2010年3月8日月曜日

佐藤雅美『当たるも八卦の墨色占い 縮尻鏡三郎』

 昨日から冬の寒さが戻って来てしまって、昨夜は雪になるかもしれないという予報の中で氷雨が降っていた。今朝は、晴れたり曇ったりの天気で、寒さも厳しい。しかし、ときおり差す陽の光に微かな春の気配がする。

 昨夜、夕食の時、ビールを片手にしたまま、まるで赤ん坊のようにそのままの姿勢で眠りに陥り、気づいた時にはコップのビールはこぼれてしまい、箸はあちらこちらに飛んで、食卓が悲惨な状態だった。こういうことが時々起きるようになった。あまりに度々だと、前後不覚の人生ではあるが、困ったことになるなあ、と思ったりもする。

 突然眠りに陥る人物を主人公にした佐藤雅美『物書同心 居眠り紋蔵』シリーズの主人公よろしく、会議中でも突然眠ってしまうことがあり、人と話をしている最中でも、ふっと眠りに陥ることがある。人生は半眼で生きればちょうどいいわけだが、思考が飛ぶのはなんともやりきれない。

 佐藤雅美と言えば、土曜の夜から読み続けていた佐藤雅美『当たるも八卦の墨色占い 縮尻鏡三郎』(2008年 文藝春秋社)を、覚醒の後で読み終えた。

 これは、以前に読んだ『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)などのシリーズの一冊で、シリーズとしては五作目の作品であり、「縮尻」というのは、人生が尻すぼみになっている人間のことで、主人公の「拝郷鏡三郎」は、懸命に努力して学問と武芸に励んで勘定所(今で言うなら財務省)の役人になったが、ある事件をきっかけにお役御免(失職)となり、家督を娘夫婦に譲って、町方の大番屋(仮牢)の責任者として過ごしている人物である。

 この作品では家督を譲った娘夫婦の間に何事かが起こって、娘は家を出て手習い所の女師匠となっているから、その間の出来事については、三作目か四作目で触れられているのだろう。

 このシリーズの作品の良いところは、大番屋に持ちこまれる事件や主人公の友人で飲み友だちでもある北町奉行所同心や剣術道場を開いている友人が、「ももんじ屋(猪や鹿、鳥などの肉を食べさせる所)」で鍋をつつき一杯やりながら話をする事件が、それぞれの事件が彼らの活躍によって解決されるというわけでもなく、偶然や未決のまままで、それぞれの結末を迎えていくという顛末が描かれるところであり、その結末は決してハッピーエンドではなく、作者は、江戸時代の判例に詳しいので、事件の顛末が時代と状況に即して述べられていくところである。作者はリアリティーを大事にし、それを作品の中で貫いている。

 第一話「元表坊主加納栗園の大誤算」は、当時ようやくわずかに使われ始めた機械時計をめぐる詐欺事件の相談に訪れた時計師の話を探っていくうちに、時計を盗んだ男が捕まり、盗まれた時計が出て来て、その時計の盗難によって詐欺を働こうとした元表坊主たちの目論見が見事にはずれて大損をすることになったというものであり、第二話「当たるも八卦の墨色占い」は、墨字の色での占いのとおりに「色深い」女が、持っている「髪結い床の株(権利)」を餌にして次々と男を変えていき、ついには男から騙されて多額の借金を抱えるようになったという話である。人は、色と金に振り回される、とつくづく思う。

