2009年10月24日土曜日

大江健三郎『宙返り』(7)

 昨日、いつものようにサンダル履きで出かけたはいいが、どうしたことかバランスを失って花屋の店先で転倒してしまった。もっていた傘が使い物にならないくらい歪んだので、ドスンという相当の転倒だったのだろう。周りにいた人が驚いて振り向かれたのを覚えている。大人の転倒は、どこかおかしげで悲哀があると客観的に思う。左半身を打撲し、擦り傷の後もある。また、おそらく、無意識のうちに強制的に筋肉が収縮したのだろう筋肉痛も打撲痛とあわさって、どうしてこうも左半身ばかりを痛めるのだろうかとさえ思う。

 さて、『宙返り』の下巻を一気に読んでしまった。それは、下巻に入っての新しい展開が急速に進んでいるからでもある。

 新しい活動の舞台が、愛媛県喜多郡真木町に移る。かつての信者である関西支部(建設会社の曾田氏が中心メンバーで、曾田氏は古賀医師と友人)が「燃え上がる緑の木教団」の跡地を買い取っていたので、そこを中心に新しい活動が展開されるという設定である。

 この設定によって、師匠(パトロン)の活動が、「燃え上がる緑の木教団」に続くものであると同時に、この地は、『万延元年のフットボール』やそのほかの大江健三郎のほとんどの作品の舞台となった地であり、万延元年の一揆、明治期の一揆、戦後の反乱(「先のギー兄さん」と呼ばれる人の指導で行われた農村改革の一つ)、『燃え上がる緑の木』のギー兄さんらの歴史を継ぐものとなる。

 この地は、もちろん実際に大江健三郎の故郷でもあるが、「テン窪」と呼ばれる森に囲まれた閉鎖された社会が小説の主要舞台となるのである。

 『宙返り』では、『燃え上がる緑の木』の「サッチャン」や「ギー兄さんの息子(「ギー」と呼ばれる)が重要な役割を果たしていく者として登場し、これが『燃えあがる緑の木』の続編(もちろん、独立した物語であるが)であることが意識されている。

 「第17章 場所には力がある」は、新しい活動の拠点となる「テン窪」がそうした歴史を有し、その歴史を継承するものとなることが語られる。

 「第18章」と「第19章」は、「受容と拒否」と題された二つの章であるが、その主題は、新しく移動してくる師匠(パトロン)の教会に対する町の人々の反応を描いたものである。この設定は、当然のことながら必要な設定で、それが社会における「新しい活動」の位置づけともなっていく。

 「第18章」で、まず、「燃え上がる緑の木」の「サッチャン」と師匠(パトロン)が対話する場面が描かれ、「サッチャン」がどのようにこれを受けとっていくかが語られているが、その中で、師匠(パトロン)が「救い」について述べる内容が興味深い。師匠(パトロン)は、救いについて次のように言う。

 「私自身の救いへの考え方というか、救いのイメージというか、それは「宙返り」して十年間考えているうちに、しだいに単純化されたと思います。数学の易しい公式のようなものになったとさえ思います。人間が死について考える際に、あるいは死に臨んで、自分の生と死がこれでいいのだと確信を持つことができる。「すべてよし」(傍点)と、自分の生および死についていいうるようになる。つまりそれが、救われるということではないか?
 私の新しい教会では、信者たちがおのおの死を考えて、また実際にそれを前にして、確信を持って「すべてよし」(傍点)という。ハレルヤ!というのでもいい。それが無理なくできる方向へと導く。これが教会運動の基本的な方向づけです。そのために、真に悔い改めるのです。世界の終わり、時の終わりを本当に認識することから、それが達成されると思います。」(44ページ)

 これは、また、大江健三郎の正直な心情かもしれないと思ったりする。救いは、確かに、存在の肯定そのものにほかならない。人間がその確信を得ていこうとする所に救いへの道も、また、ある。

 物語としては、「サッチャン」は、この師匠(パトロン)の「救い」を受け入れ、また、師匠(パトロン)も「燃えがある緑の木」の活動を理解し、こうして、協力と継承が行われていく。「第19章」は、新しい活動が、たとえ急進派が加わったものであれ、実際のオウム真理教とは異なっいぇいることが詳細に論理づけられていく章でもある。

