが、それでも新緑の美しさには心が和む。こういう中で、わたしは不思議に、何かをすることよりもしないことを選択していたいと、つくづく思ったりする。

 閑話休題。上田秀人『継承 奥祐筆秘帳』(2009年 講談社文庫)を面白く読む。これは、このシリーズの4作品目の作品で、ここに記しているだけでも、これまで3作目の『浸食』(2008年 講談社文庫)、7作品目の『隠密』(2010年 講談社文庫)、8作品目の『刃傷』(2011年 講談社文庫)を読んできていた。

 前作の『浸食』では、第11代将軍徳川家斉の暗殺未遂事件が展開され、将軍である我が子を暗殺してまで将軍位を自分のものにしようとする一橋治済と先の老中松平定信の暗闘、そして家斉自身の葛藤などに巻き込まれていく主人公の奥祐筆立花併右衛門と彼を護衛する剣士の柊衛悟の姿が描かれていた。

 本作では、尾張徳川家に養子に出した四男の敬之助が急死した(わずか2歳で急死)ために後継者を失った尾張徳川家の思惑と、尾張藩の付家老で譜代大名へと返り咲きを狙う成瀬正典の画策、それに将軍継承問題で画策して老中内で実権を握ろうとする太田資愛(すけよし)の暗躍が展開され、それに相変わらず将軍位を狙っている一橋治済の策略が加わり、それぞれの意を受けた刺客たちと柊衛悟の闘いが描かれていく。

 「オットセイ将軍」と言われたほど多くの側室をもった徳川家斉は、側室「お万の方」との間に生まれた長男竹千代をわずか1歳にならない前に失い(1793年)、この年に「お楽の方」との間に生まれた次男の敏次郎(第12代将軍家重 17931853年)を継嗣としていた。次の年に「お梅の方」との間に生まれた三男は夭逝し、「お歌の方」との間に生まれた四男の敬之助を尾張徳川家の養子としていたのである。この敬之助が急死し、この時点で(1797年)で残っている男子は、継嗣である次男の敏次郎と、正室として迎えた薩摩藩主島津重豪の娘の「茂姫(広大院)との間に生まれた五男の敦之助(17961799年)の二人だけであった。

 いくらなんでも正室との間に生まれた敦之助を養子に出すわけにも行かず、継嗣の敏次郎を廃嫡として、これを尾張徳川家の養子として出し、敦之助を継嗣とするという思惑が蠢き、その中での権力闘争が繰り広げられていくのである。一橋治済は、生まれてくる男子を皆殺しにして、御三卿の筆頭である一橋家の当主として自分が将軍位につくことを狙っている。

 そんな中で、駿府で家康の書付が発見された。その書付は、尾張徳川家が誕生した際に家康が尾張徳川家に付家老として付けた成瀬義直の役目が終われば譜代に戻すという約定を記したものだった。そして、奥祐筆組頭として立花併右衛門がその書付の真贋の判定のために駿府にやられることになる。この機に全てを知って目の上の瘤となっている立花併右衛門を殺そうとする太田資愛は刺客を放ち、また、自分の地位保全と譜代への返り咲きを狙う成瀬正典も書付を奪おうと刺客を放つ。朝廷側の復権を画策する覚蝉も一橋治済も、将軍家斉のお庭番もそれを探り出そうと暗躍する。

 立花併右衛門は、娘の瑞紀を守るために、柊衛悟を残してひとり駿府に向かうが、娘の瑞紀は衛悟に父を守ってくれるように頼み、柊衛悟も瑞紀の依頼を受けて、立花併右衛門を守るために駿府へ向かう。その帰路、併右衛門は、やはり襲われ、危機を迎えるが、駆けつけた柊衛悟によって助けられる。

 他方、老中は、いまさら尾張の付家老を譜代に戻すことなど考えられないとして、その書付を闇に葬ることを決めていくのである。

 こういう物語が本書で展開されて、緊張感あふれるストリーが展開されるのだが、本書を読みながら、登場人物たち、特に権力を持つ者たちがあまりに権力に固執し、強欲であるように描かれすぎているような気がしないでもなかった。もちろん、それぞれの立場でそれぞれの論理をもって彼らの権力欲が描かれているのだから、それは作品に緊張感を生み出して面白くなるのだが、歴史や人間の評価というものは様々で多様であるから、その点が少し考慮されれば、さらに奥行きのある作品になっているのではないかと思ったりする。しかしながら、面白いという点では実に面白い。シリーズものとしてまだ継続されているので、このあとの展開がどうなるか、期待されるところである。

