雨の土曜日になった。5日(木)の午後に同級生のT氏が美味しい珈琲と手製のコーヒーカップを手土産に訪ねてくれた。数十年ぶりで再会し、懐かしい話に花を咲かせた。卒業後、お互いに苦労は重ねたのだが、T氏は、演歌などの作詞も手がけておられて、そういう方面に無縁なわたしには、その話も興味深く伺うことができた。テレビドラマ用の「忠臣蔵」を多方面から捕らえた脚本を執筆中ということであった。
その夜、テレビドラマ向きと思われる少し軽いものをと思って、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 長屋あやうし』(2008年 双葉文庫)を読んだ。
気づいてみれば、けっこうこのシリーズの作品は読んでいて、第一作の『はぐれ長屋の用心棒』、二作目の『袖返し』、五作目の『深川しぐれ』、七作目の『黒衣の刺客』、九作目の『父子凧』、十作目の『孫六の宝』、十二作目の『瓜ふたつ』、15作目の『おっかあ』の八作品を読み、この『長屋あやうし』は第十三作目の作品である。
世の中の「はぐれ者」ばかりがすむ「はぐれ長屋」の住人である傘張り牢人の老剣客の華町源九郎を中心に、居合いの達人でありながら大道芸で生活を糊口している将棋好きの菅井紋太夫、還暦を過ぎて岡っ引きを引退し、娘夫婦の世話になっている孫六、親方と喧嘩をしてしがない包丁研ぎをしている茂次、砂絵を描いて見物料を取ることで暮らしを立てている三太郎の五人が、それぞれの特質を生かしながら市井の人間として諸悪と闘っていく姿を描いたこのシリーズは、第一作の初版が2003年だから精力的に書き続けられた息の長いシリーズになっている。
この『長屋あやうし』は、彼らが住んでいる通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏棟割り長屋である「伝兵衛長屋」が、深川の闇世界を牛耳る男に目をつけられて、地回り(やくざ)を使った乱暴狼藉によって立ち退きを迫られるという危機に直面した話である。闇世界を牛耳る男の正体は不明で、正体を巧妙に隠しながら、「伝兵衛長屋」の家主である材木問屋の息子を博打でつって誘拐し、家主の材木問屋を脅して巧妙に長屋に入り込み、乱暴狼藉を働いて住人たちの追い出しを図るのである。
住民たちが不安と恐怖を覚える中で、華町源九郎ら五人は、それぞれ手分けして、事柄の真相と陰で操る闇世界を牛耳る男の正体を暴き出し、住民追い出しに雇われていた乱暴者の破落戸や凄腕の牢人たちと対峙し、「はぐれ長屋」を救っていく。
このシリーズには、ひとつのパターンがあって、巧妙に仕組まれた悪と、その悪に雇われた凄腕の牢人といったものに「はぐれ長屋の用心棒」たちが対峙し、その悪を暴いて、孫六を初めとする茂次や三太郎が探索をし、剣客である華町源九郎や居合いの達人である菅井紋太夫が剣客として悪に雇われた凄腕の牢人と立ち会い、かろうじて勝利していくというもので、勧善懲悪の思想の問題もあって、通常はこういうパターンが繰り返されるとシリーズの途中で飽きがくるのだが、それぞれの人物描写や物語の展開があり、作者の手法もあって、「水戸黄門の印籠」のように、ある意味では安心して読めるものになっている。
そうした意味では娯楽時代小説としては気軽に読みやすく読める作品群と言える。また、長いシリーズになるとそれぞれの人物たちの背景や物語があって、人物がそれぞれに浮かび上がってくるので、それぞれの主人公たちの抱えている問題が描き出され、人はそれぞれに喜怒哀楽を抱えながら、それぞれに生きているということが示され、それが面白味を出すものになっている。勧善懲悪はリアリティーを欠くのだが、それを避けるために、主人公たちが斬られたり傷つけられたりしていくという工夫が施されているところも作者ならではではないかと思う。
最近の小説は、文学作品も含めてなのだが、映像ということが意識されているのか、人の思いや心情、思想というものを深く掘り下げるような作品が少ないが、娯楽物ということでは、それはそれでいいのかも知れないと思っている。そうなると、読ませる展開と作者の力量というものが作品の出来不出来に大いに関係してくるのだが、鳥羽亮にはその力量があると読みながら感心したりした。
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