 「第20章 『静かな女たち』」は、新しい活動の構成メンバーとなった「静かな女たち」と呼ばれる女性グループについて述べられることを中心に、教会の新しい活動が地域の中で展開されていく実際を語ったものである。「燃え上がる緑の木」の農場が受け継がれ、古賀医師は町の診療所の医師を引き受ける。ただ、「静かな女たち」のグループは、独自の雰囲気を持つグループとなり、それによって、アメリカのファンダメンタリズムや多くの原理主義の一つの類型ともなっていく。

 こういう視点は、やはり、大江健三郎が、宗教教団というものをしっかり捕えている所から出てくるのだろう。ファンダメンタリズムや原理主義は、一つの矮小な現実によって壊れていくことも大江健三郎は知っている。

 「第21章 童子の蛍」は、「燃え上がる緑の木」の「ギー兄さん(救い主と呼ばれた)」の息子である「ギー」を中心にした訓練された中学生のグループで、やがてこれが、新しい活動の重要な役割を果たしていくこととなることが示される章である。「童子の蛍」のグループは、やがてはこの土地に残るか、この土地に帰ってくるか、この土地を根拠として生きるかを決意したグループで、いわば、これは「未来」を表すグループにほかならない。「育雄」は、このグループと接触し、このグループとともに「未来」に向かう者となっていく。

 大江健三郎の子どもの描き方は、どの作品にも共通の特徴があり、それは「子どもらしさ」ということからは縁遠い存在であり、ただ「未来を切り開く者」の象徴として扱われる。これは、重要なことでもある。

 この章の中で、「ギー」と師匠(パトロン)が語りあう場面が描かれ、そこで、「ギー」が「神を信じるとはどういうことか」と問うのに対して、師匠(パトロン)は次のように答える。

  「私にとってみれば、神を(傍点)ということと、信じる(傍点)ということを、ひと続きで口にすることができなくなっているということですね。しかし、これまでの永い経験からいうのですが、神を(傍点)から切り離しても、信じる(傍点)ということは言えると思います。難しくなりますが、信じる(傍点)、ということは、自分自身を垂直的にとらえるようになることです。水平軸にそってだけ考えを進めなくなる、ということなんですよ」(129ページ)

 これもまた、大江健三郎自身の、宗教に対するというより、生き方全体に対するひとつの姿勢でもあるように思われる。この点では、大江健三郎は極めて実存的である。

 「第22章 よな(傍点)」は、育雄が「童子の蛍」のグループから、「ヨナ」ではなく「よな」と呼ばれることが示される章であり、ここで再び、『ヨナ書』の主題が展開される。

 結局、ニネベの町の破滅を伝えたヨナが、ニネベの町の人々の悔い改めによって、その言葉通りにはならず、苦しむ。聖書は、そのヨナに「とうごまの木」によって神の憐れみが伝えられて終わるが、育雄は神に抗議するヨナを考え続ける。それは、「宙返り」によって宣べ伝えてきた神を裏切った師匠(パトロン)と先の案内人(ガイド)の問題でもある。『ヨナ書』が、本書の基調である。木津は、新しい活動の拠点となる礼拝堂の壁面を飾る絵に、師匠(ぱとろん)と「よな」の姿を描くようになる。木津の癌は進行する。

  「第23章 技師団」は、かつての急進派のグループであった「技師団」(実際的行動グループ)がどのようにこの新しい事態を受け止めて参与しているのかが述べられる章である。彼らは新しい活動の農場運営と建築などの具体的な面を担当する。しかし、彼らが求めるのは、知識人として、どこまでも理性の一貫性である。

 だが、理性(知識)の一貫性は、現実の矛盾の中で敗れざるを得ない。現実の矛盾を貫く一貫性を、かれらはもたない。ただ、古賀医師と曾田氏は、年齢のこともあるだろうが、この矛盾を許容する理性をもつとも言えるだろう。

 「第24章 聖痕(傍点)はいかに受けとめられたか」は、師匠(パトロン)にある脇腹の傷(聖痕)が悪化したことによって、それが知られ、それがそれぞれのグループでどのように「聖痕」として受けとめられていったかを述べた章である。

 この章の中で、先の「燃え上がる緑の木」にも関与したもと中学校長夫人の「アサさん」が、「師匠(パトロン)と「案内人(ガイド)」について次のように述べるくだりがある。それは、大江健三郎が、おそらく、『ヨナ書』とともに、もう一つの隠れた基調としているダンテの『神曲』を明白に示す場面でもある。

