今日は午後から委員会で早稲田に出かけなければならないが、少し早く目覚めたので、掃除と洗濯をして、これを書き始めている。相変わらず、秋の過ごしやすい気候だが、騒音にみちている。何通かのメールを読み返事を出すが、あまりにも依存度の高いメールにはどこか腹立たしささえ感じる。
さて、『宙返り』であるが、319ページに、新しい案内人(ガイド)となった木津の思いとして、ここまでの『宙返り』全体の筋が簡略に述べられている。
「救い主という呼び名から想起もする、いかがわしさがその属性の一部をなしていた人物と、同じく預言者と呼ばれていた男の二人組が、自分らの信者たちを放棄する「宙返り」を行い、十年間、かれらのいう地獄に降りていた。いま悔い改めのための運動を再開しようとしている。世界の終わり、時の終わりを人々に深く認識させ、備えるために。」
大江健三郎は、このことを、繰り返し、繰り返し、それぞれの登場人物の立場で述べ、「悔い改め」と「回復」が何なのかを述べようとするのである。「終末(世界の終わり」、「人間の罪性」、「悔い改め」、「回復」それらがキーワードなのである。
「第12章 新しい信者のイニシエーション」は、「宙返り」後もなお信仰を持ち続けて共同生活を行っている女性のグループについての物語である。彼女たちは、静かに祈りの生活を行っている。そして、このグループが、新しく再生される「教会」の中心メンバーのひとつにもなっていく。
大江健三郎が、ここで「イニシエーション」という言葉を使っているのは、明らかにオウム真理教がこの言葉を使って信者の訓練を行っていたことを意識してのことであろう。initiationは、元々は、開始、入会、手続きなどを意味する言葉であるが、オウム真理教は、この言葉で、信仰の儀式を意味させていた。だから、大江健三郎は、ここでは、ただ静かに祈りをささげること以外のことを語らないのかもしれない。
「第13章 追悼集会のハレルヤ」は、亡くなった案内人(ガイド)の追悼集会で、12章で語られた女性グループや案内人(ガイド)を死に追いやった急進派のグループとの新しい和解が成立していく過程を述べた章である。
ここで、師匠(パトロン)の長い説教という形で、この新しい「教会」の思想が述べられる。それは、『宙返り』が語る、ある意味で、「悔い改め」と「恢復」のヴィジョンでもある。少し長くなるが、以下に抜粋する。ただし、物語から離れて、それを神学として見るならば、それは、汎神論的でもあり、スピノザの汎神論に近いものといえるかもしれない。あるいは、K.バルト(K. Barth)の言う「啓示神学」も混入されていると見られないこともない。物語の本質からいえば、神がどうであるかということはあまり問題にならないからである。大江健三郎には、元々、そのような視点はない。「神」が問題ではなく、「神を信じて生きるということがどういうことか」という人間の姿が問題であり、その意味では、大江健三郎は、徹底して実存的であるとも言えるであろう。
「神はこの世界を作り上げている自然の総体だ、というのが根本です。私たちが信仰を抱いて生きることは、正確にかつ豊かにその総体を認識していくことであって、それをよく成し遂げた時、私たちのお認識そのものが、そもそもの初めから神による認識であったことがわかる。神から私たちに流入しているものの働きによって、私たちはその認識に到り、それを言葉にすることもできるのだ。
「宙返り」の際、自分らの神学を冗談だといった私の胸のうちには、それをひねくうたもうひとつの悲惨な神学が芽ばえていました。この惑星の総体をなす自然は、いまや人間の環境として破壊され続けている。それがすでに後戻り不可能であることも見えている。神としての自然の総体が-それは人間をもふくんでいるが-破壊され続けているのである。自然の総体である神が、回復不能の病におかされていることになる。
しかも、その破壊された神、不治の病を病む神という、ただいまの私たちの認識は、そもそもの初めから神の認識のうちにあった。いま私たちは、もう遅すぎる認識を、破壊される神、病む神から、赤ん坊への母親の口移しの言葉のように、導かれているにすぎない。破壊され、恢復しえぬ病に死のうとする母親が、彼女とともに滅びるほかない赤ん坊に、初めからわかっていた成り行きを口移しに話している。そういうことなのだ。
私はいま、「宙返り」の際に自分の新しい神学としたものに根ざしながら、次のようにいいたい。私ら赤ん坊の側からいえば、母親の死と相前後して死ぬほかない自分らが、このように破壊され、恢復しえぬ病におかされている。それがそもそもの初めの神の認識のうちにあった、というのは正しくない。赤ん坊の私らにそう言いたてる権利はある。その熱を出した赤ん坊のウワゴトが瀕死の母親に聞きとられ、まともな文脈にのせられて子供の口に戻される。その母と子の対話にこそ、人類の心からの悔い改めがあるはずだ。世界としての自然、すなわち神を破壊し、恢復しえぬ病にした、その実行者は人類なのだから。神へ抗議するやり方によって、悔い改めを導く者、反キリストの教会は、そのようにして建てられるのではないか?
これが案内人(ガイド)を喪い、瞑想のヴィジョンを読みとくすべを失った、そしてなお「宙返り」を引きずっている私の、いま辿りついている地点です。私はこのような悔い改めに向けて、活動を再開することを決意したのです。
キリストの、辱められた死の意味が疑えないように、反キリストの地獄に足を踏み入れた後の、死にものぐるいの奮闘にも、意味はあるはずです。そうでなければ、神は世界を造り出したその最初の認識において、どうして世の終わりに向けた反キリストの、多数の出現を構想されたでしょう?神こそが、その造り出したすべてのもののうち唯一冗談に解消されない、つまり「宙返り」をする理由を絶対に持たない存在なのです。」(362-364ページ)
この師匠(パトロン)の説教の中には、ここでもっとも深い問題となっているのが、「宙返り」をして、人間、つまり、裏切り、罪を犯し、徹底的なまでに恢復不可能となった存在の、その深みにおける意味である。「悔い改め」は、その意味を知ることである、ということが明瞭に示されている。
案内人(ガイド)の追悼集会において、木津もまた、こう祈る。それは、神を信じることができない者の、言い換えれば、非信仰者の祈りである。
「私はあなたに呼びかけていながら、じつはあなたについて確信を持たぬ者です。しかし私はこの若者を通じて、自分のすべてをあなたに託します。」(366ページ)
大江健三郎は、東京女子大学の講演で『信仰なき者の祈りについて』語っているが、この木津の祈りは、おそらく、大江健三郎そのものの「祈り」ということに対する姿勢でもあるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