2013年4月29日月曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(2)


 初夏とは呼べないが、この2~3日、ようやく暖かくなって過ごしやすくなっている。新緑が鮮やかで美しい。こういう日々は本当に嬉しい。

 さて、滝口康彦『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)の続きであるが、第四作「下野(しもつけ)さまの母」は、二十六、七年連れ添った夫に、十四年も前に裏切られていたと思った妻の不信感から始まっていく。夫の波多野修理は謹言一直で、五十歳になり、子どもも成長して、孫もいて、妻の「いよ」は対馬藩の家中で、自分は幸せ者だと思って暮らしてきた。

 ところが、信じて疑ったこともなかった夫が、十四年前に背信行為をしていたことが動かぬ証拠とともにわかったのである。夫の相手は、先代の対馬藩主の愛妾の「若狭さま」で、しかも無理心中まで企てていたことが、修理自身が書いた手紙が「若狭さま」の死去とともに遺品として夫に届けられてきたのであった。手紙は間違いなく夫の筆跡で、藩の家老に宛てたたもので、「若狭さま」との無理心中を記したものであった。

 夫の留守中にその文を盗み見た妻の「いよ」の心は乱れ、夫に問い質すが、夫はただ「聞かずにおいてくれ」て言うだけであった。「いよ」の心が地獄のようになったことを承知の上で、夫はただ「それを承知で頼むのだ」というばかりである。

 その手紙の中には、決して人に明かすことができない秘密があったのである。その秘密は、前藩主が亡くなった時から始まった。前藩主の正室には子がなく、国元の愛腹に、母は異なるが三人の男児があった。世子として届けでられている猪三郎義功は十歳、次男の富寿は八歳、五歳の種寿である。猪三郎義功は十歳で届け出られているが、実際は八歳であった。新藩主は届け出られていた猪三郎義功がつき、国家老の古川図書が補佐となり、このままいけば問題は何も起こらなかったはずである。

 ところが、それから七年後、新藩主となった猪三郎義功が病気で急死した。まだ十五歳の元服前で、将軍参観も猶予されていたので、お目通りも済んでいなかったが、義功の死が表沙汰になれば、世子なき状態となり、家の断絶は免れなくなったのである。

 家老の古川図書は、江戸家老の意見も聞きながら善後策を波多野修理らと相談した。無難な方法は、藩主猪三郎義功の病気届を出し、異腹の弟である富寿を世継ぎと定め、それを幕府に承認してもらった後に、猪三郎義功の死を届け出るというものだった。ところがそれには時間もおびただしい金もかかることになる。財政難の状態で藩にその金はない。

 思案に窮して、修理は、若君をすりかえるという案を出す。亡くなったのが三男の種寿ということにして、次男の富寿を猪三郎義功とし、実際の種寿を富寿として、お目通りもまだだったのだから可能であるという。だが、猪三郎義功の母は既に亡くなっているし、富寿の母「お弓の方」も、自分の子が新藩主になるのだからさして不服はないだろうが、種寿の母である「若狭さま」は、自分の子どもが死んだことにされて取り上げられてしまう。その「若狭さま」の説得を修理は任されるのである。そこには、その説得が受け入れられない場合は、「若狭さま」を殺して、修理も死ねという意味が含まれていた。

 「若狭さま」は、控え目で謙遜な女性だったが、あまりの酷い申し出に抵抗を見せる。しかし、修理はその説得に自分お命を賭けなければならなかった。修理は、万一を考えて、家老の古川図書宛に、自分が「若狭さま」に懸想をして、無理心中をするということを一筆書いて書き置いていた。その書置きを修理は「若狭さま」の説得に行った際に落とし、それを「若狭さま」に読まれていたのである。そして、「若狭さま」はその申し出を受け入れた。それから、母と子が決して名乗り合うことができない日々が続いた。

 五年後に、猪三郎義功の富寿は十九歳で将軍お目見えとなり、対馬守を拝命し、富寿の種寿も宗下野(そうしもつけ)を名乗り、家臣からは「下野(しもつけ)さま」と呼ばれるようになった。彼は文武に秀でた若者に成長していき、家臣の信愛も得ていたが、しかし、残念なことに二十歳の時に病を得て死去しなければならなかった。