 『ヴィルジリオ(ダンテが地獄に行ってすぐに現れて、煉獄の一番高い所まで同行し、そこからさらに高く天国へと昇っていく弟子と別れて、自分は永遠にある者として、ひとり地獄へ帰る)は、初対面のダンテが叫んだ通り、詩を作るすべての人の師匠(傍点)であるし、また地獄から上昇する旅の案内人(ガイド)でした。ヴィルジリオが単独で受け持った役割を、あなたたちの指導者たちは、ふたりひと組で担われたのではないだろうか?』(192ページ)

 この言葉は、師匠(パトロン)がどういう人間であり、また、これからの彼の歩みがどういうものであるかを示唆する点で面白い。大江健三郎は、師匠(パトロン)を『神曲』のヴィルジリオとして描いていることを自ら明白にしている。(もしかしたら、これは大江健三郎のずるさとサーヴィスかもしれないが、こういう所は本書の最終章でも現れているような気がする)。

 師匠(パトロン)の傷は、「聖なる者の苦しみのしるし」としての「聖痕」として受けとめられていく。そして、そう受けとめられることによって、「静かな女たち」のグループも「技師団」のグループも、ひとつになっていく。まことに「人々はしるしを求める」なのである。集団が一つになるのにもっとも効果的な方法は、「犠牲の羊」をもつことである。師匠(パトロン)の傷は、その「犠牲の羊」となり、やがて、師匠(パトロン)自身が、「燃え上がる緑の木」の「ギー兄さん」と同様、「犠牲の羊」となる。

 「第25章 テン窪を舞台とする芝居」は、木津の癌が進行・悪化し、それに関連し、育雄の過去が語られる。育雄は、かつて、自分を同性愛に弾きいれた家庭教師を、神の「ヤレ!」という声を聞いて殺害したと木津に告白する。これを、どうして大江健三郎が「芝居」と題したのか、今のわたしにはわからないが、おそらく、やがては活動の中心になっていく育雄について、ここでその姿が明瞭にされたことと「宙返り」前のことを冗談として神をコケにしたこととの関連かもしれない。木津は、これらの活動を示す者として、「よな」としての育雄と聖痕をもつ師匠(パトロン)の両者が並んでいる図を描く。

 「第26章 未編集ヴィデオのような人間」は、「立花さん」の友人で、この活動にヴィデオ記録者として参加していた「飛鳥さん」(風俗で働いていたという設定になっているが、その設定はあまり掘り下げられない)が倒れた木津の世話を一手に引き受け、その過程で、彼女自身のことが述べられると同時に、ヴィデオのような客観的な記録媒体というものを通しての、という形で、事柄の客観性を再度位置づけようとした章である。

 「飛鳥さん」は、徹底して「仕える人」である。木津を心から配慮する。その意味では極めて魅力的な女性として大江健三郎は描いているような気がする。

 「第27章 『新しい人』の教会」は、彼らが「燃え上がる緑の木」教団が起こったテン窪で始めた新しい活動が、「新しい人の教会」として命名されるくだりである。この名前自体が、この活動の思想と今後の展開を示唆するものとなる。「新しい人」は、言うまでもなく、古い師匠(パトロン)や木津や古賀医師やこれまでのもろもろの過去を引きずった人々ではなく、文字通り、「未来を生きていく人」である。

 この「新しい人」というのが聖書から取られた言葉であることが師匠(パトロン)自身によって告げられる。引用される聖書の箇所は2か所。いずれも『エフェソの信徒への手紙』からである。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を破棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(新共同訳 エフェソの信徒への手2章14-16節)

 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(新共同訳 エフェソの信徒への手紙 4章22-24節)

 大江健三郎がここから「新しい人」の概念を導きだしたことは明白であるが、彼の概念は聖書から離れた独特の意味をもっている。ただ、この物語では、「苦難の十字架による和解」と「隔ての壁を壊す」ということが、実際の「新しい人の教会」の置かれている現状を打ち砕くものとして強調されていく。
大江健三郎の「新しい人」については、『新しい人よ目覚めよ』(1983年 講談社)にもその表題として使われているが、こちらは、ウィリアム・ブレイク(17-18世紀イギリスの詩人)の後期の詩『ミルトン』の序の一節「Rouse up, O, Young men of the New Age !」から取られていると言われている。しかし、大江健三郎が「新しい人」という概念を大事にしていることは間違いない。