 第三話「不義密通のふしだらな女」は、人々から不義密通のふしだらな女と言われていた女性が、実は、自分の子どものことを思ってその噂を甘受して生きるというもので、第四話「吉剣栗田口康光がとりもつ縁」は、主人公の鏡三郎の持っている剣が凶剣で、吉剣に変えた方がよいと言われ、四十両もの大金をはたいて購入した剣が、実は盗品であり、その売り主も盗品とは知らずに売ったことで、鏡三郎は大損しそうになるし、売り主も裁かれることになる話である。友人の同心が調べてみると、売り主は下総の大金持ちの道楽息子だという。道楽息子は気のいい男で、困った人がいれば何も言わずに盗品でも何でも買って助けていたという。そして、結局、道楽息子の生家の番頭の手配で、道楽息子も引き取られ、鏡三郎も吉剣を手に入れるというものである。この道楽息子が手習い所の師匠をしている鏡三郎の娘に惚れて、交際を申し出るという以後の顛末へ続いていく。

 第五話「おさまらない知穂の怒り」は、昔友人と「引責の欠落(店の金を使いこんで逃げる)」をした道具屋の主人の所に、その昔の友人がやって来て強請り、あげくは、道具屋の主人の女房が内藤新宿の岡場所での友人のなじみ客でもあったことから、友人に手ごめにされたりしてしまうことが起こる。ところが、その昔の友人が殺され、道具屋の主人が疑われる。正月に鏡三郎の家にみんなが集まって飲んでいる所に鏡三郎の娘が、第四話で出てきた金持ちの道楽息子をしばらくつきあいますと言って連れて来て、その道楽息子が、またもや道具屋が昔の友人に手渡した小物を買ったと言い、そこから道具屋の事件の真犯人がわかっていくというものである。鏡三郎の娘はつきあうことにした道楽息子がまたもや「困っています」の一言だけで小物を買い取ったことに怒るという「おまけ」つきの話であるが、人は過去の罪を暴かれることに弱い。その弱さに悪がまた入り込み、地獄のような悪循環へと落ち込むことを思う。罪を罪としていくことは難しい。

 第六話「御家人田岡元次郎殺しの真相」は、御家人株を餌にして、それを買った男を養子にして殺し、そのもっていた金銭を奪い取る話である。第七話「寺田将監御呼出吟味の顛末」は、元中間奉公していた男がその仕えていた旗本の妾とねんごろになり、怒った旗本との間で争ったはずみで旗本を殺してしまった。そしてさらに、事が公になると大事になるので、その旗本の本家筋を強請るが、強請りが度重なって、旗本の本家「寺田将監」が彼を殺す。ことは内々で済まされようとするが、今度はそれを知った旗本の妾が寺田将監を強請りに来て、頭にきた寺田将監が往来にまで追いかけてその妾を殺すという事件で、寺田家は改易されるという話である。

 この第七話で、鏡三郎の娘がしている手習い塾の土地家屋が売りに出されるのでどうしたものかと案じていたら、彼女に惚れている道楽息子がそっと裏から手をまわしてそれを買い取り、娘に手習い塾を続けさせるように手配したという挿話が書かれていて、それが第八話に繋がる。

 第八話「命取りになった二本の張形」は、火事で焼け出されて、間違って持って来られた大金と張形の入った柳行李(収納箱)の持ち主として現れた浪人が、実は、盗人を働いた友人を殺して金を自分のものにしていたことが分かる事件である。そして、この八話で、鏡三郎の娘が結婚してもいいといった金持ちの道楽息子が、人助けで面倒を見ていた娘から逆恨みされて殺されるという事件も描かれる。鏡三郎の娘は、せっかく決めた相手をまた失うことになる。親の身として、鏡三郎は娘の行く末を案じる。

 この作品に収められている八話の事件や出来事は、おそらく、江戸時代に日常的に起こっていた事件として扱われ描かれている。この作品には、事件を起こした人々の心情や思いなどが追及されるわけではなく、事件の顛末が客観的に述べられていくだけで、事件そのものも特別なものではなく日常の事件の顛末であるが、「縮尻」である鏡三郎の何とも言えない人柄や心配事など、なかなか面白いし、事件にきちんと世相が反映されているので、「こういうことはあり得る」ともわせるし、現代でも起こっていることである。たんたんと、そしてさっぱりと描かれるところがいい。

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