昨日一日降り続けた雨が上がっているが、重い雲が下がっている。昨夜はずいぶん風も吹いたようで、街路樹の銀杏の葉が道路にべったりと貼りついている。車の騒音は相変で、いくつかの文書をプリントアウトする作業もあるのだが、ぼんやりとその遠景をみながらコーヒー―を入れて眺めたりする。久しぶりにモーツアルトを聞き、朝の時間を過ごした。
昨夜から北原亞以子『再会 慶次郎縁側日記』(1999年 新潮社 2001年 新潮文庫)を読んでいる。この作品は、このシリーズの2作目で、このシリーズの『傷』、『おひで』、『峠』、『蜩』、『隅田川』などはすでに読んでいたが、シリーズとはいえ、どれから読んでもいいように構成されている。そして、『再会』は、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と言われた深い人情をもつ主人公の人と成りがよく描き出された作品でもある。
それにしても、この作品に出てくるすべての人が何と優しく描き出されていることか。愛娘を自害という出来事で失った慶次郎の養子となった愛娘の元許嫁の晃之助と、出来事のすべてを知りつつ晃之助の妻となった皐月、酒屋の寮番として慶次郎と一緒に暮らす佐七、岡っ引きの辰吉、蝮と言われて悪事を働いた人間をゆする岡っ引きの吉次とその妹夫婦、やがて慶次郎が惚れることになる料理屋の女将お登世、そして、様々な事件を起こす人々も、すべて優しいし、また、人情に人情が呼応する人々である。言い換えれば、「人の情け」がわかる人たちなのである。
わたしが時代小説の市井物と呼ばれるものをこのところずっと読んでいるのは、そういう「情けがわかる人々」が描かれているからである。これは、哲学の中にも思想の中にもない。「智に働けば角がたつ。情に棹をさせば流される」が、論理的な思考癖もつわたしが、「論理ではなく、情で生きよう」と思ったのは、もうずいぶん前で、情に流され、涙をぽろぽろこぼしながら、「それでもいいではないか」と思いつつ生きて、こういう「情けがわかる人々」に胸打たれるのは、自然の成り行きだろうと自顧したりする。
物事の美醜を感じるのは、それを感じることができるものがあるからで、愛を感じることができるのは、ただ愛だけである。カント的な言い方をすれば、感情には先験性(ア・プリオリ)が必要なのだ。真、善、美、そして何よりも愛を見出すには、その自己の中の先験性を豊かにする必要がある。人間がそうして生きることができたらなんと素晴らしいだろうかと思う。
論理を働かせ、功利的に生きる人間は、その論理がどんなに正当で素晴らしく構築されたものであれ、いやらしい。わたしが好きな時代小説の市井物には、それがない。
たとえば、『再会』に収録されている第一話「恩返し」の冒頭に、重い風邪(今でいうインフルエンザだろう)にかかった慶次郎のもとに養息子の嫁の皐月が、前掛けとたすきを入れた風呂敷包みをかかえて籠を飛ばしてくる場面がさりげなく描かれている。皐月は、半月ほど慶次郎の看病をするために用意して出てきたのである。養息子の晃之助も、息せき切って翌日現れる。慶次郎と晃之助、その妻の皐月との間には血のつながりはない。しかし、義父が重い風邪を患ったと聞きつけ、「籠を飛ばし」、「息せき切って」駆けつける姿に、その心情の温かさがある。
第一話の「恩返し」は、自分を養ってくれた親の九右衛門が、実は泥棒だったということを知った老舗田島屋の婿養子になっている道三郎が、その養い親への恩を返すために、自分の地位も名誉も捨てて、養い親の泥棒を助けるという話である。
そのことを知った慶次郎は、泥棒に入ろうとした九右衛門を捕え、言う。
「道三郎は、自分を捕えてくれと言った」
九右衛門が慶次郎を見た。
「自分が捕らえられれば、お前が盗みをやめるだろうというわけさ。田島屋の暖簾とお前の恩とを天秤にかけて、お前の恩をとったんだよ。それが道三郎の恩返しだったんだ」
倒れるのではないかと思うくらい、九右衛門は深く首を垂れた。「恥ずかしいよ」という声が、少しくぐもって聞こえてきた。
「旦那、頼むよ。明日、半日でいいから暇をくんな。道三郎に詫びてから自訴をする・・・」
「だめだ」
慶次郎はかぶりを振った。
「自訴して、道三郎や、何も知らねえ田島屋にまで迷惑をかける気か」
九右衛門は、ふたたび首を垂れた。
「茂八んとこか江戸の隅っこで、おとなしくしているんだな」
返事は聞こえなかった。
翌日、慶次郎が辰吉の家へ出かけた留守のことだった。山口屋の寮に巡礼姿の男がたずねてきて、油紙にくるまれた重い包みを置いて行ったという。
開けてみると、二十五両ずつたばねられた小判が八つ、きれいにならべられていた。(文庫版 42-43ページ)
返されたのは、九右衛門が盗んだ二百両である。養い子の道三郎の思いと慶次郎の情けを知った九右衛門が、首を垂れ、巡礼に出るというのもいいし、慶次郎の思いもいい。慶次郎は、まことに「粋」な人間である。こういう「情けの呼応」が素晴らしい。
そして、また、北原亞以子は、「独りで生きなければならない人間の淋しさと不安」もよく描く。第六話「やがてくる日」に、仕立ての内職をしながら独りで暮らしている「おはま」という女が出てくる。