 「第28章 奇跡」は、「聖痕」をもつ師匠(パトロン)を描いていた木津の癌が消え去るということが起こったことが述べられている。ここでは、「癒し」の問題も大きい。

 この章の最後のところで、師匠(パトロン)が木津に向かって次のように語ることが、大江健三郎自身の在り方を知る上でも興味深い。

  「超越的なものには、・・・想像力はないのです。その点、スピノザはつくづく正しい。神という言葉を使うとすれば、神に想像力はない。キリストが十字架にかかるくだりを福音書で読むたびに、神の子にも想像力はない、と思います。キリストには、神の作りたもうた、また神そのものであるこの世界と、その進み行きがあるだけです。<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか>。こう叫んで、しかもすべてを受け入れます。
 しかし、反キリストには想像力がある。むしろ想像力しかない、といってもいいほどです。私は反キリストの作法で「新しい人」の教会を建てようとしています。」(309ページ)

  「第29章 教育」は、「新しい人の教会」という概念のもので展開されるそれぞれのグループの姿が描かれていく章である。

 この章で、木津が描いて礼拝堂に掲げられた師匠(パトロン)と「よな(育雄)」の絵が、ワッツの「予言者ヨナ」と似ていることが述べられる。大江健三郎は、むしろ、ワッツの「予言者ヨナ」からインスピレーションを受けることが大きかったのだろうと思われる。

 ワッツとは、G.F.ワッツ(George Frederic Watts-1817-1904-)のことで、わたしは、まだ、彼の「予言者ヨナ」という絵を見たことがないので、何とも言えない。

ま た、預言者ヨナの最後について、グレゴリウスの説が紹介され、大江健三郎が、ここからも索引のインスピレーションを受けていることが明かされている。グレゴリウスは、「ヨナがイスラエルの滅亡を予見し、預言者の祝福は次第に異教徒達へ移りゆくことを予覚するにつれて、・・・ヨナは布教よりその身を退き、彼の教団の事情を疑問視し、古き高位と高職の法悦の塔を捨てて、自らその身を悲嘆の海へ投じた」と語る、というのである(336ページ)

 わたしはここで引用されている「グレゴリウスのヨナ書の解説」を知らない。初代教父のニッサのグレグリウスかグレゴリウス1世なのか、それともグレゴリウス13世なのかもわからない。ただ、いずれにしても、大江健三郎が『ヨナ書』に関してかなり綿密に注解を調べただろうことは想像できる。もちろん、この「グレゴリウスのヨナ理解」は、それ自体あまりにも我田引水的で、聖書学的に見ても聖書の注解とも言えないが、物語の中では意味をもつ引用ではある。

  「第30章 案内人(ガイド)の思い出」は、「新しい人の教会」の記者会見という形で、これが客観的に検証される場面であるが、この中で、もと中学校長の妻「アサさん」が「テン窪」の歴史と「新しい人の教会」について次のように語るくだりがある。これは、大江健三郎の連続する作品について自らが語ることでもあると思われるので下記に記しておく。

 「小説家の私の兄(こういうことで大江健三郎の作品の連続性を示唆するのだろう)は、人間のやることはたいていのものが、わずかにズレをふくんだ繰り返しだ、と書いたことがあります。単なる繰り返しじゃない、ということです。
 どちらもメイスケさん(万延元年の一揆の指導者)と繋がりのある二度の一揆に始まって、先のギー兄さんの根拠地(傍点)、新しいギー兄さんの「燃え上がる緑の木」の教会に到るまで、それぞれがわずかにズレをふくんだ繰り返しでした。ズレが生産的なんです。
 そこで、ということですが、師匠(パトロン)と皆さんの新しい教会も、これからはこの土地に建てられてゆきます。そうですからね、これまでここで起こった出来事の繰り返しに見えることもあるでしょう。あるいはあなた方が別の所でなさろうとしたことの、繰り返しのようかもしれません。しかし、ズレをふくんだ繰り返しであるはずだと思います。」