 あと三日の命と医者から宣告を受け、修理は、実の母である「若狭さま」に最後のお別れを言わせたいと願い、「若狭さま」を「下野さま」の枕元に連れて行く。だが、「若狭さま」は、最後まで気丈に振舞って「下野さま」をどこまでも自分の子としてではなく、富寿として接した。気を失うほど自分を保っていたのである。

 そして、それから三年余に「若狭さま」が亡くなって、かつて修理が書きた書置きと「若狭さま」が書きおいた修理の心遣いへの感謝の文が届けられたのである。文の背後にあったのは、決して色恋沙汰ではなく、人生の悲しい運命であった。だが、真相を明らかにすることは決してできない。「いよよ、こらえてくれい」と修理は望むばかりである。

 人には、誰にも知らすことができない、また知らしてはならないことがある。それはただ、じっと自分の懐に抱いている以外にはない。心をもつ人は特にそうである。人がそのようなものであることを知っている人間と、そのことがわかなない人間がいる。「サムライ」という人間の精神を描く時代小説は、それを描くのに最も適したジャンルであるが、この作品には、作者のそういう思いが込められているように思われた。

 第五作「昔の月」は、薩摩藩領内にある日向都城の領主北郷忠能の「脳乱」ともいえる暴挙の中で、弟が兄を上意討ち(藩主の命令で殺すこと)にしなければならなくなり、命乞いをする兄を逃がしていく話で、兄の出奔によって一家は立ち行かなくなり、月光の中で兄と弟が斬り合うことがあったが、兄は弟に懇願して命を長らえ、そして、年老いて再び都城に帰ってきた僧となった兄と弟が、互いに名乗ることもなく、再び月を仰ぐというものである。藩主の気ままによって家臣が苦しめられる例は数挙にいとまがなく、第六話「鶴姫」でも、藩主の娘の姫君のちょっとした思いやりが、それを守ろうとする家臣の生命を賭した行為へとつながっていく話である。

 ただし、第六話「鶴姫」の場合は、我儘ではなく自分に仕えている奥女中の恋を実らせようとした思いやりからだったが、それによって、その姫を守る家臣が生命を賭けることになってしまうのである。地位ある者は、自分がもつ地位や力、あるいは言動がどのような影響を及ぼすかを知らなければならない。だが、実際にそのことを知る地位ある者は少なく、権威や権力だけが振るわれる現状がある。人の痛みがわからない人間は、決して力をもってはならない。

 第七話「一夜の運」は、刃傷沙汰に及んだ時に、冷静さを取り戻して、「サムライ」としての守らなければならないことを守ったことによって、自分の運命を危機から救っていく話で、舞台が佐賀鍋島家に取られているのは、鍋島家が「葉隠」の精神をもつものだからだろうと思う。ここには陰湿な「いじめ」もがかれるし、その「いじめ」に対して腹を据えかねて報復する姿も描かれ、その中で、「サムライ」として守らなければならないことを守る姿が描かれるのである。

 第八話「千間土居」は、久留米藩と柳川藩の間を流れる暴れ川と称された矢部川の治水工事をめぐる話で、片方が強固な土居(堤防)を築けば、片方の堤防が決壊してしまうという中で、土居(堤防)の工事に当たった普請方どうしのそれぞれの矜持がぶつかり合う話である。事柄を藩の中だけでしか見ることができない人間と、それを越えて見ようとする人間の姿が描かれるが、藩の枠を越えようとした人間が結局は潰されてしまう悲しい姿も、ここにはある。

 表題作となっている第九話「遺恨の譜」は、幕末期に起こった寺田屋騒動を、その関係者であった主人公が明治になってから語るという設定で、「考えていたのは、結局、薩摩の利害だけではなかったか」という視点で描かれ、わたしも、幕末期には薩摩は利害で動いたと思っているので、作者の意図がよくわかるような気がしながら読んだ。ここには、寺田屋事件で死んだ有馬新七や、後で殺された田中河内介(こうちのすけ)親子、海賀宮門(みやと)らの無念の姿が描かれる。

