低気圧と前線の影響で、昨夜から雨が降り、今も冷たい雨が降っている。あざみ野の山内図書館に先の6冊を返却し、新しい6冊を借りてきた。一人2週間6冊というのが貸し出しの規則になっている。ついでに、神戸珈琲物語でコーヒー豆を購入。セールで少し安くなっていた。
昨夜、北原亞以子『深川澪通り燈ともし頃』(1994年 講談社 文庫版(1997))を一息に読んだ。文庫版は、「第一話 藁」と「第二話 たそがれ」の二部構成になっているが、いずれも、江戸深川の「澪通り」に住む木戸番笑兵衛と妻お捨ての夫婦を心のよりどころ、人生の要とする話で、「第一話 藁」は、捨子でかっぱらいなどをして暮らし、やがて塩売りとなった政吉が喧嘩をし、木戸番に運び込まれてから、この夫婦に触れ、笑兵衛から文字を習い、狂歌を作るようになって、やがて狂歌師として成功し、そして、妻に裏切られ、労咳を病んでいる場末の娼婦を愛するようになり、すべてを失っていくという話である。「第二話 たそがれ」は、幼い頃に親を失い、ひとりで腕の良い仕立屋となり、妻子ある男の、いわゆる「江戸女」でもあり、何人かのお針子も使っている気丈な「お若」とその長屋に住む人々の人生の変転の姿を織り込みながら、ひとりの心細さと寂しさ、やりきれなさが募る時に、ふとしたことで知り合った笑兵衛夫妻の元へ向かい、そこで生きることを恢復していく話である。第一話の政吉も、第二話で、すべてを失い塩売りに戻って同じ長屋で暮らす人物として登場する。
いずれも、武家の出だとか由緒ある家の生まれだとか噂されながら、その日暮らしの貧しい暮らしをしている木戸番の笑兵衛とふっくらと肥って笑うと笑窪ができ、よく笑い転げる妻お捨ての夫婦を拠り所とする話で、辛い者や淋しい者、人生を捨てなければならない者に、無条件に、何も問わず、ただお茶を飲ませ、一緒の食事をし、必要なら四畳半の狭い家に泊めもする木戸番夫婦の温かさが、政吉やお若のそれぞれの人生の苦しみの中でにじみ出てくる。
この作品には前作『深川澪通り木戸番小屋』があるが、まだ読んでいない。北原亞以子には『慶次郎縁側日記』というシリーズ物もあり、娘を失い隠居した元同心の慶次郎も、「仏の慶次郎」と呼ばれ、同じような役割を果たすが、『深川澪通り燈ともし頃』は、江戸市井物小説の中でも珠玉の傑作だろうと思う。構成も展開もまことにすばらしい。
もう少し内容を詳しく書くと、第一話は、塩売りというその日暮らしの生活をしながら詠んだ狂歌二首が認められ、本に掲載されることになった政吉のことを一緒に心底から喜び祝う笑兵衛とお捨ての姿から始まっているが、そのことを真っ先に木戸番夫婦に知らせようとする政吉とそれを心底喜ぶ木戸番夫婦が、道路と二階の物干し場で会話する場面は、真に心憎いほど心を打つ。
政吉は、それから結婚し、煙草屋の主となり、狂歌師としても成功していくが、狂歌にのめり込んでいくあまり妻を失う。妻は雇い人と駆け落ちして逃げていくのである。一流の狂歌師として体面を繕おうとするが、うまくいかずに、そのうちに岡場所の労咳を病んでいる女「おうた」にのめり込み、彼女のためにすべてを失う決心を固め、元の塩売りに戻る。
こうした展開の中で、どうすることもできなくなった時に、政吉は木戸番夫婦のもとへ行き、何気ない二人のまっすぐな温かい振る舞いに慰めと励ましを受けていくのである。
第二話も、腕の良い仕立屋となったお若が、まだ若い頃に、薬売りをしていた妻子ある男と知りあう場面から始まる。お若は男に妻子があるとは知らなかった。いわば、男に騙されたのだが、男を捨てることもできず、しかし、仕立屋を気丈に切り盛りしていくのである。
そして、同じ長屋に住む人々やお針子たちのそれぞれの人生の変転にかかわりながら、一人ぼっちの淋しさと心細さにうめきながら、どうすることもできなくなった気持ちを抱えた時に、木戸番夫婦を訪ねていくのである。