  「ズレ」が生産的である、という視点は、思想的にも重要だろう。人は、少しずつズレながら生きていく。それが生産いうことかもしれないから。

 「第31章 夏の集会」は、いよいよこれまでの歩みが集約されて「新しい人の教会」の出発点ともなる「夏の集会」についてであるが、物語はここから一気に加速していく。集会は企画する育雄を中心に成功裡に始まっていく。しかし、その終わり近く、集会の中心ともなる師匠(パトロン)の説教の前に、師匠(パトロン)は錯乱状態に陥り、死滅の恐怖に襲われる。そして、それによって、「静かな女たち」や「技師団」の信頼も、育雄の信頼も、失うのである。

 「第32章 師匠(パトロン)のために」は、第31章に続いて、師匠(パトロン)への信頼を失った「静かな女たち」が、自分たちの信仰を一気に成就するために集団自決を決意し、「技師団」もまたそれに手を貸すことを決意する動きに出たことから始まる。新しい出発となり、集会の中心となるはずであった師匠(パトロン)の説教も、中途半端な色あせたものとなる。

 それは、たとえばファンダメンタリズムや原理主義、知性の一貫性を求めることは、結局は、師匠(パトロン)が下っていったような地獄のままであることを認めることができずに、言いかえれば、結局は人間が罪深いものであることを認めることができずに理想主義に走るということでもあるだろう。

 育雄は、古賀医師と図って、「静かな女たち」が自決用に用意した毒を強烈な下剤とすり替えて、この事態を現実的に回避する。しかし、そのフィナーレを飾るはずであった檜(かつて「燃えあがる緑の木」の「ギー兄さん」が最後に燃やしかけた檜)を燃え上がらせるという場面で、師匠(パトロン)は案内人(ガイド)の張りぼてをかぶって自ら焼死する。「宙返り」後の師匠(パトロン)によって救われ、師匠(パトロン)の世話をしてきた「立花さん」と「森生さん」も師匠(パトロン)と死を共にする。

 大江健三郎は、おそらく、こうして「悔い改め」を語る師匠(パトロン)の苦難が成就することを語るものであろう。それは、「苦界に身を投じたヨナ」であり、「地獄に留まるヴィルジリオ」であり、また「犠牲の羊」の姿でもある。

 こうして、「新しい人の教会」は、先の「燃え上がる緑の木教団」と同様、終結を迎えたかに見える。しかし、大江健三郎は、「ズレ」を「終章 永遠の一年」で語る。これがなければ『宙返り』の意味はない。

 この章の中で、この活動の歴史を「荻」青年が記すことになり、「新しい人の教会」が育雄(もはや「よな」とは呼ばれない)と「踊り子」(ダンサー)を中心にして、残った「静かな女たち」(激しい下痢をすることでもはやファンダメンタリズムをもたなくなっている)と「技師団」の残り(他の者は去ってしまう)、そして、次の「救い主」となると考えられているギー(童子の蛍-土地に根づく者)によって継承され、発展していく姿が描かれる。

 ただしこの章の中で、「第5章 モースブルッガー委員会」で示された「荻」青年と津金夫人との性交場面について、「荻」青年が自らそれを描く必要がないのではないかと語ったということが、462ページに記されているが、こういう書き方はずるくて、これもまた不要ではないかと思ったりする。

 しかし、より重要なことは、最後に、木津の最後の場面が描かれ、そこで育雄に残された言葉である。
木津は、最後に、「育雄、ヤハリ、神ノ声ガ聞コエナクテハ、イケナイカネ?神の声は、イラナイノジャナイカ?人間は、自由デアル方ガ、イイヨ」と語る。「オレハ、神ナシデモ、rejoiceトイウヨ」と言う。

 カタカナで表記されていることも特別な意味をもつが、これは、「神なき時代」に生きなければならない現代人の一つの声でもある。「神の死」の概念は、現代の人間の在り方に重要な意味をもつ。「神なし」で人間が本当に自由でありうるのかの問題は別にして。

そ して、育雄は、「神なしの教会」ということに対して、「教会という言葉は、私らの定義で、魂のこと(傍点)をする場所のことです」と答える。

 この言葉で本書が終わっているのは、重要な意味をもっているだろう。

 いずれにしても、少し時間がかかったが『宙返り』を読み終わった。読みごたえのある内容であり、決して『燃え上がる緑の木』の続編としては簡単に言えない重みのあるものである。

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