三日間降り続いた冷たい雨が上がった。気温はまだ低いのだが、朝のうち、陽光がきらきらと屋根瓦に反射し、周囲の空気をほんの少し温めてくれているような気配に包まれていた。
白石一郎『江戸の海』の残りの七話を読んで、よくまとまった優れた短編であると改めておもう。第四話「海の御神輿」は、江戸の御船手組同心に養子に来た質実剛健な青年が、まるで御神輿のように飾り立てられた将軍家の船と、それを拝むようにしている幕府の御船手組たちの姿に無意味さを感じていくというもので、実際に将軍家の船が動かされた時に、そのバランスの悪さから何の役にも立たないものであることがわかっていくのである。
ここには飾り立てられた権威や世人が祀り上げているものが、実は空虚なものであり何の意味もないものであることが「将軍家の御船」に象徴されて、素朴な田舎者であるだけにそれが見えていくのである。人が欲しがっている権威というものは、いつも「裸の王様」である。
第五話「勤番ざむらい」は、参勤交代で江戸へ出てきた西国の小藩の実直な勤番侍が、町見物の途中で掏り事件と遭遇し、そこで知り合った日本橋の大店の呉服屋とその娘に饗応され、それにのめり込むうちに藩邸の門限破りをすることとなり、罰を受けて国元に帰っていくという話で、夢のような時を過ごしても、夢からさめれば厳しい現実が待っているわけで、「勤番侍」と呼ばれた田舎者の「浦島太郎物語」でもある。しかし、ここには一人で寂しく暮らさなければならない人間の悲哀もあって、それが見事に描き出されている。
第六話「夕凪義」は、瀬戸内海の伯方島で、ある程度成功して暮らしていた二人の男が、ひとりは勝ち気でやり手の女房、もうひとりは口やかましい母親と女房の板挟みで、どうにも鬱陶しくなって、夕凪が立つのを眺めているうちに島を脱げ出すことを思い立ち、二人してすべてを捨てて島を脱け出すという話で、出で行かれた女や家族たちはそれぞれにしっかりと生き、出ていった方もそれなりに生活をしていることが分かるというものであるが、何とはなしに自分が生きていることの意味や実感がつかめないものと、そんなことはお構いなしにしっかりと生活をしていく者とが描かれて、なるほど「人生の夕凪ぎ」の時に起こる人の心情と姿だと思わせるものである。
第七話「悪党たちの海」は、長崎で抜け荷害買いなどをして私腹を肥やし好き放題のことをしている悪党たちと知り合った小心者の小悪党が、その悪党たちの生活にあこがれながらも、真正直に生きている若者を騙して殺し、その妻を自分のものにしようとしたが、ついに発覚して捕えられ処刑される話で、大本の悪党たちは何くわぬ顔でそのまま悪を重ねていくのである。小悪はすぐに滅びるが、本当の悪はなかなかしぶとい。本当の悪はうまく立ち回っていく。それは現代でも同じだろう。
第八話「人呼びの丘」は豊臣(羽柴)秀吉側についた美作の三沢家とこれを攻める毛利家の戦いに題材をとったもので、生きのびるためには策略をめぐらさなければならない小大名の家老が命をかけて策をめぐらし、それを知っていた嫡方にいる義理の弟も、それを承知で、自らの命を賭してあえて騙されていくという話である。ここには、腹に肝を据えて平然と生きていく武士の姿が描かれて、それが余韻として強く残る。この作品には毛利家の武将小早川隆景がなかなかの人物として描かれ、次の第九話「海の一夜陣」でも、同じように描かれているので、作者は小早川隆景に対して好印象をもっているのだろうと思われる。小早川隆景は、後にさんざん苦労を重ねるが、人間としては優しさをもった武将であったに違いない。
第九話「海の一夜陣」は、広島の厳島(宮島)を舞台に毛利元就と陶晴賢(すえはるかた)の間で行われた厳島合戦として知られる毛利元就の知略を用いた奇襲戦を題材に、陶晴賢側にいたひとりの青年武士(毛利元就に父親を殺されたという設定)の目を通しての合戦の姿を描いたものである。この時代の武将がいかに権謀術策を用いて相手をだましていたは、よく周知されていることであり、その中でひたすら父の仇を討つことをまっすぐ目指していた青年は、やがて小早川隆景によって「狂人」として命を救われるが、ただひとり、厳島から陸に向かって泳ぎだすところで、話が終わる。その終わり方も短編として余韻をもったものとなっている。
第十話「トトカカ舟」は、福岡の志摩半島の東岸にある小さな漁村で、海女として一家を建てなおしていく女が鮑のたくさんいる好漁場を見つけ、そこでついに海に潜ったまま行くへ不明になるという民話伝承的な話である。「トトカカ」とは「父母」のことで、夫婦で海女漁をすることを意味している。ひとり残された夫が、女房の稼いだ金で建てた広い家でぽつねんと寂しく座っている姿が悲哀を誘う。
これらの短編の中には、いくつかの現代が抱えている問題がさりげなく掘り下げられて描かれている。そうした視点が、これらの短編をいっそう豊かな味のあるものに仕上げていることを感じることができる。問題を直接的に思想として取り上げるのではなく、人間の物語として描き出すところに文学(小説)の優れたところがあるが、これらの短編にはそうした文学としての優れたところがよく現れている。作者が好む海洋物というのは、わたし自身、あまりなじみがあるわけではなく、どちらかといえば、市井の中で、大した冒険や事件もない日々を悲しみやあきらめを抱えながら、しかし、自分の心情に正直に生きている人間を描いたものの方が好きだが、彼の作品には、時代小説がもつ良さがいかんなく発揮されているように思われるのである。
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