「おはま」は、十六歳で一目ぼれした羽根問屋の息子と結婚するが、それから五年後に亭主の浮気が止まず、姑もからもいじめられ、ついに舅から大金をもらって家を出て、実家に戻り、その実家でも弟に嫁が来て、折り合いが悪くて家を出て、しばらくは母親と暮らしたが、その母親も死んで、独り暮らしとなった女である。もらった金も残り少なくなってきた。「三十―か」とおはまは呟く。将来の不安がのしかかってくる。
「おはまも、やがて老いる。恐ろしいのは、おはまが考えている以上の長生きをすることだった。六十を過ぎても内職ができるとは思えず、その頃は多分、居食いで暮らしていることだろう」(文庫版 200ページ)と考える。
おはまは、憂さ晴らしに高価な着物を買い、贅沢な寿司を食べようと思う。しかし、何度も逡巡する。三両も出して高価な着物は買った。だが、値の張ることで有名な寿司屋に行く時、「『みんな、一緒に行く人がいるんだ』一人で鮨を食べに行くのは、おはまだけではないか」(文庫版 204ページ)と思う。
「何だって、わたしだけこんなに淋しいのさ。わたしは何も悪いことをしちゃいない。浮気者の亭主と意地のわるい姑がいやで、羽根問屋を飛び出しただけなのに」
すぐ目の前を歩いているおはまと同じ年恰好の女は、十歳くらいの女の子を連れていたし、その先にいる女は、わざと不機嫌な顔をしているらしい亭主から少し離れて歩いていた。
「わたしの方が縹緻(きりょう)はいいのに。あの女達が、あの紬を着たって似合わないのに」
だが、あの紬を着たおはまを、誰が見てくれるのだろう。(文庫版 204-205ページ)
と思い、泣き出しそうな顔になって踵を返す。
こうした「独りで生きなければならない人間」の姿が細やかに描かれる。それは、おはまのような三十路の女だけでなく、第八話「晩秋」に登場する頑固者で誰も寄りつかなくなって独り暮らしをする五兵衛も、親切ごかしをしてその五兵衛の懐をねらう我儘で怠け者の幸助という男もそうである。
「孫に会いたくなったのだろうとは、わかっていた。身内の者に会うのは癖になる。音沙汰なしで暮らしていれば、淋しいことは淋しいが、会いたさにいても立ってもいられなくなるということはない。が、一度身内の家へ行って、親子やら兄弟やらのにおいを嗅いでしまうと」だめなのだ。食べ物のすえたにおいばかりがこもっているような自分の家へ帰るのがいやになるのである」(文庫版 258ページ)
北原亞以子は、ここでこう続ける。
「両親をあいついでなくし、青物町の店も人手に渡って、南小田原町の裏店で一人暮らしをはじめた頃、幸助は叔父の家へ泊まりに行ったことがある。叔父には叱言を百万遍も言われたが、いとこの女房は親切だったし、暖かいめしも焼魚も、縄暖簾のそれとは比べものにならぬほどうまかった。
二晩泊めてもらい、三日目の夕暮れに「またくればいい」という叔父の言葉に送られて家へ戻ったのだが、明かりのついていない家の暗さがまず、いやになった。「今帰った」と言っても、当然のことながら返事はない。
叔父の家へ行く前に脱ぎ捨てていった着物は、丸められて部屋の真中に置かれたままだし、急須の中では茶の葉がひからびていた。
いとこの女房が持たせてくれた菓子を一人で食べるのも気のきかぬ話だと、縄暖簾へ行くつもりで外へ飛び出させば、味噌汁ではなく、築地の川がはこんでくる潮のにおいがする。縄暖簾で顔見知りを見つけ、足許もあやうくなるくらいに飲んで、家へ戻ればまた暗闇だった。明かりの入っていない行燈と、ひからびた茶の葉の入っている急須と、いとこの女房のもたせてくれた菓子が、ぽつねんと幸助を待っていたのである。」(文庫版 258-259ページ)
こういう侘しさや淋しさは、実際に、幾分かは文学的に誇張されているとはいえ、本当のところである。そういう心情で生きなければならない人間の悲しみが行間にある。人には人の温かさが、それも日常に、必要なのである。何も特別なことはいらない。そういう温かみの必要性を『慶次郎縁側日記』は改めて感じさせてくれるのである。
表題作になっている「再会」は三話あり、いずれもこのシリーズに登場する人物たちが、それぞれに昔かかわりがあった女性と再会する話であり、第一話は岡っ引きの辰吉のところに彼を「兄さん」と呼び慕っていた「おもん」が助けを求めて訪れ、そのことによって辰吉が人殺しの疑いをかけられるという話である。第二話は、慶次郎がふとしたことで入った蕎麦屋に七年前に関係をもった「おしん」という女性がいて、外見と中身が違うと言われ続けてきた「おしん」が慶次郎を訪ねてくるという話である。第三話は、岡っ引きの吉次が、昔自分を捨てて男と逃げた元の女房で、裏櫓(場末の女郎屋)の女将をしている「おみつ」と事件の探索の過程で再会するという話である。
いずれも、元の鞘には戻らないが、それぞれの人生の交差点を中心にして、それぞれの人生が語られる。人と人との出会いは真に不思議なものである。縁があって一緒に生きる人もあれば、望んでも、ついに縁のない人もある。まことに「縁」という言葉がふさわしいのかもしれないが、それで人生が大きく変わっていく。「縁は異なもの、味なもの」である。
わたしにはどんな「縁」があるのだろうかと、自分自身がこれまで関わった人たちのことを思う。そして、おそらく、「縁なきまま」に、人生が終わっていくのかもしれないとも思う。ただ、「縁」は、自分で作り出していくものであり、孤独を囲わなければならないのは、自ら招いたことではあるが。
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