辛く悲しい人生を送らなければならない市井の人々、そして、それを受けとめていく木戸番夫婦、その日常を描く筆は、何とも言えないほど深い味を持つ。
第一話の中の「燈ともし頃」に描かれている一場面。
「何もできやしないんですよ、私達には。おきくさんにご飯を食べてもらって、政吉さんを探しただけ。それも、弥太右衛門さんやおくらさんの手をお借りしちまって」
「それだけで、もう充分」
と、おきくが言った。
「それより嬉しいことなんざ、ありゃしません。勝手なことをして飛び出して行ったのに、あそこなら帰れると思えるところがあるだけでも幸せなのに、何しに帰ってきたと言われずにご飯を食べさせてもらえるなんて・・・・」
おきくの声がくぐもる前に、政吉の目がうるんだ。
政吉も今日、中島町澪通りへ行こうと思った。澪通りの木戸番小屋なら、なぜ空腹で目がまわるまで裾継の女にいれあげたとなじる前に、黙ってご飯を食べさせてくれると考えたからだった。」(文庫版 241-242ページ)
「おきく」というのは、雇い人と駆け落ちして逃げた政吉の前の女房で、うらぶれて、政吉に謝罪するだけのために帰ってきた女であり、裾継というのは最下級の岡場所の女(売春婦)。
もう一か所、最後の場面。うらぶれた政吉が帰って行くのを財布を持って走って追いかけてきた笑兵衛と政吉の会話。笑兵衛は、お捨ての財布を政吉に渡しながら、
「ま、時々は、うちの婆さんにも顔を見せてやってくな。けたたましい声で笑うんで、少々うるさいかもしれねえが」
「とんでもねえ」
政吉はかろうじて涙を抑え、かぶりを振った。
「俺あ、あの笑い声を聞きたかったんだ」
「物好きだねえ」
笑兵衛は、目尻の皺を深くして笑った。
「あの声で笑われても、昼間は眠っている芸当を身につけるのには、ずいぶんと苦労したんだぜ」
「そんなことを言っていいのかえ、親爺さん。あの笑い声が聞こえなくなったら、夜も眠れなくなるくせに」
笑兵衛は、黙って笑顔の皺を深くした。
「おきくも言っていたが、俺あ、深川へ流れてきてよかったよ」
「住めば都さ」
「違う。都にゃ、お捨てさんも親爺さんもいねえ」
「どこにでもいらあな、こんな親爺と女房は」
「でも、俺が出会えたのは、お捨てさんと親爺さんだった」
お捨て夫婦に出会えて文字を習い、狂歌の会へ入ってみる気になった。自分の狂歌がはじめて本にのることになったのを喜んでもらったのもお捨て夫婦なら、おきくの失踪を隠すため力を借りたのも、この木戸番夫婦だった。
気分が晴れぬ時に思い浮かぶのも澪通りの木戸番小屋であり、空腹で目がまわりそうになった時、すがりつきたくなったのも、二つの川の音が聞こえ、笑いころげるお捨てを笑兵衛が見守っている木戸番小屋であった。(文庫版 246-248ページ)
第二話から、やるせなくなったお若が、自分の気持ちをもてあまして、木戸番小屋を訪ねる場面。
木戸番小屋は、きっと、表の木戸を一枚だけ開けて、暗くなった澪通りを家の中の明かりで照らしているだろう。笑兵衛とお捨ては、焼芋の壺や、商売物をのせた台に占領されている土間の奥の狭い部屋にいて、「お帰り」と、お若に言ってくれるかも知れなかった。
お若の足は、次第に速くなった。(文庫版 327ページ)
この文章の「暗くなった澪通りを家の中からの明かりで照らしている」というのが、この木戸番夫婦とこれを取り巻く人々の姿を描いた本作の主題だろう。時代小説の良さは、この温かさを、思想や論理をこねまわしたり、饒舌に語ったりするのではなく、人間の姿として正面から描ける所にある。この作品は、その意味で、まことに胸を打つ傑作である。
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