 ここで言う寺田屋騒動というのは、1862年(文久2年)、京都伏見の旅館であった寺田屋に、急進的な尊皇派であった者たちが、久留米の真木和泉を中心にして、関白九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃しようと集まり、そのほとんどは薩摩藩士だったために、薩摩藩主の父で、藩の実権を握っていた島津久光がこれを危惧して、騒動を抑えようと剣術に優れた9名の人間を派遣し、そこで激しい斬り合いをした事件である。寺田屋は、当時、薩摩藩の定宿であった。この時に、急進派であった有馬新七などの6名が斬り殺され、2名が重傷を負い、多くが捕縛された。そして、2名が切腹させられ、諸藩の尊皇浪士は各藩に引き渡され、引き取り手がなかった田中河内介親子などは、薩摩藩が引き取ると称して船に載せ、船内で斬殺したのである。また、薩摩に連れて行った者たちも浜辺で斬殺した。

 これによって、京都の治安に功があったということで朝廷側は島津久光への信望を高めたと言われるが、幕末は、こういう愚かで残忍なことが繰り返されたのである。このころ薩摩は長州に対しててひどい仕打ちをしていたが、数年後に坂本龍馬らの斡旋もあって、薩長同盟を結んでいる。薩摩も長州も「藩」という枠内を越えることができなかった、とわたしは思っているし、それが明治になっても続いたと思っている。人間の視野はいつも狭く、人の目は狭い視野の中だけでしかものを見ることができない。だから、今見ているものに注意が必要だと思ったりもする。

 ともあれ、本書に収められている短編も、文学性の高い珠玉の短編で、読む者を圧倒する力をもっているとわたしは思う。その思想性もかなり高いものがある。

2013年4月25日木曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(1)


 春の天気は変わりやすいいが、こうも気温の変化が激しいと、「うむ」と思ったりしながら日々を過ごさなければならず、身体的な齟齬が生まれてきたりする。春ののどかな陽射しには縁遠い湿気を含んだ冷たい風が吹き抜けていく。

 以前、滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)を読んで、その作品の質の高さに感嘆して、この人の作品をもっと読んでみたいと思っていたら、演歌の作詞家をしているT氏が『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)をもってきてくれて、これも味わい深く読んだ。

 これも『一命』と同じ短編集で、この中には「高柳親子」、「仲秋十五夜」、「青葉雨」、「下野さまの母」、「昔の月」、「鶴姫」、「一夜の運」、「千間土居」、「遺恨の譜」の九篇の短編が収められ、このうちの「高柳親子」は『一命』にも収められており、この作品については、20121221日に記したので、ここでは割愛する。。

 本書の巻末に、縄田一男の「解説」が記されており、その中で縄田一男は「一般に滝口康彦の一連の士道小説は、武家社会の掟のきびしさや非人間性を描く、封建期の慟哭譜として捉えられてきたし、事実、私もそう記したことがある。しかしながら、・・・・彼ら侍は、歴史の枠組みの中でそうした生き方しか許されなかったのである―滝口作品が、まず私たちに教えてくれるのは、この動かしようのない事実である」(本書373ページ)と述べて、組織の中で個を確立していくことに難儀していく姿がそのテーマとなているというようなことを述べているが、全くその通りだと、わたしも思う。

 そして、滝口康彦の作品が光彩を放つのは、そうした普遍的なテーマと共に、その文学性の高さにあるとも思う。短編として、実に質の高い構成で、切れのある文章で綴られる物語と登場人物の余韻が響く。

 「仲秋十五夜」は、夫が亡くなって七年の歳月を経た後に、夫の死の真相を知ることができた妻が、夫の真実の姿を知り、それによって夫への愛情や夫婦であったことをしっかりと心に収めていく話である。

 薩摩島津領の日向の郷士であった淵脇平馬と押川治右衛門は、薩摩藩主島津忠恒が催した鹿狩りの際に、鹿と間違えて、分領の帖佐二万石の領主伊集院源次郎忠真を鉄砲で撃ち殺してしまい、その場で切腹して果てた。誤って撃たれたのは伊集院源次郎忠真と、もう一人薩摩藩の重臣の子であった平田新四郎の二人で、薩摩藩島津家は、重臣の子の平田新四郎も死んだのだがら、これが全くの過失であると主張したが、その場に駆けつけた帖佐伊集院家の家臣たちは納得ができず、島津家家臣団との間で戦いとなり、十数名が討ち死にし果ててしまうという出来事になった。

