重い雨模様の空が広がり、湿気を含んだ空気が流れていく。大型の台風2号が九州に接近しているとも聞く。梅雨入りが早まりそうだ。
昨夜も、前回に続いて、上田秀人『闕所物奉行 裏帳合(二) 蛮社始末』(2010年 中公文庫)を面白く読んだ。「妖怪」とまで言われた鳥居耀蔵の下で働かなければならない闕所物奉行である榊扇太郎の、清濁併せ呑んだような鷹揚な性格ながらも心根を持って生きて行く姿を描いたこのシリーズの二作目は、鳥居耀蔵が画策し行った出来事の中でも最悪の、時代を変えていくような出来事となった「蛮社の獄」(1839年)を取り扱ったものである。
「蛮社の獄」(1839年)は、蘭学者として活躍していた渡辺崋山や高野長英らを捕縛して、台頭してきていた蘭学への熱意を根こそぎ潰そうとした事件で、この小説では触れられていないが、1937年に「モリソン号事件(漂流していた漁民を助けて、これを日本に送り届けることで通商を開こうとしたアメリカ船を、幕府が異国船打払令で攻撃した)」が起こり、それへの警戒から西洋文化の学びである蘭学に対して江戸幕府は神経質になっていたのである。
その頃の社会は、1832-1837年にかけての天保の大飢饉が発生したり、1837年に大阪で大塩平八郎の乱が起こったり、欧米列国のアジア進出を受けたりして内憂外患の状態であり、揺らぎ始めた幕藩体制に対する危機意識も強く、特に、幕府が学問として唯一認めていた朱子学の牙城であった林家は蘭学に対して、それが国を危うくするものとして憎悪しており、「蛮社の獄」の弾圧の首謀者であった鳥居耀蔵は、その林家の出(三男)であり、いまの言葉で言えば「国粋主義的思想」の持ち主であった。
弾圧された蘭学者のリーダー的存在であった渡辺崋山が林家の弟子でありながらも蘭学に向かったことも鳥居耀蔵の憎悪をかったのかもしれない。同じ林家の学問を学んだ者として「崋山憎し」の思いが鳥居耀蔵にはあっただろう。1839年春に鳥居耀蔵は渡辺崋山の内偵を配下の者に命じ、その内偵の報告をもとに告発状を老中の水野忠邦に提出し、吟味のために全員が伝馬町の牢に入れられたのである(なお、幕臣であった江川英龍らは容疑から外された)。町奉行所の家宅捜索によって渡辺崋山の家から幕府を痛烈に批判した『慎機論』の原稿が見つかったことなどから、田原藩家老であった渡辺崋山は田原で蟄居、高野長英は永牢(終身刑)の判決が下され、この時代にキリストの伝記を翻訳していた小関三英は出頭が命じられた時に自宅で自決していた。
こうした一連の歴史的出来事を背景に、闕所となった高野長英の自宅の財産没収作業を命じられた闕所物奉行である榊扇太郎が、その屋敷から一つの書状を発見し、それが幕府転覆計画を記したものであったというのが、本書の物語の骨格となっている。もちろん、歴史的には高野長英が幕府転覆を企んだ事実はない。しかし、渡辺崋山の自宅から幕政を痛烈に批判した『慎機論』が見つかったことに合わせて、このような物語の設定がされているのである。
だが、その書状は蘭学を憎んでいた鳥居耀蔵が蘭学者たちを処罰するためにしくんだ陰謀であり、そのことを知った榊扇太郎が、鳥居耀蔵の下で働きながらも、知り合った吉原会所の惣名主や江戸の顔役たちの助けを得ながら、老中の水野忠邦をうまく利用して、大罪にさせないための工夫をしていくのである。水野忠邦もまた、幕臣を罪に定めたくなかったし、対象となっていた幕臣の江川英龍(本書では江川太郎左衛門)を推挙した手前、自分の保身を図らなければならないという事情があって、榊扇太郎に圧力をかけていくのである。
榊扇太郎は鳥居耀蔵と水野忠邦の二重の圧力の中で、自らの生きのびる道を探していく。鳥居耀蔵の配下にある自分が鳥居耀蔵の企みを明るみに出せば、鳥居耀蔵によってお役御免となり、そのことによって、元々岡場所の闕所物であり、お役御免になれば吉原に売られなければならない「朱鷺」も苦界に沈むことになるからである。榊扇太郎と「朱鷺」は、身体を重ねることで情を温める中となり、扇太郎は「朱鷺」を守るためにも、鳥居耀蔵の陰謀を砕きつつも、鳥居耀蔵の意を損なわないような道を選ばなければならなかったのである。
この展開の中で、水野忠邦によって推し進められた天保の改革の倹約令に触れたということで小間物を扱う大店が「贅沢のため」に重追放・闕所となり、その闕所を榊扇太郎が行い、そこからその小間物屋に江川英龍(太郎左衛門)が注文していた平賀源内の「エレキテル」の部品の細工物の注文が出てくるといったことで、蘭学の江川英龍と対立していた鳥居耀蔵の暗躍が始まるという構成がとられている。榊扇太郎は関東沿岸巡視で江川太郎左衛門を知っており、彼に類が及ばないように苦慮していくのである(実際は、江川英龍は高野長英とは面識もなかったが、江川英龍と鳥居耀蔵が関東沿岸巡視で反目しあっていたのは事実である)。
幕政内における権力闘争と自己の正論を振り回し上昇志向が強い上司、その下で働かなければならない下級役人が、現実に対応して清濁併せ呑むような鷹揚な人格とそれによって得た信頼だけを頼りに、難局を切り抜けて、自分が大切にしたいと思う者を守っていこうとする姿、そしてそれが少しも卑屈ではなく爽快である姿、そういう姿が主人公を通して描かれ、しかもそれが歴史の狭間として描き出され、その日常が生き生きとして描かれるので第二作目である本書も面白く読めた。こういう類の作品は、成功すれば本当に面白いし、また成功していると思っている。
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