雨で、寒い日になった。シベリアからの寒気団と低気圧が一緒になって、山沿いでは雪とのこと。冬が始まっていることを実感する。
昨日、久しぶりで池袋まで出かけた。そこで「大江健三郎」について話をするためだが、その後のそれを主催した会のスタッフとの「打ち上げ」の席でのT大学のS教授との話の中で、「大江健三郎」の作品の「予言性」のようなことについての話が出た。三島事件やオウム真理教の事件など、それが実際に起こる前に大江健三郎が作品の中で同じような事件を書いていることについてなのだが、お互いに、文学者のもつ感性の鋭さに納得するものがあった。おそらく、大江健三郎のような優れた感性をもつ文学者は、人間と社会の現状をよく観察し、これを鋭く分析して、その本質を見出すことで、起こりうるだろうこと、あり得るだろうこととして、それを作品に盛り込んでいく精神の作業を極めて深く行っているからだろうと思う。「観察者」であることは、ひとつの重要な要素なのである。
池袋までの往復の電車の中で、幸いにも座席に座ることができたので(利用している東急田園都市線と半蔵門線は、たいてい、耐えがたいほどのすし詰めの満員か混んでいる。往復とも座れるのは、真に幸運としか言いようがない)、平岩弓枝『平安妖異伝』(2000年 新潮社)を読んだ。平安時代に左大臣、摂関、太政大臣となっていった藤原道長(966-1028年)がまだ青年期の頃を物語の引き回し役にして、異国の血をひき不思議な能力をもつ楽士秦真比呂(はたのまひろ)を登場させて、数々の怪異現象を解明していくという筋立てである。
平岩弓枝の作品は、やはり、なんといっても『御宿かわせみ』シリーズで、与力の次男「神林東吾」と「かわせみ」という宿の女主人「るい」、そして、東吾の友人であり同心である「畝源三郎」を中心に様々な事件を解決していくというこのシリーズの江戸物は、描き出されるどの人物もとても魅力的で、一時、とてもハマって全部読み、全巻をそろえたいと思ったほどだった。
何度かテレビドラマ化もされて、記憶に残っているのでは、「るい」役を真野響子さんという切れ長の素敵な目をした美人女優さんが演じられたもので、後には、若尾文子さんという幾分ゆったりとした感じのする、これも切れ長の目をした美人が演じられたものである。しかし、残念がら全部を見たのではない。神林東吾役が誰であったかは忘れてしまった。真野響子さんの美しくあでやかな着物姿だけが目に焼き付いている。
テレビドラマといえば、宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話』のシリーズがドラマ化されてBSフジで放映されているが、こちらは、残念ながら放映時間が仕事の都合と重なって見ることができない。録画すればいいのだが、レコーダーが古くて操作が面倒なのでしていない。再放送を期待するだけである。楽しみに見ているのは、TBSの日曜劇場で放映されている『JIN―仁』というドラマで、村上もとかという人の漫画を原作にしたものである。脚本を森下佳子という人が書いているそうだが、登場人物のせりふがたまらなくいい。これは、日曜日の夜の楽しみになっている。
さて、平岩弓枝『平安妖異伝』であるが、これは、やはり、歴史考証もしっかりしているし、おそらく平安京の地図の上で登場人物たちを縦横に動かせて描かれていると思えるし、当時の風習や建造物への考証もかなりのものがあるので、忌憚なく読める。また、藤原道長をはじめとする歴史上の人物への肉薄も、さりげない文章にしっかりした考証がされていることをうかがわせて、面白い。もちろん、作者が創った秦真比呂という少年も魅力的に描かれているのは言うまでもないことである。
もともと、「秦氏」は日本文化と技術に多大な影響を与えた渡来人であり、政治の中枢にもいたのであるから、怪異な事件を解決する不思議な能力ももつ少年が「秦」であるのは、納得できる設定である。平岩弓枝は、こうしたことは、やはり、さすがにしっかり考えているし、彼女の文章もこなれているので、本当に面白く読める。物語は、藤原道長が幻惑に惑わされたり、魑魅魍魎に惑わされたりして危機に陥る時に秦真比呂が彼を助けるとう話で、不思議が不思議でなくなるところがいい。
しかも、単なる怪異現象が取り上げられるのではなく、人間の「情」や「思いやり」の現象として描き出されるところが平岩弓枝の感性の豊かさを表している。
たとえば、第四話「孔雀に乗った女」は、かつて大陸から持ち込まれ、使われないままに片隅に追いやられ、整理されることになった多くの楽器のうち、孔雀と異国の女性が描かれ螺鈿がはめ込まれた五絃の琵琶が、その用いられないことを悲しみ、人々を惑わすという話であるが、秦真比呂は、藤原道長に次のように言う。
「父が申して居りました。楽器によっては、ここに納められたきり、二度と陽の目をみることのなかったものも少なくはあるまいと・・・・・」
真比呂の声が寂しげであった。
「楽器はそれを弾きこなす者があって、はじめて人の目にも触れ、喝采を得ることが出来ます。使い方もわからず、使う人もなく、埋もれたものの悲しさは、誰にも知れません」(107ページ)
こういうくだりは、なかなかのものである。
もちろん、ここで言われていることを全面的に肯定しているわけではなく、わたし自身は「用いられることを恥とせず」ではあり、また、「用いられること」を求めているわけでもないし、人は埋もれて生きていくのがいいと思っているが、「埋もれたものの悲しさ」はわかる人間でありたい。平岩弓枝は、作家として大成した人ではあるが、こういう心情を描き出せるところがいい。
天気はひどいものだが、少し散策もしたいとは思うが、今夕は予定があって、たぶん、近くのスーパーマーケットに買い物に行くのがせいぜいだろう。今日はしなければならないことが山ほどある。いつかは何も予定がない日々になればとつくづく思う。
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