 この出来事を招いたことで、淵脇平馬と押川治右衛門の葬儀もゆるされなかったが、伊集院源次郎忠真の一族も、後の憂いを断つために、その後すべて殺された。

 その後、平馬の妻「とせ」は、平馬が死んだ八月十七日を心に刻みながらひっそりと生きた。そして、七年が経ち、子どもの平次郎も十二歳になったとき、地頭が藩主からの金子を持って「とせ」を訪れ、実は、あの事件には政治的な裏があって、平馬は藩主の命令を受けて伊集院源次郎直実を殺害したのだということを聞かされるのである。

 そこには、かつて伊集院一族が起こした変によって揺るがされた薩摩島津家が、伊集院家の禍根を断つという政治的思惑があったのである。

 事件の前々夜の八月十五日、暗殺の密命を受けた淵脇平馬と押川治右衛門は、自分の生命を賭した、しかも自分の意に沿わない密命を受け、それぞれに逡巡し、仲秋十五日の夜をそれぞれで過ごしていく。平馬はいつもと変わらぬように静かに寝ていた。だが、事件の真相を聞き、「とせ」は、平馬が寝ていたのではなく、必死に何かに耐えていたのだと気づく。殿様からくだされたという金子が重みを失う。

 そして、「平馬は、七年前の八月十七日に死んだ。昨日まで、とせにとって、忘れてはならない日は八月十七日だった。でも、いまは違う。ほんとうに忘れてならないのは、八月十五日なのだ。今夜なのだ」(90ページ)と思うのである。「とせ」は、そのことによって、藩命で死んだ夫を再び自分の手に取り戻すのである。

 こういう密度の濃い展開と人間の姿は珠玉の短編ならではではないかと思う。第三作目の「青葉雨」は、権力の横暴の中でも、強い意志と愛情をもって生き抜く男女の姿を描いたものであるが、これもまた珠玉の作品である。

 「綾」は、家人の留守中に領内見廻りと称して立ち寄った藩主によって手篭にされた。彼女には結城伊織という相愛の許嫁があり、伊織が出府から帰国したらこの秋にも祝言をあげるばかりであった。

 藩主の左近将監忠房は、正室の他に数名の側室を置き、その他にも奥女中に伽を命じるような好色な男で、「綾」に目をつけ、しかもお側頭の深尾主馬と望月宗十郎が画策しての「綾」への狼藉だった。深尾主馬は出世頭第一の男といわれ、結城伊織のことを知りながらも「綾」に後添いを申し入れ、にべもなく断られたことを根にもって、藩主の狼藉を企んだのである。そして、殿様のお手がついたことを藩内の噂として流した。

 だが、「綾」は、そういうことは一切なかったと断固として言う。彼女はそうしながらも、ひとり伊織との結婚を諦め、屈辱に耐えることを決心した。

 だが、殿様のお手がついたのだから側妾として差し出すようにという申し入れが「綾」の兄の伊吹源三郎になされる。「綾」は、断固として、お手がついたというのは噂に過ぎず、もし、藩主が許嫁の定まった娘に主君の威をかさに力づくでてをつけたことになると、藩主は避難の的になるだろうと主張する。

 そうしているうちに、許嫁の結城伊織が帰国した。伊織は直情怪行で無鉄砲なところがあったが、磊落で、こだわりのない真っ直ぐな性格の男だった。そして、「綾」についての噂を知りながらも、なお「綾」を妻に迎えると言う。自分は「綾」を信じており、噂が本当ならなおさら自分が「綾」を妻として迎えなければならないと言い張った。

 だが、藩への婚姻の届出は御側頭の深尾主馬によって却下されてしまう。しかし伊織は、、主君の名を汚さぬようにしているということを主張して婚姻を認めさせる。しかし、「綾」は、自分は伊織の妻にはなれないと思っていた。

 そういう「綾」の姿を見ていた兄嫁は、すべての事実を知りながらも、「綾」が耐えているのは伊織への想いが断ち切り難くあることを素直に認めて、伊織も同じ想いだから、その結婚を承知するようにと語りきかせるのである。「綾」は、その言葉を青葉の雨の中で泣きながら聞くのである。

 権力の横暴によって泣かされた人間は山ほどいる。そして、その中を、自分の思いを強く持って忍耐して生き抜いた人間もいる。この作品は、そういう人間の姿を、自分の思いに正直になって愛を貫く男女の姿として提示するのである。相手に対する思いやりが深い男と女の仲は、そう簡単には崩れないし、また、崩れないでいて欲しい。