昨日から寒気が南下してきて寒い日になった。多くのところで初雪が観察され、木枯らし1号も吹いたという。今日は、よく晴れているが風が冷たく寒い日になった。朝から忙しい日になりそうだ。昨夜、無理やりだらだらと食べ続けたので、体重が一気に2キログラムも増えてしまった。自制心のなさ、この上もないところではある。
昨夜、眠れぬままに、八月に九州からこちらに来る飛行機の中で読もうと思って空港の売店で買い求めた森真沙子『日本橋物語5 旅立ちの鐘』(2009年 二見書房 二見時代小説文庫)を読む。
この本は、『日本橋物語』というシリーズになっていて、日本橋で染物などを扱う店の美貌の女主人「お瑛」を主人公にして、そこで起こる様々な事件を解決していくミステリー仕立ての話で、『旅立ちの鐘』は、それぞれの時を刻む鐘の音が響く頃の事件が展開されるものである。
ただ、残念なことに、この書物だけでは、主人公と彼女を取り巻く人々の人物像がはっきりしないし、事件も解決方法も込み入ったものではない。「お瑛」の店で働く番頭の市兵衛は、冷静で有能な番頭であり、棒術の免許皆伝の腕前という設定になって、いわば理想的な男性となっているが、この本の中ではその姿が浮かび上がらない。同居している義母の「お豊」は「寝たっきり」という設定であるが、これも、経験豊富で知識や心情の豊かな老女性という印象以外に、「寝たっきり」であることの悲しみや苦労も、それを看護しなければならないはずの「お瑛」の姿も浮かび上がってこない。
もう一つ残念なことは、各章が「時の順」に並べられているのだが、そこに現在の時制での時間が括弧で示されていることである。江戸時代の時制は、夜明けと日暮れをそれぞれ「明け六つ」、「暮れ六つ」としてその間をほぼ2時間くらいずつに区切っていたし、従って、江戸の「六つ」と京都の「六つ」は、ほぼ1時間ぐらいの違いがあって、一概に、現在時間で何時というわけにはいかないことぐらいは、時代小説を書く人間なら誰でも知っていることである。それをわざわざ現在の標準時間で表記するのは何故だろうか、とつまらぬことを思ったりする。また、「スタスタとずいぶん早くお歩きだね」(224ページ)などの会話も、その多くが極めて現代的な言葉使いで書かれている。
もちろん、娯楽小説として、物語の展開がきちんと進めばそれでいい、と言ってしまえばそれまでだが、時代考証も含めて、人物にも、もう少し思想性が欲しいところである。
続いて、藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(2005年 講談社 講談社文庫)を読んでいるが、なかなか進まない。これを読もうと思ったのは、この作者が小松左京の「創翔塾」という創作教室の出身とあったからで、小松左京(1931年-)は、日本を代表するSF作家であるが、高橋和巳(1931-1971年)の友人であり、なじみのあるところでは『復活の日』(1964年 早川書房)や『日本沈没』(1973年 光文社カッパ・ノベルス)などを面白く読んでいた。
この小松左京の創作教室の出身なら、かなりしっかりした時代考証と社会検証の中で物語が進行していくだろうと思った次第である。
物語は、今の神田見附あたりにかかっていた筋違橋から北に向かって伸びる御成道と呼ばれる道筋にある「だるま屋」という本屋の主人の「吉蔵」が、今でいう情報屋のような仕事をしており、この情報の真偽を確かめる「見届け人」として旗本の次男である秋月伊織や元目明しの長吉、浪人の土屋弦之助、吉蔵の姪のお藤などを中心にして事件の探索を行い、一つの事件ごとに一話が完結していくという筋立てとなっている。
それにしても、最近の時代小説はこうした構成を取っているものが多い。おそらく、テレビドラマの制作の手法が大きな影響を与えているのかもしれない。テレビドラマは、時間内でひとつのエピソードが完結するように作られているのだから、それを意識して小説を構成する作風があるのかもしれない。したがって、登場人物の細かな心理描写もあまり必要とされないし、人生そのものを描き出すような長くて味のある小説も少なくなっている。ただ、この作品がそうだというのではない。この作品は、構成がしっかりしているので読みやすいし、人物の描写や会話も巧みである。
とりわけ、同じような物語構成を先駆けた平岩弓枝(1932年―)の『御宿かわせみ』(1974年から始まって、現在なおも明治編が執筆中)や藤沢周平(1927-1997年)の多くの作品、池波正太郎(1923-1990年)などの作品は、一つ一つのエピソードを山場にもちながら、全体としても深い味わいがある。
この作品は、まだ、読書の途中の段階であるし、一慨の批評などはあまり意味をもたないが、文体は洗練されてリズミカルであり、読みやすい。表題作ともなっている第一話「遠花火」は、女に騙された「あばた」顔の田舎侍柏木七十郎の話である。自己嫌悪の日々を送っていた柏木七十郎は、魂胆をもって言い寄って来た「おかね」という女に騙され、身の破滅に追い込まれる。見届け人たちがその事実を暴いていくのである。
この話の結末部分に次のような一文がある。(吉蔵が伊織に事情を話す場面として)
「柏木様は江戸にご出立の折に、庭に蜜柑の苗木を植えてこられたのだそうです。その蜜柑の木に実がなる頃には国に戻って来るとおふくろさまに約束していたようでございます。ところが一年が二年になり、二年が三年になり、定府の勤めになってしまって、蜜柑の苗木のことはすっかり忘れていたようです。それが、今度のお手紙ではその蜜柑に花が咲いたと書いてあったそうです。・・・・狭山様(柏木の友人)のお話では、柏木様のおふくろさまは歳のせいで目がよく見えなくなっているそうなのですが、そんなおふくろさまが蜜柑だけは枯らしてはならないと、手探りで水遣りをしてきたんじゃないかと、そう申されておりました。」(92ページ)
こういう設定と会話が、わたしを懇情に喜ばせてくれる。柏木の母は義母である。時代小説は人間のよさを素朴に引き出す。この作品は、この最後の言葉で成功しているのかもしれない。ともあれ、続きを読もう。夕方出かけなければなrないので、電車の中で読む時間はたっぷりとれるだろう。
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